4、5「エーテルと蛾の如き虫」
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もうすぐ二十時というころになって、クリスト・ブランチ記念病院に到着した。
郊外の閑静な住宅街――そのはずれに位置し、暗闇に沈んでいる三階建ての廃墟。正門は閉じているが、フェンスの一部が破られていて、簡単に侵入することができた。
キャンピングカーは近くの適当な路肩に停め、義吟だけ車内に残っている。万一のことが起きた場合のためというほか、彼女がいると霊との交信が上手くいかないのだ。集中力に欠ける者は、場の雰囲気を実際的にも霊的にも乱すのだと、以前に亜愛が話していた。
「まいか達、来ちゃって大丈夫なんだよねー……?」
「霊の怒りを買ってる場合、火に油を注ぐことにならない……?」
まいかとユーナの表情が強張っている。サナエも落ち着きなく周囲を見回しているし、ミヤもいくらか険しい面持ちとなった。
「心配は無用――とは云えないわね。厳粛な気持ちのまま、緩めないで頂戴」
亜愛が先頭に立って歩く。彼女は霊でなく初対面の四人にビビりまくっているはずだが、俺を間に挟むようにしながら上手く誤魔化している。
自動ドアだったらしい正面入口はガラスが割れていて、俺達はそこから建物の中に足を踏み入れた。往時の待合室だろう。広い空間に、ひっくり返った椅子や投棄されたゴミが散らかっている。
俺は懐中電灯で亜愛が行く先を照らす。ミヤも自分の携帯のライトを使おうとしたが、亜愛が「央以外は明かりを点けないで」と注意した。
「死者を呼び出すには暗闇が不可欠――エリファス・レヴィ『高等魔術の教理と祭儀』にも書かれている常識よ」
「ほえー。非常識ですんません」
そう云うミヤの隣では、サナエが「うう、怖いい」と震えている。心霊スポットが好きであっても、得意というわけではないらしい。特に今回は事情が事情なので、楽しもうという態度の者はいない。
「小部屋がいいわ。私達全員が収まる、病室かしらね」
待合室から階段を上がって二階へ。すると病室が並ぶ通路に出た。
割れた窓ガラスから夜風が入り、ひゅ~~……という音が響いている。
「荻尾さんは、お化けが怖くないの?」
まいかの囁き声が訊ねてきた。彼女は俺に身を寄せて歩いている。
「怖くないよ。相手が悪霊なら警戒はするけどね」
俺に霊感はないが、亜愛のおかげで心霊現象は慣れたものだ。
「へー……勇敢探偵さんなんだね。頼りにしちゃうね?」
腕まで絡ませてきた。まさか、モーションをかけられている?
アイドルには全然興味がなかったけれど、近くで見るとなるほど、可愛い顔をしているし……なんて俺が意識し始めたところで、亜愛が立ち止まって振り向いた。
「前回訪れたとき、貴女達はこれらの部屋をひとつひとつ回った?」
「全部の部屋には這入ってないけどー、見て回りましたよ」
「なら此処にしましょう」
亜愛に促され、俺達はかつて病室として使われていただろう部屋に這入る。
するとユーナが「ごめんなさい」と云って、ふらふらとベッドの残骸へ向かった。
「ちょっと気分が悪くて。座らせて……」
両手でお腹を押さえ、顔を伏せている。サナエも「うう……」と唸った。
「なんか、この前に来たときと全然違いますよ。ずっと見られてる感じ」
「それは気持ちが違うからでしょう? ただ、見られているというのはそのとおりね」
「えっ!」
全員が亜愛を見る。亜愛の方はそれで少したじろいた。
「なによ……。それよりも貴女達、彼女のようにベッドや椅子に腰掛けてくれる? みなで等間隔に、円を描くようにするの」
「どうしてですか?」
まいかが俺の腕を抱く力を強めた。離れることに躊躇いがあるらしい。
「交霊を始めるわ。此処にいる霊に、貴女達の不幸が霊のしわざか教えてもらうのよ」
「霊のことは霊に訊くのがいい。そのために此処に来たんですよ」
目的の共有は重要だ。俺からも今一度、全体に向けて説明する。
悪霊が憑りついている場合、その悪霊が交信に応じる見込みは薄い。自分を取り除こうとしている者に協力するわけがないからだ。
