4「醒めと咀嚼、意味に至極」
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酔いが一気に冷める――なんて都合良くはいかないが、浮ついていた気分は吹き飛んだ。
まずは硬直してしまった友餌を洗面所から引き剥がし、ソファーに座らせた。俺が浴室に戻ろうとすると、「荻尾クン、荻尾クン」と不安そうに名前を呼ばれた。
「大丈夫。俺は探偵だからね、この状況で、一番頼りになる人間だよ」
彼女の両肩にそれぞれ手を乗せ、真正面から眉間を凝視する。息を吸って、俺がその手を彼女の手まで下ろしていくのに合わせて吐くように云う。
「緊張が身体の外へ抜けていくだろ? そういう方法なんだ。もう一度……吸って……俺の手の動きに合わせて、ゆっくりと吐く……緊張が抜けていく……もう一度……」
「あ、あれ……力が入らない……なにこれ……」
「緊張が抜けている証拠だよ。大丈夫。安心して。俺に任せて……」
酒に酔っている相手は催眠にかかりやすい。同じ手順を繰り返すことで、ひとまず友餌をリラックスさせることはできた。
俺はミスロペスと一緒に買ったミネラルウォーターを飲む。友餌にも同種のペットボトルを渡してから、浴室へと引き返す。もう一度、死体を確認しておきたい。
浴槽に入れられた女性。服は着たままだ。特徴のないカットソーとデニム。コンビニのビニール袋を被せられて、その中では頭が割れた果物みたくグチャグチャに変形している。両足首がロープで縛られており、両手も背中の後ろに回っているからおそらく同様だろう。
「前のお客さん、なのかな……?」
友餌がソファーから訊ねて、俺は「そうだね」と返す。
「男女のペアで……男が女を殺して、ひとりでチェックアウトしたってところかな」
他殺と見て間違いない。洗い場にはトンカチが落ちている。これが凶器だ。
「えーっと……俺達は錠を開けて、この部屋に這入ったよね? 前の客が出てから俺達が這入るまで、鍵はフロントで預かっていたことに――いや、違う。ちょっと待って」
やはり思考力が馬鹿みたいに低下している。
俺は浴室以外を確認した。トイレは蓋が閉じていて、トイレットペーパーが三角に折られている。洗面所には歯ブラシや櫛などのアメニティが未開封で揃っていて、タオルも乾いて畳まれている。ゴミ箱の中にゴミは入っていない。
「清掃だよ。前の客と俺達の間に清掃員が這入ったはずだ」
「あっ、そうだよね。掃除は……ちゃんとしてあるね……」
「そう。ベッドメイクもしてある。清掃員は浴室の死体に気付かなかったのか?」
「え、気付かないとおかしいよ。……そうだよね?」
自分の両腕を抱いて怯える友餌。人間にとって、理解不能は恐怖となる。
清掃員が死体のことを黙っていたのか……それとも清掃員が出た後、施錠された部屋に死体が這入ったのか……どうやって……なんのために……?
早くこの謎を解いて、友餌を安心させてあげたい。
まだなにか見落としていないだろうか。室内を見て回り、クローゼットを開けると、その中に小さなリュックが仕舞われていた。
「これは……前の客の忘れ物か?」
「ええ、やっぱり掃除――してなかったのかな?」
俺はハンカチを使って指紋が付かないようにしながら、中身を検める。
携帯、ブランドものの財布、なにかの鍵、イヤホン、化粧品、ハンドクリーム、ハンカチ、苺のグミ、それから書籍が一冊――アラン・カルデック『霊の書』の和訳版だ。どうしてこんなものが?
