70、騎士
たったの六文字を、彼はニ十年も言いそびれた。
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ガルゾフは天才と呼ばれていた。
貴族として生まれ、人よりも多くのことに触れてきた彼は、それを完璧にこなしてきた。
勉強、音楽、作法、乗馬、弓術に槍術、さらには魔術に剣術まで、彼には何だってできた。
人は彼の事を天才ともてはやす。
どんな事でもすぐに極めてみせる、どんなことでもできる天才だと大いにもてはやす。
大人は大いに褒め、期待し、その調子でと鼓舞する。
子供は大いに妬み、嫉妬し、最後には尊敬する。
分かりやすく誰もが彼の能力に注目し、彼の能力だけを見ていた。
理解者など、ただの一人もいなかったかもしれない。
だが、彼が特別傲慢であったり、性格を疑うほど歪んでいたわけではない。
むしろ、誰しもが見本になるべき人物が出来上がっていた。
初めから完成されていたのだ。
初めから手を加えるでもなく、それだけで美しくあった男。
原石などという過程はなく、ただそうあるだけで素晴らしかった。
当時の彼を知る者は、誰もがそう言うだろう。
不気味さなど感じようはずもない。
絶対に感じさせるようなことはしなかった。
そうしてできたのが、完璧な騎士ガルゾフという男だ。
他者の志を重んじ、多くの人々を助ける。
どんな悪者も、魔物も瞬く間に倒してしまう正義の体現者。
誰もが憧れ、誰もが愛し、誰もが縋る、みんなのヒーローと言えよう。
しかし、それが良いと言えるものだったのだろうか?
周りは彼に義務ばかりを求めた。
羨望や嫉みがそこにある。
そしてそれ以上に、そう合って当然だろう、という勘違いが蔓延していた。
君のような天才はこうあるべきだろう。
君のような持っている者は我々とは違う。
だからもっと尽くしてくれ。
誰も彼を慮ることなどしない。
あまりにも出来すぎた彼は、そうあれと定められてしまったのだ。
生まれて十数年でその生き方以外することはできず、栄光によって光り輝く道を歩ませれていた。
只人であることを、許されなかったのだ。
そのことに彼は、
「これが私の使命だ」
と、断じた。
彼の自由を奪い、彼の将来を奪い、彼を英雄に仕立て上げた周囲の人々を、彼は決して恨みはしなかった。
むしろ、彼らが居たからこそ、こうして目標を持てているのだと、感謝すらしているだろう。
何でもできて、別に何になりたかったわけでもない彼が、ただこうなった。
彼からしてみれば、本当にそれだけの話だ。
確かに、英雄に憧れたわけでも、なりたかったわけでもない。
彼は何にでもなれたが、自分で英雄を選んだわけでもない。
言ってみれば、なんとなくだろう。
ただなんとなくそういう風になったから、流れでなった。
そのなったものには、たまたま多大な責任が伴うというだけだ。
なりたかったわけでもないのに、その義務だけは蟲のように湧いて出る。
煩わしいったらありはしない。
払っても払っても、次から次に面倒な出来事はやってくる。
誰しもを助け、『ああ、英雄よ』と讃えられる立ち振る舞いをしなければならない。
誰がこんなものになりたいのだ?
さっさと全部ぶん投げて、辞めてしまえばいい。
普通はそのはずなのだ。
なんとなくなんかでなってしまって、やっていける役目ではない。
けれども、彼はやれた。
彼の並外れた能力は、どんなことだろうと容易くこなせた。
あらゆることが煩わしいのうちに入らない。
手慰みも同じだった。
どんなことも、彼の心に響くようなものにはならない。
異常だ。
だって、誰がこんな道を歩みたい?
救ってくれという言葉が常に頭を侵し、下に目を向ければ気味が悪く感じるほど多くの人々が手を伸ばしている姿が映る。
後には彼に付き従う者たちもいるが、前や隣に誰かが居ることは決してない。
こんな責任と義務にまみれた、しかも彼にしてみれば面白くもない、一人で戦い続けるだけの役目に、彼は打ち込む。
なんとなく、打ち込む。
ああ、こうなる運命だったんだろうな、とポカンと考えている。
どんな重責も、逃げられない義務も、まぁしょうがないからやっていた。
いい加減で、適当な生き方だ。
自分が他人よりも優れた自覚はあったから、別にできる自信はあったし、実際やれた。
だって、見せられた通りにすればいいのだ。
こうすれば敵を倒せると言われたのならその通りにする。
こうすれば人から好かれる言われればその通りにする。
こうすれば英雄らしいと言われればその通りにする。
こうすれば……………
こうすれば、こうすれば、こうすれば……………
何ともおかしな話だ。
誰もが憧れ、尊敬するような彼の中身は空だった。
誰しもがこう見たい、と思うように彼がその器を変えていただけで、その中身など無かったのだ。
それに誰も気づきはしない。
誰も、中身になど興味はなかったのだから。
畢竟、彼は装置だった。
誰もが自分にとっての理想を彼に見る。
そうしているうちに英雄になった。
彼の言った『使命』とは、他の誰かにとって夢見がいいものを見せること。
物心つく頃にはずっとそうだったのだ。
何故そうなった?にはなんの意味もない。
なんとなくそうなった。
なんとなく、彼は装置として完璧に機能し続けたのだ。
その不透明な使命に、血肉が通ったのはいつだったろうか?
