2、3「死海に浮かんだ夜のこと」
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肩甲骨のあたりまで伸ばした黒髪。度の強い眼鏡。白の丸襟シャツの上から黒のジャンパースカート。いつも悠然としてタブレット端末で読書をしているのが、天亜愛だ。
「聞いていただろ。今回はお前が活躍する番だぞ」
まいかが来てから奥のベッドに引っ込んでいた彼女の前まで、俺はやって来た。
彼女は顔を上げないまま「ふっ……」と笑った。
「央は私がいなくては、なにもできないの? 情けない男だわ」
「そう、俺は情けないんだよ。ほら依頼人が待ってるんだから」
「ちょっと! ちょっと聞きなさいっ」
手を取って引っ張ると、彼女はポーカーフェイスを崩して慌て始めた。
「今回はパス。私ができることなんてないわ」
「いや、お前が必要だよ。力を貸してくれ」
「つ、つくり方が分からなくてもパスタはつくれる――ということわざがあるわ」
「ねえよ、そんな安っぽいことわざ」
「嫌! 嫌! 働きたくないの!」
「大丈夫、俺も一緒だから。情けないこと云うなよ」
手を引いてテーブルのところまで連れていく。サードシートの義吟は「亜愛ちゃん頑張ってください~」と楽しげで、セカンドシートのまいかは少々呆気に取られている様子だ。
「待たせたね。GAOの霊媒体質者というのは亜愛のことだ。正確には霊媒師というわけじゃないけど、心霊現象のエキスパートであることに間違いないよ」
「そのとおり。私の実力は一級品よ。そこらの凡俗と同列に考えないことね」
客前に引っ張り出されると、亜愛は悠然とした佇まいを取り戻した。しかし俺の背中に半ば隠れ、視線は見当違いの方角へ向いている。
義吟が「亜愛ちゃんは人見知りなのです」と説明した。まあ人見知りよりもっと酷くて、彼女は齢十九にして〈世間が怖い〉のだけれど、当人は鼻で笑った。
「馬鹿なことを。私は俗物を視界に入れてやるほど寛大でないだけよ」
「うーん……イメージと違ったかもー……」
当然、まいかの顔には落胆が表れる。これではまずい。
俺は亜愛を義吟の隣に座らせて、早急に本題へ移る。
「まいかさんの友人が不幸に見舞われるのは、霊のしわざだと思うか?」
「論外ね。霊に対する嘆かわしいほどの無理解だわ」
亜愛は自分の腕を抱き、テーブルの下で足を組んだ。長話が始まるときの仕草だ。
「心霊現象は〈なんでもあり〉じゃないの。体系化された理論があって、すべての現象はそれにより説明が可能なのよ。貴女、知らないでしょう?」
まいかに対して問い掛けているが、視線は露骨に天井を向いている。
「えっとー、ごめんなさい」
「まず生きている人間は、魂・肉体・霊体の三要素から成り立っているの。魂は非物質的元素で、不死である、苦しみを知る、思考する、意思を持つなどの特徴を有している。そして魂は、物質的で粗雑な元素である肉体の中に嵌め込まれている。霊体は、この二つの媒介としての役割を担っていて、生命エネルギーと云い換えることもできるわ。肉体とそっくりな形態をしているけれど、物質世界と非物質世界とを媒介する微妙な要素だから、重力のような法則には囚われない。ここまではいい?」
「は、はいー……」
「次に霊ね。人間が死ぬと、肉体は急激に衰退して抜け殻になる。すると肉体という隠れ場を失った魂が、今度は霊体の中に引きこもるの。霊体が魂を固体化して、人間的な形態を保ってあげるのよ。このようにして霊体に包まれた魂、肉体の欠如した人間存在が、霊と呼ばれるものの正体だわ。ここまではいい?」
「えー……」
一気に説明されても理解しきれないだろう。
俺はまいかの隣に腰を下ろした。
「要するに人間の魂は、生きていれば肉体、死んでからは霊体に包まれて活動するということだよ。霊はよく半透明の人型とされるよね?」
頷くまいか。
「それは物質とも非物質ともつかない霊体が、微かながら俺達の目に映った状態なんだ。人としての形が崩れていたり、たとえば足がなかったりするのも、霊体が肉体ほど強固には物質としての性質を持たないせいだね」
「あー、分かった、かも」
しかし亜愛は「央の説明は不正確だわ」と口を尖らせた。
「細かいことはいいだろ。それで、今回の一連の出来事が心霊現象じゃない理由は?」
「霊媒なくして心霊現象は起こらないからよ」
亜愛は段々と乗ってきた様子だ。彼女は本来的にはお喋りである。
