004 契約
先程までとは態度が一変。急にしおらしくなった彼女に修吾は毒気を抜かれてしまう。
「どういうことだい? 君は雹仙修羅だろう? それなら僕らの敵のはずだ」
「あなたも勘違いをしているわ。私は雹仙修羅じゃない」
驚愕の告白だったが、いくら修吾が前向き思考でもすぐには信じられない。
「これほどの氷の力を使っておいて、その言い逃れは少し厳しいんじゃないかな?」
「そうね。でも真実だから仕方ないわ。私はかつてあなたたち葛木と共に雹仙修羅と戦い、この身を持って奴を封じていた土地神よ」
「なんだって?」
今度は修吾の方が目を見開く番だった。確かに伝承では、葛木家はこの地の土地神と協力し雹仙修羅を封じたとあった。
その土地神が、この少女?
だとすれば、妙だ。
「だが、君は妖魔――雪女だろう?」
雪女。常に〝死〟を示す白装束を身に纏い、男に冷たい息を吹きかけて凍死させたり精を吸い尽くして殺したりする〝雪〟の妖怪だ。〝氷柱〟と結びつけられることもあるこの妖魔は、室町時代より語られるほど古く強大な怪異である。
「そうよ。あなた、土地神には会ったことないの? 狐だったり狸だったり、元々は妖魔だったものが神格を得て成る場合もあるわ」
ただの雪女にしては力が規格外すぎると思ったが、神格を得たのであればそれも得心がいく。だが、問題はそこじゃない。
あの葛木家が、妖魔と協力したという話だ。
「葛木は妖魔必滅。たとえ土地神だろうと危険な存在は滅さなければならない」
「……今の葛木はそんなことなっているの? 困ったわね」
本当に困ったように眉を顰める少女。その言い方だと昔の葛木は妖魔と友好的だったのだろうか? 物心ついた頃から『妖魔は滅ぼさなければならないもの』と教えられてきた修吾には想像しがたい。
もっとも、それは葛木家に対する印象であり、修吾自身の妖魔に対する考え方は別である。
「他の陰陽師は妖魔と契約して使役していたり、寧ろ守っていたりする家もある。妖魔必滅を掲げているのは僕が知る中だと葛木家だけだ。僕は、それがずっと不思議だった」
本当に妖魔というだけで全て滅ぼさなければならないのか?
彼女のように意思疎通ができる妖魔との戦いは幾度となくあった。ほとんどが人間を毛嫌いする残忍な存在だったものの、その意思は自分たちとなにも変わらなかったことを覚えている。
人間にも善人と悪人がいるように、妖魔も同じではないのか?
そう思ってから、修吾は葛木家の思想に対して心の隅で疑惑を芽生えさせていた。
「君が雹仙修羅ではないと証明できるかい?」
「私にはできないわ。でも、あなたならその『眼』で視ればわかるはずよ」
修吾の〈因明眼〉は『因果の糸』が見える。それはつまり、対象と対象の因果関係を視ることができるということだ。もちろん、修吾はそのことを知っていた。それでも声にして問うたのは、この力をあまり乱用したくなかったからである。
それでも証明するには『眼』を使うしかない。
集中する。無数に視える糸から氷と彼女に関係するものを探す。探す。探す。
結果、氷と彼女に因果関係は――なかった。
「ふう、こんな短い間隔で三度も使うと流石に堪えるね」
修吾は脱力してその場にしゃがみ込んだ。〈因明眼〉の使用にはかなりの集中力が必要になる。それだけに一度でも使えば負担は他の術の比ではない。今の修吾では一日に五回が限度だろう。
「……どう?」
「少なくとも君が街を凍らせた元凶じゃないことはわかったよ。僕に対する敵意も感じない。葛木の掟には反してしまうけれど、僕も君を滅したいとは思わない」
見逃す、と修吾は言外にそう告げた。もし彼女が今後人間に害を成すことがあれば、その時は責任を持って滅ぼすと心に誓う。
「いくつか聞きたいことがあるのだけれど」
「いいわ。なんでも聞いて」
修吾に戦意がないことを悟ったらしく、少女は穏やかな微笑みを浮かべた。その表情に思わずドキリとする修吾だったが、彼女が協力的な内に質問しようと意識を強く保つ。
「街を凍らせたのは、雹仙修羅で間違いないのかい?」
「そうよ」
「君が土地神だとして、やるべきことというのは雹仙修羅の討伐かな?」
「その通りよ」
「封印はどうして解けたんだい?」
「何者かが解いたということしかわからないわ」
「雹仙修羅について、君が知り得ることを全て教えてほしい」
「ええ、構わないわ。雹仙修羅は……」
言いかけて、少女は言葉に詰まったように口を開けたまま固まってしまった。
「どうしたんだい?」
