5「貴方だけはどうか無知なまま」
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衣服を一度すべて脱いで絞ってから着ても、びしょ濡れなことに変わりはない。夜なのは幸いだった。川岸は真っ暗闇のため、人目につく心配はなかった。
寒いし身体のあちこちが痛いけれど、まあ橋の上から川に投げ落とされたのに命があっただけで御の字だろう。コムラが『あんたに危害を加えるのは禁止されてる』とか云っていたのはなんだったんだ?
風呂に入りたいが、そうもいかない。キャンピングカーごと義吟が攫われた。
奴らの目的は、はじめから義吟だったのだろうか。義吟が追ってこなかった場合には、銭湯の駐車場で別の〈悪魔のイケニエ〉が彼女を攫う手筈だったのかも知れない。
堤防をよじ登ったところで、携帯の着信音が鳴った。相手の表示は非通知。
『央! いま、出られる状況?』
「だから出てる。お前の方は無事か?」
『だから掛けてるわ』
亜愛だ。公衆電話から掛けてきたのだろう。良かった。
俺はなにがあったのか説明した。
『どうするの? 警察に通報する? ナンバーは分かるし』
「いや……キャンピングカーは適当なところで捨てて、車を替えただろう。警察に色々訊かれるだけ、俺達の時間の方が無駄になる」
『なら、どうやって探すのよ』
「そうだな……」
茜条斎支部というコムラの発言を信じるなら、奴らの拠点は茜条斎にあるかも知れない。しかし、茜条斎にある建物を全部回っていたら何週間かかるか分からない。
『私の交霊を試す? 上手くいくか、分からないけれど……』
「ああ……とりあえず合流しよう。銭湯の近くだよな?」
亜愛との通話を終え、俺は道路沿いに立ってタクシーが通るのを待つ。こんな格好で乗せてもらえるだろうか。そうしながら、携帯で〈ヘルメス〉を開く。
手掛かり……これが手掛かりなのか、分からないが、もう訊くしかない。
違ったら、違ったでいいのだ。いや、それでは義吟を探せないのだけれど……。
鉛友餌とのトーク画面。通話ボタンをタップすれば、電話が掛かる。
最初に疑ったのは、巻乃木真月の本名が奈田綾瀬と分かったときだ。ホテル〈オケアの巣〉の事件……〈死霊のハラワタ〉の、しかも仇鳴が関わっているというだけで驚くべき偶然なのに、さらに〈悪魔のイケニエ〉まで関係していた。
それは本当に偶然か?
あれもまた俺を巻き込むように仕組まれた犯罪だったのなら、それができるのは友餌しかいない。俺をあの時間、あのホテルに導いたのは彼女だ。
俺はこの可能性から、目を逸らし続けてきた。だが、今は……
通話ボタンを押して、携帯を耳にあてる。コール音が続き、応答はない。
仕事中だろうか。それとも、やはり彼女が〈悪魔のイケニエ〉だから……?
一向に応答がないので、俺は一旦諦めた。『いきなりごめん。都合が良いときに折り返してください』とメッセージを送信する。
たぶん俺はまだ、彼女が無関係であってほしいと願ってしまっている。
程なくして、タクシーを拾うことができた。夜でよく見えなかっただけかも知れないが、何事もなく乗せてもらえた。
もとの銭湯まで戻ると、亜愛は駐車場で待っていた。彼女は俺が落とした手提げバッグを持っていて、財布や、前に着ていた衣服が入っていた。川に落ちた服よりマシなので、銭湯の中のトイレで着替えた。その際、水道水で顔と頭だけ洗った。
トイレから出たところで、〈ヘルメス〉の着信メロディが鳴った。タンタカタカタン、タンタンタン♪ HO♪ 友餌からの折り返しだ。
途端に心臓がバクバクと暴れ始める。
固唾を飲み、俺は応答ボタンをタップした。
「もしもし……」
『ぎゃはははははははは! 俺が誰だか分かるかよ?』
分からない。全然知らない男の声が喋っている。
思わず画面を見直したが、表示はたしかに友餌だ。
『鉛友餌を疑って電話してきたのか? だとしたら笑えるぜえ、荻尾くん』
「誰だ、お前」
『推理してみろよ。探偵だろ?』
悪戯? 友餌の知り合いか? ひどく下品な喋り方だが。
「友餌に代わってくれ。お前のことは知らない」
『どうして鉛友餌を疑った? ええ? ラブホに連れ込んだのが鉛友餌だからか?』
「お前、〈悪魔のイケニエ〉か!」
なら友餌はやはり――いや、それにしてはこの男の云っている内容は奇妙だ。
怒鳴ってしまったので、周りの視線が集まる。亜愛が怪訝そうな顔で近づいてくる。
『考え直せよ、荻尾くん。他に誰か、きみがあのホテルに行くようにできた人間がいねえか?』
行くようにできた人間?
