このお城には秘密がある
初めて書きました。よろしくお願いします。
◆1
目が覚めたら、ベッドの上だった。
いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか。カーテンが閉まっていて、外の天気は見えない。まだ夜が明ける前だろうか?
ここは私たちのお城。
私はここのお姫様。
お父様とお母様、幸せな家族。それから、大好きなみんなと暮らす大切な場所。
そんなお城の自室で、夜中にうっかり目覚めてしまった彼女は、もう一度寝ようか考えていた。早起きを褒めてくれるお母様も、こんなに暗くちゃまだきっと寝ている。でも、びっくりさせるためにお父様のお部屋に行ってもいい。そんな好奇心が湧いてきて、すこしワクワクしだした。
この部屋には時計が無い。朝はいつもお母さまが優しく起こしてくれるし、夜寝るときはお父様が寝かしつけてくれる。9歳の誕生日にもらった、真っ白なクマのお人形もいる。この部屋には、大好きな人たちがくれた大切なものが詰まってる。
窓の外を確かめるために、わたしはゆっくりと起き上がる。この淡いピンク色のおふとんも、お父様が買ってきてくれた彼女にとっての宝物。
「お父様のお部屋に忍び込んで、こっそり一緒に寝るのも良いわね。きっとびっくりするわ。早速行ってみましょう。」
ベッドから降りようとしたとき、どこかから突然声が聞こえた。
「エリー。」
ビックリした、ものすごく。
暗い部屋の中。この部屋に入ってくる人なんて、お母様かお父様、あとは最近身の回りのお世話をしてくれるリーさん。どの人の声でもなかった。こういう想定外のときは、慌てず冷静に対応するようにとのお父様のいいつけを守らなければ。そう思って冷静を装うのだ、と奮い立たせた。
ちょっとだけビックリしたけれど。深呼吸をひとつして聞いてみる。
「だぁれ?どこにいるの?」
言えた、極めて落ち着いた口調言えた。
いい調子だ、と自分を褒めたのも束の間。
バッと、上から突然、黒い影が降ってきた。女の子だった。
黒いひらひらした膝丈のワンピースを着て、黒い長い髪がサラサラツヤツヤだった。
女の子が顔を上げると、目が合う。キュッとつりあがった目尻に大きな瞳、しなやかな手足に、赤くふっくたとした小さな唇。まるで黒猫が人に化けたような風貌だった。
「起きたのね。」
女の子が喋った。
「エリー、部屋から出てはだめ。」
「え、待って、あなたはだあれ?」
「わたしはマリ。」
「マリさん??」
「マリでいいわ」
「わかった…。」
シンプルでクールな物言いに、すっかり気圧されてしまった。
「これからお茶会よ。お客様をご案内するから、支度をして。」
疑問の人物から続々と疑問の言葉がやってきて、エリーはさらに緊張感を強める。
するとマリは、踊るように軽いステップを踏みながら部屋のクローゼットに向かって行った。
本当に猫みたいだ。
「あなたのドレス。」
そうしてマリはわたしに水色のドレスを出してくれた。袖がひらひらとしていて、膝丈のスカート。アシンメトリーになっていて、後ろが少しだけ長い。金色の白のレースがあしらわれている。わたしのお気に入りのドレス。
お気に入りの服は、袖を通すととても華やかで幸せな気持ちになる。
「マリ、お客様って、この部屋にご案内するの?」
「そう」
「そうって…。ここは私の部屋よ。大きなテーブルがある客間のほうに…」
「だめ。ここから出てはだめ。」
言い終わらないうちに遮られてしまった。
マリは単語か短い言葉しか喋らないから感情が読みづらい…。
コンコン。
ノックの音がして、マリが、あの軽快な足取りでドアに向かった。
「どうぞ。」
「あ、私の部屋なのに勝手に。」
バタン、とドアを開けたかと思うと、マリはすぐさま閉めた。
誰も入ってきていない…?そう思った矢先に、また声がした。
「エリー様」
マリでは無い声だが、姿が見えない。
「え?どこ?」
「私ですここです。」
すると、マリが何かを抱き上げた。
「エリー様…!」
「えっ、ロバート?!」
マリが抱き上げたのは執事ロボットのロバートだった。マリの腕にすっぽりと収まるサイズ。ベッドに隠れて見えなかったのだ。ネジで動くロバートは、背中に小さな穴がある。ネジがよく行方不明になってしまったので、エリーがよく指を突っ込んで巻いてあげていた。
