009 蒼谷市からの脱出
葛木宗家を抜け出した修吾と六華は、倉庫から引っ張り出した大型二輪に二人乗りして深夜の街中を走行していた。
この街――蒼谷市は北を山、南を海に挟まれた地形となっており、小山に聳える蒼谷城を中心に市街地・住宅地・工場地などが円環状に広がっている。
葛木家は街の至るところに監視術式を設置しているため、下手に動くと一瞬で察知されてしまうだろう。葛木の監視網を抜けるためにはまず蒼谷市から離れなければならない。
だが、修吾も葛木だ。術式の構造も位置も全て把握している。市内全域を網羅していても穴はあるため、監視に引っかからないように間隙を縫うことは容易かった。
周囲を警戒しつつ幹線道路や国道は避け、市の主要な建物には近づかず、なるべく目立たない裏道を通る。そうして葛木宗家からある程度離れ、『氷の街』方面に続く北のトンネル前へと辿り着いたのだが――
「……修吾、見張りがいるわ」
「流石に先回りされちゃったようだね」
物陰にバイクを止めて様子を窺う。修吾たちが氷の街へ向かうことは予測されているらしく、少なくない戦力がトンネル前に待機していた。夜とはいえ黒装束の集団が屯っていては目立ってしまうが、一般人が氷の街に近づかないよう通行禁止となっているため他の人影や車影はない。
「修吾と私なら強行突破できると思うわ」
「それはダメだ。こんな形になってしまったけれど、葛木家は僕の身内だからね。それに騒ぎを起こせばすぐ応援が駆けつけるよ」
「なら、どうするの? 直接山を越える?」
「いや、山越えは厳しいよ。正当なルート以外は強めの結界が張られているんだ。バイクを乗り捨てることになるしね」
ただでさえそこそこ距離があるのに、徒歩で山を越えながら向かうと余計に時間がかかってしまう。
「それより蒼谷市から抜ける方が先決かな。遠回りにはなるけれど、他のルートから氷の街に向かった方が早い」
「……わかった。修吾に任せるわ」
二人は葛木家に悟られないように引き返した。葛木宗家は西側にあるため、街の東側へと移動する。
「六華、あの話だけれど、詳しく聞かせてくれないかい?」
「……雹仙修羅の封印を解いた者のことかしら?」
バイクを操縦しながら修吾は首肯する。風を切る音が煩いが、ヘルメットに施してある術式のおかげで互いの声は鮮明に聞こえた。
「葛木家の誰かが雹仙修羅の封印を解き、街一つを氷漬けにした……本当かい?」
修吾は六華から伝えられた事実を復唱して問う。
「僕が言うのもなんだけれど、葛木家の人間が妖魔と手を組むことはないと思うよ」
にわかには信じられない話だ。その寛容さがあるならもっと簡単に六華を受け入れてくれただろう。
「なら、葛木家以外で雹仙修羅の封印を知っている者がいるのかしら?」
「それは……」
恐らく、いない。葛木家でさえ、宗家に保管されている文献を調べなければ知りようがない伝承だった。六華が葛木家の人間が怪しいと思うのも当然だ。
それに、修吾にも思い当たる節がないわけではない。
修吾を谷底に落とした、あの罠。そこに使われていた護符と、地下牢で六華に渡された妖魔を召喚したと思われる護符の紙片。それらは間違いなく葛木家で使われているものだった。もし葛木家の人間が雹仙修羅を匿っているとすれば、三ヵ月以上も見つけられなかったことにも納得がいく。
だが――
「僕はみんなを信じたい。だからその証明のためにも、やっぱり氷の街で雹仙修羅を見つける必要があるようだね」
「……修吾は仲間思いなのね。少し妬けそうよ」
「もちろん、六華のことも仲間だと思っているよ」
「あら? 恋人じゃないのかしら?」
「ハハハ、そうだったね」
恋人という実感があるかどうかはともかく、修吾が六華のことを特別に想っていることは間違いなかった。でなければ、身内を敵に回してまでこうして駆け落ち紛いの脱走を計ったりはしない。
