第17章「柊と日本に来ました」
【前回までのあらすじ】
俺の名前は日向。高岡から帰ると松郷がオークに襲われていた。特に被害なく撃退することはできたが、オークの残党の存在は今後の鉱山再稼働に向けて大きな課題を残すこととなった。
岩瀬屋との商談もまとまって今後政務が急拡大する公算が確実となったので、全員の担当範囲を明確化することになった。その結果、予想よりも人手不足が深刻だということが改めて浮き彫りとなった。
外交業務が一段落したので、4月分の報告のために一時帰国することにした。その際、柊を供に連れて行くことにして、柊の様子を見たところ、自転車の製作で壁にぶつかっていたため、それを一時棚上げにして日本行きの準備をさせた。
柊を助手席に乗せて、俺は高速を飛ばしていた。
ゴールデンウィークが近づいてきているがまだ混雑はしていない。これが来週後半になれば大変なことになっているに違いない。
狙ったわけではないが、帰国(異世界は厳密には国外だから帰国でいいと思う)のタイミングとしてはいいタイミングだったのではないかと思う。ただ一点を除いては。
昨日、メールで帰国の件を連絡した所、遊佐教授は今日から入れ違いで海外出張だということだった。ゴールデンウィークの終わりまで海外だということなので、日程をずらしても今月は会えない。
なので、今月は忍先輩に代理で報告しておくことになった。教授に会うならと考えていた異世界のお土産も来月に延期だ。普通に金製品を持って帰るだけにすることにした。面白いものを忍先輩に先に見せたらきっと教授は拗ねるだろうからな。
「柊、こっちの世界はどう? ……柊?」
「……ひ、日向様ぁ……」
初めての異世界、というかおそらく西夏北部の外に出ることすら初めてだと思われる柊に、日本の感想を聞いてみようと声を掛けたが、何やら様子がおかしい。
高速走行中に危険だけど、ちょっと横を向いて柊の様子を伺ってみた。
泣きそうな顔で、というかすでに涙の後が頬についている柊が、全身を硬直させたまま肩を怒らせて瞬きもせずに前を見つめていた。
「ど、どうしたの、柊」
「……怖い」
それを聞いて、慌てて次のサービスエリアで車を止めた。
「ごめん、ちょっとスピード出しすぎたかな」
「ぼ、僕の方こそ申し訳ないです。途中で車を止めさせてしまって」
出していたスピードは時速100kmでそこまで速いつもりはなかったのだけど、柊が生きてきた中でそんな速度で走ったことなんてないだろうから怖いのは仕方ないのかもしれない。
「いいよ。そんな真っ青な顔でそんなことを言われても、体調を悪くしたら僕も困るんだから。折角だから、ちょっと売店で何か買っていこうよ」
急に止まったところなので小さなサービスエリアであまり売店も大きくはないが、食べ物や飲み物は一通り置いてある。
俺は眠気覚ましに缶コーヒー、柊にはジュースと車酔い防止にガムを買った。
見晴らしのよさそうなベンチに並んで座って買ったいちご牛乳を飲んでいると、柊の緊張も大分ほぐれたようだ。
「もう大丈夫そうかな」
「ありがとうございます。大丈夫やと思います」
「ここからは助手席じゃなくて、後部座席に乗るほうがいいかもね。前を見てるより横を見てるほうが怖くないかも。後、忘れずにガムを噛んでね」
「はい」
その先、しばらく走ったところでもう一度サービスエリアに止まって確認したところ、大丈夫そうだった。いきなり助手席で高速道路はきつかったんだな。
さて、隣に人がいなくなったことで、俺の思考は自然に内省的なものになっていった。そして、さっきの違和感について思い出していた。
今朝、異世界の門を通って日本に戻った時、古家の敷地を出るときに伸びた草が踏み潰されたように倒れているところがあったのだ。
あれは何だったのか?
風や雨で倒れた? かもしれない。名探偵ではないので、草の倒れ方をみてその原因がなんであったのか推測できるような能力があるわけではないけれど。
でも、それが人や車だったりしたら? だとしても、一番可能性の高いのは俺だ。これまであの古家に人の気配を感じたことはないし、俺は何度もあそこを出入りしている。気づかない内に草を踏み潰していたんじゃないか?
けど、あの辺に立ち入った記憶はないんだよな。もし俺でないとしたら誰なんだ?