このお城の秘密。
それは、従者のみんなが可愛い人形たちであること。私とお話ができるのよ。
「エリー様、お会いしとうございました…!」
「あらロバート!今日のネジは大丈夫、、って、どうしたのロバート…?」
マリに運ばれて、エリーのベッドまでやってきたロバートは、その場で泣き崩れてしまった。
ロボットだからもちろん涙は出ない。ねじ巻き式なので、オイルも漏れることは無い。
「ロバートは、ロバートは…!また笑顔のエリー様にお会いできて嬉しゅうございますぅぅ。」
「ロバートどうしたの?ふふっ大袈裟だなぁ。」
そう言ってエリーはロバートの角ばった頭を撫でてやった。
「ああエリー様…。今日はまた一段とお可愛らしいです。素敵なドレス、お似合いです。」
「ありがとう、そう言ってもらえると、着替え直した甲斐があるわ。」
お気に入りのドレスを褒めてもらえて、とてもいい気分だった。
「あぁ、覚えていらっしゃいますか?わたしが旦那様にお叱りを受けた時も、こうして大切そうに撫でてくださいました。この角ばった、アンテナが突き出ている頭を。ロバートはそれが嬉しくて。。」
「もう、大袈裟だなぁ。」
涙脆いロバートを見つめて、ふふふっと笑った。
「お父様ったら、そんなにロバートの事怒ったのね。ふふっ。あなたってば何をしたの?」
「何も出来ないから怒られたのです。不甲斐ないです。」
「それもそうね。」
お父様が怒ったのも、わたしのことを思っての事だろう、ロバートはかわいそうに。
「旦那様はよく私たちを叱っていました。私も何度も投げ飛ばされました。旦那様はお強いのです。あぁ、エリー様。わたしはいつもあなたが投げ飛ばされるんじゃないかとハラハラしていました。」
「そりゃお父様も私を叱る事はあるわ。言いつけを守れない時はあるもの。けど、投げ飛ばされるのはあなたが小さくて軽いからで、私はされないわ。もう11歳なのよ。」
「あぁ、エリー様。私はもうすぐに行かねばなりません。最後にひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」
「あらロバート、もう行っちゃうの?これからお茶会なのに?」
「お茶は出ない」
マリが言った。
「えーあなたがお茶会だって言ったんじゃない。お茶が無いお茶会なんて聞いた事ないわ、、まぁいいわ、ロバート。何でも言って。」
マリのツンとした雰囲気に、小言を言っても無駄だということを何となく察した。
「ありがとうございます。先日、旦那様に投げられた時に、私はまたネジを無くしてしまいました。エリー様の温かい手で、またネジを巻いてはくれないでしょうか。」
「そんなのもちろん!いいわよ!」
「ありがとうございます、ありがとうございます…。」
そう言ってロバートはまた泣いていた。
そっとマリが近づいてきて、ベッドに腰掛け、ロバートの背中を私の方に向けた。
「よーし、なんだか久しぶりな気がするわ。いくわよロバート。」
そうして、ロバートの背中のネジ穴に人差し指を入れる。ツマミ のようなものを爪に引っ掛けて、ゆっくり回す。
「ああ、優しく温かい手、ロバートはこの手が大好きでした。ネジよりこっちの方が好きだったので、たまにネジを無くすと、もう見つからなければ良い、とまで思っていました。」
「ふふっ、それはちょっとなぁ。どうしたの、急に。」
「エリー様。わたしは、執事ロボットとしては何の役にも立てませんでした。執事失格です。けれども、あの時あの瞬間、あなた様をお守りできたこと誇りに思っています。ネジを巻いてくれて、抱きしめてくれて、大切にしてくれて、ありがとうございました。
どうか、どうか幸せに、エリー様。」
「あの時って…?」
そう言った瞬間
ロバートの身体が突然
バラバラに弾け飛んだ
「ロバート…?」
驚きと、突然のことに指が震える。
エリーは頭が真っ白になった。
「いや…ロバートっ…なんで…?いやぁぁぁぁぁ!」」
エリーは取り乱した。目の前で、お城の住人だった、執事だったロバートがはじけ飛んだのだ。
震えが止まらない。その指で顔を覆い、嗚咽する。視界がかすむ。
そんなエリーを、後ろからそっとぬくもりが包み込んだ。マリだった。
ふわりと甘い匂いがした。
