1話
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「はぁぁー、疲れたぁぁー!」
夜9時頃、微妙に年季の入ったアパートの玄関で、仕事帰りであった俺は叫ぶ様に呟いた。サラリーマンを始めてはや10年、新卒採用で入社した今の会社は、労基に照らして見るとちょいブラックといった所の会社で、耐えられない程でもないサービス残業が日常的だ。
「床が冷たくて気持ちぃぃー、はぁ、極楽………………起きる気にならん」
いつからか習慣化した、この玄関前床への倒れ込みは、謎の中毒性すら感じる。疲れてこりかたまった体には、床の程よい冷たさが心地いい。しかし幸せが永遠でない様に、床の冷たさも永遠では無いのだ。頬っぺたへと直に感じる床の冷たさは、段々と失われていき、自分の温い温度に均されていった。
「はぁ、辛いものよ、世は無常よのぅ」
儚き床の冷たさに、幸あれ。
少しふざけて気分を変えた俺は、よし、と気合いを入れて愛しい床へと別れを告げた。しーゆー、まいふろー。さて、手を洗って飯を食おう。
「めしめし」
玄関を真っ直ぐに行き、扉を開いて、机の上へ弁当を置いて、玄関口付近の洗面所へと向かう。しゃー、と、この間変わったばかりで真新しい洗面台が水を吐いて吸い込む。真っ白で新しい洗面台、なんだか気分がいい。そうして手を洗い終えて、鏡の中の自分を少し見つめてみる。
32歳独身、職業は魔法使い兼商社勤めのごく普通のサラリーマン、趣味は節約と読書と小説の執筆。最近頭頂部が心配になって来た、ごく普通のサラリーマン、しかし、そろそろ結婚もしたい様な、したく無い様な、そんな事に焦り始めるお年頃。何となく、ただただ何となく。
「いい女、なるべく早く、見つかるといいのになぁ」
俺は呟きながら、少しばかり鏡の中の自分に願った。
「………何も、起きねぇよな、神なんていねぇもんな」
すると突如、鏡の中の自分が動き出した。俺は動いていない筈なのに、俺は鏡を見ている筈なのに、俺は俺の背中を見ていた。
「え??え??」
突然の出来事に動揺しながらも、しかし何故か俺は鏡から目を離せずにいた。鏡の中の俺は振り返ってこちらを見直すと、確かに、明らかに、俺とは違う、男とも女とも違う声で話し出した。
「お前は知りすぎた、故に、お前はこの世界の存在として不適格な物となった」
俺では無い俺は無表情で淡々と音を発する。
「何のこと?」
「だがしかし、これは喜ばしい事でもある、よって、お前に一つの力と人生を与える」
「え??」
困惑する俺を意に解さずに、尚ももう一人の俺、点pは動き喋る。
「さらばよ、禿げ猿」
「は??禿げざるってなん─────」
言い切る前に、突如として言葉を発することは出来なくなった。視界が揺れて、薄くなって、端からと霞んで行く。俺、禿げてねぇし、まだ禿げてねぇし、俺、禿げてね───
俺は意識を失った。