よって今回は、まいか達に敵意を持っていない霊との交信を試みる。彼女達が此処で悪霊に憑りつかれたか、干渉を受けたなら、同じく此処にいる霊が知っているはずだ。
霊のうち多くは善良な霊である。十把一絡げに怖がる必要はないし、そうすることで善良な霊の協力を受けられなくなる場合もある。
そこまで伝えたところで、みなは亜愛の指示に従って移動を始めた。
俺は室内にあった丸椅子を入口付近に置いて座り、左手前のベッドにまいか、左手奥のベッドにサナエ、正面奥に亜愛、右手奥のベッドにミヤ、右手前のベッドにユーナだ。
亜愛だけが立ったまま、円の中央に置いた別の丸椅子を挟んで、俺と向かい合っている。
「催眠は必要か?」と訊ねたところ、彼女は首を横に振って、眼鏡を外した。
「単純なテーブル・ターニングでいくわ。催眠まではいらないけれど、思念の統一のため、はじめに歌を歌いましょう。全員が知っている歌といえば……国歌でいいかしら?」
「国歌ってどんなんでしたっけ?」
ミヤが駄目だったが、俺とまいかが教えるとすぐに思い出した。その過程でサナエが歌詞を勘違いしていたことが明らかになったりと、緊張をほぐすような会話が生まれた。
「央が懐中電灯を消したら、歌い始めましょう。静かに、ゆっくりと、空気をあまり揺らさないように……。歌い終えたら、中央の椅子を見つめて。話すのは私だけ。貴女達は椅子を見つめているだけでいい。すべてが自然よ。口に出して、繰り返して。すべてが自然」
すべてが自然。
「もう一度、はっきりと。すべてが、自然」
すべてが、自然。
「驚くことはないの。これから起きる現象は、霊の協力であることを忘れないで。立ち上がったり、声を上げたりしないで。難しいことは考えなくていい。ただ身をゆだねて、この場の空気に自分の呼吸を合わせるの。気分が悪くなったら、大人しく目を閉じて、顔を伏せていること……。央、心の中で十秒数えたら、懐中電灯を消して」
十……九……八……七……六……五……四……三……二……一……
消灯と同時に、国歌斉唱が始まる。六人の歌声は、次第にぴたりと重なっていく。
薄闇の中、割れた窓から差し込む月明かりだけが、中央の空席を照らしている。
歌い終えたとき、各人の意識もまた、交霊という意思への統一を終えていた。
少し間をおいてから、亜愛が口を開いた。
「あなたは既に此処にいますね?」
バチンッ、という甲高い音が部屋に響く。叩音(ラップ)だ。
「あなたの平穏を妨げてしまったことを謝ります。それに、今夜だけではありません。私達のうち四人は、先日も一度、此処を訪れました」
バチッ、バチッ。別々の方向から鳴る叩音。
「ごめんなさい。今夜はそのことで、あなたにいくつか質問をしたくて参りました」
亜愛は一定の声量とスピードで、淀みなく言葉を続けていく。
「どうぞ、私の力を使ってください。其処に椅子を置いています。イエスなら一回、ノーなら二回、その椅子の足で床を叩いてください。私達はあなたの理解に努めます。私の力を使ってください。イエスなら一回、ノーなら二回」
誰も手を触れていない丸椅子が、わずかに動いた。
コツ……と、一回、その足が床を叩いて音を鳴らした。
「ありがとう御座います」
物体の〈生物化〉。亜愛が自らの霊体のエネルギーを外部に放出し、この場にいる霊がそれを利用して丸椅子を動かしている。
これが最も単純な交霊の手法として知られる、テーブル・ターニングだ。呼称ではテーブルとあるが、もちろん椅子で問題ないし、軽い方が霊としても動かしやすいだろう。
「あなたはずっと此処にいる霊ですか」
イエス。
「此処が病院であったころからいるのでしょうか」
イエス。
「此処で亡くなったのですか」
イエス。
亜愛はまず、交霊に応じている霊に関して質問する。交霊は駆け引きだ。霊が真実だけを答えてくれるとは限らない。悪霊が善良な霊を装って交霊に応じ、生者を誤った方向へ誘導していく場合もある。そのため、相手の霊に対する質問を重ね、その正体を見極める必要があるというわけだ。
