5「世に零れ落ちる砂のひと粒」
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猿轡を嵌められて、手足をロープで縛られて、床の上に転がされていた。
少し離れたところで、友餌も同じようにされていた。猿轡のせいで会話はできないが、彼女に怪我はないみたいだった。本当に良かった。
壁にかかった時計によれば、時刻は十一時半。おそらく昼だろう。場所は変わらず六一〇号室と思われる。浴室の戸が開いていて、臭気が漂ってくる。死体もそのままなのだ。
頭痛がして気分もひどく悪いものの、酔いは醒めている。
俺は落ち着いて、ゆっくりと思い出していった。
案内された部屋で待ち受けていた死体。泥酔状態にありながらも、俺はハメられたと直感した。だから通報せず、慎重に情報を集めようとしたのだが、駄目だった。
しかし、これはどういう状況だろう。大男に殴られて気絶したのが最後の記憶だけれど、七時間以上経っても俺達は警察に突き出されてはおらず、こんなふうに拘束されている。
このラブホテル自体がなにか、キナ臭いようだ。
時刻は十二時を回った。喉が渇いたと思っていると、部屋の錠が開く音がして、続いて扉が開く音、足音が続き、視界に現れたのは俺を殴った黒スーツの大男だ。
「仇鳴さん、奈田を殺ったのはこいつらですよ」
低い声が告げたその名前に、俺は驚く。
首を動かして見れば、大男の後から這入ってきたのは俺の知る男だった。
「おや? お前――荻尾じゃないか?」
手を後ろで組んだまま、上体を折って覗き込んでくる。忘れるわけがない、神経質な性格がよく表れた色白の顔。おかっぱ頭にふちなし眼鏡。ニットのセーターにスラックス。
「荻尾だろう? おい幹節、猿轡を外したまえ」
大男が屈みこんで、俺の口に嵌められていた猿轡を手荒く外した。
「仇鳴……どうしてあんたが此処にいるんだ」
「茜条斎は私の管轄だよ。荻尾――何年ぶりだろうな? 亜愛は元気にしているか?」
俺は答えない。この男がその問いを口にすることへの怒りから、言葉が出なかった。
仇鳴誘善。かつて〈死霊のハラワタ〉で、亜愛を玩具にした連中のひとり。
そうか。こいつが関わっているなら、これは絶対にろくなことじゃない。
「そっちは誰だ? お前の新しい女か?」
目線で友餌を指す仇鳴。彼女は猿轡を嵌められたまま、怯えた目で仇鳴を見上げている。
「彼女は関係ない。巻き込まれただけだ。俺だってそうだぞ」
「ふむ。なにを云っているのか分からんが、興味は出てきたよ」
仇鳴は俺の頭上を通過して、勿体つけるかのようにゆっくりと、大股歩きで浴室へ向かっていった。変わっていない。俺は虫唾が走って仕方がない。
「なんだねこれは。嘆かわしいな。顔が分からないじゃないか」
呟きの後、耳障りなその声がまた近づいてくる。
「荻尾、お前も勉強したはずだぞ。殺人ほど愚かな行為はない。殺した側も殺された側も、その霊の混乱は計り知れない。特に殺した側は来世、場合によってはその先の先まで、進歩の可能性が鎖される。あるいは、離反者であるお前ではこの法も理解できないか?」
「勘違いするな。俺は殺してない」
「殺してない? なるほど、そうきたか」
ベッドに腰を下ろして足を組み、その膝の上に両手を重ねる仇鳴。
「だが、それは苦しい云い訳じゃないか? この部屋に侵入しておいて」
「俺が犯人だったとしたら、こんなふうに捕まると思うか? 部屋に人を呼んだりしないで、殺したら黙って立ち去るはずだろう」
「細かい経緯は知らんよ、私は。それでもお前のそれは、結果論に聞こえるな」
「情報が欲しい。俺はこの事件の真相を必ず推理でき――」
俺の頭に大きな掌が乗り、直後、床にめり込みそうなほど押しつけられる。堪らず「いだだだだだだ!」と叫ぶ。友餌が「んー! んー!」と声を上げている。上からは大男の声が「敬語が使えねえのか、お前は」と云う。
