第16章「組閣しました」
【前回までのあらすじ】
俺の名前は日向。撫子と高岡を訪れた2日目、俺達は岩瀬屋と無事合意を得ることができた。
この合意の中で、岩瀬屋は当初の希望通り、旧赤石国の領土にあった鉱山から生産した鉄鋼についての独占販売権を手に入れた。
代わりに日向国は、帝都での鉄鋼市場価格に対して10%の輸出関税、有利な研究開発環境、国内全域での福祉と徴税の権限を得た。
合意の内容は正式な合意書にまとめられ、さらに細部を詰めた本契約書は1週間後に岩瀬屋が用意することになって、話し合いは終わった。
「これかわいー。陛下、これ、どう思われます?」
「そ、そうだねぇ」
女子の買い物が長いということは話には聞いていたが、これまで身を持って体験したことはなかった。
忍先輩と買い物に行ったことはあるけれど、それは研究室やオカルト同好会の資材を買いに行っただけで、プライベートな買い物ではなかった。
この間、楓と服を買った時は、楓は俺が選ぶのをそのまま受け取ってサイズを確認するだけだった。俺はマネキンにある服をそのまま選んだだけだったんだけど。
だから今、高岡のショッピング街を撫子と歩いているのが俺の初体験ということになる。
「あ、こっちもいいじゃん。陛下、どっちがいいと思われますか?」
「どっちもいいと思うよ」
柄の違う靴下を2足持って聞いてくる撫子に、俺は内心を隠すように笑顔をキープしながら適当に返事をする。
一応、撫子は人目を気遣って敬語は崩さずに聞いてくるものの、どう思う、どっちがいい、の連発でさすがにしんどくなってきた。
桜はいつもこの撫子と高岡に買い物に来ていたみたいだけど、どう対処していたんだろう? それとも、桜も撫子と同じテンションで買い物するんだろうか? だとしたら、2人を一緒に連れてきたら俺は死ぬな。
「冷気ブロックはどこだっけ?」
「それは地下のほうです」
「もう予備が少なくなってきてたから買っておいたほうがいいんじゃないかな」
「あ、もう少しだけお待ちください。まだこれを選んていますので」
そんな感じで、結局夕方まで撫子と買い物をして回ることになって、高岡を離れたのは日が傾きかけて来てからだった。
「申し訳ありません。陛下に運転させてしもて」
「いいよいいよ。どうせこの車は僕か運転できないんだからね」
ちなみに、帰りは尚五も入れて3人で車に乗って帰った。
運転は俺、助手席に撫子、尚五は後ろの席だ。席次が明らかにおかしいが制約条件を満たすにはこう座るしかない。
舗装されているとはいえ、長い間整備されてこなかった道なので、日本の道路のように綺麗な路面になってるわけではない。なので、速度を出してもせいぜい60kmくらいが限度だ。
道の途中で立ち往生してもJAFが来てくれるわけはないことを考えると、安全運転を心がけて走るせいで45km程度の道のりでも1時間くらいは掛かってしまう。
それでも、松郷へたどり着いた時にはまだかろうじて日が残っていた。
「陛下っ」
城門のところで一旦停止すると、監視に当たっている係員に声を掛けられた。何か焦っているようで様子がおかしい。それに城門の監視は制服を来た兵士が行うはずなのに、この係員は兵士ではない。
「どうした?」
「き、北門へ急いでください。オークが出ました」
「分かった。すぐ行く」
そのまま車を走らせて市街を通り抜け、街の反対側の北門まで行くと、魔法発動の光が見えた。
何が起きているんだ!?
