苦しみ抜いた果てにあるものは、死。
『ははっ!見ろ、人がゴミのようだ!』
サングラスをかけた男が、ポッカリ開いた大穴から炎上する飛空挺を眺めながら、芝居がかったセリフを叫ぶ。
あぁ、たしかにゴミのようだ。私も、あんな風に一発会社に落とせればスッキリするんだろうけど、生憎そんな力も兵器もない。
「はぁ」
現実逃避するつもりが、かえって現実を再確認することになった虚しさに何とも言えない気分になりながら、不朽の名作が放映されるテレビの画面を暗転させる。
時計を見れば、もう午前三時を大きく過ぎていた。
明日も仕事があるというのに、私はどうしてこんな時間まで起きていたのだろうか。……いや、違うな。帰ってきたのがつい十数分くらい前だったせいだ。つまり全部会社のせい。
「ちっ」
風呂も碌に入れない、飯だって碌に味わって食う余裕なんて無いし、寝る時間も行き帰りの電車内か、帰ってから小一時間眠る程度でもはや寝たとは言えない。
「……畜生、滅びねぇかなぁ、この世界」
呟いて、ゴロリと布団の上に横になった。
シャワーで適当に洗っただけの長い黒髪が、自分の頬にかかり、薄いベールのように包んでくる。
それから寝息を立て始めるまで、殆ど時間はかからなかった。
なんだか、懐かしい夢を見ていた。
小学生くらいの時かもしれない、いや、中学入りたての頃だったか?……全く覚えていないや。
あの頃は何でも新鮮に感じた。
新しい勉強、新しいゲーム、新しい友好関係。
その全てが燦々と輝いていて、本当に私は将来、何にでもなれるんだと誤解していた。そう、あれは誤解だ。
学校なんてもんは、自分は何にでもなれると誤解させて勉強に専念させ、その裏で社畜としての意識を軍隊式の教育を受けさせることで根付かせる。自分の意見を言えない子供を量産させる。量産型チルドレン製造機だ。
何か不都合があればすぐに調整の手が伸びる。道徳、仁徳、そんな綺麗な言葉を並べ立てて、人をロボットへと作り替える。
某ユーチューバーが『みんなロボットに見えた』だなんて言っていたという話があったが、まさしくその通りだろう。この資本主義社会では、人民の一つ一つがもはや経済を回すための歯車以上でも以下でもない、それだけの意味しか持たず、そしてそれを自覚しないで生き続けている。思い出すことを封じられている。
あぁ、もっと自由になりたい。どこかもっと辺鄙な森とか山の中で、自由気ままな生活を送りたい。望むならば、目が覚めたら異世界に、なんて、安いラノベにありがちな量産型のおとぎ話の一部にでもしてくれないかな……。
……そう思いながら目覚めるも、しかし目の前に現れたそれは、やはりいつもの見慣れた天井だった。
「あぁ、行きたくねぇ」
⚪⚫○●⚪⚫○●
四年前──。
「えー、本日付で今日から製作部に配属になった黒井君だ。皆、仲良くしてやってくれ」
ハゲを必死になって隠そうとして頭頂部がまるでバーコードのようになってしまっている部長が、ある日そう言って私をこの会社に迎え入れた。
その時の他の社員たちは結構な笑顔で、その裏にあるのが一体何なのか、未だ社会を知らない若い私は、何一つ疑問に思うことなく『あぁ、なんかいい人そうだなぁ』などと呑気に考えていた。
昨今、世の中にブラック会社なんてものが蔓延るこのご時世に、何故そんな呑気なことを思えていたかと言えば、この会社を選んだ理由が、この会社の制度のホワイトさだった。
有給休暇は週に三回まで使えるし、長期休暇だって申請すれば特に切羽詰まっていない状況などでなければ普通に取れた。メンタルヘルスケアとして心理療養士からのカウンセリングも無料で受けられるし、他にも様々な、そう、休む時間さえあれば結構ホワイトに生活できる制度が盛り沢山だった。
そう、休む時間さえあればの話だ。
「何かわからないことがあれば、何でもリーダーの村田君に聞いてくれ」
部長はそういうと、一番手前の部長に一番近いデスクに座る不健康そうに隈をした痩せっぽちな男に私を預けた。
「よろしく、黒井さん。これからビシビシ鍛えてやるから、覚悟しとけよ?」
「は、はいっ!頑張ります!」
これが地獄の始まりだとは、まだ知らなかった。
いや、わかるはずもない。あるいは私にもっと観察眼があれば分かったのかもしれない。
ここまでホワイトな制度がある癖に、このリーダー村田がここまで痩せこけ、目の下に隈を作っている理由について意識が馳せさえすれば、きっとここが酷い場所だと分かったはずだった。
……そこから先は、まぁお察しの展開だ。
定時で帰れると思って席を立った初日の夜のことだ。私は村田に誘われて、部の全員で居酒屋に行き、歓迎会の主役となった。
そうやっていろいろ飲み明かし、そろそろ解散とあいなった時だった。