いま相手をしている霊は、かつて病気によりこの病院で死亡した男性だと分かった。生きていたころの未練からは解放されているが、この場所に留まっている。此処を訪れる者に興味があるようだ。まいか達が前に此処に来たことも知っている。害をなそうとする意思はない。返事の中に矛盾はなく、大抵の質問にはきちんと反応を示す。
「私達の中に、不完全な霊に憑かれている者はいますか」
亜愛は本題に入った。椅子の足はコツ、コツ……と二度、床を叩いた。ノーだ。
「四人が前に此処を訪れたときは他に、今夜は来ていない者も一緒にいましたね」
今度はコツ……と一度。
「その誰かに不完全な霊が憑いていきましたか」
コツ……コツ。
「不完全な霊が、彼女達に作用を与えようとしましたか」
コツ、コツ……。
「なにか――」と、まいかの口から言葉が洩れた。亜愛と同じ声量、同じスピードで。
「私達はあれから酷い目に遭っています。なにか知らないですか」
亜愛は彼女の勝手な質問を咎めたりしない。黙って椅子を注視する。
コツ……コツ……と、二度では終わらなかった。
コツ……コツ……コツ……コツ……コツ……コツ……コツ……コツ……
椅子の動きが止まらない。亜愛が「央、紙とペンを」と呼び掛ける。
俺は立ち上がり、床を叩き続ける椅子を迂回して亜愛のもとまで行った。
「少し、手伝って」
亜愛は椅子を凝視したまま、慎重な動きで床に正座する。俺も身を屈める。彼女の右手にペンを持たせ、床に置いたメモ用紙の上に導いた後、その肩に手を回す。
「俺が肩を一度叩くと、きみの意識はすうっと身体から離れる……」
亜愛の耳元で囁いて、肩を一度、優しく叩いた。
「離れた意識は、磁石が引き合うみたく、身体に戻ろうとする……身体に戻る前に、もう一度叩く……ほら、今度はさっきよりも大きく離れた……また身体に戻ろうとする前に、もう一度叩く……さっきよりも、もっと大きく離れた……」
がくっと脱力する亜愛。俺は今、彼女の〈自己分離〉を催眠誘導で補助している。彼女が椅子を凝視しているのは、凝視法を成立させるためだ。一点を凝視するのが催眠誘導の前提として主力なそれであることを彼女はよく理解している。
「俺が肩をトンと叩くたびに、意識は身体から遠く離れる……身体に戻ろうとする力は弱くなっていく……トン……トン……きみの意識はもう、きみの身体を高い場所から見下ろしている……トン……トン……トン……」
亜愛が前のめりに倒れそうになるのを、俺は肩を叩くのと反対の腕で押さえる。
一方、ペンを握った彼女の手はメモ用紙の上をゆっくりと動き始めた。
亜愛の意思ではない。これは自動書記という手法だ。霊が霊媒の手を借りて文字を綴る。テーブル・ターニングは〈オーラ〉による霊媒、自動書記は〈自己分離〉による霊媒の才能が必要だが、亜愛はそれらを併せ持っている。
そして、霊が伝えようとしている生の言葉が、紙の上に書き出された。
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「あ、お帰りなさい。どうでした~?」
キャンピングカーに帰ると義吟は流しに立って、歯ブラシに歯磨き粉を出しているところだった。にゅう~~とブラシの上たっぷりに乗せたうえ、さらに二段目をにゅにゅ~~と出し、崩れ落ちる前にぱくりと咥えてシャコシャコと磨き始める。
「歯磨き粉は豆粒ほどで充分だぞ。研磨剤が入ってるから、つけすぎると歯に悪い」
「みいにはこがえきうほおきいまいたお~」
耳にタコができるほど聞きましたよ~とのこと。そのとおりだ。彼女は歯磨き粉を嗜好品と捉えていて、別に歯のことを考えて磨いているのではない。
「すごかったです!」と背後でサナエの声がした。ずっと興奮した様子でいたけれど、車に戻るまで大声を出すのは我慢していたようだ。
「私、ちゃんとした心霊現象って初めてでした。いきなりすごいの体験したあ」
「だけど、お化けのせいじゃなかったんだねー。冤罪事件を起こしちゃったよ……」
まいかは結構疲れた様子で、セカンドシートに腰を下ろした。交霊の間、彼女は特に集中していたように見えた。自分から質問をしたことも、あまり憶えていないらしい。