しばらくして、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「あの子は、もう壊れてしまっていたの。
最後に、あなたにネジを巻いてもらいたかったんだって。」
「そっか…。」
全てのものが有限であり、寿命がある。そして、時にそれは理不尽な形で降ってくる。11歳のエリーにも分かっていることではあった。このお城の中で暮らしていると外の事は知らないことが多いが、それは誰しもが成長の過程で知る事だ。ロバートのその時が来たという事なのだろう、と、無理やり理解するしかなかった。
「マリ。お願いがあるの。その箱を取ってくれない?」
そう言って、戸棚の一番上に置いてある、お星様の柄の箱を指さした。
宝箱。お母様がくれた、いつか大切な物を仕舞おうと取っておいた箱。
小さな部品やロバートの一部だった物を、ひとつずつ丁寧に拾い集め、箱に入れて行った。
上手く動かなかった手。ちょこんと座る可愛い足。ちょっと色の削れた赤い目。みよーんとしならせて遊び、ロバートを困らせていたアンテナ。ひとつひとつ、彼だった物を愛おしく拾い集める。まるで、骨を拾うみたいな行為だった。
「マリ。わたしはここのお姫様だから、泣いていちゃいけないんだよ。強くて立派なお姫様になるんだから。
けど、ごめんね。ロバートのこと、少しだけ泣かせて…?」
そう言ってエリーは星柄の箱の蓋をとじ、抱きしめて少しだけ泣いた。
マリは、目元に現れた水滴をペロリとなめ、後ろからそっと抱きしめた。彼女の体温はとても温かかった。
◆2
マリの温もりも手伝って、エリーは少し落ち着きを取り戻した。外を見るとまだ暗い。夜はまだ明けないようだった。
相変わらず月明かりだけが照らしている。
「マリ、ありがとう。あなたの体温はとても落ち着くわね。」
「わかった。それなら側にいるね。」
マリはそのままエリーの膝に頭を乗せて、甘えるような仕草で見上げてきた。
ネコみたいに本当に可愛くて、おでこを撫でるとちょっと嬉しそうな顔になった。
「マリ。あなたは一体何者なの?初めて会った気がしないわ」
「初めてじゃないわ。わたしはあなたの友達。」
「えっ…?」
どどどどうしよう、覚えてない。エリーは大変に焦った。
「私たちって、どこで会っていたっけ?ごめん、覚えていなくて。こんな可愛い友達、いたら絶対忘れるわけないわ。」
「大丈夫よ。思い出さなくていい。」
「え、それってどういう…。」
コンコンっ
言いかけると、またノックの音がした。
「お客様だ。」
立ち上がろうとしたエリーのドレスの裾を、マリがぎゅっと握る。
「どうしたの?」
「行ってはダメ。私が行く。」
ドアの方を見たマリは、すぐにエリーの方に向き直った。そして、じっと見つめてきた。
「どうしたの?」
「エリーのそば、ちょっとだけ離れてもいい?」
マリの体温が安心すると言ったことを気にしてくれているのだ。
その優しさが、なんだか照れくさい気持ちにさせた。これがツンデレというやつなのだろうか。
コンコンっ
またノックの音がした。
「私は大丈夫よ。迎えに行ってあげて。」
小さく頷くと、また軽い足取りでフワフワとドアまで向かう。本当に可愛らしい。
今回も扉が開いても来訪者の姿は見えなかった。マリが抱き上げてようやく分かった。
「テッド…!」
「エリーさまぁぁ!」
それは、クマのテッドだった。テッドは私の騎士。いわゆるボディーガード。
マリに抱き上げられて、テッドもわたしのベッドの上にお招きした。
テッドは躊躇いもなくエリーの胸に飛び込んできた。エリーも嬉しくってテッドをぎゅーっと抱きしめた。フワフワの身体、柔らかい触り心地。テッドはマリのような温もりはないが、その柔らかさで抱きしめていると自然と安心していくのを感じた。
「ふふっテッド。くすぐったいわ」
ひとしきり安心すると、テッドをベッドに座らせて、向き合った。
マリもエリーの横に腰掛け、エリーの肩に頭を乗せて寄り添いながら、テッドの腕をクネクネといじる。
「テッド。ノックはどうやってやったの?」
マリが聞いた。
「た、たしかに。こんなにフワフワなのに、コツコツって鳴った!」
「この鼻を使いました!僕の中で唯一の硬い部分!私はこの柔らかい身体と硬い鼻というメリハリボディで、ボディーガードとして何度もエリー様をお助けしてきましたからね!」