「明日からもよろしくお願いします!」
そう言って締めの一言を告げた直後、よっこらせと立ち上がった村田が、暗い笑みを浮かべながら言ったのだ。
「そんじゃ、そろそろ会社に戻りますか」
と。
正直、私は耳を疑った。普通そんなことあるか?と。初日から徹夜とか、私には絶対無理だ。もうタイムカードだって切った。これ以上働くのは精神衛生上悪すぎる。
そういうわけで『皆さんお疲れ様でした』と言って一人帰ろうとした。
……言わせてくれなかった。
そのまま後ろから肩を掴まれ、逃しはしないとばかりにタクシーに連れ込まれた。
恐怖のまま、私は会社に連れ戻された。
初日から徹夜、否、完徹。
私がこの会社がブラックだと気が付いたのは、ここからだった。何とも情けない話ではある、思い返せばどこからでもその兆しは見えていたというのに。
机に転がるエナジードリンクの空き缶の数々、やけに内容の偏った社内の自動販売機。
それでも、リーダーの村田は優しかったから、まだ何とかなった。
間違えれば丁寧に教えてくれたし、あまり怒鳴ることもなかった。問題があったのは村田ではなく部長だった。
下の人がした失敗を、全て村田が庇ってくれていたのだ。それを横目に仕事するのが、すごく辛くて辛くて。それでも『気にしないでいいさ』と日々やつれて行く彼が気の毒で……。
それが、この部を異様な雰囲気たらしめる要因だった。
私が休めば、村田さんが怒られる。だから何があっても休むことなんてできない。まるで毎日人質をとられているような気分だ。
短い納期、無茶な変更、そんな物もかなりの頻度で押し寄せてきた。失敗すれば村田さんが苦しんだ。彼が苦しめば全員が苦しんだ。
でも彼は言うんだ。
『僕一人が怒られればさ、君たちはストレスなく仕事に専念できるでしょ?ここにはそういう人柱が必要なのさ。それがリーダーである僕の……僕の役目だからさ』
悲しそうな顔はしていなかった。かわりに何か吹っ切れたような、悪く言えば諦め切った顔をしていた。
あぁ、これは大学で習ったことがある。
学習性無力感というやつだ。
何かストレスから逃げようとして、逃げようとし続けて、しかし何をやっても逃げられないと悟った時、動物は自ら自由に逃げられる状況に置かれたとしても、『どうせ逃げられない』と逃げることすら諦めて──いや、そもそも頭の中にすら思いとどめることすら忘れてしまうのだと言う。
ブラック会社から転職できない理由はここにある、ともよく言われるが……。ここの場合は、村田の犠牲のせいだった。
(転職したい)
何度そう思ったか。
する時間さえあればやった。昼休みにでも何でも使ってやったさ。しかしいかんせん、人員が少なすぎる。少なすぎると言うのにこの部長は膨大な量の仕事を持ち込んでくる。
もはや休む時間なんてない。
ホワイトな制度なんて、まるで無意味だ。
あぁ、クソ。クソだクソだ、こんなもの。
優良ホワイト企業に見せかけた制度なんて、ただの工作だったんだ。詐欺だ。
しかし実際に制度自体はあるようなので、法律上これを詐欺と言っていいのか判断をしかねる。
クソ、クソ、クソ。
昔、高校のアルバイト時代に祖父が言っていたことを何故忘れていたんだ。
『うまい話には裏がある。何故そんな制度を設けたか、よくよく理解しておかなければならない』
(……なんで、忘れてたんだろうな)
もう数え切れないくらい、連勤を続けている。
皆勤賞なんて物があれば、一体何回受賞したことだろう。おそらく部の全員が毎月受け取っているに違いない。
──気がつけば、四年の年月が過ぎていた。
(いっそ、死ねば楽になるかな)
なんて、何度考えたことだろう。
二徹帰りの駅のホームでうとうとしながら、ぼーっとそんなことを考える。
ああ、このガードが邪魔だ。
これさえなければ、直ぐにでもやめられるのに。
そんなことを考えながら、電車の中で寝息を立てた。
⚪⚫○●⚪⚫○●
目が覚めたきっかけは、心臓を背中側から氷で撫でられるような、奇妙な感覚のするアラームだった。
耳に意識を飛ばせば、何やら悲鳴が聞こえる。なんだかキーッと重い物が擦れる甲高い音まで聞こえた。
僅かに、車内放送が耳に届く。
『くそっ、ブレーキが──』
おそらく回線が開きっぱなしになっていたのだろう、車掌の悲鳴の一部が鼓膜を震わせる。
人々は皆しゃがみ込み、蹲り、頭を抱えて甲高い悲鳴を上げていた。
そこから、現状を理解する間もなく巨大な衝撃がやってきて──。
私が死んだことを理解したのは、次に真っ白な部屋で目蓋を開いた時だった。
⚪⚫○●⚪⚫○●
「やあ、だいぶ疲弊しているようだね、君は。
さっき死んだ人たちの中でもダントツだよ」
天を仰ぐ視界の中に、真っ白な髪と黄金の瞳を持った少年が顔を覗き込みながら口を開いた。