ある日、ある日の任務でのこと。
初めて魔物と戦ってから、それなりに時が経ってからのことだ。
別にどうということはなかった。
他の騎士たちがするように、彼もそれを真似して、同じように魔物を狩る。
初めての時は訓練のために弱い魔物だったが、しばらくするとすぐに、騎士が本来対処する、冒険者の手に負えない強い魔物の討伐任務に加わる。
しかし、彼からすればどんな魔物も変わらない。
初めての時と同じく、その次に来たもっと強い魔物も、さらにその次に来たもっともっと強い魔物も、その次も、その次も、その次も、同じように彼は戦った。
その時もそうだ。
訓練の段階はとっくに過ぎて、冒険者の手に余る魔物を討伐するという任務だった。
確かに強い魔物ではあったのだろうが、彼からしてみれば全部一緒だ。
彼ならば、龍であろうと対処できるという確信があった。
同僚も、魔物が居たという付近の村の者たちも、自分自身でさえも、簡単に倒せると踏んだ。
ただ少しだけ、気がかりがあるとすれば……………
「騎士様………実は、き、昨日から、娘がいないんです……あ、遊びに行くと言ったっきりで………もしかしたら、魔物が居る森に………………」
血の気の引いた女だ。
目の下にはクマができ、今にも泣きそうな顔をしている。
その夫らしき男も、件の娘の兄弟らしき子供も、彼女を心配そうにいたわっていた。
苦しそうだ。
女もそうだが、その家族もかなり疲れている。
いなくなった娘を想って、不安で押し潰されそうになっている。
そんな彼女らに、理想の騎士の姿を真似ていた彼は、理想の騎士が言いそうな、誰しもが憧れる英雄が言いそうなセリフを選んだ。
「大丈夫。私が必ず救い出してみせましょう」
その時の彼女らの顔を、今でも彼は忘れない。
暗い絶望の中にいた彼女らに、希望の光が差し込んだのだ。
そこに浮かんだ、ほんの少しの安堵の色を見て、言われた通りにしようと、その時の彼は考えていた。
正義感から絶対に助けてみせる、と決意したわけではない。
ああ、言われたからやらないと、といういい加減な義務感で、大したやる気もなく動いただけだ。
だが、もう二百五十年以上前のことを、忘れることができない。
彼はその時分かっていなかったのだ。
こうすればいい、こうしていればいい、そうすれば全て上手くいく、仕方がないから期待に応えよう……………
そう思っていた彼に、現実を叩きつけた話だ。
「近いな」
分かる。
周囲の魔力が強くなっていったのだ。
強力な魔物が持つ、膨大な魔力が溢れている。
この先は危険だという警告がビリビリと脳を刺激し、その存在感が認識を塗り潰していく。
強力な気配を感じていくにつれ、弱い魔物の姿も見えなくなっていった。
本格的に、ソレの巣に近づいていることは明らかだ。
騎士たちは緊張で唾を飲み込むが、ただガルゾフだけは余裕。
どうせまた同じようになるのだろう。
これまでも、同じような魔物を相手取ってきたし、その度に他の者たちはこうして緊張を隠さない。
だが、変わらないのだ、何も。
どんなに強かろうが、どんなに暴れようが、どんなに殺そうが変わらない。
どうせまた、自分は魔物をさっさと倒し、件の娘は簡単に見つかり、吐き捨てるほど見た笑顔を向けられて、聞き飽きたありがとうを言われるのだ。
変わらない。
変われない。
何一つとして、面白い事などない。
そういう勝手な決め付けがあった。
「おい、アレ…………!」
それは、決めつけでしかない、と……………
「まさか、アレは……………」
思い知らされた
魔物はそこに居た。
山の奥の大きな洞窟の中の、さらにその奥に。
情報の通りの化け物だった。
獅子の胴体、蠍の尾、蝙蝠の羽に人の顔を乗せた、狡猾で残忍な化け物。
マンティコア
酷い匂いだ。
グズグズに腐った匂いと、何かしらの糞尿の匂い、そしてそこに溢れているのではないかと錯覚するほどの、血の匂い。
薄暗い洞窟の中で、騎士たちが手に持つ松明を部屋の奥へと向ける。
向けると、地獄があった。
洞窟の奥は部屋のようになっており、獲物を切り裂くまな板や、ナニカでできた肘置きがある。
人の服や装飾品、武器や防具に、人の残骸が散らばっていた。
何らかの理由で元の住処を離れ、その途中で見つけた行商人や、討伐に来た冒険者たちか?