「メリハリボディって言葉の使い方、合ってるの?」
「メリハリのある身体はメリハリボディです!」
自信たっぷりなテッドの答えは、先程のロバートの自信のなさとは正反対だった。
「ずっとずっと、エリー様を、お守りしてきたんです…。」
テッドも泣き崩れてしまった。
「テッド、どうしたの?これからもそうして。お願い。」
「うう、嬉しいお言葉ありがとうございます。憶えてらっしゃるかわかりませんが、テッドが初めてこのお城に来た日、あなたはまだ全然小さくて…。ヨダレと鼻水をたくさんつけられてしまいました。自分の性質上、それらを吸収してしまっていました。」
「やだ、恥ずかしい話をしないでよ。」
エリーは照れ笑いをする。
「そんな状況でしたが、あなたは私を抱きしめてくれた。わたしの為に歌を歌ってくれました。それがかけがえのない時間でした。あなたが転んだりした時に、下でクッションになって受け止めたり、あなたに襲ってくるものにこの鼻で攻撃をしたり。ボディーガードとしてお守りしてきました。今回、守りきることが出来ず、こんなに悲し…。」
「テッド」
強い口調でマリが話に入ってきた。感情がなかなか読めない子だったが、今は明確に怒りの感情が入っているのがわかる。
「今回って、なんのこと?」
「…なんでもありません。テッドは、お別れを言いにきました。今日でお別れなのです。」
「ええ?!テッドもなの?!嫌よ!」
「いいえ、エリー様。お別れは必ずやって来ます。これはテッドだけでなく、みんなに言えることなのです。ロバートも。マリも。お父様も、お母様も。どれだけ理不尽でも。これはどうしようもないのです。テッドはマリ様の側に一時でもいられたこと、幸福でした。どうか、どうか。あなたの幸せを。あなただけの幸せを、これから歩いて行って欲しい。」
エリーはもうどうしたらいいのか分からなくてしまった。
「テッド、私はどうしたらいい?なにか、出来ることは無いの?」
震える声で聞く。
「お願いがあります。あなたは私の為に、抱きしめながら何度も歌を歌ってくださいました。それを、もう一度だけお願いしたいのです。」
「歌…いいわ、おいで。」
テッドの表情がぱぁっと明るくなってそのままエリーの胸に飛び込んできた。
フワフワの彼を、エリーはやさしく抱きしめた。
「エリー、歌は覚えているの?」
「えっと…あれ、そういえば。」
確かにテッドに歌いかけていたことは覚えているのだが、おかしい、思い出せない。
「うーん、ワンフレーズだけでもあれば思い出せると思うんだけど…。」
「テッド、歌はどうしても必要?」
マリがテッドに聞いた。
「ぜひ歌っていただきたかったのですが…。」
「エリーが困ってる。」
マリがやんわりと、歌わないほうに軌道修正しようとしてくる。
「マリ、大丈夫!テッド、出だしだけ教えてくれない?頑張って思い出す!」
どうして忘れてしまっているんだろう、テッドを抱きしめたこと、テッドの柔らかさにいつも安らぎをもらっていた事は覚えているのに。
「マリ…。」
テッドが困った顔でマリを見る。
「少しだけよ」
そうマリが言った。テッドは嬉しそうにまたエリーに顔を向けた。
「歌いだしは確か、『このお城には秘密があるの』です!」
「あ、知ってる。覚えてる…。」
♬
このお城には秘密があるの
あなただけに教えてあげる
パパとママには内緒だ…よ…
歌は思い出せた。しかし、歌詞に気になるところがあり、思わず止まってしまった。
「パパと、ママ…?」
この言葉を声に出した瞬間、指の震えが止まらなくなった。
何か、何かを忘れている気がするの。
吐きそうな、目眩のような感覚が襲った。
「エリー、もう終わろう。」
マリが抱きしめて、歌を静止した。
「エリー様…。」
テッドの悲しそうな声がする。
深呼吸をして、落ち着かせる。
「ごめん、ごめんねテッド。歌えるから。続きからでいい?」
「エリー。」
マリが止めようとするが、エリーは構わず歌いだす。
♪
可愛いお城のお人形たち
本当は動けるの
テッドは可愛いボディーガード
フワフワでいつも守ってくれる
お城の秘密を
教えてあげる
歌の中で自分の名前が出たあと、テッドがモゾモゾと動いた。
「エリー様、ありがとうございます。どうか、どうか幸せに。」
パン!