財布に入っていた健康保険証によると、持ち主は奈田綾瀬、二十二歳、女性。住所は茜条斎二丁目。殺された女性のものだろうか。自分の携帯を取り出してその名前をネットで検索するが、別段気になるものはヒットしない。
「荻尾クン、ホントに冷静だね」と、友餌が感心したように云う。
「いや――酔ってなければ、もっと冷静なんだけど……」
口に出した後で後悔する。これじゃあ格好悪い云い訳だ。
「次はフロントに電話するよ。死体のことは一旦伏せて、色々と訊いてみる」
俺は備え付けの電話機を探したが、しかし見つからなかった。もしかして電話機がないのか? そんなはずないと思うのだけれど……。
ないものは仕方ないので、俺はフロントに出向くことにした。友餌もついて来ると云う。死体と二人きりにできないので、その方がいい。
フロントでは先ほどと同じタキシードの男が暇そうに立っていた。俺はカウンターに肘をついて「すいませんね」と声を掛ける。
「部屋に電話がなかったんですけど、そういうものですか?」
「電話器でしたら、ベッド脇のテーブルにございます」
「あれ、そうですか? 見たんですけどね……」
腕を組んでいる友餌が、俺を見上げて「なかったよ」と主張する。俺もそう思うが、男は「ございますよ」と事務的に答えるのみだ。俺達が明らかに酔っぱらいなので、本気にしていないように見える。
「まあ、戻ったら見てみますよ。それよりも――苦情ってわけじゃないんですが、部屋の掃除って毎回してます?」
「はい、もちろん致しております。なにか不備等ございましたでしょうか」
「少しね。浴室の汚れが酷くて。あー……清掃員はひとりですか?」
「それは申し訳ございません。大変失礼いたしました」
男は丁重に頭を下げる。
「現在満室でございまして、別のお部屋をご案内することができないのですが……」
「それはいいですよ、別に。清掃員はひとりなんですか?」
「はい、本日はひとりで対応しております」
「じゃあ、そうですね……前のお客さんが出た時刻って分かります?」
「分かりますが、あのーお客様、よろしければ至急、清掃の者を向かわせますが」
「前のお客さんが出た時刻を――すいませんが、教えてもらえます?」
「えー……二時四十一分のご退室でした」
俺からは角度的に確認できないが、男は手元の台帳らしきものを見て答えた。
壁に掛かっている時計を見るに、現在時刻は三時五十分すぎ。俺達が入室したのは三時半ごろだろう。清掃の時間を考えると、空いたばかりだったらしい。
他に、この男に訊くことはあるだろうか。あるかも知れないが、思い浮かばない。
「……清掃員はひとりなんですね? その人に、部屋に来てもらえますか?」
「かしこまりました。すぐに向かわせますので、お部屋でお待ちください」
廊下を引き返して行くと、俺達の部屋の先――廊下の一番奥にある扉から、清掃員が出てきた。薄桃色の清掃服を着て、キャップを被っている。其処が控え室なのだろう。
「あっ……お部屋の掃除のことで受付に行かれたお客さんってえ……」
「俺達です」
「すんませんん。ご迷惑お掛けしてますう」
若い女だ。化粧はしておらず、垢抜けない顔である。道具一式を収めたカートを押しながら向かってきて、俺が部屋の扉を開けると「あらっ?」と声を洩らした。
「その部屋ですかあ?」
キョロキョロと辺りを見回している。
「そうだけど……どうしたの?」
「いえ、なんでもないですう。すんませんん」
ぺこぺこと頭を下げながら、部屋の中に這入ってくる。
そのまま浴室へ向かいそうなのを、俺は「待って」と引き留めた。
「えーっと、名前を教えてもらえる?」
「あたいのですか? 宇摩と云いますけど……」
「宇摩さん、浴室の掃除はしてくれたんだよね?」
「そのはずですけど、行き届いてなかったようで、すんません」
「あー……そのクローゼットは開けた?」
「開けると思いますよ。そのはずです」
「それなんだけど、俺達のリュックじゃなくて……前の客の荷物なんじゃないかな」
「はえ? 忘れ物ってことですか? 本当にすんません」
「責めてるわけじゃないんだ。なんと云うかー……流れを教えてくれる?」
「流れえ、ですか……?」
不思議そうにしつつも、宇摩は俺の質問に答えてくれた。
清掃員は、廊下の一番奥に位置する控え室で待機している。客がチェックアウトすると受付から連絡が入る。部屋に向かい、預かっているマスターキーを使って開錠し、清掃を行う。清掃を終えると施錠のうえ控え室に戻り、次の連絡まで待機する。
よっぽど汚れていない限り、清掃にかかる時間は二十五分ほど。ただし、普段は二人か三人で行うものらしい。宇摩は最近入ったばかりの新人で、さらにひとりでとなると四十分はかかるとの話だ。
「どうして今日はひとりなの?」