道に迷った人が一旦停車して地図を確認したり、Uターンしたりしたのかも? あそこは道幅がないし、路肩に寄せられないから空き家の庭を借りることは考えなれなくはない。
後は、考えたくはないが、あの古家の所有者が訪れた可能性か。
一応、異世界の門が設置されている土間の扉にはテープを貼って簡単な封印を施しておいてあるので、侵入者があったかどうかは見ればテープが剥がれているかを見れば分かるようになっている。
だが、古家の敷地や建物に誰かが入ったかどうかまでは分からない。一応、今朝確認した時には、敷地内に人の気配はなかったけれど。
古家はもう長らく放置されている様子ではあったけれど、民家であることは間違いないので誰か所有者がいるはずだ。その所有者が何かの拍子で何年かぶりに訪ねてくるという可能性はなくはない。
その時に異世界の門が発見されると面倒なことになる。それに、発見されなくても、物理的に敷地内に侵入できないように柵を立てられたりしたら厄介だ。
「早い内に何か策を考えておかないとな」
「日向様、何か?」
「ううん、何でもない。もう少ししたら高速を降りるから、そうしたらすぐだよ」
今日は土曜日で忍先輩は自宅にいるから、大学に行かずに直接遊佐家に向かうことになっている。と、その前に、そろそろガソリンを入れておいたほうがいいな。
遊佐家は都心の閑静な一等地に立てられた庭付き一戸建ての家だ。大正時代の建築で、和館と洋館が接合されたような構造になっている。木立の隙間から見える洋館部の尖塔が特徴的な目印だ。
「もうすぐ着くよ」
「この辺の街並みはちょっと落ち着きます」
「この辺りは超高級住宅地だからね」
「高級なんですか? さっきの高い建物の方が立派に見えましたけど」
「この辺は建物より土地のほうが高いからね。立派な建物より広い土地のほうが価値が高いんだよ。それにあの高い建物はたくさんの人が共同で生活してるところだから」
都心に入った辺りから、柊は現代日本の高層建築に圧倒されっぱなしだった。それと大量に行き交う自動車と。
柊に新宿の超高層ビル群を見せたらどんな反応をするんだろ。
遊佐家の付近は用途制限でビルが建てられないし、交通量も少ないから、柊にとっては比較的見慣れた景色に近い。俺からすれば、都心にこんな住宅街があるということが驚きなんたけど。
「着いたよ」
「ふはっ」
「疲れた?」
「はい。ちょっと」
松郷を出発してから4時間半は掛かっている。流石にこれだけ車に乗ってると疲れるよね。
来客用の駐車スペースに車を駐めて、門の呼び鈴を押した。
「はい」
「日向です」
「はーい。どうぞー」
インターホン越しに忍先輩の声がして、門の鍵が自動で開く音がした。この家、見た目はレトロなのだが、中身は現代的なのだ。
中に入るとよく手入れされた芝生の庭が広がっていた。その中を通る石畳でできた通路を歩いて、垣根の上から少しだけ見えていた和洋折衷の建物へと近づいた。
「日向くん、久しぶり」
「先輩、お久しぶりです」
「ところで、その子は一体?」
「あ、この子が昨日メールした先輩に会わせたかった子です。柊といいます。柊、この人は忍さんといって僕の先輩なんだよ」
「ひ、柊と申します。よ、よろしくお願いします」
「忍です。こちらこそ、よろしくね」
柊は知らない人を見て緊張でガチガチだったが、忍先輩がにっこりと笑いかけたので少しは緊張が解れたみたいだ。
「そうだ、これ、おみやげの金製品です」
そう言ってスーパーマーケットの紙袋に入れた金の皿とスプーンを忍先輩に渡した。
年収1000万円に対する対価として、毎月100万円程度相当の金製品を教授に渡すことになっている。今は教授がいないので忍先輩が代理だ。
最近の金相場では200~250グラムで100万円になる。500mlペットボトル飲料が500グラムくらいなので、その半分以下の重さで十分だ。体積にすればさらにずっと小さい。ほんの数点の金製品だけで軽く100万円は超えてしまうのだ。
「はい。確かに受け取りました。さ、中に入って。お昼、すぐ作るから」
忍先輩はちょっとおどけた感じで紙袋を受け取ると、俺と柊を食堂へと通した。