「楓、桜!」
「日向様」
オークは4体。内1体はすでに仕留められたらしく倒れていて動かない。
俺は手前のオークに真っ直ぐ駆け寄って、大きく腕を振り回した。まずは1体。
さらに向こうから襲いかかってくるオークに対し拳を避けることもなく突撃し、カウンターで腹の部分を打ち抜いて、また1体。
手近な岩石を拾って投げようとしていた最後のオークは楓と撫子の集中砲火を浴びて倒れ、またたく間に3体のオークを仕留めて戦闘は終わった。
状況を確認すると、夕方前になって北門にオークが接近しているという連絡が入り、即座に楓と桜が出て状況確認と応戦に当たった。
接近してきたオークは4体いて、他の兵士たちも集めて全員で応戦してようやく1体を倒すことに成功したところで、俺達が帰ってきたらしい。
以前、楓は俺の目の前でオークを魔法で一撃で倒しているが、あれは相手がまだ若かった上に1体しかおらず、背後から不意打ちできたという条件が揃っていたためで、通常、オークはそれほど易しい相手ではない。
近接戦闘能力の目安は、練度の高い魔法兵1人に対してオーク1体が戦力拮抗のポイントなので、相手が4体いる時点でこちらの不利は確定である。
楓と桜はともかく、鋼泰配下の魔法兵たちはそれほど高い練度には至っていない。旧赤石国とは違いオークの襲撃がほとんど発生することがない野沢国では、それほどの兵力を常備する必要とすることがないということが練度が上がらない原因だ。
逆に、旧赤石国は常にオークに襲われる危機があり、魔法兵を多く抱えて訓練を繰り返していたためその水準に達している兵も少なくなかったが、そういう兵士たちは11年前のオーク襲撃で命を落としている。
その状況でこちらが無傷のまま4体の内1体を倒しているのだから、健闘と言えるのではないか。
とはいえ、今の松郷の防衛態勢ではオークの襲撃に対して脆弱だという事実が証明されてしまった。近隣国なら外交で戦争を回避することもできるが、オークに対しては実力行使を避けることはできない。
「そもそも、あのオークたちはどこから来たんだろう?」
例によって夕食後の会議の席で、俺はまずそう切り出した。
「確認した範囲では北の方から来たようです」
「北というと八越か?」
楓の推測を聞いて、俺はうーんと考え込んだ。
「……、あるいは、その奥の鉱山のどれかか。松郷にいたオークは全部じゃなかったってことか。一部は松郷の他の街に住んでいた。それも1つの街とは限らない?」
「可能性はありますが、低いのではないかと思います」
「それはどうして?」
「オークは人間よりもはるかに群れ志向の強い生き物ですから、特に理由がなければ松郷に大きなコロニーがある以上、それ以外のところをねぐらにすることはあまり考えられません」
「じゃあ、あの4匹は?」
「分かりません。松郷の奪還の過程で討ち漏らしたオークがいたのが逃げ延びていたのかもしれません」
確かに、その可能性は十分ある。
「松郷奪還作戦の中で討ち漏らしたオークは思ったよりたくさんいる可能性があるんだろうか?」
「それは否定できません」
「とにかく、まずは調査をしてみないと話にならないか。岩瀬屋とも契約したことだし、鉱山がオークに占拠されて使えないという状況は好ましくないからな」
「岩瀬屋と無事契約できたんですね」
「うん。詳しいことは後で話すよ。でも、その前に軍備の話を済ませようか」
オークの襲撃をすみやかに排除できるだけの軍事力を持つにはどうするか。最終的には俺が出れば殲滅させることは可能だけれど、俺がすぐに出られる状況でなければ出遅れた分だけ被害が拡大してしまう。
「撫子が仕掛けた松郷防衛のための魔法陣はどうなってるの?」
「いつでも使えるよ」
「今回はそれは使えなかったの?」
「あの魔法陣の制御は難しいから、撫子がいなければ使えないんだよー」
と代わりに桜が答えた。