そういって、テッドはエリーの腕の中で弾けとんだ。
真っ白の布の破片と、白いフワフワとした綿毛が、ベッドの上に舞った。
行ってしまった、テッドも。
「あ、あ、あぁぁぁぁ!!」
エリーはまた声を出して嗚咽した。
しかし、先程のロバートの時とはまた違う。
なんだ、この苦しさは。
歌を思い出した時からの、この胸に迫り上がってくる黒いもの。
吐きたいけれど、お腹が空っぽで何も出てこない。
嗚咽しても出てこない、手足が震えて動かせない。
ふっと、震えていた手をマリが握ってくれた。その瞬間、ふわっと気持ちが軽くなり、お腹の黒いものが自然と薄くなって行った。
「うわぁぁぁんテッドぉぉ!」
安心すると、また涙が出て来てしまう。
マリはぎゅっと抱きしめる。また安心する。と同時に、一抹の不安がおそう。
「マリ。」
「なぁに?」
「マリも消えてしまうの?」
「…。」
ぎゅっと、エリーを抱きしめる腕の力を強めた。
「テッドが言ってたでしょ。必ず私たちはお別れの時がくる。それは私たちだけじゃなく、全ての事に終わりがくるの。」
「嫌、嫌よ。
「でもエリー、あなたが望むのなら、ずっとここにいてもいいの。」
「ずっと?」
「そう。この部屋から出ずに、私たちだけのお城にするの。あなたが望むのなら、ずっとここから出なければ。わたしだけと、ずっと一緒にいるならば。
「ずっとここに?あなたと?
「そう。この部屋に。
マリの指先が、そっとエリーの頬を撫でる。
その瞬間、エリーの身体に冷たい何かが走り、背筋がひんやりとしだした。
あんなに安心した指先だったのに、なぜ。
「わたしだけよ、いるのは。」
「お父様やお母様は?」
「2人には、あなたの世界から消えてもらうの」
「お父様とお母様が…消える…?なぜ?」
「そうすればあなたは私とここに、ずっといられるのよ。」
怖い。
あんなに落ち着く存在だったマリが、何故か唐突に怖くなった。
さっきはあんなに安らぎを貰っていたのに、冷静に考えれば、おかしい事だらけだった。私は知らないのに自分の事を友達だと言い出した。
触ると安心するけど、なぜかお父様たちと会わせないようにする。
黒い髪、黒い服。窓の外の暗闇に溶けてしまいそうな風貌に、鋭い眼光。
この得体の知れない女の子は、誰…?
「それはいやよ。」
「いいえ、ここで私と暮らした方がぜったにいい。外にはあなたを苦しめるものがいっぱい。あなたの好きだったパパと、ママはもういない。」
その瞬間、エリーの脳に衝撃が走った。
「パパ…?ママ…?」
お父様とお母様と呼んでいたはずなのに、何度も呼んだ気がする。怖い。怖いこわい怖い。
この、目の前の女の子が、誰かわからないこの子が、怖い。
「いや!助けてお父様!」
途端に、エリーは扉に向かって走り出した。
「エリー!ダメ!外に出ては!」
バン!と勢いよく扉を開けると、そこには畳の部屋の居間が広がっていた。
「え…?」
見覚えのある部屋。台所のコンロにはヤカンと、汚れた鍋が置いてある。
テーブルには、カップ麺のゴミや飲みかけのペットボトルなどが散乱していた。
「あーあ。開けちゃった…。」
マリの声が後ろからする。
ふと、踏み出した足が何かを踏んだのを感じた。ネチョネチョしていて、気持ちが悪い。
恐る恐る、自分の足元に目をやる。
パパが、背中から血を流して、倒れていた。
エリーの掌は、地で汚れていて、すぐ側に大きな裁縫挟みが落ちている。
そうか、わたしが、パパを、刺しちゃったんだ
遠くで、サイレンの音がする
そこで、意識を手放した
◆3
2年前、9歳の時から、ママが帰ってこなくなって、お仕事が上手くいかなくなったパパはちょっとずつ変わっていった。小さい頃は「お前はパパのお姫様だ」と言ってくれ、抱きしめたり、一緒に遊んだりしてくれていた。
最初はお酒を飲むと突然大きな声を出したり、壁に物を投げたりしていた。それがどんどん、物を投げる先は私になり、怒鳴ると勢いでいっぱい叩かれるようになった。
あざがたくさんあって、毎日変な声がする家の子だし、私はビックリしたり誰かが手を振りかぶるそぶりをするだけで、悲鳴を上げるようになってしまったので、学校に友達も離れていってしまった。
