6「真っ赤な因果の伽藍堂」
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目的の霊が交信に応じるとは限らない。しかし既に九人が殺害されている連続殺人であれば、そのうち誰かは可能かも知れない。
翠より、改めて被害者達について詳しい説明がされた。そこで俺達は、あの〈もんぜるっぜ〉の事件で殺害された百世未余子が含まれていることを知る。写真を見るとたしかに、刃物でめった刺しにされた死体の周囲には禍々しい悪魔崇拝の痕跡があった。
さらに未余子には、〈死霊のハラワタ〉が秘密裏に調合した媚薬を持ち出していた疑いがあると云う。そこには例の巻乃木真月が関係していたらしい。巻乃木がミヤ達に売っていたのも同じ媚薬だ。
媚薬の詳細は伏せられたが、ただの交霊に媚薬など必要ないから秘儀絡みだろう。多くの儀式や魔術の行使には、呪文やまじない、媚薬、護符が使用される。それが一部、〈死霊のハラワタ〉会員と〈悪魔のイケニエ〉構成員との間で取引されていた。そして、それに関わった会員がいずれも悪魔的儀式を模して殺害されているというわけだ。
会員はいずれも西戴天京支部に所属しているため、これは仇鳴の失態となる。おそらく仇鳴は、本件を別の支部や本部に報告していない。だから霊媒を借りることができずに、俺達に依頼したのだ。
説明が終わると、俺達は羽衣の生活領域にある交霊用の一室に案内された。
亜愛の希望で、まずは彼女だけが入室して精神統一をおこなった。久方ぶりに支配霊と対話するため、俺の催眠誘導に頼らず、ひとりでやりたいとのことだった。
廊下で待つ間に、翠が他の会員を連れてきた。男性と女性それぞれ三名ずつ。みな事情を知る者達で、交霊会の経験も豊富らしい。そのほかに仇鳴と翠はいいとして、羽衣も参加することになった。
「実のところ、天亜愛の映像は私の演技の良い参考となっているの。それを生で観られるのは嬉しいことです」
不真面目な参加者を交えた交霊は成功しない場合が多い。だが仇鳴曰く、こう見えて羽衣は交霊に対しては真剣なので、心配はいらないと云う。まあ、そうでなければ多くの心霊主義者の目を欺くことはできないだろう。
例によって義吟には、交霊を行うことが決まった時点でキャンピングカーに戻ってもらっている。「また私だけハブですか!」と不満そうだったけれど、仕方ない。
三十分ほど待つと亜愛から声が掛かり、俺達も部屋に這入った。
室内は薄暗い。三方の壁にあるガラスの角灯が仄かな赤色の明かりを放つだけだ。両端には棚や椅子やデスクが並び、中央には円卓が置かれている。
「参加者を追加させてもらったぞ、亜愛。みな交霊会の心得を持つメンバーだ」
「構わないわ」
会員達が亜愛に簡単な挨拶をする。精神統一の甲斐あって、亜愛には動じる様子がない。眼鏡を外して剥き出しとなった両目を、一人ひとりとしっかり合わせていた。その見せかけでなく超然とした様子は、〈死霊のハラワタ〉にいたころの彼女と重なった。
彼女の指示に従って、各人は配置についた。六名が男女交互となるように、中央のテーブルを囲んで円となる。奥の壁を背にした亜愛から時計回りに、俺、羽衣、仇鳴、翠、それから堂間という四十代の男性。彼は連続殺人で殺された女性の夫だと云う。他の五人は壁際の椅子に腰掛けて見学となった。
「これより交霊会を始めます。両隣の者と手を繋ぎ、視線はテーブルの上へ」
そのとおりにする。卓上にはなにも置かれておらず、ただ俺達の影が折り重なっている。
次に俺達は、ゆっくりと賛美歌を歌った。室内に反響する六人の歌声。雑念が消えて、各々の思念が交霊へと集中していく。
歌い終えたとき、場はすっかり厳粛な空気に満ち、交霊の舞台として整っていた。
「繋いでいた手を離し、そっとテーブルの上へ」
統一を終えた俺達にとって、その言葉には心地良い強制力めいたものがある。みなの掌は自然と、同期された動きでテーブルの上に置かれた。
「来て、阿利紗――」
針の穴に糸を通すみたく繊細に、亜愛がその名を呼ぶ。
阿利紗というのは、亜愛に馴染み深い支配霊だ。入神にもいくつかやり方があるが、亜愛は自分の支配霊に身体を預けて、他の霊魂との取り次ぎをさせる。この方が憑依霊と霊媒との調子が合わずに失敗することがなく、悪霊に付け込まれるリスクも抑えられる。
「――久しぶり、だね」
知らない声が、そう云った。亜愛の口から発せられたものとは分かるが、平常の彼女とは異なる低い声。低すぎる声だ。阿利紗か?