「六華を守る。雹仙修羅は倒す。そして葛木家とも和解する」
「欲張りね。どれか一つを選ぶなら簡単よ?」
「それでも僕は全部を叶えるよ。大丈夫、できるさ。人間、やろうと思えばなんだってできるんだ。望まない因果は断ち切ってみせる」
もうすぐ東側の隣町との境目に差し掛かる。そこを抜ければ葛木家の監視は弱まるはずだ。その後はぐるりと回り込んで氷の街へと向かうことができる。
なにも邪魔が入らなければ。
「――はぁ、だるい。なんでウチが最初に見つけちゃうかな」
その気だるげな声は、修吾たちの進行方向から聞こえた。
修吾はバイクを急停止させる。一台の車も通っていない静かな夜の道路――その中央に、薙刀を握った金髪ツインテールの少女が立っていた。
廿楽希。
幼馴染で付き合いの長い彼女は、修吾の思考を読んで待ち伏せしていたのだろう。周囲には誰もいないし、潜伏している気配もない。彼女は一人のようだ。
「あーあ、こっち方面ならシューやん来ないと思ってサボってたのに……」
違った。ただサボっていただけだった。
「シューやん、引き返すなら今の内だし」
「断るよ。希こそ、そこをどいてくれないかい?」
薙刀を構える希。修吾はヘルメットを取ってバイクから降りるが、刀は抜かない。見つかってしまった以上衝突は免れないだろう。だが、強行突破は最終手段だ。
「修吾、足止めなら私が彼女の足を凍らせれば済むわ」
「いや、できれば六華にはどんな形でも葛木家の人間に手を出さないでもらいたい」
「……もどかしいわね」
六華は短く息を吐くと、バイクから降りて静かに数歩後ずさった。彼女に葛木家を攻撃させないことは和解するための絶対条件だ。そこを譲るわけにはいかない。
「引き返す気はないんだね、シューやん」
「うん、ごめんね。僕にはやらなければならないことがあるんだ」
希は目を細めて武器を構えもしない修吾を見据える。
「……」
「……」
数秒の沈黙。
そして――
「あーもう、わかったし! ぶっちゃけ、シューやんとそこの雪女をウチ一人で相手するとか無理ゲーすぎっしょ。通っていいよ」
希は薙刀を引いて両手を挙げ、降参のポーズを取った。その意外な行動に修吾は僅かに目を見開く。
「いいのかい?」
「シューやんだから言うけど、ウチ、陰陽師のだるい仕事とかやってらんないわけよ。やれ妖魔を倒せだとか、やれ廿楽家を継げだとか、そんなメンドーなことどうでもいいし」
やる気がないことは普段からあからさまに態度に出ていた希だが、こうして言葉として聞いたのは初めてだった。
「ウチはウチで好きに生きたいわけ。普通に女子高生してダチとワイワイ遊び倒したいわけ。葛木にも廿楽にも命懸けでシューやんと戦うほどの義理とかないし。見なかったことにするからさっさと行けば?」
そう言うと、希は道路の端に下がって塞いでいた道を開けてくれた。正面から戦っても勝てないから騙し討ち……というわけでもない様子だ。
彼女は本気で修吾たちを見逃すつもりのようだ。
「ありがとう、希。そうさせてもらうよ」
「いやいや、そぉーは問屋が卸してもオレが卸さねぇだろうが!」
刹那、修吾に向かって巨大な斧が回転しながら飛んできた。バックステップで修吾がそれをかわすと、戦斧はアスファルトを軽々と砕いて道路に突き刺さる。
「――京司か!」
修吾は戦斧が飛んできた方角に視線をやる。建物を飛び越えるようにして着地した青年――宇都山京司は、道路に刺さった戦斧を引き抜くと額に青筋を浮かべた表情で希を睨んだ。
「希ぃ、てめぇがやる気ねぇならそれでもいいぜ。うちの門下の仇と手柄はオレが全部貰うことにするからよぉ!」
「キョーやん……」
京司は戦斧を片手で軽々と持ち上げ、修吾に突きつける。
「――抜けよ、修吾。ここでオレが叩き潰してやる!」