けど、全然へっちゃら。空想することが得意だった私は、お友達だっていたの。パパが買ってくれた、クマの人形のテッド。クリスマスにサンタさんがくれた、ロボットのおもちゃのロバート。けれど知ってる?サンタさんはパパなんだよ?だから、ロバートもテッドもパパがくれたお友達なの。
そうして、パパのお姫様だった私は、私の部屋のお城に執事と騎士を迎えて、西洋のお姫様はみんなカタカナのお名前だから、私も「エリー」になったの。
パパにぶたれる、可哀想な女の子は『英梨』ちゃん。英梨ちゃんは可哀想だけど、わたしはエリーだし、お姫様だし、この部屋は私のお城だから、関係ないの。
童話のお姫様は両親のことを、お父様、お母様って呼ぶの。英梨ちゃんのママは、そこの写真。もう何年も帰って来ない。お空にいるんだって。英梨ちゃんは可哀想だなぁ。
エリーのお父様もお母様も、部屋の扉を出た先にいるの。きっと。この扉を開けなければ。そこにいるの。
まるでシュレディンガーの猫。
あーあ、気付いてしまった。
英梨ちゃんって、私だったんだなぁ。
◆4
目覚めると今度は真っ白な天井だった。視界の右側には点滴がある。病院だ、ということを瞬時に理解した。
「あ、目覚めましたね。」
そう声をかけて来たのは、理衣さん。児童相談所の職員さんで、たまに様子を見に来てくれていた。
「理衣さん…わたし…。」
堪えきれずに泣いた。
刺してしまった。愛してくれた、大好きなパパを。
英梨ちゃんを、自分をぶったりしたけど、お酒を飲まなければ、お仕事が上手くいった日は、ママがいた時は、ずっと笑ってくれていたパパ。
それから、何人かの大人と話をした。パパは生きていた。意識のあったパパが、自分で救急車を呼んだらしい。マリやロバートたちの出来事は、ほんの10分程度の出来事だったらしい。私はパパを刺した部屋とお城の狭間で倒れていた。
見つかった時には、サイズが合わない小さいブルーのワンピースを着ていた。背中のファスナーが閉まっていなかったらしい。この服は覚えている。9歳の時に買ってもらった、最後のお気に入りの服。マリが着替えるように勧めた、私だけのドレスだった。
ここまでは思い出せたのだけれど、あの日何が起きたのか、頭がぼんやりして上手く思い出せなかった。ぶたれるのなんていつもなのに。エリーになって、フカンして遠いところで英梨ちゃんを眺めていれば、いつもすぐ終わるのに、なんであの日、パパを刺してしまったのか。
大人たちにたくさん話を聞かれたけど、結局思い出せなかった。
パパが英梨をぶつのは英梨が悪い子だから、大好きなパパを傷つけてしまった英梨は、最大級に悪い子になってしまった事だろう。
逮捕されるのだろうか。ケイムショにも入るんだろう。きっと、当たり前の罰なんだ。
大人たちが帰り、疲れたのかいつの間にか眠ってしまっていたらしい。気がついたらまた夜だった。
外は月明かりが照らしている。満月だ。ぼんやり外を見ている。1人部屋だったから、本当にひとりぼっちだ。みんな居ない。ロバートもテッドも、マリも。
「…マリ?」
そういえばそうだ。
ロバートとテッドはパパがくれたお友達。英梨の妄想の権化。けど、マリは一体なんだったんだろう。お人形やおもちゃじゃなかった。温かくて、柔らかい感触がした。
「エリー。」
突然、また声がした。
「マリ?!どこにいるのマリ!」
「エリー。お城の外に出てしまったのね。」
マリは構わず話を続ける。
「マリ!どうして聞こえるの?お城から出てしまった。あなたも私の妄想なんでしょう?」
はっきりと自分の言葉にしたのは、この時が初めてだった。
「エリー。もうあの幸せなお城には戻れない。あなたは知ってしまった。この世界で生きていくしかないの。そう、私はあなたの妄想。夢の中でのお友達。パパにぶたれる可哀想な英梨ちゃんが、その夢の中で私たちに人格を与えて、一緒に遊んだの。」
「マリ…。これもきっと夢よね。ごめんなさい。私、ロバートやテッドの事はとてもよく覚えているけれど、あなたを覚えていないの。教えて。あなたは私のどんな友達だったの?」
「忘れているなら、忘れていたままでいて欲しい。あなたは大人にならなくちゃいけない。この事を夢として、朝を迎えて、学校へ行って、いつかパパやママみたいに大人になるの。」
「まって、忘れたくない…!」