「――みなさん、嬉しいよ。こんなにお揃いで」
違和感を覚えた。阿利紗の声や喋り方は、こんなだっただろうか……?
交霊会において流れを乱すような動きは厳禁だ。俺は慎重に右隣の亜愛を見遣る。亜愛は目を閉じて、顔を伏せている。
「――私は待っていたの。私とあなた達がこうする時間を」
「お前は誰だね」と、仇鳴が問い掛けた。
「――ああ……話を進めて、謝りたいけど。難しいからね」
おかしい。応答の感じがぎこちない。
そのとき、バチイッ――火花が散ったかと錯覚する、激しい叩音がした。
「――手は、テーブルの上に置いたまま。はじめてなの。物品引き寄せをするのは。こんな状態でね。ねえ、私は上手に喋れている?」
「きみ――亜愛の身体を使っているのは、阿利紗じゃないな?」
「――嬉しい。見ていたの。少し、待って。まだ充分に掴めていなくて」
会話が成立していない。そのくせ饒舌だ。陰気な声音だが、えらく興奮しているみたいな調子で話している。バチバチバチッ! どこからともなく響く叩音が、激しさを増す。
俺はなにか、得体の知れない危険を直感した。このまま進行させてはいけないような……。
コト――と、今度は叩音ではない。テーブルの脚が床を叩いた。無論、俺達は全員がテーブルの上に両手を乗せていて、持ち上げてなどいない。
「――こうじゃないね。こうじゃない。本当に難しいことなの、これは」
直後、破裂音だ。羽衣と峻嶺が立っている方向からの明かりが消えた。角灯が破裂したのだ。やはり――まずい。まずいが、なにかアクションを起こそうと思った途端に、頭の奥に金属質な痛みが奔った。
「頭が――痛いわ!」
俺だけではない。翠が小さく叫んだ。堂間も苦しそうにうめいている。「なにをしているの、天亜愛!」と羽衣の声が続く。仇鳴が「落ち着きたまえ!」とたしなめる。
「――手を離さないで。懐かしいことを思い出しているの。それがいい。私はひとりで、縄跳びをして待っていた」
ゴンゴンゴンゴンゴン! テーブルだけでなく、棚やデスクまで振動し、壁を叩いているようだ。壁際の見学者達がざわめき立つ。角灯が放つ赤い明かりは明滅を始め、室内の印影が膨張と収縮を繰り返しながら揺らめいている。次にはまた角灯のひとつが破裂する。複数の悲鳴が聞こえる。
「荻尾、亜愛を止めるのだ!」
云われなくても分かっている。しかし身体が金縛りにあっている。手がテーブルの上から離れない。ぴたりと同化している。思考が上手く働かない。交霊会を行うという意思に、強制的に引きつけられるかのようだ。
「亜愛、お前――」
辛うじて、言葉を吐いた。目の前でテーブルが宙に浮いた。直後、最後の角灯が割れて室内の一切が暗闇に鎖された。
「なに、なに!」
「どうなっているの!」
「う、ぐああ!」
冷静さは失われた。こんなことはまったく予期していなかった。身体が動かない。自分の生命力みたいなものが吸い取られていく。みなのそれが集中し、暴発しようとしているのか、テーブルが宙に浮いたまま痙攣しているのが分かる。
「――いつまでも帰ってこなかった。初めて、二重跳びを十回も跳べたから、報告したかったのに。ずっと気になっていた。後になってから。学校でテストがあるから練習してたのに。テストは受けられなかった。学校に行けなくなったから。後悔してるつもりはなかった。思い出すこともなかった。それなのに」
頭が破裂しそうな痛みのなかで、その脅迫的な独白が反響している。ふと、それは俺が知っている声なのではないかという疑いが起こった。先ほどまでは知らないとばかり思っていたが、どこか条理を越えた思いつきに打たれたようだった。
