一
イリスの谷は、エジプトはカイロから数キロ離れた砂漠にある古代エジプト王家の墓が密集する地域である。三千年前、盗掘を防ぐ理由で、当時の王が自らの遺体とともにおびただしい宝物を、この砂漠ばかりで何もない不毛の土地へ埋葬させ、後の王たちもそれにならった。しかし盗掘を防ぐのは難しく、ほとんどの墓が盗賊によって暴かれ、多くの貴重な文化遺産が闇で叩き売られることになった。
第一次世界大戦後の不安定な時代。ロンドン在住の若い考古学者ハリスは、イリスの谷にまだ発見されていない墓がいくつかあると踏み、単独で調査を開始した。大人数で目立った活動をすると、今も各国に巣食う盗賊団に感づかれ横取りされる恐れがあるためだ。といって一人では無理なので、ある敏腕なパートナーと組んだ。たてがみのような精悍なブロンド髪をした狐っぽいとがった顔の美女、リネルである。ハリスと同じ学者だが、数か月前、彼が大学で講義中にいきなり入ってきて、どっかと最前席に腰を下ろしたので、かなりのインパクトだった。
だからリネルとの付き合いは浅いが、その後向こうから何度もアプローチしてきて、同じエジプト方面が専門であること、彼がイリスの谷の残りの墓を探索予定なら、それの手伝いに自分が適任であること、などを何度も強調した。
ハリスは確かに助手が必要だったが、最初はこの押しの強い女性が本当にパートナーとしてふさわしいのか半信半疑だった。が、それはすぐに払しょくされた。リネルは古代文字の解読にすこぶる強く、そっち方面が弱かった彼にはありがたい存在だった。未発見の墓の位置を古文書などから割り出してくれたことで、彼女は絶大な信用を勝ち得た。ひと月もしないうちに、ハリスのほうから計画を持ち掛けて進めるようになった。成功すれば、この二人が新しい王家の墓の発見者として歴史に名を刻むはずである。むろん、そのことは二人以外の誰も知らない。前述のように、計画が漏れて盗賊団に知られたらコトだからだ。
「このライトス王の墓が見つかれば、」
ハリスはカイロの空港でタクシーを待ちながら言った。周りに誰もいないので耳打ちまではしないが、それでも顔を近づけて声をひそめている。
「ぼくらのことは教科書に載ることになるよ」
嬉しそうに言う相方に、リネルはやや苦笑して言った。
「そうね。でもまだ決まったわけではないわよ。これがもしハズレだったら」
「大丈夫さ。君の計算は完璧だ」
ウィンクするハリス。どちらかというと無骨で、決して男前とは言えない顔立ちだが、その笑みにはどこか人を安堵させる温かみと、春風のようなさわやかさがある。
「墓は、あの位置以外ありえない」と笑う。「宝物も見つかったも同然だよ」
ギャンブラーは皆そうだが、勝つことしか考えない。そして探検家はある意味ばくち打ちそのものである。まじめな考古学者といっても、探検や発掘は金もかかるが、時に命の危険もともなう。遺跡の発見は一か八かのでかい賭けなのだ。
二人とも上は探検家らしいポケットの多いベージュのサファリジャケットでズボンも同じ、頭も同じ色の広めのつばをした円筒型のサファリハットである。途中でラクダに乗り換えて砂漠を越えると、イリスの谷に着いた。ここはあらかた発見されつくして発掘跡がそこかしこに点在しており、今はほとんど気にされておらず無人である。今更こんなところへ来る物好きはこの二人くらいだった。それでも夜は温度差や犯罪者(ここにいなくても道中は普通にいる)などでいろいろ危険なので、昼のうちに仕事を済まさなくてはならない。
案内を帰すと、さっそく手つかずの場所へ行ってみる。リネルが無数の古文書の記述を照らし合わせて見つけたそこは、エジプト王朝〇〇代王、ライトスが眠っているはずだった。谷のずっと奥、とある切り立った崖の壁面に怪しい箇所があった。スコップで叩いて赤土を削るうち、果たしてそこに深く細長い溝が現れた。さらに削ると、溝は四角い仕切りの線で、明らかに入口になっている。もし開けば人一人が入れるほどの大きさで、アパートの一室のドアとそう変らない。
ハリスは異常興奮したが、まだ早い。二人であけられなければ人を使うことになるだろうし、そうなると日を改めねばならない。が、ハリスはそのうちにもこの世紀の発見に足でも生えてどこかへ逃げるのでは、というほどの焦りを感じた。
が、それは杞憂だった。溝から砂を大量に削ると、入口は簡単に押し開けることができた。夢でも見ているかと思った。いやこれは現実だ。思い直して入る。