遊佐家は超大金持ちなのだが、よくある上流階級のステレオタイプのように家政婦が住み込んで何もかもしてくれるわけではない。なので、忍先輩も普通にキッチンに立つ。
今日のお昼は忍先輩お手製のスパゲティー・カルボナーラだった。
シンプルな料理だけど、なにせここは遊佐家、揃えてある食材のレベルが普通ではない。ただの玉子かけご飯ですら高級料亭の料理かと思うような味になるほどの食材を使っているので、当然このカルボナーラも絶品なのだ。
「これ、ほんまおいしい」
「やろ。材料がええからな」
「日向くん、それは私の料理の腕だと言って欲しいな」
「先輩の料理の腕も流石です」
「腕『が』いいんだよ」
「お二人は仲がええんですね」
「えっ」
「えっ」
いつもの調子で忍先輩とやりあっていると、ふいに発せられた柊の言葉に俺と忍先輩は同時に声を上げた。
「……」
「……ん、まあ、流石に4年も付き合いがあるからね」
俺が返事に困ってると、忍先輩がさらっと先に答えを返した。
「あの、付き合いってゆうのは、その、どうゆう種類のですか?」
「もちろん、友人だよ」
「あっ、そうなんですか」
「うん。私にとっては、この世で一番信頼できる友人かな」
この世で一番信頼できる友人。この表現を聞くのはこれが初めてではない。忍先輩は俺との関係を聞かれる度に、毎回この表現を使って答えているからだ。
「それは僕も同じですよ、先輩」
そして、それに対する僕の返事も毎回同じだ。
そんな俺と忍先輩を、柊は不思議そうな表情で見比べていた。
昼食を食べた後、俺たちは忍先輩に連れられてある所に向かっていた。
そもそも今回、柊を日本に連れてきたのは、柊に科学技術を自分の目で直に見てもらいたかったからだ。そこで、忍先輩にはその意向をあらかじめ伝えて相談をしていた。
特に見せたかったのは大型船と製鉄だったので、忍先輩は昨日の今日で急ながら、遊佐グループのコネを使って施設見学のセッティングをしてくれたのだ。
というわけで、俺たちは今湾岸線を走っている。乗っているのは例の先輩のスポーツカーだ。
「柊、あれ、飛行機だよ」
羽田空港を通過していくところでちょうど離陸していく飛行機があったので折角だから柊に教えてみた。
「……」
あれと言われて最初どこを指しているのか分からなかった柊だが、ようやく上と気づいて飛行機を見つけた後も口を開けたまま一言も発しない。
と思ったら、しばらくしてすごい勢いでスケッチを始めた。もっとも、もう飛行機は空の彼方へ飛んでいった後なので、記憶を頼りに描き起こしているのだが。
そうこうしている間に、あっという間に目的地の扇島に着いた。扇島という島は埋め立てて作られた人工島で、全島が私有地のため許可なく入ることはできない。もちろん、湾岸線の出口も存在しない。なので、最寄りの出口で高速を下りてから入島した。
この島の一角、と言っても割りと広い一角に製鉄所がある。それが今回俺たちが見学することになる製鉄所だ。また、ここには鉄鉱石や石炭を運ぶタンカー(正確にはバルカー)が直接接岸して搬入をするので、間近で船を観察することもできる。
所内の見学には係員が1人付くこととなった。また、所内は写真撮影禁止だ。スケッチは短時間で描いた簡単なものなら許可してもらえた。
しかし、その注意さえ守れば、秘密保持契約にサインした上で比較的自由に見せてもらえることになった。
ということで最初に向かったのはタンカーが停泊する港だ。ちなみに、所内は広くて歩いてられないので、移動は係員が運転する車で行われる。
「……大きっ」
タンカーが見えてくると、柊はまだ離れたところから目を丸くしてそうつぶやいた。
「あんなんどうやって作るんや? そもそも、何でできとるんやろ? ちゃんと動くんやろか?」
「あれは鉄でできた船で、鉄鉱石や石炭なんかを運んでるんだよ。エンジンはディーゼルエンジン。燃料は重油だね」
「ディ、ディーゼル? 重油?」
柊は聞き慣れない単語に目をぱちくりさせている。
「エンジンの種類と仕組みについてはまた今度説明するよ」
日向国の立地条件でタンカーが活躍する可能性は低いが、湊守との約束もあるので鉄造船は可能な限り早くに作る予定だ。