「発動したらオークなんてイチコロだけどね」
「撫子、それ、もうちょっと簡単に誰でも使えるようにならないのか?」
「んー、簡単にねぇ」
「例えば、魔法陣を踏んだら爆発するとか」
「ダメでしょ。そんなの、危ないじゃん!」
確かに。地雷の連想で言ったけど、生活区域の近くにところにそんなものが仕掛けてあったら危なくて仕方ないな。
「ON/OFFの切り替えができるようになっていれば、後は戦術の問題じゃないでしょうか? 例えば、オークを挑発してあらかじめ設置した魔法陣のあるところへ誘い込むとか」
と楓が提案した。確かに必要なときだけONにできるなら、思ったほどは危なくはないかもしれない。
「なるほど。確かにそういう戦術もあるかもね。でも、誰でも使えるようにっていうことだと他にもいろいろ問題があるんだよね」
「それは?」
「んー、例えば、魔力供給源に使ってるパワースポットの出力の変動が大きいから、その制御のために結局手動の工程が残っちゃうこととか?」
と撫子。
「ん? そもそも、どうしてパワースポットの魔力を使わなきゃいけないんだ? 魔法陣の発動って自分の持ってる魔力だけで発動できるんじゃ」
「今仕掛けてあるのは都市防衛用の大規模攻撃魔法だから、大きな出力が必要なんだよね」
ああ、都市攻略を企んでいる軍隊ならそれなりの規模になるから、ちまちまと小さい規模の魔法陣を起動してても追いつかないのか。
でも、オークについては少数でも脅威になるから、それに対してはあまり大規模だと対処しづらいな。
「松郷の防衛戦術については、後で時間を掛けて練り直すべきかもな」
「そうだね」
とりあえず、松郷の事についてはまた後で考えよう。とりあえず、普段は俺もいるし、差し迫って脅威があるわけじゃない。
「それよりも問題なのは鉱山の方だ。岩瀬屋が本格的に入植してくる前に、鉱山をオークから守る方法を考えておかないと」
「赤石国が健在だった頃には、八越に軍事拠点を置いてオークの襲撃があればそこから対応していたようです」
「そういえば、鋼泰の父親も八越の軍を指揮していたっけ」
ちらっと柊の顔を見てみたが、発言はしないものの、給仕の手を休めて真剣に話を聞いている様子だ。
「同じようにするなら練度の高い兵を八越にまとまった数配置する必要があるけど、現状ではそんな練度の高い兵士はそもそもいないからな」
「あたしが鍛えるよ」
「私もー」
「それでオークと対等に戦えるようになるにはどのくらいかかる?」
「うーん。早いので半年かな」
「岩瀬屋は4ヶ月で最初の出荷を開始すると言ってた。半年というのはちょっと遅いな」
「鋼泰さんに相談してみるのはどうでしょうか?」
楓の言うとおり、やはりここは鋼泰に相談してみるのがいいだろう。11年前には八越にいたのだし、父親の政務の手伝いをしていたから、当時の実態がどうだったかもある程度知っているはずだ。
「よし。鋼泰には後で手紙を書こう。軍事のこともそうだけど、聞いておきたいことがいろいろある」
野沢国の内部事情や基鋼についての情報も聞いておきたい。本当は直接会って話すほうがいいのだけれど向こうの都合もある。鋼泰は正式にはまだ俺の配下ではなく野沢国に仕えている身だからな。
「それじゃあ、岩瀬屋の契約の方だけど」
軍事の話が一段落したので、岩瀬屋との合意書を取り出してその内容の説明を始めた。
内容の大半は事前に楓と議論していたものだったので、楓にとって珍しいことはほとんどない。ただ、桜と柊には初めての説明する内容だ。
ちなみに、蓮華もこの場にいるが、蓮華は人間語が分からないのでどっちにしても内容は理解できない。
「では、税率の交渉は上手く進んだんですね」
「そうだね。事前に湊守と話しておいたのがよかったよ」
「でも、そうすると湊守には申し訳ないことになりますね」
楓はそう言って少し考える仕草をした。
