003 氷柱の少女
氷の下が空洞になっている。
そこで修吾は気づいた。ここは湖ではなく、山間の谷を氷の蓋が覆っていたのだ。恐らく、何者かが意図的に。
大規模な落とし穴。修吾を狙って設置したのかはわからないが、もし誰かが妖魔をハメるために用意したのだとすれば台無しにしてしまった罪悪感がある。
深い。
このまま落ちると即死は免れないだろう。だが、修吾は陰陽師『葛木家』の次期宗主。落下して死ぬような結果など文字通り断ち切ってしまえばいい。
意識を『眼』に集中し、迫る地面を見据え――
「――シッ!」
握っていた刀を一閃する。
それだけで、まるで加速した運動エネルギーが消え去ったかのように修吾は何事もなく着地した。降り注ぐ氷の瓦礫も全て刀で弾き飛ばす。
すぐに頭上を見る。落ちてきた穴は急速な勢いで塞がり、氷中で乱反射した日光が神秘的に煌めいていた。
「どうやら、閉じ込められてしまったようだね」
果たしてこのような罠を仕掛けられる術者が葛木にいただろうか? 疑問は残るが、もしいたのなら修吾が間違えて罠を作動させてしまったことに気づくはずだ。このまま待っていれば助けが来るだろう。
ひとまずそこは考えなくていい。やろうと思えば自力で脱出もできる。
「ここは、神社かな?」
周囲を見回すと、まず古びた鳥居と社が目についた。風化や劣化が酷い。もう何年、いや何十何百年と人の手が加えられていないような朽ち方だ。
そして、神社の奥には天を衝くような巨大な氷の柱が聳えていた。頭上に張られた氷を支えている柱――というわけではなさそうだ。氷の中に、なにかが閉じ込められている。
「女の子?」
それは白い着物を纏った少女だった。色が抜けるような白の肌に、腰まで伸びた光輝く白銀の髪。精巧な人形のように整った輪郭と目鼻立ちは、一顧傾城の美女と謳われても過言ではないだろう。
「綺麗だ」
それは率直な感想だった。僅かな日光を取り込んで煌めく氷中と相まって、修吾が今まで見てきたどんな女性よりも神々しく映った。
そこで修吾はハッとする。見惚れている場合ではなかったことを思い出す。彼女が何者で、なぜ氷の中に囚われているのかはわからない。
だが、修吾を呼んだのが彼女だとすれば……きっと助けを求めていたに違いない。
「今、そこから出してあげるよ」
刀を構える。修吾の持つ〈虚ノ太刀・鴉燬眼〉は葛木家が所有する二振りの宝剣の一つ。刃に触れた魔力を業火に転じ、対象を灰も残さず焼き尽くす魔刀だ。
氷は妖魔の魔力によって作られている。ならばそれを斬ることで修吾は氷を溶かすことができる。凍らされた人間をこの方法で助け出せることは街の人々で実証済みだった。
少女を閉じ込めている氷を斬りつける。異常に硬い。陰陽剣士として鍛え上げた修吾の腕でも僅かに削ることしかできない。
だが、それで充分だった。
小さな傷から紅の炎が広がる。それはほんの数分で閉じ込められている少女へと届き――ぐらり、と。開放され力なく落下する彼女の体を、修吾はタイミングよくお姫様抱っこで受け止めた。
「……ん」
呻き声がした。瞼が痙攣し、ゆっくりと開かれる。
サファイアのような青色の瞳と目が合った。
「驚いた。こんなに早く意識を取り戻したのは君が初めて――ッ!?」
言いかけて、修吾はようやく気づいた。
少女から感じる、人ではないモノの気配に。
「……放しなさい」
抑揚の薄い声。少女の目つきも鋭くなり、そのか細く白い手が修吾の胸にあてられる。
嫌な予感。咄嗟の判断で修吾は少女から手を放して横に飛び退った。
刹那、巨大で鋭利な氷柱が少女の掌から撃ち出された。
氷柱は先程まで修吾がいた場所の空間を穿ち、背後の社を貫通し崩壊させる。凄まじい魔力が込められた一撃。既にその辺に蔓延る妖魔とは一線も二線も画しているとわかる。
氷に閉じ込められていた時は混ざっていて気づけなかったが、今は違う。彼女が纏う規格外の力を見れば否が応でも理解させられる。
「雹仙修羅!」
「……その名前を知っているのね」
少女を中心に冷気が爆発。地面や壁が一瞬で凍りつく。突き出してくる氷の棘を飛び跳ねてかわす修吾は、ピキキキと水分が急速で凍りつく音を聞いた。
空中に無数の氷の槍が生成されていた。少女が舞うような仕草で片手を翳すと、それらが一斉に射出され修吾を襲う。速度、威力、範囲。どれを取っても回避は難しいと悟り、修吾は咄嗟に護符を撒いて防御結界を展開した。
だが、結界は紙切れのようにあっさり貫かれてしまった。
「――なっ」
修吾は想定を上回る威力に驚愕するも、致命となる氷槍だけを見極めて刀で弾き落とした。
氷槍を掠めたコートが破れる。浅く裂かれた皮膚から赤い液体が滴る。
「待て、僕を呼んだのは君じゃないのか!」
「なんの話?」
氷槍が撃ち終わる。瞬間、ただでさえ低い気温がさらに下がった気がした。
