7、8「好きすkiss♪不和ふ和布♪」
7
三階にある部屋から女性が出るのを見つけた。これからお出かけのはずだ。
俺達はタイミングを調整しながら、マンションのエントランスへ向かう。女性が出てきてガラス張りのドアが開いたところで、丁度すれ違うようにして中に這入った。
エレベーターで九階に上がり、九〇七号室の扉を叩く。中から開いて、ホスト崩れが顔を覗かせる。訝しげな表情で「なに?」と問われる。
「百世未余子のことで話したいんですよ」
「は? 誰だよ、きみ達」
「現場から〈もんぜるっぜ〉を持ち去りましたよね」
「待て、ちょっと待て」
にわかに焦り始めるホスト崩れ。一度後ろを振り向いて、声を潜める。
「全然分からない。なんの話だよ」
すると義吟が扉に手を掛けてぐいっと引っ張り、全開にさせた。
「降参してください! 貴方が殺したのは分かっているのですよ!」
「おい――声がでかいって!」
「それに義吟、彼は殺していないよ。彼が未余子ちゃんの部屋を訪れたとき、既に彼女は殺されていたんだ」
ホスト崩れの顔から血の気が引いていく。
「本当に誰なんだ、きみ。警察?」
「そう見えます?」
そのとき「遊丸、どうしたの」と云う女性の声が聞こえてきた。玄関から伸びる廊下の先にドアがあって、その向こう側からだ。
「乃野矢リサさんですね」と俺は呼び掛ける。
「え、乃野矢リサって『シュガーハイ』のですか!」
反応したのは義吟だけで、肝心の乃野矢は無言のまま姿を見せない。
「話をしましょう。貴女が百世未余子という名前まで知っているかは分かりませんが、彼の浮気相手が殺されたのは貴女のせいですよね」
「は?」
遊丸というらしいホスト崩れが、部屋の奥と俺達とを交互に見る。
「どうなってんだよ。ぼくは……なにも聞いてないぞ」
「聞いてませんよ央くん」
義吟が俺のシャツの裾を引っ張るのは無視して、俺は奥のドアを見つめる。
「俺達はこれを警察に話すことだってできます。それをしていないのは、貴女と話して確かめたいことがあるからですよ。出てきてもらえますか」
ドアが開いた。犬屋から送られてきた写真は外出時の彼女だったから、現れた乃野矢はそれよりだいぶ野暮ったい。髪を後ろでくくって、ふちの大きな眼鏡をかけて、化粧はしていない。眉毛もない。服装は身体のラインが隠れるサイズのスウェット。
彼女は裸足でぺたぺたと駆けてくると、遊丸にべったりとくっついた。警戒心をむき出しにした眼差しをこちらへ向けて「何者なの?」と問う。
「荻尾です。名刺はないですが、GAOという探偵事務所で所長をしています」
隣の義吟は「第一助手の義吟です」とダブルピースするが、そんな肩書きは与えていない。遊丸が「ぼ、ぼくが訊いても答えなかったくせに!」と妙なところに反応した。
「探偵……探偵……」
乃野矢が繰り返す。そこで義吟が強引に玄関へ上がる。
「本当に漫画家の乃野矢先生ですか? 義吟、いつも『シュガーハイ』読んでます!」
「きゃあ、這入ってこないで!」
「ええ~!」
乃野矢は遊丸ごしに、物凄い剣幕で義吟を睨む。ファンサービスは良くないらしい。
「しかし、扉を開けた状態で話していいんですか? 俺達は構いませんが」
云ってやると、乃野矢は硬直した。瞬きひとつしなくなった。
そんな彼女に遊丸が「なあリサ……」と遠慮がちに話し掛ける。
「とりあえず、入れない? ぼくも聞きたいんだけど。色々と……」
「待ってよ。いま、考えてるの」