電灯を向けて現れた内部は、装飾はよその墓ほどきらびやかではないが、四方の壁が黄金色で、描かれた壁画から、ここが求めていたライトス王の墓であることは間違いなかった。
しかし進むにつれ、ハリスはいささか失望した。王の墓ならかなりのトラップがありそうだが、ろくにそんなものはなく、落とし穴の類も杖でつつけばすぐ分かる稚拙なものだった。またよその墓はかなり大規模で、中世のゴシック建築の寺院を思わせる広さと奥行きがあるものが多いが、ここはそれらに比べるとかなり狭い。通路の幅は人二人が並んで通れる程度で、天井もホテルのワンルームのそれを見上げたときより多少高いくらいだ。要は山にあいた洞窟程度の規模で、深さはありそうだが、とてもここへ貴重な王の遺体が埋葬されているとは思えない。
だが、こういうフェイクはよくあるし、どこかよそに本物の墓室があって、それも案外近くかもしれない。それに墓がなくとも、無意味ということはありえない。王の宝物の類は必ずあるはずだ。
それを思えば失望など吹っ飛んでしまった。とくに古文書に記述のある黄金の壺「ラエルの首」を発見できれば、考古学史上の大発見になる。それほどに今まで多くの学者、探検家が血眼で探してきた幻の一品なのである。
かなり奥の間へくると、祭壇があった。これもほかとたがわず金一色だが、壇上に置かれたあるものが問題だった。高さはざっと二十センチほど、大ジョッキほどの大きさの金の壺は、まさに求めていた宝物「ラエルの首」に違いなかった。こっちを向いた壺の表面に、それぞれ刻まれた太いハの字の目、その下のこれも太く短い横一文字の口が見える。一見穏やかだが荘厳さも備えた不思議な顔。
二人のテンションは爆上がりだった。むろん仕掛けがあるに決まっているので慎重に近づき、ハリスがそっと手で触れたがなにも起きない。ゆっくりと取り上げると、下でかすかにゴゴッという音がした。彼の「伏せろ!」の叫びで二人が床に這わなければ、目の前の壁の穴から飛んだ鋭い矢に貫かれていただろう。
だがそれ以上は何も起きず、二人はとりあえず無事に出口まで引き返した。初日から大収穫だった。興奮を隠せないハリスに、リネルは手を出した。写真を撮っておくのである。壺を渡すと彼女は急にニヤニヤしだした。
「なんだ、どうした?」
彼もまだ変なテンションのまま笑みで聞くと、「記念写真を撮りましょう」と言い、機嫌がマックスの彼は快く引き受けた。まず彼が全身ショットのため少し奥まで退いて二枚もらうと、次に後ろ向きを欲しがられた。
「後ろ? なんで?」
「意味はないわ。白状するけど、あなたの後姿が好きなだけ」
「そうか」
半年にもならない付き合いで恋愛感情は皆無だったが、そういわれて悪い気はしない。彼は背を向けて立った。出口から十メートルは離れている。「そう、そのままでお願い。かっこいいわよ、あなたの背中」などと声が遠ざかり、なにか妙な気がしたときは、もう遅かった。
振り向いた彼の目先で、扉がバクンと閉まった。
駆け寄ったが、押しても引いても石の戸はびくともしない。
思わず名を呼んで無意味に平手でばんばん叩くと、外からくぐもった女の声がした。
「悪いわね、この扉は中からは開かないみたい」
「リネル、どういうことだ?! 冗談なら分かったから、もうあけてくれ!」
「冗談じゃないわよ」
女の声が無感情になり、彼をぞっとさせた。
「このラエルの首さえあれば、私は最高の名声と地位を得られる」
「おまえ、最初からそのつもりで……?!」
愕然とするハリスに、リネルは笑いながら面白そうに言った。
「ええ、ライトス王なんかどうでもよかったの。ただ、この伝説の宝物さえ手に入ればね」
「ここに閉じ込めても、すぐ誰かが来るぞ」
「こんな誰も気にしてない場所に来ると思う? まあ来ても一年後くらいじゃない?」
ハリスは絶望にかられ、半ば自暴自棄になって叫んだ。
「り、リネル頼む、あけてくれ! それはやる! 俺はもう、この話からいっさい手を引くから、あとは好きにしてくれ!」
「これ以外は興味ないって言ったでしょ。悪いけど、あんたはここでミイラさんのお仲間になってもらうわ。それじゃ」
「ま、待て、リネル! 畜生、このままじゃ済まさんぞ!」
最初は怒りにかられる元気があったが、そのうちに、あんな女を信用した己のふがいなさを後悔し、落ち込んだ。
そして死の恐怖に襲われた。