「湊守には新技術の提供の話をしてるから、そっちで埋め合わせてもらおう。それに、今後必要なのは鉄鉱山だけじゃないから、そっちには湊守も参加して貰えばいいしね」
「新技術ですか?」
撫子と話した魔法と科学の融合の可能性については、楓とじっくり議論したことはまだないので、楓は新技術が具体的に何を指すのか分からず首をかしげていた。これは後で話をしておかないとな。
「お兄ちゃんー」
「ん、なんだ、桜」
「このー、国民ー、福祉ってー」
桜はこんな話し方でとぼけたキャラをしているのだが、案外中身は鋭いのではないかと思う。尚五を見出して推薦してきたのも桜なのだから。
「誰がやるのかー?」
「桜に任せてみようかと思ってるんだけど」
「んー。頑張るのだー」
「ええっ」
驚いた声を上げたのは撫子。だけど、これは思いつきではなく以前から考えていたことだ。
「あ、あのさ、日向」
「ん?」
「こういうのは桜より楓のほうが向いてるんじゃないかな」
「いや、僕の目が間違ってなかったら、こういうのこそ桜は向いてるんじゃないかって思うんだよ」
「どういうことでしょうか?」
楓も撫子と足並みを揃えて質問してきた。
「楓がこういうことをやると、周りに必要以上に警戒心を与えると思うんだ」
「あーー、あっ、すいません……」
柊が納得したような声を上げて、周囲の視線を感じて慌てて両手で口を押さえた。
「桜にお願いするのは福祉の他に徴税と民事調停と、それから公安だよ」
「公安ー?」
「そ、公安。日向国の統治を内部から崩そうとする動きがないかを監視して、事が起きる前に警告する役割」
「んー、つまりー、領主の監視?」
「領主もだけど、それに限らず地方で起きてる不審な動きを日常的に監視して欲しいんだ。福祉と徴税と民事調停のついでに」
「なるほどー」
両手の拳に力を込めて気合いの入ったことを表すジェスチャーをする桜。とぼけているようだが、こういうキャラなので逆に領主に警戒心を抱かせずに内偵を進めることができると思うのだ。
「せっかくだから、ここで全員の担当範囲を確認しておこうか」
桜の分担は今確定したけれど、他の人の担当範囲は暗黙の了解としてある程度決まっているものの、明示的に決めたことはまだない。
「楓はこれまで通り内政担当だね。特に財務と産業政策をお願い」
「分かりました」
「それから、これも今まで通りだけど、国王に次ぐ責任者として大臣職も兼務ということで」
「はい」
楓は高級官僚的な役割が最も力を発揮できると思う。財務と産業政策は経済の両輪だ。楓には日向国の経済的な成長を直接的に率いる役割を果たしてもらおう。
ただ、財務と産業政策を1人の人間が担当すると必然的に財政規律が緩みがちになるので、注意していかないといけない。
「進二は楓の補佐で」
進二の成長次第だけど、ゆくゆくは楓には財務担当を離れてもらって、進二に財務の責任者を任せられればいいな。
「それから撫子は技術開発」
「オッケー」
「後、軍事も兼務で」
「もちろん」
本音では撫子には技術開発に専念してもらいたいけれど、現状、軍事の要が撫子になっているのでここで撫子が軍事から離れるのは非常に困る。
ただ、そもそも撫子に軍事を頼っているという状況に限界があるというのが今の現状なので、どちらにしても早急にそれを解消しないといけない。
「柊も技術開発、……とメイド」
「はい」
「うーん。メイドも専任を見つけないとな」
よくよく考えてみると、最初はみんなで分担していた家事も最近は忙しくなって柊に任せる分量が増えている。でも、本当は柊にもそろそろ本格的に技術開発に専念してもらいたいので、家事を担当するのがいなくなってしまう。
ただ、メイドは王宮の私的エリアに自由に出入りできるのでいい加減な人を持ってくるわけにはいかない。それに、そもそも現状の日向国の女性はもう全員ここに集まってしまっているのだ。