硬直した状態から唇だけが動いた。彼女はそれから一分近く考えてようやく、カピカピに乾いただろう眼球にまぶたで蓋をした。そして苦痛に耐えるかのように告げた。
「繊細に這入って。繊細に……」
8
乃野矢はまず俺と義吟を玄関に並んで立たせると、その場でゆっくりと回るように指示し、これでもかと消臭スプレーを吹きかけた。「もっと回って」「もっと」「まだまだ」「いいから回って」後半は俺も義吟も乃野矢本人も噎せていた。
その間に遊丸は廊下に銀色のビニールシートを敷いて、奥の部屋でもなにやら準備していた。消臭というより、もはやスプレーのにおいを鼻が曲がりそうなくらい被せられた俺達を、乃野矢は後ずさりながら誘導した。
「シートの上を歩いて。はみ出さないで。壁とか、他のところを触らないで」
「う~、なんなのですかこれ~」
「喋らないで! 唾が飛ぶ!」
「ぎゃっ!」
義吟は顔面に消臭スプレーをかけられた。俺も巻き添えを食らった。
通されたのはリビングだった。薄いピンクを基調とした家具はどれもメルヘンチックで、なぜか至るところにカラフルな風船が結ばれており、俺には悪趣味に映った。漫画家を思わせる品は見当たらないけれど、仕事部屋が別にあるのだろう。
テーブルを挟んで下座側の椅子をビニールシートが覆っていて、俺と義吟はそこに座らされた。用意されたマスクをつけると発言を許可された。
「乃野矢さんは潔癖症なんですか」
「違う。ただ遊丸と私の空間に不純物が混じるのが嫌なだけ」
義吟と遊丸は向かいの席に座った。もちろん茶や菓子は出されない。
「まあ本題に戻りましょう。先にこちらが分かっていることを話しますが、乃野矢さんはこの部屋から外に出ることがないんですよね」
首を縦に振る乃野矢。遊丸の方は落ち着きなく自分の髪を弄っている。
「遊丸さんは貴女の恋人ですね。いつから同棲しているんですか」
「去年から」
「遊丸さんの職業は?」
「どうしてそんなことを教えないといけない?」
遊丸の方が顔をしかめたが、乃野矢は憮然として答える。
「私に愛を注ぐ仕事だよ。世界中で遊丸にしかできない仕事なんだから」
「それにいちおう、音楽もやってる」
「音楽の方は、具体的にどんな活動を?」
「別に。ギターの練習したり、詩を書いてるだけだよ、今は……」
要するに乃野矢のヒモだが、口には出さないでおく。
と思ったら義吟が「え~、それってヒモじゃないですか!」と笑った。
「そんな云い方しないでくれる? 私達はこの関係に満足しているの」
「きっと遊丸さんも外出しないんですよね。貴女がそれを禁じているせいで」
「だから、そんな云い方しないで。遊丸は望んでそうしてるの。私の傍にいるために」
遊丸は黙っている。自分の飼い主には頭が上がらないと見える。
「此処が私と遊丸の世界のすべてなの。二人だけの、愛に満たされた世界」
「なるほど。必要なものは通販や宅配で賄っているのでしょう。ただし、二か月前からひとつだけ例外が生まれましたね? それが〈もんぜるっぜ〉です」
店に並んで買う以外には入手できない流行りのスイーツ。
買ったその日に食べなければならず、買い溜めておくこともできない。
「評判を目にした貴女は、どうしても食べたくなった。だからこれを買うためにだけ、遊丸さんの外出を許可したんです。毎週土曜日――推測するに、入稿の日ではないですか?」
乃野矢と遊丸が揃って驚いた顔になる。
週刊連載を持つ乃野矢リサ。その週のご褒美というわけだ。