言うや否や、京司は修吾が構えることも待たずに地面を強く蹴った。
振り下ろされる大振りの一撃を修吾は体を横に開いてかわす。
「落ち着いて話を聞いてくれないか、京司! 僕らは――」
「黙りやがれ! いい加減てめぇの口八丁にはうんざりしてんだ! オレと話し合いがしたけりゃ剣で語れ!」
豪快な薙ぎ払いを、修吾は仕方なく右手で刀を抜き受け止める。流石は宇藤山の身体強化術式だ。弾き飛ばされそうな衝撃になんとか堪え、修吾は左手に護符を構えた。
「相変わらずだね、京司は。わかった。相手をするよ」
バチッ! と護符が紫電を帯びた。それを修吾は掌底に乗せて京司へと叩きつける。京司は紙一重で後ろに跳んでかわすと、その場で戦斧を思いっ切り振り回した。
「ハッハッ! ようやく戦る気になったか! そうじゃねぇと面白くねぇ!」
戦斧の刃に梵字が光る。武器に付与された術式が風を繰り、京司を中心に激しい空気の渦を発生させた。
宇藤山流陰陽斧術――〈爆旋迅〉
並の妖魔であればあの竜巻に触れるだけで細切れにされる威力だ。迂闊に近づくことすらできない攻防一体の技だが、修吾は何度も見て知っている。〈因明眼〉を使うまでもない。
「悪いけれど、悠長に戦っている時間はないんだ。速攻で決めさせてもらうよ」
修吾は臆することなく竜巻に突撃する。あえて風の流れに逆らわず身を任せ、そのまま一瞬で京司の背後を取った。
「こいつッ!?」
居合切りの要領で放たれた修吾の一閃に、京司は驚嘆すべき反応速度でかろうじて戦斧を割り込ませた。
深夜の街中に金属音が響き渡る。
「てめぇ、そこまでしてあのクソ妖魔を守りてぇのか? あいつはオレらの身内に手ぇ出してんだぞ?」
「もちろんだ。彼女は無実だからね」
日本刀と戦斧の刃が競り合う。力は均衡し、両者ともまるで静止しているように動かない。
「まだわかってねぇのかよ! あいつはてめぇを利用してやがるだけだ。クソ妖魔はどこまで行ってもクソ妖魔だからなぁ。てめぇに利用価値がなくなった瞬間に裏切って殺されるぞ?」
「そんなことは絶対にない。僕は六華を信じている」
「根拠はあんのかよ?」
「寧ろ根拠が必要かい?」
彼女の言葉に嘘を感じなかった。修吾にとってはそれだけで充分だ。根拠がなければ他人を信じられないようなつまらない人間になったつもりはない。
「〝魅了〟ってのは怖ぇな。てめぇをここまで変えちまうたぁ、とんだド畜生のクソビッチだ! どうせ封印される前もそこらの男引っ掻けては喰い物にしてたんだろよ! 文字通りな!」
安い挑発だ。
そうだと頭ではわかっている。わかってはいるが、六華を――恋人を馬鹿にされてなにも思わないほど修吾は人間をやめていない。父が彼女にした扱い、分家の長たちの言葉、他の葛木家の人間たちから向けられる視線。修吾の中に溜まっていたなにかが決壊するのに、京司が吐き捨てた台詞は充分すぎる威力だった。
「……京司」
「あぁ?」
ゴッ! と。
修吾の握った拳が京司の顔面に減り込んだ。
「――ッ!?」
軽く吹き飛んで仰向けに引っ繰り返った京司。鼻血を流す顔を片手で抑え、わけがわからないといった様子で上体を起こす。
「僕を裏切者と呼ぶのは構わない。彼女を妖魔だと敵対するのも仕方ない。でも、彼女をそのように馬鹿にすることはいい加減やめてもらいたい!」
感情が爆発する。心の内が熱く熱く滾ってどうしようもなくなりそうだ。それでも修吾の頭は冷静に思考することを忘れない。
「ハハハ、参ったね。まさかそんな小学生みたいな煽り文句でこんな気分になるなんて」
修吾は表情こそ苦笑を浮かべていたが、その眼は一切笑っていなかった。
「久々だよ。これほど腹が立ったのは!」
「ハッ、そりゃこっちの台詞だ!」
飛び起きた京司が振るう戦斧と修吾の日本刀が三度の激突。衝撃波が周囲に拡散し、アスファルトの道路に大きな罅が入った。