「あなたは私を討ちに来たのでしょう。生憎と私にはまだやらないといけないことがあるの。ここで討ち取られるわけにはいかないわ」
雪だ。
少女を中心として雪を含んだ暴風が吹き荒れている。雹仙修羅は氷の怪物と聞いていたからもっとモンスターじみた姿をしていると想像していたが、その正体がまさか少女だったとは意外だった。
恐ろしい被害をもたらす大雪を魔物に例えて『白魔』と言う。吹雪を操る白い少女の姿は、まさにそう呼ぶに相応しい畏怖を見る者に与えるだろう。
これほど強大な妖魔を外に出すわけにはいかない。
「悪いね。こちらも、妖魔に好き勝手させるわけにはいかないんだ」
「邪魔をするなら、凍って死んでもらうわ」
吹雪が一気に強くなる。空間全体を覆い尽くす雪を刀一本で防ぐのは至難。だが、氷の槍ほど殺傷力があるわけではない。恐らく体温を奪って動きを鈍らせることが目的だろう。
そう考えたが、違う。
「――ッ!?」
雪が触れた途端、修吾は体温以上の重要ななにかが吸い取られた気がした。命をダイレクトに削られた感覚。疲労にも似た虚脱感が全身を襲う。
――この雪は、生命力を吸っている。
そう判断するや、修吾は己の魔力を〈虚ノ太刀・鴉燬眼〉の刀身に流し込み、思いっ切り地面に突き刺した。
魔力が紅蓮の炎に変換され、修吾を中心に渦を巻くように燃え広がった。凄まじい熱量が一瞬で吹雪を押しのけ蒸発させる。炎は少女にも届いたが、冷気をバリアのように展開して防がれたようだ。
「炎? そう、それでわざわざ私の封印を解いて殺そうとしたのね」
少女が袖を一振りするだけで周囲の炎は掻き消されてしまった。
「……だけど、その程度の炎で私は溶かせないわ」
修吾の足下に冷気が集中する。次の瞬間、何千何万という氷の刃が突き上がり、美しくも恐ろしい剣山を築いた。
「ハハハ、これはすごい。今まで戦ってきた妖魔とは比べ物にならない強さだ」
間一髪、修吾は最初の氷刃を刀の腹で受け止めていた。そのまま衝撃に弾かれ剣山の上空へと放り投げられる。
落ちれば串刺し。無論、素直に殺されてやるつもりはない。
空中で印を結ぶ。刀身に梵字が浮かび上がり、込めた魔力が火炎を灯す。それを大きく振り被り――
「焔廻・燼滅」
回転と共に極大化した炎の刃で豪快に氷の剣山を薙ぎ払った。葛木流陰陽剣術に〈虚ノ太刀・鴉燬眼〉の能力を応用させた修吾だけが使える剣技だ。
しかし、大技なだけに隙も大きい。少女がそれを見逃すはずもなく、片手を翳し、避けることが不可能なほど巨大な氷の槍を生成して修吾に狙いをつけた。
「抵抗は無駄。あなたはここで死ぬのよ」
「いや、その結果は断ち切らせてもらう!」
高速で射出される氷の槍。それを、修吾は目を見開いて集中し観察する。
思考が加速する。視界にそれまで映ることのなかったものが現れる。
無数の線。それは可能性が可視化された『因果の糸』である。その中から『氷の槍が修吾を貫く因果』を刹那の時間で見極め、刀を振るって切断。
氷の槍は修吾に直撃するが貫くことはなく、逆に粒子状に砕けて空気に溶けてしまった。
そのあり得ない『結果』に、少女が瞠目する。
「……今のは、まさか〈因果斬り〉? あなた、〈因明眼〉を持っているの?」
驚きを隠しきれない様子の彼女に修吾は苦笑する。
「参ったな。知られているのか」
葛木家の子供は数世代に一人の割合で特殊な眼を持って生まれることがある。〈因明眼〉と呼ばれえるその眼は、万象の因果関係を糸として視認し、それを物理的に断つことが可能になる。
因果関係を断ち切られた『原因』は『結果』を生じない。その技は葛木家の秘奥とされ、〈因果斬り〉と呼ばれている。
世界の法則に真正面から喧嘩を売るような能力だが、当然弱点もある。少女がそのことを知っているとなると、ここから先は恐らく通用しないだろう。
「そう、やっぱり〈因明眼〉なのね」
その恐れを悟られないよう心で身構える修吾だったが、少女はフッと纏っていた魔力を収めて戦闘態勢を解除した。
「あなた、名前は?」
「名前を聞いて、どうするつもりかな?」
修吾は警戒する。敵に名前を知られることは、術者の戦いでは致命的なミスに繋がることもある。名前を使って相手に呪いをかける術なども存在しているからだ。
「どうもしないわ。ただ知りたいの」
少女は真剣に修吾を見詰めてくる。その美しい青い瞳には、敵意も殺意も害意も宿っていないように思えた。
「葛木修吾だよ」
だから、修吾は素直に答えることにした。例え彼女の態度がブラフで名前を使って縛って来ようと、その因果を断ち切ればいいだけの話である。
修吾の名前を聞いた少女は、なにかに納得したように肩の力を抜いた。それから両手をおへその辺りで重ねると――
「……ごめんなさい。勘違いをしていたわ。私はあなたの、葛木の敵ではないわ」
深々と、頭を下げた。