「霊には筋肉のように支えとして役に立つものがない。たとえばこのコップやテーブル、タブレット端末、そこの冷蔵庫、この車のドア、タイヤ――なんでもいいけれど、物質を直接操作することはできないの。生物に対しても同じよ。生きている以上、魂と霊体は物質としての肉体に包まれているから、霊には干渉ができない」
「じゃー、霊が憑りつく話とかは嘘なの?」
「普通はね。ただし、霊媒がいれば話が別。霊媒とは、生者と死者、物質と霊体とを仲立ちする才能を持つ人間のことよ。霊媒にも種類があるけれど、たとえば幽体離脱という言葉なら聞いたことがあるわね?」
「うん。身体からふわーって抜けるやつでしょ?」
「生きながらにして、魂と霊体を肉体という外皮から分離させられる人間。これを〈自己分離〉による霊媒と呼ぶわ。もっとも霊体との繋がりは保たれたままで、肉体は動けないけれど緩慢な生命を持つことになるの。へその緒みたいな繋がりを通じて霊体から肉体に生命エネルギーが流れ込むことで、死を防いでいるわけ。だけれど、このように限りなく抜け殻に近くなった肉体であれば、霊はその中に入ることができる。霊媒の肉体を借りて、話したり動いたりするのよ。例に挙げた幽体離脱や憑依現象は、これで説明できるわ」
まいかは難しい顔をしながらも、亜愛の話に聞き入っている。
亜愛は相変わらず目は合わせずに、しかし自信満々に続ける。
「あるいは、霊体は生命エネルギーであると説明したのを憶えてる? 霊媒には、自身の霊体のエネルギーを外部に放出する特性を持つ者――〈オーラ〉による霊媒もいる。すると霊はそれを汲み取って物質を〈生物化〉できるの。死せる物質が一時的に生気を帯びるのよ。こうすることで、非物質的存在である霊が物質に干渉し、操作することが可能になる。霊が自身の霊体のエネルギーを使うのでは駄目。生命エネルギーには肉体の生命によって活発になるという性質があって、霊は必ず生きた霊媒のそれを借りないといけないの」
「あ~意味不明です~!」
叫んだのは義吟だ。テーブルにぐでーっと突っ伏して、動かなくなる。
「知恵なき者にはそう感じられるでしょうね。貴女はどうかしら?」
「ばっちりな理解じゃないかもだけどー……」
まいかはチラと俺の方を見た。もちろん彼女は授業を受けに来た学生じゃないのだから、まとめ役は俺が担う。
「つまりこう云いたいんだな? 霊が生物に憑依するには相手が〈自己分離〉による霊媒でないといけないし、物質を操作するにはその場に〈オーラ〉による霊媒がいないといけない。一連の出来事を心霊現象とした場合、少なくともサナエ、メグ、ユーナ、リリアはそれぞれ全員が霊媒体質であることが必須だって」
そうでなければ、霊はサナエに憑依して酒をしこたま飲んだり、メグの自宅に火を点けたり、ユーナの携帯を操作してフィッシング詐欺に引っ掛けたり、リリアに憑依して首を吊ったりできないというわけだ。
亜愛は「そういうことよ」と首肯した。
「それで貴女――私はこの表現が好きではないけれど――その四人は霊感がある人達だったの? 貴女も含め、残りの人はどう? 全員が霊媒の能力を備えているのかしら?」
「まいか達の中に霊感がある子はいないけどー……」
彼女は肩を丸めた。責められているように感じたのかも知れない。
「そうでなければ、心霊スポット巡りなんて軽率なことしないものね。では私はこれで」
「待て待て」
亜愛が奥へ引っ込もうとするのを、俺は手を伸ばして食い止める。
「な、なに。私、良い仕事したでしょう?」
「不充分だ。できることはまだあるだろう」
十万払って年下の偉そうな女に講釈されてお仕舞では、まいかも納得できまい。
腕時計を見ると、時刻はもうじき十八時。丁度良い頃合だ。
「まいかさん、今日この後は予定空いてるかな」
「空いてるけどー、下心盛り盛りナンパでまいかをぱっくり食べちゃおうとしてる?」
「いやまったく。それから、他の肝試しメンバーにも連絡を取ってほしい」
亜愛が「なにをする気よ、央」と問うが、そんなの決まっている。
クリスト・ブランチ記念病院に行って、そこにいる霊に聞き込みするのだ。
3
まずは十八時十分ごろ、大学近くで授業終わりのサナエを拾った。
「初めまして。サナエでっす。わあ、キャンピングカーって初めて乗るう」
人懐っこそうな笑顔が印象的だ。茶髪にお洒落な古着を着ているが、芸術大学の割には外見の奇抜さはそれほどでない。と云っては芸大生に対する偏見だろうか。
「急性アルコール中毒なんて、危なかったね。お酒はよく飲むの?」