動力を何にするか、魔法ベースか科学ベースかは考えていないが、エンジンについての知識があるのは他にも応用が聞くはずなので無駄ではないと思う。
近くまで来て車から下りてみると、その船の巨大さが分かる。これだけのサイズの船を作る能力を持っている国は限られていて、日本がその最大の建造国の一つであることは誇っていいことだと思う。
「大きすぎてスケッチできやん」
「そうだね」
近くまで来て、スケッチブックを持ってタンカーを見上げたまま硬直する柊。確かに、近くからだと大きすぎて逆に全体像を捕らえられない。
「スケッチは後回しにして、他を先に見て回ろうか」
「はい」
タンカーから下ろされた鉄鉱石や石炭は、そのままラインに載せられて完成品になるところまで人手を介さず運ばれていく。
次に向かうのは石炭を蒸し焼き(乾留と言う)にしてコークスに変換するコークス炉だ。乾留する事で石炭の炭素純度を高めることができる。
このコークスは次の高炉で鉄鉱石と供に投入されることになる。
高炉とは鉄鉱石から鉄を作る中心となる設備だ。鉄は鉄鉱石の主成分の酸化鉄を還元して得られるのだが、高炉はこの還元が行われる場なのだ。その名の通り背の「高い」形状をしているから高炉と呼ばれる。
高炉の上部から鉄鉱石とコークスを交互に投入し、コークスの燃焼熱で鉄鉱石が溶けるとともに燃焼で発生した一酸化炭素が酸化鉄の酸素を奪って鉄を生み出す。
さらに鉄鉱石に含まれる不純物は比重の違いで溶けた鉄の上に浮き上がって分離される。この不純物はスラグと呼ばれ、スラグ分離の効率を上げるために、高炉には鉄鉱石、コークスと共に石灰石や蛍石などが投入されるのが一般的だ。
高炉から取り出された鉄は、溶けた状態のまま転炉へと運ばれる。
高炉で作られた鉄は純粋な鉄ではなく、炭素を多く含んだ銑鉄と呼ばれるもので、転炉は銑鉄の炭素を減らす設備なのだ。銑鉄から炭素の少ない鋼に「転換」するから転炉だ。
鉄鋼は炭素の含有量によって性質を大きく変える。炭素が多いと硬くて脆く、融点の低い鉄になる。逆に炭素が少ないと柔らかくて壊れにくく、融点の高い鉄になるのだ。
用途によって求められる性質が異なるため、最適な炭素含有量も異なる。例えば鋳物に使うなら融点が低いほうが便利なので銑鉄を使うことが多い。しかし、多くの用途では銑鉄では脆すぎるため、炭素含有量を減らす必要がある。
転炉は溶けた銑鉄に酸素を吹き付けることで、銑鉄に含まれる炭素を燃やして取り除いてしまう仕組みで炭素含有量を下げる。炭素が燃える時の熱があるので、追加の燃料がなくても融点が上がった鉄が冷えて固まることはないのがポイントだ。
また、酸素を吹き付けて鉄まで酸化しないのかという疑問については、鉄より炭素の方が酸化しやすい上に、多少の酸化鉄はできてもスラグとして分離されるので大きな問題となることはない。
転炉の工程が終わると、製鉄の過程は全て終了だ。この先はできた鉄を加工して製品にしていく。
最終製品の形は色々あるが、今日は厚板工場を見せてもらうことにした。
転炉から取り出された鉄は整形して一定の大きさの鋼片に冷やし固められる。それが厚板工場へと運び込まれて再加熱したのち、圧延ローラーで押し伸ばされて板状に整形されるのだ。
「日向様、鉄を溶かす溶鉱炉は一体何で作られとるんですか?」
「あー、耐火レンガかな?」
「耐火レンガって?」
「えーっと、忍先輩!」
「日向くん、しっかりしてくれよー」
「マテリアルは専門外です」
俺がすぐに降参して忍先輩に助けを求めると、先輩が呆れ顔で突っ込みを入れたが、そんなことを言われても一応俺は機械工学が専門んだから仕方ないよ。
「じゃあ仕方ない。教えてあげよう。鉄の融点はいくつだっけ?」
「えっと、1500度とちょっとくらいでしたよね」
「そう。だから、それを十分に超える融点を持つ材料を使ってレンガを作れば、溶鉱炉用の耐火レンガになるんだよ」
「そっか。なるほど」
「具体的には酸化マグネシウムとか酸化アルミニウムとかを主成分にしてレンガを作るんだよ」
「ということだよ、柊」
「マグネシウム? アルミニウム?」
忍先輩のありがたい講義を聞いて柊の方を向くと、柊はちんぷんかんぷんな様子で頭を抱えていた。