むむ。人材不足はこんなところにまで。
「蓮華は技術開発預かりということで」
蓮華に家事を教え込んだらメイドも可能かもしれないけど、まずは言葉を教える必要があるからな。
「それから、尚五は……」
「お兄ちゃん、尚五ちゃんは桜が欲しいなー」
不意打ちの桜の一言。尚五は俺が秘書に欲しいと思っていたんだけどな。
「桜、お仕事多いからー、手伝ってくれる人が欲しいよー」
「確かに」
桜は仕事の種類が多いだけじゃなく、対象となる面積も広いし集まる情報も量がある。有能な部下がいないと仕事が回らなくなるかも。
でも、俺の方にも使える部下が欲しいんだよな。俺の仕事はイレギュラーなものが多そうだから、柔軟に対応できる秘書がいると便利なんだけど。
「分かった。尚五は桜に預けるよ」
「ありがとう、お兄ちゃんっ」
やっぱり人材の発掘は急務だな。
「最後に俺の仕事は、技術開発、軍事、外交と、後は教育をやっていきたいと思う」
「教育ですか?」
「うん。改めて思ったけど、人材発掘と育成は急務だからね。どんな分野でもいいから、見込みのありそうな人物がいたらすぐに僕に教えて」
「承知しました」
「オッケー」
「おー、分かったー」
「が、頑張ります」
よし、これで終わりかな。
「あ、あの、日向様」
「ん、どうした、柊?」
「兄のことはどうなさるつもりですか?」
ああ、鋼泰の処遇をまだ決めてなかったな。さて、どうしたものか。
「その、鉱山の権利を岩瀬屋に譲ってしまったようなので、兄にきちんとした領地が与えられるのかと……」
「鋼泰に領地を与えるつもりはないよ」
「えっ!?」
「そもそも、鋼泰を領主という待遇で迎えるつもりは始めからないから」
「あの、それはどういう……?」
「鋼泰には日向国の政府内で然るべき地位についてもらって、鋼泰の領民は日向国に直接に所属することになる」
「それは兄のことが信用できやんからですか? 岩瀬屋より?」
普段は控え目な柊が珍しく食いついてきた。もともと柊は兄のためにここに残ったのだ。兄の処遇が気になるのは当然だよな。
でも、柊は根本的なことを勘違いしている。
「柊、これはここだけの話にして外では絶対に、例え鋼泰に対してでも話さないで欲しいんだけど……」
「はい」
「日向国では領主の権力を段階的に削っていって、最終的には領主制度を廃止する予定なんだよ」
柊は俺の顔を見たまま、何を言ったのか分からないという様子で固まっている。
ちなみにこの話、楓とは何度も議論して、撫子には簡単に説明してあることだ。桜にはまだ話していないが、桜はいつもと変わらない様子で話を聞いている。
「そもそも、僕の世界では領主制度は何百年も前に廃れた制度なんだよ。理由は簡単で、領主制度を維持していた国が領主制度を廃止した国に軍事的にも経済的にも全く勝てなかったからなんだ。
領主制度は効率が悪いって言うのは、僕の世界ではもう結論の出た話なんだよね」
「でも、それやったらどうやって国を治めるんですか?」
「僕が全国民と全国土を直接治めるんだよ」
「そんなん無理や」
「無理やない。現に僕の世界はそんな国は普通やし、国の規模もこっちよりずっと多い。僕のおった国は人口が1億を超えとったし、もっと大きい国もある」
「1億!?」
「もちろん、それを一人で治めるのは無理やよ? そのためには効率的な官僚機構がないとあかん」
「官僚……?」
中央集権国家と効率的な官僚機構というのはある種セットになる概念だ。
中央集権国家というのはトップの意思決定で国全体が一気に動く政治体制を持っていなければならないが、そのためにはトップの意思決定を国全体に素早く行き届かせる必要がある。
それを可能にするのが官僚機構だ。
官僚機構はトップの意思以外の思惑で動いてはいけない。間に領主のような独立した意思決定機関を挟むのはもっての外だし、賄賂のような手段で外部の意志が割り込むのも厳禁だ。