「貴女が原稿を描き上げると、遊丸さんは家を出る。そして三時間しないうちに〈もんぜるっぜ〉をふたつ買って帰る。しかし、貴方はあるとき気付いてしまった。きっと原稿の描き上がりが遅かった日でしょう。遊丸さんが買ってきた〈もんぜるっぜ〉が、いつもより冷めていたんです」
遊丸が唾を飲んで、横目で乃野矢を窺う。乃野矢は険しい顔で俺を見ている。
俺が少し間をおくと、義吟が「央くん、よく分からないです」と眉根を寄せた。
「お昼でも夕方でも、〈もんぜるっぜ〉はでき立てが買えるのですよ?」
「だが昼に買っていたら、夕方には冷める。当たり前の話だ」
「あっ! もしかして――買っていたのは未余子ちゃんってことですか!」
俺は頷いて、乃野矢に向かって続ける。
「貴方は疑っていた、いや、恐れていたはずです。そもそも、貴方が遊丸さんの外出を禁じている理由もそこですからね。つまり、遊丸さんの浮気です」
乃野矢は唇を一の字に結んで、小さく震えている。
それが次の瞬間、限界を迎えた。
「遊丸!」
勢い良く立ち上がって、涙の溜まった目で彼を睨む。
「どうして浮気したの!」
「リ――リサ! ぼ、ぼくは――その――」
「どうして私を裏切ったんだよお!」
狼狽える遊丸に乃野矢が飛び掛かった。派手な音を立てて、二人は椅子ごと床に倒れる。遊丸のうめき声。「わあ、修羅場です!」と云う義吟の嬉しそうな声。
「あり得ないんだけど! 本当にあり得ないんだけど!」
乃野矢は馬乗りになって、遊丸のジャケットを両手で掴み上下に揺さぶる。彼は後頭部を床にゴンゴンぶつけて「いだっ、だっ、いだっ、いだいっ」とリズミカルに叫ぶ。
「私のこと好きじゃないの? 愛してないの?」
「愛してるよっ、ぼくにはリサだけっ」
「じゃあおかしくない? おかしいよね? すっごいおかしいよ。なんで他の女に手え出したの、ねえ? 私のこと愛してるなら、絶対そんなことしないよね? 絶対にさあ」
「ごめんっ、本当ごめんっ、リサ――ほんと、出来心でっ」
遊丸が浮気を認めたのは良かったが、これ以上続けられても困る。
俺は腰を浮かせて「一旦抑えてくださいよ」と宥める。しかし二人の耳には届かない。義吟が二人を引き剥がそうとしてはじめて、乃野矢が「触らないで!」と飛びのいた。
彼女は充血した両目から涙をぼろぼろ流して、スウェットの裾を両手で握っている。続けてなにか云いかけたが、結局は唇を噛み締め、近くのソファーに座り込んだ。
遊丸の方も泣き出しそうな顔で、床の上に伸びたまま起き上がろうとしない。
「それで央くん、どういうことなのですか?」
二人の間に立つ義吟が、気まずそうにもせず訊ねてきた。
「どうしてこちらのお二人の〈もんぜるっぜ〉を、未余子ちゃんが買っていたのです?」
「浮気の時間をつくるためだよ。先に〈もんぜるっぜ〉を買っておけば、その二、三時間をデートに使えるだろ?」
「ああっ、なるほど!」
遊丸が部屋を出る時刻は、その週の乃野矢が何時に原稿を描き上げるかによる。もしかしたら昼ごろになるかも知れない。だから未余子は毎週、開店前から並ぶようにしていた。
「出逢ったのは、四月二十五日ですね。遊丸さんは三度目、未余子ちゃんははじめて〈えんぜるはあぷ〉にやって来て、二人の並び順は前と後ろでした。そこで遊丸さんが彼女を口説いたのでしょう。時間はたっぷりとありました」
「なんでそんなことまで分かるんだ、きみは……」
遊丸が上体を起こした。すっかり情けない表情となっている。
「探偵ですからね。当然、貴方が考えていたことも分かりますよ。長い間この部屋に閉じ込められて、きっと遊びたかったことでしょう」
乃野矢からの鋭い視線を感じるが、見ないようにする。