「いえ、別に普通くらいですよ。あれからは一滴も飲んでないけど」
「その日も飲んだ記憶はないんだって?」
「そうなんですよ。バイト終わって、そのまま家に帰るはずでしたもん」
「なんのバイト?」
「居酒屋です。茜条斎で。バイト先を出て、気付いたら病院でした。パニくったあ」
「きみ達の身に起きていることは、霊のしわざだと思う?」
「それは、リリアさんが首を吊ったって聞いて……本当に怖くなりましたよ。最初はメグさん家の火事のときに、私が思い付きで云ったことだったんですけど」
次に十八時半ごろ、サブカル色の強い町でふらふらしていたミヤを拾った。
「どうも。ミヤっす。好きなことして、嫌いなことはしません。よろしく頼んます」
半笑いが貼り付いた表情。ボブカットから前髪だけを短く切った妙な髪型がよく嵌っている。片耳にだけイヤホンをつけて、服装はスウェットに下がジャージだ。
「きみは今のところ、特に不幸な目には逢ってないんだよね」
「まあ、そうっすかね。でも悩み事ならありますよ」
「どんな悩み?」
「納豆、生卵、海苔、明太子、海鮮、キムチ、とろろ、鶏そぼろ、わさび漬け、いか塩辛、牛しぐれ、ラー油、にんじんしりしり、高菜、豚角煮――」
「それはなんの列挙?」
「ご飯の上に乗せるものっす。なんか、もっとパンチが欲しくないすか?」
「俺はご飯にはなにも乗せなくていいかな。おかず重視で」
「あー。うちニートなんで、おかずなんて贅沢なもんないんすよ」
「ところで、きみ達の身に起きていることは、霊のしわざだと思う?」
「どうっすかね。分かりませんけど、気にしすぎて誘発するってこともあるんじゃないすか? もし霊とかじゃなくて偶然だったとしたら。病は気からじゃないすけど」
最後に十九時ごろ、オフィス街で仕事終わりのユーナを拾った。
「こんばんは。ユーナです……。状況がよく飲み込めてないんだけど……」
お腹を押さえて、調子が悪そうな表情をしている。スーツ姿にポニーテール。二十六歳の最年長で、メンバーの仕切り役とのこと。顔立ちは整っているものの、やや薄幸そうだ。
「貯金を全額失ったと聞きました。大変なことですね」
「あはは……そうね。ま、身体は無事なんだけどね。でも身体よりお金だよね……」
「身体が第一だと思いますが、そう云っても慰めにはならないですよね」
「ほんと、働くのも馬鹿らしくなっちゃったよ。辞められないんだけどね……。お休みもらって、海外旅行したいなあ。お金ないから無理だけど。あはは……」
「貴女達の身に起きていることは、霊のしわざだと思いますか?」
「うん、不気味だよね……。なんで私だけお金だったんだろう……。本当ならまいかちゃんじゃなくて、私が霊媒師を雇わないとなのに。そのお金もないんだもん……」
「お腹、痛いんですか?」
「ううん、大丈夫。気にしないで……」
これで、入院中のメグとリリアの他は全員が集まったことになる。
クリスト・ブランチ記念病院へと向かうにあたって、初対面の人間が四人いる空間に耐えられるはずもない亜愛は、助手席に避難してきた。
「おぞましいわ……私の聖域が侵されている……」
彼女は蒼褪めた顔で、仕切りのガラス窓とカーテンを閉める。それでも義吟も混じって談笑する声は聞こえてくるが、こちらの会話は向こうに聞こえないだろう。
「亜愛、漫画を描く気はあるか?」
「なによいきなり。あるわけないでしょう」
「乃野矢リサも極端な引きこもりでさ、自宅で稼げる職業として漫画家を選んだそうだ」
「漫画家じゃなくてもいいじゃない」
「でも霊媒の才能はオンラインに向かないだろ。かと云って他になにかあるか?」
「その気になれば、なんだって見つけられるわ。今はその必要がないだけよ」
「俺がいつまでも一緒にいるとは限らないぞ」
「分かってるわよ、そんなこと……」
タブレット端末で読書を始める亜愛。しかしその指は画面上の同じ箇所を行ったり来たりするばかりで、全然進んでいないのが容易に見て取れる。
赤信号に捕まって停止。俺は彼女の頭の上に手を置いた。
「そんなすぐには、どこかに行ったりしないよ」
「当たり前でしょう。心配してないわ……」
「お前の気持ちも分かってるよ。遊び感覚で霊に関わろうとする人達を好ましく思わないのは当然だ。だけど俺とお前だって昔、それで失敗したんだ」
「そうね。彼女達にとっては、それが今回ということよね」
信号が青に変わる。離そうとした俺の手を、亜愛は捕まえてぎゅっと握った。
俺は片手で運転することにした。