また、国の隅々までカバーする組織はどうしても巨大になりがちだ。しかし、伝達経路に人が多くなるほど伝達速度も正確性も低下してしまう。それに巨大組織を維持するのはそれだけでも経費がかかる。
だから、中央集権国家には、できる限りコンパクトで有能で清廉で忠誠の厚い官僚機構が必要になるのだ。
「じゃあ、日向様は兄に官僚になって欲しいんですか?」
「もちろん」
「それを聞いて兄が何て思うか」
「僕が説得するよ」
俺が強い言葉で言ったので、柊はそれ以上何も言わなかった。
「鋼泰はそれでいいとして、他の人はどうするの? 鋼泰の領民は4000人もいるんでしょ」
代わりに質問したのは撫子だった。
「4000人全員が鉱山労働者ってわけじゃないだろうから、そういう人は松郷の市民になってもいいし、日向国の官僚組織に参加してもいい。それに、鉱山労働者なら実験用鉱山で働いてもらおうと思ってる」
「実験用鉱山をどこにするかって決まってるんたっけ?」
「まだだよ」
実際、実験用鉱山については場所にしてもスケジュールにしてもまだ何も決まっていない。
実験用鉱山の稼働が遅くなりそうなら、鋼泰の領民を一時的に全員松郷に受け入れることも考えておかないといけないかもしれないな。それも、鋼泰の方の移民スケジュール次第だが。
と考えていると、楓が考えながら口を開いた。
「むしろ、あらかじめある程度人数を先行して移住していただけるといいんですけど。岩瀬屋の受け入れに対応できるだけの態勢を早めに作っておかないと、いざとなったら大混乱になってしまうかもしれないですわ」
確かに楓の言うとおり、今のこの人数で岩瀬屋の受け入れは無理ゲーすぎる。鋼泰の配下の人員を一部先行して受け入れて、岩瀬屋の受け入れ時の戦力にできると心強いな。
「仕事が山積みだー」
桜がそう悲鳴を上げたが、本当にそうだと思う。
翌朝、俺は早速鋼泰へと送る手紙を書き始めた。
「鋼泰へ、
君が僕に忠誠を誓ってから10日ほどの時間が過ぎたが、その間に日向国にはいろいろなことが起きた。
大きなことでは、まず、日向国は岩瀬屋と包括的な契約を結んで赤石領内の鉄鉱山の管理、製鉄、鉄鋼の販売を全面的に委託することになった。
これにより、鉄鋼生産の人員、設備、ノウハウ、販路が岩瀬屋から提供され、鉄鋼出荷高に応じた税収が確保されることになった。
また、三倉国に亡命している基鋼からの使者があって、日向国の明け渡しを要求してきた。この要求には現在のところ返事をしていない。
その上で、鋼泰にはいくつかお願いをしたい。
まず、基鋼について知っていることをできる限り教えてほしい。特に旧赤石国関係者や三倉国内での現在の地位、交友関係、支持者、敵対者など。
基鋼や三倉国からの干渉を退けて独立を守るために必要な情報を集めたい。
次に、移住のプランについて、現状の見積もりを教えてほしい。目下、日向国では人材不足が深刻なので、少しでも早く移住を開始してもらえるとありがたい。
と同時に、一気に移住が進むと受入体制の混乱が予想されるので、移住は段階的に進めていきたいと考えている。そのため、早めの段階から移住のプランを詰めておきたい。
また、特に次に挙げる人材を優先的に回して貰えないだろうか?
最初は兵士。鉱山をオークから防衛する目的なので、魔法が使えることが必須だ。
次に、簡単でいいので字の読み書きと計算ができる人材。岩瀬屋の受け入れで書類仕事が増えるので、それを捌くための人数を集める必要がある。
最後にメイド。内通の危険のないベテランのメイドが1人ほしい。柊には別の仕事をしてもらうつもりなので、家事の手が不足していて困っている。
最後のお願いだが、野沢国の内情について聞かせてほしい。まだ野沢国国王からの使者がないが、日向国に対する評価はどうなっているだろうか?