あっ。ようやく思い至る。この声――喋り方が違うせいで気付けなかった。
「韋吹か?」
『正解! いつも一緒に飲んでやってるのによお、鉛友餌のことしか見えてねえのな』
ミヤと同じだ。〈悪魔のイケニエ〉には催眠術を使える奴がいる。酒に酔った状態はトランス状態に等しい。俺と友餌が〈オケアの巣〉に行ったのは、〈FURFUR〉を出る前にこいつが催眠術を掛けていたのか!
自分を呪う。俺は友餌ばかりを疑って、ずっと無駄な煩悶を――なんて間抜けだ!
『じゃあ第二問だぜ。どうして俺は、鉛友餌の携帯で通話してるのでしょうか?』
「おい……友餌になにかしたのか?」
『だから、それが問題なんだって。ヒントが欲しいか?』
電話越しに「きゃあ!」という悲鳴が聞こえた。友餌の悲鳴だ。
「なにしてる! どうするつもりだ、お前!」
『答えるのはきみなんだって。何回云わせんだよ。荻尾くん、そんなに馬鹿――』
「人質か? 俺に対する」
『正解! いいねえ、頭が冴えてきたか?』
「其処はどこだ。通報はしない。俺だけで行く」
『ふーん? ところが、それが第三問なんだなあ。此処はどこでしょうか?』
「お前らの拠点か? それか友餌の家?」
『ヒントは無しだぜ。まあ頑張れ。義吟ちゃんに鉛友餌を殺させたくはねえだろ?』
その言葉に、絶句する。気が遠くなりかける。
『ぎゃはははははははは! デッデッデッデ、デッデッデッデ、デッデッデッデ、UH~~~~~? 義吟、開きます――ってなあ!』
通話が切られた。俺は頭の中が沸騰しそうだ。亜愛が「央、今の電話」と話し掛けてくる。心配そうな表情。彼女がいてくれて良かった。ぎりぎり発狂しないでいられる。
「亜愛には、友餌さんのことは話してなかったな」
「友餌さん? 央が最近、飲みに行っている人のこと?」
「そうだ。ああ、大丈夫……それより急ごう」
銭湯の出口に向かって歩き出す。亜愛が隣をついてくる。
「どこに行くのよ」
「そうか……まずは電話しないとな」
「央、落ち着いて。焦るのは分かるけど」
「ごめん。たしかに落ち着きはないが、思考は回転しているんだ」
本当に、怖いくらいだ。一気に色々なことが繋がっていく。
携帯の電話帳から、すぐにその名前を見つける。相手はすぐに応答した。
『へい。どうしたのー』
「犬屋、きみも〈悪魔のイケニエ〉だろ」
『それはどういう冗談?』
「当てずっぽうじゃない。韋吹が〈悪魔のイケニエ〉なら、あの店に俺が這入ったのも偶然なわけがないんだ。同じことだよ。あの日、戴天京に来たばかりの俺が会った人間はきみしかいない」
犬屋と話しているうちに、俺は眠ってしまった。眠る直前の記憶は曖昧だ。あのときに催眠術を掛けられていたのだろう。夜、俺がひとりで〈FURFUR〉に這入るように。
「この俺が二度も催眠に操られるなんて。屈辱だな」
『んー。荻尾さん、直接会って話そうか』
「そんな時間はない」
『じゃあ電話切っちゃうよ?』
「どうして会わないといけないんだよ」
『近くにいるんだ。其処から戴天京タワーが見えるでしょ?』
丁度、銭湯の外に出た。たしかに、戴天京を象徴する電波塔が見えている。
『戴天京タワーの入口前で待ってるよ』
こいつも勝手に通話を切る。掛け直しても出ないだろう。
叫び声を上げたいのを、全身に力を入れて、どうにか抑え込む。
「央……」
亜愛は隣から、俺を悲しそうに見詰めていた。