「そこで、例外的に外出が許可されるこの時間を活用したいと思ったわけです。貴方は未余子ちゃんと次に会う約束まで取り付けました。〈もんぜるっぜ〉を二つ買っておいてくれればデートできると、そう云ったんですね。そして一週間に一度の逢引を重ねるようになりました。毎回、未余子ちゃんの部屋で会っていたんですか?」
「な、なんでもいいだろ、そんなの……」
口ごもる遊丸を、義吟が「うわ~」と声を上げながら覗き込む。
「不潔です~。超不潔です~。未成年相手に、それって犯罪じゃないですか~?」
ぱあん! 風船が破裂する音が響いた。
乃野矢がソファーの肘掛けに括りつけていたそれを握り潰したようだ。
「たしかにデートの内容は聞かなくてもいいですが……六月六日の流れは教えてほしいですね。何時にこの部屋を出て、それからどうしたんですか?」
「出たのは一時半……もう少し後かな。みよ――百世さんのアパートに行った」
「事前に電話なんかもせずに、そのまま向かったんですね?」
「そうだよ。何時になるか分からないけど、部屋で待っててくれって、前の週に話しておいたから……行くのははじめてじゃなかったし」
ぱあん! また風船が破裂した。遊丸がびくうと跳ね上がる。
「着いたのは、十四時を回ったころでしょう。未余子ちゃんの部屋の玄関扉は開いていて、そこで貴方は彼女の死体を発見した。そうですね?」
吐き気を催したのか、口に手を当てて遊丸は首肯する。
「しかし貴方は通報できなかった。通報すれば、浮気のことを乃野矢さんに知られるのは避けられないからです。貴方は大人しく、死体の傍にあった〈もんぜるっぜ〉を持って帰るしかなかった。二時間ほど時間を潰して、いつもどおり〈えんぜるはあぷ〉に並んでそれを買ってきただけ、というふうを装ったんです」
すべてを暴かれ、こうべを垂れる遊丸。まあ同情の余地はない。
「ということは央くん、え~と、難しいのですけど、」
義吟が一生懸命に考えている。
「遊丸さんが未余子ちゃんの部屋に来たのは丁度、宇久ちゃんが未余子ちゃんのアパートの下で救急車を呼んだりしてたときってことですか?」
「そうなるね。まず宇久ちゃんが死体を発見して逃げ出して、次に遊丸さんが死体を発見して〈もんぜるっぜ〉を持ち去って、それから宇久ちゃんがまた戻ってきたんだ」
「では、誰が未余子ちゃんを殺したのでしょう……」
「ああ。それについては乃野矢さん――貴女に話を聞かせてもらいますよ」
乃野矢は手近なティッシュ箱から三、四枚抜き取って鼻をかむと、この短時間で腫れた目に敵意をこめて俺を睨んだ。
「云っておくけど、私が殺したんじゃないから」
「そうでしょうね。遊丸さんが部屋を出てから先回りして犯行に及ぶことは難しい。それに貴女にとってはその日、二人が未余子ちゃんの部屋で会うつもりかどうかも確証がない状態です。それでも貴女は、犯人を知っているはずです」
義吟も遊丸も乃野矢に注目する。彼女は俺と睨み合いを続ける。
「遊丸さんの浮気を疑った貴女は、その調査を誰かに依頼しましたね?」
「……殺してとは頼まなかった。こんなはずじゃなかった」
「分かります。貴女を糾弾するつもりはありません。俺はその誰かに用があるんです」
乃野矢はしばし沈黙して、また「うわああああん」と泣き出した。
この一週間、ひとりで抱え続けてきたものが、溢れて止まらなくなったみたいだ。
「俺がその誰かと話ができるよう、今から連絡してくれますか?」
俺の問い掛けに、彼女はこくりこくりと頷いた。