それから、野沢国は岩瀬屋との取引が多いと思うが国内の岩瀬屋に対する評価はどうか?
よろしく頼む。 日向国国王 日向
追伸 柊の手紙を同封した」
この手紙は柊の手紙と一緒にして、野沢国の鋼泰に宛てた使者に持たせることにした。
使者は元鋼泰配下の20人の中から馬に乗れる2人を選抜して、昼過ぎには出発させた。何もなければ明日の昼には鋼泰の元に手紙が届くはずだ。
ところで、今日は日本では4月24日。月末がそろそろ見えてくる時期になった。教授との約束があるので、ゴールデンウィークの休みに入る前にそろそろ一度日本に戻ったほうがいい。
いつがいいか? いっそのこと、明日にしようか。
鋼泰への手紙が着くのは明日。返事を受け取って使者が帰ってくるまで最短でも3日はかかるはずだ。岩瀬屋の方も本契約の書類を持ってくるまで1週間ほどかかると言っていた。
むしろ、絶好のタイミングじゃないだろうか?
基鋼の件や湊守の件で予想外のことが起きる可能性はあるけれど、それを言ったらいつになってもここを離れられない。それに今のタイミングで日本でやっておきたいこともあるし。
よし、明日にしよう。
そうと決まったら早速準備だ。
まずは留守中の打ち合わせのために楓の元を訪れた。楓は進二と一緒に仕事をしていた。
まだ本格的に経済活動は始まっていないが、岩瀬屋の到着の前にできるかぎりの準備をということで旧赤石国の資料を元にいろいろとシミュレーションをしているらしい。
進二は楓のやっていることはまだ理解できないので、楓の指示に従って手伝いをしながら空いた時間で簿記の勉強をしていた。
「楓」
「日向様」
「ちょっと手の空いた時にいい?」
「今でいいですよ」
そう言って応接室に移動すると、手早く楓がお茶を淹れてくれた。
「明日、日本に帰ろうと思う」
「例の毎月一度帰るというお話ですか?」
「うん。鋼泰の方も岩瀬屋の方も数日は進展がないだろうから今がチャンスだと思う」
「確かに、そうかもしれませんね」
「留守の間に何かあったらよろしく」
「もちろんですわ」
「後、これ」
俺は前に楓と温泉旅行に行った時についでに買っておいた携帯電話を取り出した。
「これは携帯電話。このボタンを押して電源を入れて、このボタンを押してからこれを押すと僕と連絡が取れるから」
「このボタンの後、このボタンですね」
「使ってない時はこのボタンを押して電源を切っておくこと。そうしないといざって時に電池切れで使えなくなるかもしれないからね」
「……これ、今、電話掛かってます?」
楓は携帯電話を耳元に当てたり離してみたりして首を傾げて言った。
「こっちの世界では携帯電話は使えないんだよ。だから、使う時には異世界の門を通って向こう側に行かないとだめだね」
「あ、なるほど。ちょっと不便ですね」
本当は携帯の基地局をこっちにも立てることができればこっちの世界でも使えると思うけど、それはさすがに現実的じゃないよな。
あ、異世界の門の周辺だけならWiFiを設置すれば使えるかも。LANも電源も向こうから引っ張ってくればいいわけだし。
もっと考えたら、電気さえなんとかなればLANを松郷まで引っ張ってくるのもあながち不可能じゃないのかな。
「留守中、何かしておいたほうがいいことはありますか?」
「んー、あ、柊を連れて行くつもりだから、家事とかみんなで分担してお願い」
「え、柊ですか?」
「うん。ちょっとね」
その後、楓と留守中のことについてしばらく話してから、柊のところへと向かった。
柊はいつものように車庫で自転車製作をしているところだった。
