二
万一出口か、裂け目でもないかと隈なく探したが、そう深くもないこの洞窟には、蟻一匹外へはい出る隙間もなさそうだった。二時間後には諦め、あの首の乗っていた忌々しい祭壇の下に座り、頭を抱えた。
もしや、誰かがこの谷に来るのでは、と思ったが、その可能性はなさそうだった。あの女のことだ、ホテルには俺が先にチェックアウトしたとでも言ってしらばっくれるはずだから、誰かが疑って探しにくるなどありえない。
ここには召使だろうミイラの棺がいくつか立っていて、あの首と一緒に埋葬されたのだろうが、そこに自分も加わることになっちまったのだ。探検に危険はつきものといえど、仲間に裏切られて殺されるなど、最低の死に方だろう。
それでもハリスは何か策はないかといろいろ考えたが、考えるほどに可能性が消えるので、そのうち考えるのをやめた。時計は夜十時をさし、底冷えしてくると、ますます絶望がつのった。飢えより寒さで死ぬかもしれない。バッグを探ったが余計な衣服はなく、食糧もビスケット一枚という救いのなさ。
ふと壁に立てかけてある棺を見て、中のミイラを追い出して入って蓋をすれば意外とあったかいかもしれない、などと思った。そのまま死んでミイラになれば、あとで発見者が古代の貴重な資料と勘違いするかもしれない。
(ふふ、だまされた俺が、今度は身をていして学会をだますわけだ……)
皮肉な考えにふと場違いな笑いが出て、しばらくうつむいたままヒヒヒヒとむなしく笑い続け、やがてそれは悲痛な嗚咽に変わった。
なんて無様な。
こんな間抜けな最期ってあるか。
しばらく泣いていると、誰かが目の前に立っているのに気づいた。絶望のあまり幻覚を見たかと思ったが、そうではなかった。
それは、エジプト人の若い女だった。
まとっているのはエジプト民族衣装のガラベーヤという長いワンピースで、濃い赤と黒を基調にした暗いがシックで落ち着いた感じの色彩。右肩から腰にかけて渦巻型を連ねた金のモチーフが流れるようにおりて、へそあたりで折り返してまた左肩まで上がり、背まで続いている感じ。下の長いタイトスカートになっている部分も、右足首の上から金の渦巻模様が同じく腰まであがり、やはり折り返して左足まで降りていて、いっけん豪華ではあるが、同時にしっとりした品を感じさせる装飾だった。
肩までの黒髪はさらさらのストレートで、金のヘッドバンドをつけているが、これもきれいだがケバい感じはない。足元は普通のサンダル。
だが衣装よりもその落ち着きは、もしろその顔とたたずまいから来ていた。褐色肌の細面で、周りを黒のアイシャドウで染めた細い目と、よく通った鼻筋ときりっとした口元は完全にエジプト風の美女だったが、目は細いが視線が柔らかく、どこか優し気で温かみを感じさせ、それは深く傷ついた彼を多少は落ち着かせる効果があった。
しかしすぐに思ったのは、こんなところに自分以外の人間がいるはずがない、ということだった。リネルが連れてきて外から入れたとしても、そんなことをする理由がないし、だいいち戸があいたら音で分かる。ここは探しつくしたから誰もいないはずだし、仮にどこかに隠れる部屋でもあったとしても、ここはふさがってから何千年も経っている。人が出てくる自体がありえない。ということは……。
つまり、こいつは人間ではない、ということだ。
ぞっとなったハリスに、女はいきなり口をひらいた。王族を思わせる品のあるきれいな声で、静かに歌うような優雅さがある。
「こんなところに人間がいるはずがありません」
そう言うと、座り込む男を見下ろすようにして聞く。
「あなたは、人ではないのですか?」
「そ、それは、こっちのセリフだ!」
嫌な予感でいっぱいだったハリスは、やっと答えた。
「あんたは人間なのか?」
「私はレイラ」
姿勢を正し、凛とした顔で答える女。
「ここの墓守人です」
レイラは名乗ると、視線を彼の後ろの祭壇に向けて続けた。
「三千年前、私はライトス王様のお世話をする側近でした。王様が亡くなるとき、この宝物庫にラエルの首と共に埋葬され、以後、ここでずっと宝物を守ってきました」
予感は当たった。やはり、このレイラという女は幽霊だ。それも何千年もここにいたという、筋金入りの大妖怪である。
彼がビビっても仕方なかったが、女は祭壇を見つめたまま言った。
「壺がないようですが……。あなた、盗りましたか?」
こっちを見ずに聞くので、ハリスはあわてた。
「ち、ちがう、俺は盗賊じゃない! 学者で、調査にきただけだ! ほんとだ!」
「生きた人間ですか。ここは扉が閉まると外からしか開きませんし、その様子では」と彼を見下ろす。「どうやら、仲間にはめられたようですね」
「そ、そうなんだ!」