「意外な答えではないわね。私がはじめに話したとおりだったでしょう?」
亜愛は俺に対してそう云うと、奥のベッドへ引っ込んでいく。
自動書記がなされたメモ用紙は、ミミズののたくったような文字で読めたものではない。しかし亜愛には読める。自動書記では霊は霊媒の脳からメッセージに必要な要素を集めるので、彼女はその出力結果が暗号化されるように仕込んでいるのだ。
今回のメッセージは彼女曰く、まいか達の不幸と霊との関係を肯定しなかったとのこと。
「じゃあ偶然、不幸が続いただけなんだ……」
ユーナは相変わらず苦しそうにお腹を押さえて、サードシートに座っている。正直、他が霊のしわざだった場合でも、彼女のフィッシング詐欺は単なる自業自得だったと思うが。
「良かったじゃないすか。はっきり偶然だと分かって」
ミヤは納得したようだ。ジャージのポケットに手を突っ込んで、壁にもたれている。
「あとは気にするだけ毒っすよ。まあ心霊スポット巡りは自粛でしょうけど」
その言葉に反論する者はいない。あれだけ本物の心霊現象を見せられれば、逆説的に心霊現象でないことの説得力も増しただろう。
「荻尾さん」と、まいかが俺を見た。
「亜愛さんと、義吟ちゃんも、ありがとう御座いました。お騒がせしちゃったね。だけど丁寧に調べてくれて、すっごく助かりました。これでまいかの依頼は完了だよね?」
「いや、もう少し様子を見よう。念のため一週間後の二十二日まで、皆さんの身におかしなことが起きないかどうか」
「たしかに! それなら安心だねー。ありがとう。お願いするね」
その後、みなを自宅まで送り届けることになり、俺と亜愛は運転席と助手席に移動した。
「お疲れ様。さすが安定していたな」
「ふっ……この私に対して、なに当然のことを云っているの」
口ではそう云うが、彼女は数週間ぶりの交霊が堪えたらしく、俺の肩に頭を乗せた。
「もっと褒めなさい。央のためにやってあげたんだから」
「髪、良いにおいする。自動書記のときにも思ったけど」
「交霊中にそんな邪念を? 呆れたわね……」
だが嬉しそうだ。髪は亜愛の自慢である。
それからも彼女の良いところをしばらく列挙させられた。義吟がメンバーに加わって以降、こいつは二人きりになるとやけに甘えてくるようになった。
「ところで、乱れ☆まいかの依頼については、これで決着でいいのかしら」
「それが悩みどころなんだよね」
「〈悪魔のイケニエ〉の関与のこと?」
「ああ。連中はまいかが俺達に依頼するよう仕組んだ。その目的が分からない」
「もしかしたら、これが関係あるかも知れないわ」
亜愛はジャンパースカートのポケットから、自動書記に用いたメモ用紙を取った。
そうだ。霊の関与は肯定されなかったが、ならばなにが記されたのか、まだ聞いていない。
「六月六日の夜、彼女達があの廃病院でなにをしていたのか、霊は見ていたのよ」
「なにをしていたんだ」
「乱交ですって」
仕切りの窓とカーテンは閉めているけれど、亜愛は声を潜めた。
「男はいなかったそうよ。メンバーについては、乱れ☆まいかはおそらく嘘を吐いていない。レズビアンの集まりなのでしょう。彼女達、爪が短く切られているわ」
「変わった性癖だな。わざわざ廃墟でやるなんて」
一連の不幸を呪いと思い込んだのも、その後ろめたさがあったためだろうか。
「だけれど、乱れ☆まいかだけは参加しないで、別の階をひとりで回っていたみたい」
「どうしてだ?」
「分からないわ。ただし、彼女は他のメンバーに謎の瓶を渡していたという記述があるの。メンバーは行為の前、その瓶の中身を身体に塗っていたとも」
「なんだろ。媚薬かな」
「そうね。そして瓶を受け取ったとき、ユーナがまいかに多額の金銭を支払っていた」
自動書記によってもたらされた情報は、以上で全部だった。
内容が内容なので、正面から訊ねても答えてくれるとは限らない。それで警戒されては元も子もない。動くのは必要な情報を揃え、方針を決めてからだ。
今晩のところは、まいか達を問い詰めることはせず、それぞれの自宅まで送った。