そういえば、柊は基本的な化学の知識が足りてないんだった。まずはそこからだな。
「マグネシウムとアルミニウムは金属の種類だよ」
「あ、自転車のフレーム」
「そうそう。あれがアルミニウムだね」
製鉄所の見学は、解説をしながらゆっくりと進めたので、終わる頃にはもう日がほとんど沈んでいた。
帰りも忍先輩の車だ。柊はすっかり疲れたのか、車の中でぐっすりと眠ってしまっていた。
「忍先輩、今日はありがとうございました」
「いえいえ。日向くんのことはできる限りサポートするようにパパも言ってるからね」
「それを含めても少し頼りすぎたというか」
「何言ってるの。パ、……父は本当は自分が国王募集に応募したかったくらいで、日向くんが選ばれたって聞いてすごく喜んでるんだから」
「そうなんだ」
「そりゃそうでしょ。だって、異世界なんだよ! しかも、魔法まであるんだから」
確かに、教授は筋金入りのオカルトマニアなんだった。異世界なんてのに関われるなら、遊佐グループのあらゆるコネを使うことも躊躇しない可能性は高い。
どうせ今も海外出張のついでに世界のオカルト遺跡の調査に行っているに違いないような人なのだ。出張中にそんなことをしていていいのかと思うけれど、その部分の旅費は自腹なので問題ないのだと思う。
それに、忍先輩だって常識人ぶっているけれど、これでいてオカルト熱はなかなかのものなのだ。その忍先輩が教授の出張についていかないで日本に残っているというのは、単に教授に頼まれたってだけじゃないんだろうな。
その後、2人で異世界での魔法がどういうものかということで盛り上がって、その仕組みについて現代科学の類推からいろいろな仮説を立ててみたが、結局納得の行く説明はつけられなかった。
話していると時間は瞬く間に過ぎ去って、気がついた時には遊佐家に着いていた。時間にはもう8時になっていた。
家は無人なので忍先輩は自分で鍵を開けて中に入った。玄関を開けると警告音が鳴り響いて柊がびっくりしたが、電子キーをかざすことで警告音はすぐに消えた。
「メイドさんには夕飯の支度だけお願いして先に上がってもらったんだ」
そう言ってダイニングルームに行って、テキパキと配膳をする忍先輩。料理は通いの家政婦が作ったものを温め直すだけだけど、火を入れると美味しそうな匂いが漂ってくる。
俺は柊を連れて手洗いをしてから席についた。
「いただきます」
食事中も魔法の話は続いた。車の中とは違い、今度は柊が起きているので俺の知らない事は柊に聞きながらの話になった。
そうするうちにだんだん整理されてきた異世界の魔法の性質は次のようなものだった。
まず、異世界には魔力というものがある。魔力には体内に持っているものとパワースポットから湧き出るものがあり、後者は魔法陣を用いないと操作できない。
魔法とは魔力を消費して物理現象を引き起こすもので、力学的現象を始め、化学、電磁気、熱力学的現象など、あらゆる物理現象をカバーする。生理学的現象も引き起こす事ができるが、恐らくは体内の物理的な刺激を通して生理的な現象を生み出しているのだろうと推測される。
また、魔法で引き起こせる事象は基本的には物理的に可能なものに限定されるようだ。例えば、光速を超える瞬間移動は不可能らしい。例外は今のところ異世界の門だけだ。
逆に、物理的に可能な現象であっても必ず魔法で実現可能かどうかは不明だ。この辺りは魔法の発動原理が分からないので、何が可能で何が不可能かの線引きは難しい。
ただ、核物理学や素粒子物理学の分野については知る限りでは実現できていないのではないかと思う。それが魔法の原理的にできないのか、まだ術式が発見されていないだけなのかは分からないが。
それから、魔力をエネルギーと見た時、魔法的現象でエネルギー保存則が成立しているかどうかは不明だ。これが成立していることが確認できれば、魔力は未知のエネルギーの1種として科学的に捕らえる可能性が生まれるのだけど。
ただし、エネルギーはともかく、質量保存則の方は成立しているのではないかと思われる。これまでに見た物質を無から出現させる魔法はIce Needleだけだけれど、あれは空気中の水蒸気を凍らせたと考えれば質量保存則とは矛盾しない。
