6、7「鈍色の情操すら至上」
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枕元に置いた携帯から、ルルルルルルルと着信音が響き出した。
「……誰よー、私の睡眠を妨げる馬鹿はー」
奥のベッドから亜愛の恨めしそうな声が聞こえてくる。まだ朝の七時だ。
携帯の画面には『乱れ☆まいか』の表示。俺も眠い目をこすりながら応答した。
「はい、荻尾で――」
『早く来てください! 助けて! ピンチっす!』
この声はまいかではない。ミヤか? ひどく慌てている。
『死にます、ほんとに死にます! 溺れるんすよ!』
「落ち着け! 焦った方が時間が掛かる!」
どうやら非常事態らしい。俺は一気に目が覚めた。
ベッドから這い出してセカンドシートに下りる。
『すぐ来てください! まいかの部屋っす! まいかもやられました!』
「やられたってなんだ!」
『気を失ってます! ユーナが来たんです! うちは溺れて死にます!』
ミヤの声に混じって、ドボボボボボボと滝のような音がしている。
『駄目っす、携帯が浸かる! 早く!』
「もう向かう! 向かってる! 状況を詳しく!」
セカンドシートを乗り越えて運転席へ。キーを差し込んで回してエンジンをかける。
『お風呂! 縛られて湯が出てる! ユーナが来て、うちらを襲っ――』
急にミヤの声が聞こえなくなった。通話が切れたのではない。先ほど、携帯が浸かると云っていた。水中なのだ。なんとなくだが、状況は伝わった。
アクセルを踏む。通路を進んでいた亜愛が転んで「いだっ」と似合わない声を上げる。さらに後ろから「なんなのですか~!」と義吟の声もする。
「ミヤが殺されかけてる! 先手を打たれたんだ!」
襲ったのはユーナだと云っていた。ユーナが〈悪魔のイケニエ〉か? まいかが気を失っていてミヤが縛られているなら、まいかの携帯で俺に電話をかけたのはユーナだ。俺がミヤを助けられるか試しているのか?
昨晩に送り届けたばかりなので、まいかが一人暮らししているアパートの場所は分かっている。ミヤもまいかの部屋に泊まったから其処にいる。彼女は知人の家を転々としているとのことだった。先月に家賃を払えずに追い出されて以降、自宅がないらしい。
この二人を送ったのが最後で良かった。それほど遠くないところにスーパー銭湯があって、車を停めていたのは其処の駐車場だった。おかげで電話を受けてから十分で到着した。
車を飛び出して階段を駆け上がり、四階の最も手前――四〇一号室。施錠されていたら義吟に破壊させたところだが、その必要なく玄関扉は開いた。
廊下にうつ伏せで倒れているまいかが目に入る。一見して外傷はない。それよりもミヤだ。水がびしゃびしゃとタイルを叩く音が響いている。
土足で廊下に上がって左手のドアを開くと洗面所で、その中にあった浴室のドアも開くと、湯がいっぱいに溜まった浴槽の中にミヤが服を着たまま沈んでいた。なにか重い物が入っているらしい麻袋に、ガムテープで手足を巻き付けられている。ただし限界まで首を上方へ伸ばせば、水面の揺れによっては辛うじて鼻が出るようだ。
俺はとにかく思い切り湯船に飛び込んだ。大量の湯が浴槽から溢れ出て、それからすぐに立ち上がった。顔が水面から出たミヤは激しく咳き込むが、これで溺死の心配はない。俺は蛇口をひねって湯を止め、彼女に巻かれたガムテープを剥がしにかかる。
「し――死ぬところでしたっ。死ぬ――げほっ、ごほごほっ」
再び咳き込むミヤ。当然ながらびしょ濡れだし、顔が真っ赤になっている。廊下で「まいきゃん、起きてください~」なんて云っている義吟に、俺は水とハサミを探して持ってくるように指示した。ガムテープがなかなか剥がせないので、ミヤの頭の下に腕を回して、彼女が力を抜いても残った湯に顔が沈まないようにしてやる。
「よく頑張ったな。生きてて良かった」
「すぐ来てくれた、おかげっす。ああもう、泣きそうっす……」
「遠慮しなくていいよ」
「うえ~ん……」
彼女は安心感から泣き出した。俺は義吟が見つけてきたハサミでガムテープを切り、自由になった彼女を抱き起こして、水を飲ませたりしながら、落ち着くまでその体勢でいた。そうしている間にまいかも、義吟によって無事にゆすり起こされた。
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まいかとミヤの証言によると、朝方に突然やって来たユーナは、部屋に上がるなり包丁を突き付けて二人を脅したと云う。まずはまいかに携帯のロックを解除させると、スタンガンで気絶させた。次にミヤを浴槽に入らせると、台車で運んできた敷石入りの麻袋に彼女の手足をガムテープで巻き付けて、蛇口を全開にした。そしてまいかの携帯から俺の携帯に電話を掛け、ミヤの胸元にそれを置くと自分は部屋を出て行ったらしい。
明らかな殺人未遂であるため、俺達は警察に通報した。GAOも事情聴取を受け、昨晩の交霊や〈悪魔のイケニエ〉を除いて、知っていることを話した。もちろん警察は探偵を良く思わないし、妙な調査は控えろと釘を刺された。
まあ、それで手を引く俺達ではない。ユーナの追跡は行政機関である警察に任せるが、この事件には他に解き明かさなければならない裏がある。
警察が引き上げた後、ミヤを部屋に残して、まいかにキャンピングカーに来てもらった。
「わけが分からないよー……。荻尾さん、これってどうなってるの?」