「来るはずだった先輩が無断欠勤したんです。酷いですよねえ。深夜はお客さんの出入りが少ないんで、なんとかなってますけど」
なにか――なにか引っかかるが、宇摩が怪しいのか? いや……分からない。気分が悪くなるばかりで、そろそろ立っているのが限界だ。本当に飲み過ぎた……。
「じゃあ、なんだっけ――浴室の掃除、頼んでいいかな」
「はい。失礼しまあす」
とにかく、死体を目にした瞬間の反応を見よう。宇摩がカートを押して行く。
ソファーの友餌が「荻尾クン」と名前を呼んで、目が合うと〈いいの?〉と口だけ動かした。俺は首を縦に振りつつ、宇摩の方を注視する。
「えっ?」
彼女は浴室の中を覗くと、唖然とした顔で振り向いた。
「なんですか、これ……?」
「きみが掃除したときには、なかった?」
「この人、死んでるんじゃないんですか……?」
「そうだよ。だからきみを呼んだんだけど」
「あ、あたいじゃなにもできませんてえ!」
道具一式を放り出して、こちらに駆けてくる宇摩。俺の横を通過して部屋の隅まで行くと、壁に背中をつけてズボンのポケットから携帯を取り出した。
「待って。電話は待ってくれ」
「えっ、なんでですか!」
なんでだろう? だが、電話はまずい。それだけが分かっている。
「あの死体は、きみが掃除したときには、なかったんだよね?」
「知りませんよ! あたい――この部屋の掃除なんてしてないですもん」
「あれっ、そうなの? さっき、掃除したって云ってなかった?」
「掃除はしてますよ。でもあたいじゃないです。だって、あたいは零時からのシフトですから! お客さん、それより前に這入ったでしょ?」
「えーっと……?」
噛み合っていない。なんだ? 急激に噛み合わなくなった。
しかし俺よりも宇摩の方が、そのとき、途方に暮れた表情を見せた。動転していたのが取り払われ、信じられないものを見るかのように。そのまま携帯を耳に当てる。
「多字原さん、すぐ、来てください。お願いします。六〇九号室のお客さんです。人が、殺されてるんです。……いえ、六〇九でした。六一〇だと思ったんですけど、六〇九に這入っていかれて……え? はい、お願いします。はい……」
多字原というのは受付の男か、他の従業員だろう。警察に通報したのではないようだ。
それならいいが、それよりも、引っ掛かることがあった。
「いま、六〇九って云わなかった? 此処が――」
「此処は六一〇だよ?」と友餌が云う。彼女はローテーブルの上に置いてある鍵を示した。六一〇と刷り込まれたキーホルダーがついている。そう、此処は六一〇……。
俺が一歩動いた途端、宇摩が「いやっ!」と悲鳴を上げた。
「来ないで! 来たら、叫びますよ」
「は?」
「大声出します。この建物にいる人、全員ここに来るくらい……」
彼女の顔に滲んでいるのは警戒と恐怖。そして俺は今更になって、俺が漠然と感じていた不安の正体を自覚した。死体を発見しても通報しなかった理由。通報がまずい理由。
「違う! 俺達は犯人じゃないぞ!」
「いっ、いやあ。やあ、いやあああ……」
宇摩はぶるぶる震えて、今にも泣き出さんばかりだ。疑われているのだ。俺と友餌が浴室の女性を殺したのだと。冗談じゃない。
友餌も「待ってよ!」と云って腰を浮かせた。両目を見開いて、切羽詰まった顔だ。
「荻尾クンもあたしも――部屋に来たら、いきなりあの死体があったんだよ?」
ああ、俺も焦りばかりが先に立つ。全然頭が回らない。こんなはずじゃないのに。
扉が勢い良く開けられる。
受付にいた男――おそらく多字原が、血相を変えて現れた。
「あんたら、此処でなにしてるんですか!」
「なにって――部屋に来ただけだよ、案内されたから!」
多字原は部屋の中を見回して、隅で縮こまっている宇摩に「此処にいた女は!」と怒鳴る。受付にいたときとは別人のように感情を露わにしている。
「お風呂です! お風呂です!」
「待ってくれ、全員落ち着いて!」
俺の主張は誰の耳にも入らない。多字原は浴室を覗き込んで「ああ! 馬鹿野郎!」なんて声を荒げる。宇摩は怯え続けているし、友餌は涙目で俺を見つめている。
なんとかしなくては。まず全員を冷静にさせないと。
催眠誘導は――できるか? 相手が興奮状態にあるとき、成功率は恐ろしく跳ね上がる場合とほとんど不可能となる場合に分かれる。俺はまず多字原に向かって行こうとするが、そこで再び扉が開く音がした。這入ってきたのは、黒いスーツを着た屈強そうな大男だ。
多字原が「なんなんだ、あんた達は」と問う。これは、俺と友餌に問うている。それよりも俺は、見るからに物騒な雰囲気をまとっている大男の方に気を取られている。
「多字原さん、こいつらですかい」
「ああ、幹節――眠らせろ!」
抵抗する隙も無い。大男の裏拳が俺のこめかみを強烈に打ち抜いた。
途絶える寸前に俺は思う。間違えたと。




