第10章「楓の恋」
【前回までのあらすじ】
俺の名前は日向。新生日向国を取り巻く状況は、国内国外共に徐々に複雑さを増してきていた。特に鉱山の再開を巡る岩瀬屋の提案に対する対応と、最近ぎくしゃくしている撫子との関係が最大の懸案となっていた。
日課の報告メールを送った時に、忍先輩に電話をした。今の困っている状況を伝えると、休みを取ったほうがいいとアドバイスを受けた。
休みを取るのは難しいと考えているところで、赤石国の内政分析を終えた楓から休みを取って旅行に行こうと誘われ、1泊2日の温泉旅行に行くことになった。
旅行先で、日向と楓は今まで忙しくて話せなかったことを時間をかけて話し合った。
――日向様はもう寝たかな?
1泊2日の温泉旅行の夜、日向がすやすやと規則正しい寝息を立て始めたのを聞いて、楓は目を開けた。
眠っている日向の顔を眺めるのが、最近の楓の一番のお気に入りの時間だ。楓が起きていると日向がなかなか寝ついてくれないので、いつも寝たふりをして日向が寝つくのをじっと待っているのだ。
楓は日向が好きだ。楓自身その自覚はある。ただ、いつからそうなのか、楓にはよくわからない。
異世界の門をくぐって国王の選抜をするのは、ほぼ楓がやったことだ。大事なところで撫子や桜に意見は聞いたものの、手を動かしたのも決定を下したのも全部楓だ。
つまり、日向は他でもない楓が選んだのだ。
もちろん、楓は初めから個人的な好みで日向を選んだわけではない。選考にあたっては事前に重視するポイントを決めていた。頭の良さ、慎重さ、異世界への適応の3点だ。
日向はその3点を問題なくクリアしていた。それは撫子や桜とも話し合って2人も同意している。でも、だからといって楓が日向にすでに個人的に惹かれていたことを否定することにはならない。
むしろ、その3点を問題なくクリアしていたことに安堵したりはしていなかっただろうか? 今となっては分からないことだ。
楓が選ばれた勇者と結婚しなければならないということは、後付けの理屈ではなく、当初の予定通りだ。しかし、そのことを意識してしまって、日向に対しての身辺調査の時には必要以上に力がこもっていたような気がする。
遊佐忍の存在に気づいた時には息が止まるかと思った。もし忍が日向と恋仲であったのなら、日向を勇者として招き入れるのは難しくなってしまう。
この時点で楓が日向に惹かれていることについて、楓自身もはっきり自覚した。祈るような気持ちで日向と忍の関係を調査した。
結果、2人の関係は友人というよりは親密だが、恋仲とは言い難い関係だと結論づけて、日向を勇者として迎え入れることになった。
多分、この結論には楓の願望も大きく影響しているに違いなかったが、撫子と桜は、その程度なら大したことない、いいアイデアがあるから大丈夫、と忍の存在について問題視しなかった。
そのアイデアというのが、例の夜這いだったのだが……。
あんな恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてだった。
しかし、ころっと簡単に転ぶはずという撫子と桜の読みは外れて、日向と楓の関係は未だ変わらず。まだキスすらしていない。
キス……。
今日、テレビという箱の中で役者がキスをしていた。役者というのは役のために好きでもない相手とキスもしなければならない。
楓も、本当ならば好きでもない相手と結婚してキスをすることになったはずだ。帝都を追放される前ならば。
でも、今は違う。今はこの唇は日向に捧げるもので、今は日向に拾われるのを待つだけの存在だ。それ以外の選択肢は存在しない。
――日向様……。
楓は再び、日向の顔を見て、日向の唇を見つめた。
楓は思う。日向は楓のことをどう思っているんだろう?
別に自惚れているつもりはないが、日向は楓のことを好意的に思ってくれていることは間違いないと思う。でも、楓がどんなに誘っても、日向はある一線からは絶対に超えてこようとはしない。
好きな相手から女として扱われていないというのが悲しいということもあるが、日向と楓の関係が曖昧なままだと将来的に政治的な火種になるということも心配だ。むしろ、楓の心を焦らせるているのは政治のほうだったりする。
このまま日向が一地方の領主として生きるだけならば大きな問題にはならない。今の日向国程度の利権には誰もそれほどには執着しないからだ。
けれども、日向国が帝国の命運を左右するような力を持ってくれば、国のトップ2人の間に大きな隙を残しておいて無傷でいられるわけがない。一度帝都から追われた楓にはそのことが痛いほどわかっている。
しかし、それでも楓にはどうしても帝都に戻らなければならない理由がある。
帝都は今、皇帝の権威が骨抜きにされている。一部の貴族がお飾りの皇帝を立ててその影で権力をほしいままにしているのだ。
しかも、現皇帝が即位するきっかけとなったのは楓の父でもあった前皇帝が病死により急逝したためであるが、楓はそれが一部の貴族による暗殺だったのではないかと考えている。
しかし、それを証明しようと個人的に捜査しているところで、楓は謂れのない罪を着せられて帝都を追放されることになってしまったのだ。
そのように一部の貴族が権力を掌握している状況に皆が満足しているはずもなく、地方に大きな地盤を持つ有力貴族の一部は帝都を見限って自分の領地に拠点を移しつつある。エルフもそんな中の一つだ。
まだ表立った動きにはなっていないが、このまま状況が改善しなければ帝国は分裂への道を進んでしまうだろう。場合によっては内戦に発展する可能性もありえる。なにせ権力を得るために皇帝を暗殺したものがいるのだ。何が起きても不思議ではない。
追放されてしまったとはいえ、自分の祖国がそんな状態でいるのをただ外から見ているだけなんて到底我慢できることではない。なんとしても父の死の謎を解いて、帝国を立て直さなければ。
だから、楓は可能な限り急いで帝都を目指すのだ。その過程で日向が障害になるようなことがあれば、楓は日向を諦めざるを得ないことになるだろう。日向を元の世界に返して新しい勇者を迎え入れるか、あるいは勇者なしで帝都を目指すか。
だけど、それは最悪のケースの話だ。そんなことになったら楓の恋だけでなく、帝国を立て直すという楓の目標に対しても大きなマイナスになってしまう。
大丈夫。まだ状況は特別切羽詰まっているわけではない。時間はある。日向との関係も良好だ。このまま少しずつ日向との距離を縮めてていけば、きっとうまくいく。
穏やかな日向の寝顔を心に留めて、楓は再び目を閉じた。