ことのほか理解が早いので、彼は堰を切ったようにいきさつを一息に話した。終わるとレイラは目を閉じ、内省するように言った。
「三千年間、なにもなかったので油断して、ちょっと外出したのが悪かったようです」
「外に出られるのか、あんた?!」
「壁を抜けられますから。たまにカイロのあたりまで行ったりします。そこまでなら行けますので。……あなた、お名前は?」
「ハリスだ」
「ハリスさん、こちらに来てください」
レイラは彼を入口まで連れてくると、彼の泊っているホテルの番号を聞き、「ここで三十分ほど待っていてください」と言い残すと、扉をすーっと抜けて出て行った。思わず飛びついたが、そこは冷たい石の塊しかなかった。これで彼女がこの世のものでないことを確信した。
だが、恐ろしさはもうなかった。思いがけず自分の前に現れた、このいちるの救いの可能性にすがり、戸の前に座り込み、ただ奇跡を願った。帽子を取って胸にあて、うつむいて祈りさえした。イエスさま、マリアさまをわきに置き、まずはあのレイラさまに、「どうか、この愚か者をお助けください……」と心から祈った。
だが三十分もしないうちに戸がギリギリと派手な音を立ててあき、隙間からのぞいたその顔を見て、彼は祈りが真逆に届いたと思った。それは宇宙一見たくない顔だった。
「リネル?! てめえ、今さら何しに来た!」
思わず立ち上がって怒鳴るハリスを、リネルは手で制して言った。
「大丈夫、私です」
「えっ?」
驚いて顔をよく見ると、確かに形はあの女だが、あのいつも浮かべていた勝気で乾いた笑いとはまるで別人の、はるかに落ち着いた穏やかな顔つきになっていて、口調もやわらかい。
ハリスはすぐに気づいた。
「れ、レイラさん?!」
「はい」と、にっこりする。「とりついて、連れてきました。私では扉を開けられませんので」
当たり前だが、今までに見たことのない、しっとりした微笑みだった。
ハリスは感極まって叫んだ。
「ああああ! あ、ありがとう! ありがとうございますううう!」
そしてひざをつき、目の前の女に大感謝し、はらはらと泣いた。
「レイラさまは命の恩人です! 本当に、うううう」
「いえ、あなたを見殺しにする意味はありませんので」
連れが泥棒だったのなら、彼のことも疑いそうなものだが、そんなそぶりはまるでなかった。ハリスは彼女が本当に優しい女だと知った。
が、感動したその直後だった。レイラは中に入ると、彼に出るように言った。
「外から閉めてください」
「えっ、そいつはどうなるんですか?」
驚いて聞くと、幽霊はなんでもないように言った。
「いいでしょう、あなたを殺そうとしたのですから。自業自得です」
「今度は、そいつがここで死ぬってことですか?」
「はい」と、涼し気に微笑する。「壺はあなたに差し上げます。ここに戻しても、また盗賊に取られるだけですから。あなたなら、ラエルの首をちゃんと扱っていただけると思うので。王もその方がお喜びかと」
「はあ、壺はいいですが……」
未来が開けたハリスは、さっき受けたむごい仕打ちをすっかり忘れていた。何より自分がさんざん感じた死の恐怖を、今度は誰かが同じようにこうむると思うと、耐えられなくなった。
彼は言いにくそうに言った。
「せっかくのお気遣いですが、すみません。確かにそいつのことは大嫌いですが、ここで私の代わりに苦しんで死んでいくというのは、その……。それも、あなたの目の前で……」
「私なら気にしません。罪人の朽ち果てるさまは、よい暇つぶしになります。私もここで死んでいきましたから」
「ええっ、するとあなたは、生きながらここへ?!」と驚愕するハリス。「すみません、てっきり亡くなってから埋葬されたとばかり……」
「驚くことはありません」
涼しい微笑のまま、またなんでもないように言う。
「王のために供物になるのは、側近として、この上ない名誉なのです。墓守人という大事な役目を死後も果たせることは、私の最高の幸せでもあります。ただ……」と自分を指す。「こいつの死は、ただの汚名でしかありませんが」
あくまでリネルを殺す気満々のようなので、ハリスはあわてた。
「その、そいつの件ですが。もしここで殺してしまうと、私はたぶん、ことあるごとに思い出して、一生嫌な気持ちで生きることになってしまいます。それには、きっと耐えられません。そいつをホテルに帰して、壺を取り返したら、そいつにはもう、二度と関わりません。それでお願いできませんか?」
「そうですか」
レイラは目を閉じると、彼をこの上なく優しい瞳で見つめた。
「そうおっしゃると、どこかで思っていました」
二人は外に出て、戸を閉めた。もう深夜で、黄色い満月が、幽霊と探検家をこうこうと照らしている。