「ユーナさんはお金がなくなって、頭が変になったのですかね?」
さすがに弱った様子のまいかと、その隣で能天気にしている義吟が訊ねる。
すると俺より先に亜愛が「貯金を失ったというのも、今となっては眉唾物よ」と答えた。
「他人の同情で食う焼肉が一番うまい――ということわざがあるわ」
「ねえよ、そんな下卑たことわざ」
しかしフィッシング詐欺の話が、自分を被害者の側だと思わせるためのブラフだった可能性は充分にある。一連の不幸のうち、これだけが身体に危険のないものだった。
「今までの火事とか首吊りも、ユーナさんがやったことなのでしょうか?」
「かも知れないな。手法はともかくとして」
まいかが「どうして」と呟く。視線の先はテーブルの上に固定されている。
「関係あるかは分からないけど、まいかさんに訊きたいことがあるんだ」
俺は自動書記によって知ったことを話した。廃病院で行われていた乱交と、まいかがユーナに売っていた媚薬と思しき瓶について。
「ばれちゃったかー……」
彼女はきまり悪そうに笑い、それからすぐに真剣な面持ちに変わった。
「荻尾さんは、なんでもお見通し探偵さんだね。隠していて、ごめんなさい」
「どういうことなのか、説明してもらえる?」
「みんな、そういう集まりなの。廃墟でえっちなことをするのが好きな人達の集まり。ユーナさんが云うには、サバトなんだって」
「サバト――魔女の夜会あるいは、悪魔崇拝の集会のことだね」
そこで女達は悪魔と交わるとされている。歴史上、サバトの実在は疑わしく、欲求不満の聖職者による妄想の産物という見方もあるが、皮肉なことにその妄想をモチーフにして乱交や薬物乱用に手を染める者はいる。
「そういう意味とかは、まいかは分からないんだけどー……」
「みなの行為中、きみだけは病院を散策していたんだよね。いつも参加しないの?」
「うん。まいかはちょっと……」
恥じらうように自分の指を絡ませるまいか。アダルトピンク担当は伊達のようだ。
「なら、きみの目的は媚薬を売ることだけ?」
「そうだね……。だけどまいかは、ただの使い走りなの……」
まいかは半年前、怪談好きの友人から「心霊現象を体験できる」と紹介されて、ユーナ達のサバトに参加したらしい。しかし向かった先の廃旅館では乱交が行われ、彼女はひどく驚いた。乱交には加わらなかったが、ユーナに写真を取られてしまい、「これが出回ったら、アイドル続けられなくなるよ」と脅された。
ユーナはまいかに現金十五万円を手渡し、帰宅したらサバトを紹介した友人に電話するよう云った。電話したところ、友人は指定する口座に十万円を振り込むよう指示した。どういうことか訊ねても詳しくは教えてもらえず、ただ「まいきゃん、お金に困ってたじゃん。五万円はまいきゃんの儲けだよ」と笑われた。十万円は口座に振り込んだ。
それきり友人の電話番号は繋がらなくなった。しかし翌月、友人の方から公衆電話を使って連絡があった。杭獅子駅西口にある6番ロッカーの鍵を郵送したから、中にある品物を取り出して今月もサバトに参加しろという指示だった。ロッカーの中にあったのは謎の瓶。サバトにてユーナはそれと引き換えに、再び十五万円をまいかに渡した。
以降はその繰り返しだ。サバトの会場、振込先の口座、ロッカーの場所だけが毎回変わり、まいかは友人とユーナの取引を手伝う。瓶の中身がなにか法外な媚薬だとは分かっていたが、写真で脅されているので拒否はできない。それに五万円の小遣いが生活の助けになるのは確かだった。乱交を強要されたりもしないため、この半年間、彼女は耐えてきた。
「反省はしてるの。本当に、軽率だった……」
話しながら、彼女はどんどん頭を下げていった。
「いいや、まいかさんが罪悪感を持つ話じゃないよ」
俺の言葉に、義吟も「そうですよ!」と同調する。
「悪い奴にハメめられてしまっただけじゃないですか!」
「そうかな。そう云ってもらえると、嬉しいけどー……」
まいかは少しはにかんだ。この子は笑顔がよく似合う。
しかし困ったのが、乱交と媚薬の事情が分かっても、いまいちユーナが今回の犯行に及んだ理由と繋がらないことだ。六月六日のクリスト・ブランチ記念病院でも取引はいつもどおりに行われ、ユーナは媚薬を得たし、まいかは友人に金を振り込んだ後だと云う。
あるいは、理由なんてないのだろうか。サバトという名称からも、やはりユーナが〈悪魔のイケニエ〉である見込みは大きい。そして連中の行動は損得勘定と無縁の場合が多い。
「きみにサバトを紹介した友人について、教えてくれる?」
「うん。名前は巻乃木真月……この名前で、去年まで地下アイドルをしてたの。何度か現場で会って、お互い怪談好きだったから仲良くなった。真月ちゃんがアイドル辞めてからも連絡取ってたんだ」
義吟が反応しない。巻乃木真月は、地下アイドルの中でもマイナーな方だったのだろう。
「でも本名とか、今どんな仕事してるのかとか、全然知らない。網加太区に住んでるって話してたけど、お家に行ったことはないし……あ、写真はあるよ」
携帯を操作するまいか。そうしながら、もうひとつ思い出したようだ。
「それと、団体に入ってた。変わった名前の団体だから憶えてるの。アイドル辞める前の会話だから、今も入ってるのかは分からないけど……そこから辿れるかな?」
「団体の名前は?」
「〈死霊のハラワタ〉って云ってたけど、知らないよね?」
知っている。亜愛が思わず振り向くのを視界の端に捉える。
それはかつて、俺と亜愛が所属していた団体の名だ。