仇鳴はしばらく鑑賞してから、「やめたまえ、幹節」と白々しく眉をひそめた。
「私は乱暴なことが嫌いだ。乱暴なことには、進歩がないからな」
掌が俺の頭から離れた。頭蓋骨が変形した気がする。
「荻尾――私からすれば、お前が奈田綾瀬を殺害したというのは頷ける話だ。お前は私達を恨んでいるらしいからな。詳しく話すつもりがお前にないなら、そっちの女もいる。乱暴なことは嫌いだが、避けられない場合があるのも確かだ」
「本当に、本当に無意味だぞ」
「そんな顔をするな。敵意を向けられるのは健康に悪い。先ほど、推理と云ったな? お前が亜愛と探偵ごっこに興じているという話は、前に誰かから聞いた憶えがあるよ」
顎に片手をあてて、気障男は大男に「あれを」と指示する。
「仇鳴さん、あれとは?」
伝わってねえのかよ。
「お前に預けたあれだよ」
それで伝わったらしく、幹節は懐から取り出したものを仇鳴に手渡した。
「たしかに、お前が拘束されて地べたを這っているさまは解せないかも知れないな。一度だけチャンスをやろう。一度だけな。これがなにか分かるかね?」
仇鳴はいま受け取ったものを摘まんで、俺に見せる。
棒状の金属が折り曲げられて、複雑に絡み合った束――知恵の輪だ。
「これは三つの金属から成っている。お前からの質問に、私は三つまで答えよう。そして私がこの知恵の輪を解くまでの間であれば、お前の推理とやらを聞いてやろう」
「分かった。それでいい」
馬鹿馬鹿しいゲーム形式には付き合いたくないが、乗る以外に選択肢はない。
仇鳴の指示で、幹節は友餌のもとに移動した。そして友餌を跨ぐようにして立つ。友餌は顔を真っ蒼にして震えているが、俺はあえてそちらを意識しないようにする。
挑発に乗らず、冷静に、勝負に勝つ。そうでなくては友餌は救えない……。
「では、始めようか」
仇鳴は金属の束をカチャカチャと弄り始めた。俺も早速きり出す。
「ひとつ目の質問だが、どうしてあんたはこの六〇九号室を借りている?」
「借りているのではなく、買ったのだよ。去年、この部屋に泊まった客が自殺してから、その霊が出るという評判が立ってね。客室として使えなくなったところを、私達〈死霊のハラワタ〉が買い取ったのだ。交霊の他にも、色々と使えそうだろう?」
上手くいった。前提が誤っていれば正しく訂正のうえで、理由も答えるかも知れないという目論見。ひとつの質問から、できるだけ多くの情報を取らなければならない。
それから、『この六〇九号室』という部分は訂正されなかった。俺と友餌が這入った部屋は六一〇号室のはずだが、清掃員の宇摩も此処を六〇九号室と云っていた。
「二つ目の質問だ。どうしてあんたは奈田綾瀬を閉じ込めていた?」
「彼女にスパイの疑惑があったからだ。詳しく話を聞く必要があったが、彼女もなかなか強情でね。逃げられても困るから、この部屋を使った。丁度、持て余していたのだ」
今度もヤマが当たった。死体は手足をロープで縛られていた。あれは殺人犯以前に、仇鳴によってそうされていたのだろう。今の俺と友餌がそうであるように。
「三つ目の――」
「ひとつ、解けたぞ」
分離された金属が床に落とされた。友餌を跨いで立っている幹節が、片足をドタンと踏み鳴らす。友餌が「ん~~~!」と泣き声を上げる。
「三つ目の質問。この部屋を買ってから、部屋の鍵を変えてはいないな?」
「変えていないよ。常時、私が預かっているがね」
カチャカチャカチャカチャ……複雑に動かされる金属の束。きっともうすぐ完全に解かれる。当然、こいつは自分の得意分野で勝負を持ち掛けたに決まっている。
だが、俺の推理はもう完了した。
「俺をハメたのがあんたじゃなくて、本当に良かったよ。これが、勝ち目のある勝負で」
「ふむ。これから推定三分のうちに私を納得させられるかね?」
「充分だ」