「エリー、大好きよ。さようなら。」
その時、病室の廊下を走っていく足音が聞こえた気がした。
廊下にいたんだ。エリーは、とっさにベッドを飛び出してその音のある方に向かって走った。
病院を出たところで分かれ道があった。直感で右側に走った。無我夢中で真っ直ぐ走った。
知っている道だった。英梨が9歳の時に、ママのお見舞いにパパと歩いた道。
もうすぐお姉さんになるんだよ、そしたら家族みんなで手を繋いで歩こうね。とパパとママが笑ってくれていたけど、お姉さんになることも、ママが帰ってくる事も無かった道。
マリの足音はもうしなかった。けど、外に出た瞬間から、知っている道をひたすら走った。
途中、英梨は足を止めた。ふと右側に小さな公園が現れた。ブランコと鉄棒とベンチだけの、小さな公園。
妙に覚えのある公園だった。走ったせいでは、おそらくない。
動悸で呼吸が荒くなる。瞬きも忘れ、そこに立ち尽くした。
「…そうだ、マリは、ここで私が拾った。。」
その日はパパが夜からお仕事だったから、お家にいたくなくて、テッドとロバートを連れて公園にずっといた。
何年か前に、病気がすごく流行って、おうちにいなきゃいけない時間がたくさんあって、パパは仕事が無くなってしまった。私も学校がずっと休校になって、二人でずぅっとお家にいた。その時だって、お酒を飲まなければパパは、まだ優しいパパだった。
周りの子供たちは、続々とお迎えがきて1人減り、2人減り、最終的には公園ひとりじめ状態。これも全然嬉しくない。ブランコを一人で漕いでいると、何か声がした気がした。
「ニャー。」
生垣の方からだった。
他の子供がいた時は声がたくさんあったので気がつかなかったが、箱に入れられた猫だった。
黒くて、綺麗なイエローの眼をしていた。
「あなたも一人なの?」
その子猫に駆け寄り、そっと撫でた。
温かい。力なく声を上げるその小さな存在が、同じくひとりぼっちだった英梨の胸の奥に幸福をもたらした。公園には水道しか無かったので、何か食べさせたかった英梨はアパートまで連れて帰ることにした。
5時の鐘がなる。あと30分もすればパパが出かけていく時間だ。
今日の夜食べる予定だった食パンを一枚持ってきて、半分こして食べた。
「あなたも私のお城の仲間にしてあげる!えっと…もう!悪戯ばっかりでメイドは無理ね。庭師、、も無理。」
英梨は考え込んだ。お城の役職でこの子が出来そうなもの。
「わかった!あなたは私の友達にしてあげる!私がエリーだから、あなたはマリ!」
そう、マリは、あの時の子猫、、、
思い出した、全部。
英梨は自宅に向かって走り出した
家の鍵は閉まっていたが、メーターの上に合鍵があるのを英梨は知っていた。
家の中は散乱していたが、いつもゴミが散らかっていて綺麗な家では無かったので、お構いなしだった。
そこに、マリが立っていた
「来ちゃったのかぁ」
「マリ、ごめんなさい、私があなたを、この家に連れてこなければ、、」
マリの視線の先、ゴミ箱の中には、冷たくなった黒猫がいた。
エリーはそっと、その猫を掬い上げ抱きしめた。
あの日、学校から帰ったらパパがいた。扉を開けたらお酒のにおいがした。
隠していたマリが見つかってしまった。何ヶ月も大丈夫だったのに。突然なぜ見つかってしまったのかわからない。
動かないマリを、パパがつまみ上げているところだった。
「いやぁぁぁぁぁ!!!マリ!!!」
英梨は父親に駆け寄り、泣き叫んだ
「マリだぁ?勝手に何飼ってんだよ、ニャーニャーうるせえから外に棄てたら、今度は窓の外でずっとニャーニャー鳴きやがる」
「マリ!!マリを離して!!」
父親の足にすがり、懇願する。
「チッうるせぇな!!」
そう言って思い切り英梨を蹴飛ばした。
壁に頭を打ち付けるところだったが、そこには柔らかいテッドがクッションになった。
いつもだと、ここで「エリー」に切り替わる。けれど、その日は頭に血が上って英梨のままだった。
父親は、マリをそのままゴミ箱に投げた。
「おめぇさぁ…。」
父親が近づいてきて、ニタリ、と笑った。
「胸、デカくなってきたな」
瞬間、英梨は背筋が凍る程の恐怖を感じた
目の前のこの生き物は、何?
私をお姫様だと言ってくれたパパはどこに行ったの?
この人は、だれ?
