110、戦士の試練(2)
苦しい
痛い
熱い
寒い
あらゆる苦痛がエイルを支配していた。
痛みに慣れ、鈍い彼ですら動けない。
肉体のすべてが病巣に変えられたかのような、自身の体が侵される感覚かに支配される。
凄まじい不快感。
だが、それを捻じ伏せる痛みが全身に走り続けた。
「ごぇ……く、がぁ……」
何もない胃の中身が逆流する。
食事を取っていないために、出た中身に固体はない。
ただでさえ酷い匂いが漂っているというのに、さらに吐瀉物の匂いが混じった。
嗅覚の鋭いエイルにとっては苦痛でしかないが、そんな事は気にならないほどに苦しい。
エイルはずっと拷問を受けていたのだ。
仇であり、最悪の敵である『呪い人形』から。
「やあ、また来てあげたよ。今日も元気いっぱいだね」
声がした。
エイルの薄れていた意識が僅かに覚醒する。
霞む目で声の主である男を弱々しく睨むが、男はまるで気にしない。
むしろその様子に優しく笑いかける。
優しく、明るく、けれども、その後ろにある邪気を抑えきれない嫌な笑顔で。
男は黒い喪服に見を包んだ初老に見えた。
綺麗な黒髪がオールバックにされ、顔の皺がよく見える。
さらに特徴的なことに、男の片目は山羊のような横向きの瞳孔をしていた。
銀色のトレイを手に持ち、何かを乗せているようだ。
けれども、そこからは腐臭が漂う。
まともな物とは思えない。
「君には期待しているんだよ。私は多く恨みを買ってきたが、その中で『超越者』に成れたのは君が初めてなんだ」
睨むエイルに、『呪い人形』は語りかける。
加虐心を滲ませながら、ねっとりとエイルを見つめて。
「ほら、だからこうして、動けない君の世話をしている。見たまえ。私の魔力に当てられて少し傷んでしまったが、食料を持ってきてあげているのだよ」
ベチャベチャ、と何かが落ちる。
黒ずんで、溶けていて、けれども元が何かはギリギリ分かる。
ちらりと見える赤い丸は、おそらくリンゴ。
カビだらけだが、形からしてパン。
黒いヘドロに紛れているが、おそらくハム。
最悪だった。
とても食えたものではない。
だが、コレしか食える物がない。
行動には悪意しか見えない。
いたぶり、痛めつけて、生かさず殺さず。
何よりも楽しいから、こうしている。
「では、私はここで失礼するよ。これ以上は死んでしまうからね。次に来る時は、私の『力』に耐えられるといいね?」
それだけ一方的に言うと、『呪い人形』は去っていく。
機嫌良さげに。
エイルが苦しむ様を肴に酒をやりそうだ。
耳ざわりの悪い鼻歌が鳴り続ける。
それから姿が見えなくなり、十分な時間が経った所で、ようやくエイルは立ち上がる事ができた。
だが、すぐにその場に座りこむ。
座って、『呪い人形』が去って行った方向を、座った目で睨み続けた。
死にかけの体は急速に回復へ向かい、息をするだけで激痛が走っていたはずの肺へ大量の空気を入れる。
それが声と共に、外へ吐き出された。
「クソがあああああぁぁぁぁああああ!!!!」
大気が震えるほどの咆哮。
一キロ先でも聞こえるほどの、負け犬の遠吠え。
手も足も出なかった圧倒的強者である『呪い人形』が離れてようやく吠えることができた自分に、怒りしか覚えない。
苦しみに負け、痛みに負け、仇に負けた。
これまでのすべてを仇討ちのためにかけたというのに、触れることさえ出来ずにいたのだ。
屈辱
這いつくばって、遊ばれるために鍛えてきたのか?
何もできずに寝転がるために戦ってきたのか?
遠い。
足元すら見えないほど、遠い。
『呪い人形』が、ただそこに在るだけで撒き散らす、呪いと毒に耐えられなかった。
殺すつもりなど全く無い、アレにとっての生理現象。
そんな程度のものにも打ち勝てなかった。
この事実は、あまりにも重い。
「クソ……!」
最後の吠えは、あまりにも弱々しかった。
いくら己を高めても、勝てないと思ってしまったから。
エイルの心臓、核にも等しい場所を、自分で否定してしまったから。