騒々しい音が鳴っている。地面が揺れている? なにも見えない。怒鳴り声や絶叫に混じって、何者か分からない声は続いているけれど、もはやなにを云っているのか聞き取れない。
誰だ。きみは一体、誰なんだ――
その瞬間、全身に電流が駆け巡るような壮絶な体感と、そしてなにかが砕け散る音。身体が弾かれた。上と下が分からなくなるような、ひと刹那の浮遊感に包まれた。
「きゃああああああああああああッ!」
耳を劈かんばかりの叫び声。俺は床に尻餅をついた。両手は自由だ。身体が目に見えないなにかに縛られているような感覚は消えているが、全身を重苦しい倦怠感が支配している。それに、船酔いしたときのような気分と吐き気。いや、本当に揺れているのだ。
「み、みなさま――無事ですか! 這入ってもよろしいですか!」
峻嶺の声がする。部屋の外からだ。「這入りなさい!」と羽衣の声が答える。すると暗闇の中に光源が現れた。廊下の照明ではなく、峻嶺が持つ懐中電灯だ。
照らされた部屋の中央ではテーブルが真っ二つに裂け、そこに亜愛が倒れ込んでいる。
「亜愛!」
その肩に腕を回して抱き起こす。亜愛はうめきながら目を開く。見たところ怪我はないみたいだが、全身にじっとりと汗をかいていて、額には前髪が幾筋か貼り付いている。
すぐ近くでは翠が「仇鳴様、しっかりしてください!」なんて呼び掛けている。仇鳴もぐったりとしていて、翠が肩を貸している格好だ。
壁際にいた見学者達も床の上に蹲っている。ひとりは失神してしまったらしい。
「ど、どうなっているんですか? 地震?」
堂間は苦痛に表情を歪め、頭を抱えている。彼の云うとおり、建物はミシミシと嫌な音を立てながら、なおも揺れ続けている。
「みなさん、外に避難しましょう! こちらへ!」
峻嶺が呼び掛けた。移動できないほどの揺れではない。俺は半ば亜愛を背負うようにして立ち上がる。目の前が眩んで、また倒れそうになった。
自力で立てない者は他の者が支えるなり背負うなりして、みなで部屋を出る。廊下でも照明が消えており、遠くの常夜灯がその周囲を蒼白く浮き上がらせているばかりだ。
「亜愛、大丈夫か」
「……平気、よ。力が入らないだけ」
つらそうだが、正確に応答できている。憑依していた正体不明の霊は去ったのだろうか。
そこで、揺れが急激に強まった。咄嗟に両足を広げて踏ん張りつつ、壁に手を着いてバランスを保つ。これは地震なのか? こんなタイミングで? あるいは、ポルターガイスト……これも交霊に起因する現象かも知れない。
「え? 仇鳴様――どういう意味ですの?」
翠の怪訝そうな声が聞こえる。それは「仇鳴様!」と続く。振り返ると丁度、峻嶺も懐中電灯の先をそちらへ向ける。大きな揺れが収まっていないのに、仇鳴がひとりで、足早に歩いていくところだ。翠は追い縋ろうとして、バランスを崩し転倒した。
「仇鳴様、出口はそちらではありません!」
峻嶺も云うが、仇鳴は足を止めず、暗闇に飲み込まれていく。耳元で亜愛の声がする。
「彼を追って……行かせたら、駄目だわ……」
「俺達も外に出ないと――」
「すぐに、追いかけるの。間に合わなく、なる……」
亜愛は荒い息遣いの狭間で、懸命に言葉を紡いでいる。どうしても伝えなくてはならないことなのだと、その様子から理解させられる。
「……分かった。俺が追うから、亜愛はみんなと先に避難していろ」
「私も行く」
「無茶だ。お前、ひどい熱だぞ」
「お願い……仇鳴が、向かう先には、都真子が、いるわ……」
その意味するところが分かったわけではない。だが俺はハッとさせられた。
揺れが弱まりつつある。翠が壁に手を着いて立ち上がり、俺達の方に振り向く。
「わたくしも行きます。仇鳴様は、呼ばれてる――と云っていましたわ」
呼ばれてる? それは、都真子に……?