壁際に飛ばされた英梨は、近づいてくる怪物に向かって、無我夢中で入り口すぐにあったロバートを投げつけた。
「イッテェ、、ふざけんな!」
そう言って、その怪物はロバートを思い切り投げた。壁に衝突したロバートはバラバラに飛び散った。
「静かにしねぇとこうするぞ」
そう言って、大きなハサミを取り出した怪物はテッドを切り刻んだ。
恐怖で動けなくなった。痛い。痛いよパパ。
そのまま、倒れている英梨の服をせっせと脱がしてくる怪物を、眺めるしかなかった。
パパを返して欲しい。こんなのはパパじゃない。これは英梨ちゃんのパパ?私は?あれ、私は、、
瞬間、ハッとした。身体を触ろうとする父親に、ここで初めて抵抗した。
急に抵抗されてビックリしたのか、組み敷かれていたのがあっさり抜け出せた。
そして、ハサミを手に取り、近づいてくる父に向けた、
「ふざけんなコラァ!!」どなり、襲いかかってくる父親と揉み合って、そして、脇腹を刺してしまった。
「あ…あ、」
温かい血が、両手にも伝ってきた。
「あははっ!怪物もあったかいんだぁ。」
そんなことを遠くで思いながら、、英梨の意識は途切れた。
「マリ、ごめんなさい。うちに連れてこなければ。あなたは…。」
「エリー。違うわ。確かに最期は痛くて辛かったけど、あなたがくれたご飯が、歌声が、温かい感触が、全てが幸せだったの。あなたと暮らしたこと、後悔はしていないわ。テッドもロバートもそう思ってる。私たちはあなたと同じ。一緒にいる人を選べない。あなたも、父親を選べなかった。理不尽よね、父親はあなたを好きに出来て、捨てようと思えば捨てられる。叩く事もいじめる事もできる。私だって、前の飼い主に捨てられた。
けど、選べなかった私たちが側に居たのが貴方だった事、少しも後悔はない。
英梨はひたすらに泣きじゃくった。
「マリ、あなたも行ってしまうのよね。私の妄想なのに、そんなに素敵な言葉を言ってくれるなんて、本当に不思議なネコ。」
ふふふっといたずらっ子のように笑ったマリは、英梨の頬の涙をペロペロと舐めた。
「マリ。あなたの踊るような軽やかな動きがとても好きだったわ。ここから走って走って、逃げられそうな、どこにでも行けそうな程の軽やかさ。本当に羨ましかった。」
ふふっとマリは得意げにわらった。
「エリー。ロバートやテッドみたいに、私のお願いも聞いてくれる?」
「もちろんよ」
「ぎゅーっと抱きしめて、一緒に眠りたいの。ほら、あの人にバレないように、夜はずっと箱の中だったから、あなたと眠るのを夢見ていたの。」
「うん…おいで…。」
温かい体温、ふわふわした感触。
「エリーはあったかいね。」
「大好きよ、マリ。」
マリを感じながら、英梨はお城の布団で眠りについた。
◆5
数日後、退院した英梨は「シセツ」にいくことになった。
父親に殴られた傷と、足りなかった栄養を補うだけだったので、そんなに長期間の入院にはならなかった。
てっきり「タイホ」されて「ケイムショ」に行くものだとばかり思っていたが、違う所らしい。
あの日の夜、病院を抜け出した英梨は、自室の布団の上で見つかった。
黒猫の遺体を抱きしめて眠っていたところだった。勝手に病院を抜け出して家に忍び込んだこと、理衣さんに怒られた。理衣さんは怒っても叩いたりぶってこないから優しい人だ。黒猫は、理衣さんがちゃんと供養すると約束してくれた。
あの後、荷物を取りに一度だけあのお城に入った。
ロバートを入れた缶と、テッドを入れた袋も持っていくことにした。
ふと、勉強机を見ると、ロバートがいつもいたとこに、ネジを見つけた。こんなところにあったのだ。それも持っていく事にした。
そして、理衣さんの運転する車に乗り込んだ。
「シセツってどんなところかなーっ」
「なんか子供がいっぱいいるらしいよ、友達できるといいね。」
「友達かぁ…。あ!そうだ聞いて!ロバートのネジ、ロバートがいつもいるところにあったの!無くしたって言ってたのに!」
「ネジじゃなくて指で巻いて貰いたかったんじゃない?素直じゃないなーロバート!」
うふふっと笑うと、理衣さんが訪ねてくる。「あら、英梨ちゃん。なにか良いものでも見つけたの?」
「うん!でも、秘密です。」
あらそう、と言いながら青信号で車は動き出した。
「マリ、これは二人だけの秘密ね。」
英梨は、隣の黒いワンピースの猫目の女の子と顔を見合わせて、またクスクスと笑った。