年の頃は小学生くらいに見える。
整った目鼻立ちで、まさに天使の言葉が彼のためにあるかのように思える、そんな美少年だ。
「……君は」
やっとの事で口を開いた私は、そこで全身がふわふわとした感覚に包まれていることに気がついた。なんだか全身が軽い。これならば明日からもまだまだ頑張れそうだ……って、クソ、こんな時に限ってまた仕事のことかよ。
いい加減この社畜脳が嫌になってくる。
「ははっ、そんな怖い顔しないでよ。それに、君はもう死んでるんだから、会社に行く必要なんてないんだし、もっと気を楽にしたら?」
中性的な声で笑顔を浮かべながら言う彼女に、怪訝に眉をしかめた。
「死んだ?私が?」
「そう、君はもう死んだの。だからもう何もする必要がないんだ、自由だ。君は試練を乗り切ったんだ」
「……試練だと?」
妙なことを宣う少年だ。
あれが試練だって?ふざけるのも大概にしろと言いたい。
なんだって私があんな目に合わなければならなかったんだ。
そんな私の試練に付き合わされる村田さんや他のみんなの気にもなってみろ。
湧き上がる僅かな怒りに目を眇めるも、少年は飄々とした態度を崩すことなく話を続ける。
「君は前世、全く人を疑いもしなかった百パーセントの善人だったからねぇ。お陰で悲惨な死に方をした物だから、今世では人を疑うことを理解させようってコンセプトで人生を組んだんだけど……。
君は見事、カルマをクリアしてくれました!おめでとう!」
人生を組む?カルマ?
一体こいつは、何の話をしているんだ?
そもそもこいつは誰だ?
処理し切れない情報に、頭がぐらぐらする。
碌に宗教なんて興味を持ったことがない私にとって、彼のその言葉を理解するのは難しい話だった。
おめでとう!そう言ってパチパチと拍手する白い少年。
なんだか、新たな詐欺に引っかかっているような感覚がする。
名付けるなら『君は死にました詐欺』だろうか?
……うん、我ながらネーミングセンスの無さに苦笑が出るな。
まあいい。
私が死んだと言うのなら、そう言うことにしておこう。そっちの方が、色々と精神的にも楽だ。
何せ、もうあそこに行かなくても済むのだから。
……村田さんは気の毒だろうが、そもそもこの事態になったのは全部あいつのせいだし。
いや、あの人がいてくれたお陰で四年ももったのだろうか?今となっては永遠にわからない。生きていてもきっとわからなかっただろう。
クソ、頭から離れる気がしねぇ。
「そこで君には、ご褒美としてちょっとした魂の休暇というものをプレゼントしようと思います」
「……はぁ。ご褒美」
そりゃありがたいね。
休めるというのなら、存分に休日を貪ってやろうじゃないか。自堕落に、気儘に、誰の目も気にすることなくさ。
「というわけで、君にはこれを回してもらおう」
少年の手を取り、立ち上がる。その手は異様で、体温が全く感じられなかった。
手を引かれて向かったその先には、商店街なんかでよく見た新井式回転抽選機──所謂ガラガラという物が設置されていた。
「……」
思わず、少年を見下ろしてしまう。
しかし当の彼はと言えば、ニシシと大きな笑みを浮かべるばかりで、他に何も言葉を発さなかった。
(これ、本当に詐欺なんじゃないかって疑わしくなってきたな)
そんなことを思いながら、足を一歩前へと踏み出した。
「ささ、どうぞぐるっと回しちゃってください!」
「……」
そんなカンパで一気呑みを煽るような言い方をされても。
まぁ、他にすることもないし。
つくづく社畜として養われた従順性が身に染みているなと自嘲気味に笑いながら、そのハンドルに手をかけた。
ガラガラガラガラ、と抽選機を回す。
小学生の頃、一度だけ回したことのあるあの頃を思い出す。
希くば、あの頃の失敗をもう二度と繰り返したくはないものだ。
箱の中をガラガラと小さな球体が波のようにさざめく感触が手に伝わってくる。
耳の中、鼓膜にまでその波は届いてくれる。
ひたすら無心になって、そういえばこれまで稼いできた金も、とうとう使う機会すら訪れなかったなと虚しい気持ちが胸中を支配した。
来世はどうか、そんなことはないように、無理をしないで生きていこう。
そうだな、手始めに世界旅行とか面白そうだ。
世界中を飛び回って、綺麗な景色をおさめて、それから美味しいご飯もいっぱい食べるんだ。できればその隣には頼れる相棒とか居たりしたら楽しいだろうな。
「……」
不意に、ガラガラを廻す手を止める。
慣性に従って抽選器の穴へと向かって大量の運命が押し寄せてくる。
これほどまでに幸せについて考えたことがあまりにも久しぶりすぎて、思わず私は願っていた。
どうか望みの景品が当たりますように、と。
次の瞬間、その口から溢れてきた一つの球体は、海面に反射した夕焼けの色をしていた。