「俊嶺さんは、他のみなさんを外にお連れしてくれるかしら?」
「承知しました。荻尾様、奥に行かれるなら、これを」
峻嶺から懐中電灯を手渡された。周りでは他の参加者が床に蹲るか壁に凭れるかして、頭や胸を押さえている。みなで仇鳴を追いかけるわけにはいかない。
「……外に出たら、助けを寄越してくれますか。灯りと一緒に」
「もちろんです。どうかお気を付けてください」
俺達は仇鳴が進んでいった方向へと歩き出した。仇鳴の後ろ姿は、懐中電灯で照らした先にまだ見えている。フラフラと、夢遊病者のような足取りだ。
もっとも、俺とて同じである。全身に痺れが残っているし、過度な運動をした後みたいに消耗している。なにが起きたのか不明だが、交霊中に体力を根こそぎ持っていかれたのだ。小さな揺れも続いており、亜愛を翠に預けて俺だけ走るというのはできそうにない。
翠の方はと思って見れば、彼女は片足を引きずるようにしながら歩いている。
「翠さん、足を痛めたんですか」
「転んだときに。ですが、わたくしには構わないで――あっ」
前方に見えていた仇鳴の姿が消えた。いや、角を曲がったのだろう。
「央、急いで。見失うわ……」
熱を帯びた息が耳元に掛かった。俺は可能な限り、歩調を早める。曲がり角まで辿り着き、懐中電灯で照らすと再び仇鳴の姿が直線上に現れた。距離は前より縮まっている。
「仇鳴!」と怒鳴ったが、奴に振り向こうとする様子はない。
「あそこはT字路です。左に行くと、都真子様がいる区画に……」
翠が云ったとおり、仇鳴は左へと曲がった。たしかに、俺達が一度通った順路を引き返しているようだ。しかし、なぜ都真子のもとに向かう? 心配して、ではないだろう。霊媒として潰れてしまった都真子に、仇鳴はもはや価値を見出していないはずだ。
俺達もT字路までやって来た。遠くに常夜灯とは違う、白い明かりが見える。あれは奇峰だ。羽衣の生活領域と都真子のそれとを隔てる扉の前に立っている。扉は開いており、まさに仇鳴がくぐって行くところだ。
「奇峰さん、仇鳴様を!」
「仇鳴を引き留めてくれ!」
しかし奇峰は、聞こえているはずなのに動こうとしない。扉が閉じてしまう。
「仇鳴は都真子のところに行こうとしているんだ。追ってくれ!」
「申し訳ありませんが、なりません!」
両手を口元に添えて答える奇峰。
「どうして!」
「仇鳴様より命じられました。仇鳴様はこの支部の責任者です!」
融通の利かない奴だ。館内が暗闇に支配され不気味な振動を続けている状況下で、出口のない奥へと進んでいく仇鳴をおかしいと思わないのか?
扉のところまで来ても、奇峰は依然として携帯のライトを俺達に向けて突っ立っているだけだ。不安げな表情こそ浮かべているが、仇鳴の指示が絶対なのだろう。
「わたくしが開けるぶんには、貴女は止めないでしょうね?」
「はい……」
翠が壁に取り付けられた端末に、自分のカードキーを通した。扉が開かれる。仇鳴の姿は見えないけれど、都真子の部屋に向かえばいいはずだ。
「そこを右だったな」
「央、急がないと……」
常夜灯も見当たらない真っ暗闇のなか、懐中電灯の明かりだけが頼りだ。通路の輪郭を見定めて進む。仇鳴はライトを持っていないのに、立ち往生していないのか?
いつしか揺れは断続的で、かなり弱いものとなっている。翠が「仇鳴様!」と繰り返し呼び掛けるが、コンクリートの壁に虚しく反響するばかりだ。そうしているうちに、都真子の部屋の前まで到着した。
扉は開きっぱなしになっている。仇鳴が開けたのだろう。室内を照らして、俺は息を呑んだ。簡易ベッドに腰掛けている都真子と目が合ったためだ。
この異常事態に気付いているのか、いないのか。その虚ろな瞳は懐中電灯の明かりを直接受けても、眩しそうに細められることすらしない。
仇鳴はなぜか、そんな都真子の足元にうつ伏せで倒れている。翠が駆け寄って身体を揺すったが、反応はない。翠は驚愕に目を見開いて、俺達の方に顔を向けた。
「死んでいます」
「え?」
予想外の言葉に、一瞬、思考が停止した。
「……本当に?」
俺も仇鳴の傍まで行って、床に膝を着く。半信半疑のまま仇鳴の顔を照らすと、それは見たこともない――白目を剥いて、舌を垂らした、だらしない顔となっていた。さらには、その首に紐状のものがきつく食い込んだ痕が、何重にも残っているではないか。
手首を掴んで脈を取ろうとしても、そこには微かな脈動も認められない。
「遅かったのね……」
亜愛が呟いた。彼女は扉のふちに凭れるようにして立ち、仇鳴を見下ろしている。それから彼女が指差した先を見ると、奇妙なものが落ちていた。
縄跳びのロープだ。どこでも売っている、なんの変哲もないような。
これで、仇鳴を絞殺したのか?
そして、それをやったのは……
俺は都真子を見上げる。椅子の上にじっと座って動かない。髪の隙間から覗く左目は、なにもない宙空に固定されたままだ。しかし、その表情は先ほど見たときと違っていた。
「ひい!」
声を上げたのは翠だ。彼女も気付いたのだろう。俺も背筋を冷たい感覚が奔り抜けた。
都真子の唇。その両端が、いま確かに、吊り上がっている。
暗闇の中で、彼女は静かに笑っていた。