自転車製作は始めの内は順調に進んだものの、最近は壁にぶつかっていた。柊はその壁を乗り越えるためのアイデアを次々と試行錯誤しているのだが、未だに突破口は見つかっていなかった。
「柊」
「あ、日向様」
「どう、調子は」
「あんまり」
良くない、と柊は言った。
傍らにはペダルのついていない木製の自転車と、ギアやらチェーンやらの試作品、そして壊れたタイヤや他の部品が散乱していた。
「何が一番の問題なん?」
「強度やと思います」
「強度?」
「はい。例えば、この壊れたタイヤなんかは、乗っとる内に木製のホイールが折れてしまうんです。やからって、ホイールをもっと頑丈に補強したら、今度はタイヤが重すぎて使い物にならへんくて」
「強度と軽さを両立させる方法?」
「というより、やっぱり根本的には材質の強度の問題なんやと思います。タイヤはともかく、ギアやチェーンなんかは補強しよと思ってもできやんから」
「木の種類は変えてみた?」
「手に入る範囲では試して見たんやけど」
堅い木というと樫や楢か。それでもアルミのほうが5倍から10倍は堅いはずだからな。鉄はさらにその倍くらい堅いし。
「木が堅くなると今度は加工が難しくなって、特にチェーンを作るんが」
「チェーンも木で作っとるん!?」
マジでか。そもそも作れるのか?
「なんとか作ってみたんやけど、やっぱりまだ強度が弱くて」
そりゃそうだよな。現代日本の自転車でも、強度の問題でチェーンだけは鋼を使ってるはずだから、木材でチェーンを作るのは無理があるよ。
「前輪にペダル直結やとあかんの?」
「それやとハンドル操作が難しくなるんとちゃうかと」
「確かに」
昔の自転車の絵で前輪にペダルが直結しているものがよくあるけど、ハンドルを切ったら足にぶつかりそうだよな。考えてみれば、子どもの三輪車とかあからさまに操作性は悪そうだし。
「分かった。チェーンの件はまた後で考えてみよ。それより、今日は別のことで話があるんやけど」
「何でしょうか?」
「明日、僕と一緒に日本に行かへん?」
「え?」
柊は俺の言葉に驚きと困惑の表情をした。
「もちろん、仕事でね」
「何をするんですか?」
「僕の先生と先輩に会いに行くんやよ。機械作りのエキスパートやから、柊にも有益なんとちゃうかな」
「日向様の先生?」
「そ。柊には自然科学を勉強して欲しいと思っとるんやよ」
「自然科学って、力学のこと?」
「力学だけやなくて、魔法以外の自然現象を合理的に説明する学問の体系のことや。力学はその一部」
「魔法でも力学でもない自然現象って何があるんですか?」
「例えば、純度の高い鉄をどうやって製造するんかとか、魔法を使わないで鉄を錆から守る方法とか、アルミはどうやって作るんかとか」
「あ、アルミって、自転車のフレーム」
アルミの製造には電気が必要になるので、必然的に電磁気学にも踏み込まないといけない。また、発電所を作るなら、建設にはコンクリートが必要だろう。
なんだかんだで、自然科学というのはいろいろな分野が相互に絡み合っている。だから、柊にはできるだけ早く自然科学の基本的な体系を頭に詰め込んでほしい。
それに、それ以上に日本の現代文明を見て、魔法なしで人間がどこまで発展できるのかということを体感してほしいということもある。
「というわけで、明日から日本や」
「分かりました。よろしくお願いします」
柊の承諾を得て、早速、柊の青い髪と青い目を黒く染めることにした。前に楓が日本に行く時に使ったやつと同じだ。
その他、泊まりがけになるからと柊には旅行かばんを渡して荷造りをしてもらいつつ、俺は教授と先輩にメールを送った。
あ、後、教授に渡すお土産を選んでおかないと。金製品以外にも興味を持ちそうなものがあれば一緒に持っていってあげよう。