フラフラと彷徨っているうちに、ちょうどいい洞窟を見つけて部屋を作っている最中だったのだろう。
危なかった。
あと一週間遅ければ、コイツは近くのあの村に目を付けて、村人を家具にしていたに違いない。
だから、良かった。
不幸中の幸いであったと言えよう。
しかし、あと一日早ければ、もっと良かった。
もしかしたら、何か違っていただろう。
「え……………?」
冷や汗が止まらなかった。
よく分からない、黒い予感が彼の背中を撫でる。
凍えるように冷たくて、けれども吐き出す息は灼熱のように熱かった。
これを、彼は知らない。
こんなにも怖いものを、いや、怖いという感情を、彼は知らない。
「………………………!」
理解したくなくとも、分かってしまう。
この状況で、これ以外何がある?
彼はいっぱいいっぱいになりながらも、かろうじて理解することができた。
できて、しまった……………
小さな死体だ。
四肢はもがれ、中ははみ出し、眼窩は暗い虚となっている。
大きさからして、死体の年齢は十に届かないほどか?
きっと、長い時間をかけて嬲られたことだろう。
彼は剣術や体術を学ぶ過程で、人の体を深く勉強したから分かった。
死ぬまでの時間が長引くように、獲物のギリギリを剥ぎ取る、拷問の手本のような殺し方。
生きている間は奴の玩具、死んでからは食料、骨になれば家具になる。
より弱いものをいたぶる習性があるのだ、この化け物には……………
ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!
あーひゃっひゃっひゃっひゃっ!!
騎士たちを見て、嘲笑う化け物。
人間の顔が激しく歪み、人に似た気持ちの悪い笑い声が洞窟に響き渡った。
その声は骨にまで響くほどに不愉快で、不愉快すぎて聞いていられない。
ガルゾフは気が付けば、次の瞬間にマンティコアの首をはねていた。
斬られてから少し遅れて、斬られた首の目がギョロリとガルゾフを見つめ、それでもなお顔はニヤニヤと嗤う。
首からも体からも、毒々しい紫の血が滝のように湧き出て、それが体にかかるが、気には止めない。
あれほどまでに気持ちの悪かったマンティコアへ、もう興味を失っていた。
それよりも自分のことが分からない。
この分からない、にしか興味がない。
目の前が真っ赤になり、そして胸はぐるぐると渦を巻いて気持ち悪かった。
この感情を、当時の彼は知らない。
怒りを抱いたのは、彼の人生初めての出来事だった。
「嘘つき!」
この感情を隠すことはできそうになかった。
隠せないままに、彼は女に娘について報告を行う。
どこにもいなかった、と……………
嘘だった。
女にも分かってしまうような嘘だった。
だが、言わずにはいられなかった。
子供はいない。
見せられない、聞かせられないと両親が別の場所へ追いやったのだろう。
懸命な判断だ。
どこかで、彼女らも覚悟していたのかもしれない。
「必ずなんて、嘘だったじゃない!なんであの子が、死ななきゃならなかったの!?ねぇ、教えてよ騎士様ぁ!」
その夫も、何も言わずに彼女を押さえつける。
地獄の責め苦を味わっているかのような、恐ろしい表情で、言葉もなく妻を抱きしめていた。
八つ当たりにしかならないと分かっていた彼も、彼女も、この激情を抑えることはできなかったのだろう。
遅かったガルゾフは、甘んじて受け止めるしかない。
初めて理想を演じられなかった彼に、相応の罰が必要だ。
そうでもなければ、自分を抑えられなかった。
「返してよ!シンシアを返して!」
今も、今でも、忘れられない。
忘れられるものか。
こんなことを、忘れてたまるものか…………!
彼が自身の臆病を自覚したのも、この時が初めてだったろう。
完璧な装置であったはずの彼に、雑念というヒビが入ったのも……………