というような考察から、意外と魔法を前提とした世界でも科学的知識が役に立つ場面は多いだろうというのが、俺と忍先輩の一致した意見だった。
まあ、俺は始めから科学的知識を魔法に適用するつもりで柊を連れてきたので、忍先輩と意見が一致してよかった。
「ところで、柊さん、魔法、見せてくれない?」
夕飯を食べ終わった後、おもむろに忍先輩がそう切り出した。
「いや、それは無理なんじゃないかな。こっちの世界には魔法はないから」
「そんなのやってみないとわからないんじゃない?」
「でも、向こうの世界だと僕は魔法の利かない体になってるし、こっちの世界じゃ魔法を発動しようとしても無効化されちゃうかも」
「だから、やってみればいいのよ。柊さんは、例えば火を起こしたりできるの?」
「あ、はい。あまり大きくはないですけど」
それを聞いて、忍先輩はキッチンに行くとステンレス製のバットにキッチンペーパーをいくつか丸めて入れて持ってきた。
「じゃ、これに火を着けてみて」
「分かりました。……、Fire」
柊が詠唱すると、予想に反してキッチンペーパーは勢い良く燃え上がってしまった。
「は?」
「おおっ」
びっくりする俺と目を輝かせて炎を見つめる忍先輩。
「なんで?」
「分かりません」
「ふむ」
キッチンペーパーは燃料としてはあまり優秀ではなく、すぐに炎は小さくなっていった。それを最後まで見ながら忍先輩は口を開いた。
「この魔法を日向くんに向かって掛けたらどうなるんだろうか?」
「僕を火だるまにしたいんですかっ」
「異世界にいるときは魔法は利かないんだったよね」
「まあ、そうですけど、この炎を見た直後にそういう事を言うんですか……?」
忍先輩はいかにも真面目くさった顔をしているけれど、絶対心の中で面白がっているよな。にしても、本当のところ俺に魔法は利くんだろうか、利かないんだろうか?
「柊、なるべく痛くなさそうな安全そうな魔法ってあるかな?」
「えっと、弱い電撃とか」
「電撃かぁ」
「わくわく」
「先輩、わくわくしないでください」
弱い電撃だと見た目で本当に魔法が発動されたかどうかわからないんじゃないかな? だからと言って、火花が目ではっきり見えるほど飛ぶ電撃とか怖いし。
「もうちょっと客観的に効果を確認しやすいものがいいな」
「えっと、難しいですね」
炎とかは見た目で確認しやすいけど、失敗したら燃えるしな。
「あっ、じゃあ、こういうのならええんやないですか? Water ball」
「えっ、あ、ちょっと、まっ……」
俺が制止するより早くに柊が詠唱を終わらせると、あっという間に頭上に拳大の水球が生成された。
と思ったら、その水球がパンと割れて頭から水をかぶることになってしまった。
「ひゃぁっ」
「すっ、すいません、日向様っ」
「せっ、先輩、タオル」
「ちょっと待ってて」
先輩がキッチンから新しいタオルを持ってきて、それで髪や顔を拭いて一心地着いたけれど、まだ服がべたべたで落ち着かない。
「もう、お風呂入れるから先に入っちゃいなよ」
「そうします」
それでその場はお開きになって、俺たちは順番にお風呂に入った。服は忍先輩が洗濯機に掛けてくれた。
ちなみに、柊はハイテクが詰まった遊佐家のお風呂の使い方が分からなくて忍先輩に助けてもらっていた。
それにしても、さっきの魔法の件。
異世界で撫子がIce needleを放った時には、氷の槍は俺の体に当たる前に消滅していた。でも、さっきのWater ballは頭上で破裂した水が全身に掛かってしまった。
これはIce needleとWater ballの魔法の性質の違いなのか、それとも魔法が無効なのは俺が異世界にいるときだけなのか。
こっちでIce needleを俺に向けて放ってもらえばはっきりするんだろうけど、もし無効にならなかったら氷の槍が俺の体に刺さってしまう。それはちょっと嫌すぎる。
異世界に帰るまで待てば、そっちでWater ballをもう一度放ってもらってどうなるか確認すれば分かるわけで、痛い思いをする代わりにそれまで待つことにした。