「……ごめんなさい。思い出せないわ。葛木家と協力して雹仙修羅という怪物を封じたことは覚えているの。でも、それより前の記憶がないのよ」
「封印の代償。もしくは、雹仙修羅が君になにかしたのかもしれないね」
もしも雹仙修羅が邪魔者になるだろう彼女の記憶を消したのだとすれば、一部だけというのは疑問だ。だから可能性としては前者の方が高いだろう。
「それでも、雹仙修羅を止めないといけないってことだけは強く残っているわ。だから、修吾」
少女がなぜか僅かに頬を赤らめて少しもじもじしたかと思えば、しゃがんだ状態の修吾にすっと手を差し出した。
「私と、恋人になってほしい」
言っている意味が、一瞬理解できなかった。
「えっと、それは契約するってことかい? 確かにその方が動きやすいかもしれないけれど」
契約とは、術者と妖魔が主従関係を結ぶこと――要するに、彼女を『使い魔』にするということだ。契約には儀式的な条件が必要になる。力で屈服させる方法が一般的だが、それが通用しない強力な妖魔の場合はお互いが条件を飲むことで契約を成立できる。
「恋人になることが、雪女の契約条件ということ?」
「そ、そうよ」
「君は、それでいいのかい?」
「……修吾なら、いいと思ったわ」
かぁあああああっ。少女の白かった顔がトマトのように真っ赤になる。さっきまで殺し合いをしていたというのに、どういう経緯で彼女がいいと思ったのかさっぱりわからない。
わからないが、修吾も悪い気はしてなかった。土地神クラスの彼女の協力を得られれば事態の解決に大きく前進するだろう。それは伝承の再現でもある。なにより、一目見た時から修吾の心は彼女に強く惹かれていた。
こんな気持ちは初めてだった。
応えていいのか、悪いのか。彼女が人間ならば迷わなくてよかっただろう。己の想いと一族の掟を天秤にかける。
こんな風に迷った時、修吾は前向きな選択をするように心がけている。
だから――
「うん、いいよ。なろう、恋人に」
逡巡の果てに、修吾は少女の手を取った。これは葛木家の掟に逆らう行為だとわかっている。それでもこの選択が間違いだなんて思わない。間違いになんてさせない。なんとかなる。
「よかった」
少女は修吾の手を掴んだまま身を寄せる。それから目を閉じ、背伸びをして修吾に顔を近づけ――そっと、唇を重ねた。
初めてのキスは、アイスキャンディーのようにひんやりして甘かった。
「……契約成立ね」
二人の左手薬指に氷の指輪が嵌る。契約の証ということだろう。不思議と冷たくはない。
「浮気をしたらその指から凍って絶命するわ」
「怖いことを言うね。大丈夫、僕はそんなことしないよ」
希曰く修吾はけっこうモテる方らしいが、今まで恋人を作ろうと思ったことすらなかった。彼女が初めてなのだ。
「……不公平ね。私はこんなにドキドキしているのに、修吾は平然としてる。接吻は慣れているのかしら?」
「まさか。僕だってドキドキしているさ。あまり態度に出ないだけだよ」
事実、修吾の心臓は早鐘になっていた。不測の事態でも取り乱さないよう修行していなかったら、もっとみっともなく慌てふためていて幻滅されたかもしれない。
改めて指輪を見る。
「ハハハ、それにしても参ったな。妖魔を使役するだけじゃなく恋人になるなんて、葛木家のみんなを説得するのが大変そうだ」
だけど、きっとわかってくれる。彼らが悪い人間でないことは修吾が一番身近で見てきた。彼女との契約に利があることを示せば理解してくれるはずだ。
「ところで、君の名前は? なんて呼べばいい?」
「……ないわ。というより覚えていないの。だから、修吾が名前をつけてくれると嬉しいわ」
「そうか、封印前の記憶がないんだったね。わかったよ。うん、どうしようかな」
名前がないのは不便だ。わかりやすく、それでいて彼女らしい名前をつけよう。雪や氷に因んだ名前を与えれば魔術的な記号としても力になるはずだ。
――決めた。
「『六華』はどうかな? 漢数字の『六』に『華』と書くのだけれど」
氷の結晶を意味する言葉だ。本来は『花』が正しいのだが、彼女の美しさや煌びやかさを表すには『華』の方が適していると思った。
「……六華。葛木六華。うん、それでいいわ」
小声で名前を復唱し、少女――六華は幸せそうに口元を緩ませた。その顔が見られただけでもこの名前にした価値があったと嬉しく思う修吾である。
「不束者だけど、よろしくお願いするわ」
そうやって優しい微笑みを浮かべる彼女を、修吾はもう人間を害する妖魔だとはとても思えなかった。