そして、これでようやく今日は終わり。後は寝るだけというところで、また一つ事件が起きた。
忍先輩が俺と柊のために布団を敷いてくれたのだが、当然別々の部屋に布団を用意していた。
それで、まず忍先輩が俺の部屋に案内してくれた時、柊が言った言葉に空気が凍った。
「この布団、2人で寝るにはちょっと狭いんやないですか?」
「……日向くん、どういうこと?」
「いや、あの、えっとぉ」
しどろもどろになる俺。忍先輩は情報を聞き出す相手を柊に換えて話しかけた。
「柊さん、日向くんとは週何回くらい一緒に寝てるの?」
「えっと、3日に1度です」
「ほー。一緒に寝てるんだ」
ひぇぇっ。忍先輩がすごく冷たい目でこっちを見てきた。やばい……。
「ちなみに、どうして日向くんと夜寝ることになったのかな?」
「それは、僕は日向様の側室ですから」
「側室……、ていうことは、正室もいるんだよね」
「もちろんいます」
「ありがとう」
柊から聞き出すものは聞き出したと、忍先輩はこっちを向いてつかつかと歩み寄ってきた。目が完全に怒ってる。逃げたい。
「日向くん、私は君の恋愛にいちいち口を出すつもりはないし、もともとそんな資格がないことくらいは知ってるけどね、中学生に手を出しちゃダメだよ」
「……一応、柊は15歳だから高校生ですよ」
「大差ないでしょ!」
はい、大差ありませんでした。というか、反論のポイントはそこじゃなくて、
「柊とは側室って約束になってるだけで、まだ何もしてないですからっ」
「……」
「本当ですよ。確かに一緒のベッドで寝てますけど、それは何て言うか国王の義務みたいなもので、何かやましいことをしてるわけじゃないんですよ」
「本当に?」
「本当に! 少なくとも18歳になるまでは何もないって約束ですから」
「18歳ね……」
俺の説明で一応矛は収めたものの、まだ不信感は拭えていない様子の忍先輩は、柊に再度質問した。
「柊さんはどうして日向くんの側室になろうと思ったの?」
「えっと、僕の兄は領主をしているんやけど、日向様にお仕えすることになって、その忠誠の証に僕が日向様のお側に仕えることになったんです」
「柊さんはそれでいいの?」
「それで、とゆうのは?」
「自分の意思とは無関係に見ず知らずの人との結婚を決められたりして」
「領主の家族ってゆうのはそういうもんでしょう?」
「いや、そうじゃなくて、自分の気持ちとしてはどうなの?」
「僕としても日向様の力で領民が祖国に戻れることは嬉しいと思ってます」
だめだ。忍先輩と柊の会話が噛み合ってなさすぎる。俺がこの話を楓たちとした時もまさにあんな感じだったな。忍先輩の顔が引きつってるけど、あの時の俺の顔もあんなんだったのかな。
「忍先輩、この話は日本の常識で考えても理解できないんですよ。あっちの世界では結婚年齢は低いし、政略結婚が普通だし、一夫多妻も珍しくないんです。18歳ってのもむしろ僕の方からお願いしてる基準で、それでもそれが逆に王室の弱みと取られかねない危険性があるって文句を言われるくらいで」
「分かった。で、何人いるの?」
「えっと?」
「異世界の常識については分かった。で、正室、側室は何人いるの? その中に、18歳以上の娘はいるの?」
うう、やっぱり、まだ機嫌が悪そうだ。
「全部で4人、あ、いや、5人? やっぱり4人です。18歳以上の娘はいないですよ」
「へー、5人ね。で、毎晩その娘たちと寝てるの」
「だから、4人ですから」
「あっ、そう」
うぅ、あからさまに怒ってないから余計怖い気がするよ。
「寝てるって言っても、ただ同じベッドってだけで、何にもしてないですよ!」
「それはさっき聞いた」
ひぃぃ。
「あの、結局今日はどうするんでしょう?」
空気を読まない柊が質問をしてきた。頼むから蒸し返さないで。
「いや、えっとね、今日は……」
「私もここで寝るわ」
「ええっ!」
「私がいないと寝てる間に日向くんが何をするか分からないからね」
「でも、3人やとどう考えても狭いんやないかと」
柊、突っ込むところはそこじゃない……
「布団を後2組持ってくるから、日向くん手伝って」
「……はい」
というわけで、結局、今日も独りで寝ることはできなかったのだった。