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颯の知らない思い出【神代颯】

 夕飯を終えて、颯はパソコンの前で今度提出するレポートを作成していた。


「はい、颯くん」


 芽榴は颯にコーヒーを渡す。すると颯は「ありがとう」と笑って、キーボードを打つ手を止めた。


「レポートしていーよ?」

「ううん。そんなに気を張らなくても、そのうち終わるから。休憩するよ」


 颯は笑顔で芽榴からコーヒーカップを受け取る。そして一口飲むと、カップを机の上に置いて、芽榴の手を引いた。


「わっ! ちょっと!」


 颯は芽榴のことを自分の膝の上に乗せると、後ろから芽榴を抱きしめた。芽榴は抗議するように颯の腕を叩くが、颯は笑顔を見せるのみ。


「そんなにかまわなくても、今日は時間あるから!」

「そうだね。今日は、僕の部屋に泊まってくれるんだっけ?」


 今日は外泊する、と家には報告してある。真理子が嬉しそうに「まあ!」などとはしゃいでいたことは改めて言うまでもない。

 言葉にされると気恥ずかしく、芽榴は少し頬を染めた。


「……だから、離して。まだ洗い物残ってるし」

「後で僕も手伝うから、今は僕のそばにいて?」


 ねだるような言葉でも、颯が言うと圧がある。

 芽榴は観念して、颯の膝の上に居座ることにした。


「落ち着かないから、何か作業して」

「はいはい。じゃあ、別のレポートの資料でも探そうかな」


 颯は満足げに芽榴の髪にキスをすると、パソコンのマウスを動かして、インターネットを開いた。


「……あ、今日って高校入試の日なんだ」

「ん? ああ、そうだね」


 インターネットを開くと、ニュースの欄に高校入試についての記事がいくつかあがっていた。

 颯は家庭教師のバイトをしているので、そのことは承知済みのようだ。芽榴も家庭教師のバイトをしているが、生徒は高校生ばかりで高校入試の件は知らなかった。


「颯くんの生徒さん、どうだったかな」

「きっと大丈夫だよ。ケアレスミスさえしなければ。もともと頭のいい子たちだったから」


 とはいえ、入試は何が起こるか分からないもの。芽榴も手応えはあったが、合格通知がくるまでは不安だったことを覚えている。


「颯くんは高校受験してないんだもんね」

「まあ、進級試験みたいなものはあったけど。受験みたいに緊張感のあるものじゃなかったね。ほとんど風雅の勉強に付き合っていたし」


 颯はそのときのことを思い出して懐かしそうに笑った。


「少し余裕もあったから、高等部受験の日に先生から手伝いを頼まれたんだよね」

「……あ」


 颯が聞かせてくれる昔話に耳を傾けて、芽榴はハッとした。

 今まで機会が特になかったため、芽榴は颯に言っていないことがあるのだ。


「私ね、受験のときに颯くんと話したことあるんだよ」

「え?」


 芽榴が身をよじって颯のことを見上げると、颯は驚いた顔をする。

 話した、というほどのことでもないが、芽榴はよく覚えていた。


「颯くん、三階の廊下で生徒の誘導してたでしょ?」

「……たしか、そうだった気がする」


 芽榴はそんなことまで正確に覚えているが、颯にとっては記憶する必要もない思い出。颯の返事は曖昧だ。


「颯くんが受験番号聞いてきて……それで、教室は向こうだよって笑顔で教えてくれたんだー」


 おそらく颯はやってきた全受験生に同じことをしていたはずだ。芽榴の存在を知らなかった颯の記憶には、そのときのことは残っていない。


「颯くんは中3のときからかっこよかったね」


 芽榴が笑顔で告げると、颯は小さくため息を吐いて芽榴のことを抱きしめた。


「中学の制服を着た芽榴と会っていたのに、覚えていない自分が腹立たしいよ」

「写真見たことあるでしょ?」

「実物を見るに越したことはないだろ?」


 颯は本当に残念そうに顔をしかめる。


「ごめんね。……芽榴との最初の思い出を、覚えてなくて」

「大げさ。街ですれ違ったレベルの話だよ? 覚えてないのが普通でしょ」


 芽榴は眉を下げて笑う。颯が覚えていないのは当然で、悪いことではない。ただ、芽榴の記憶力が異常なだけ。

 それが昔はとても辛かったけれど、今は少しだけ、芽榴はこの記憶力を嬉しく思えるようになった。


「それに颯くんが忘れても、私がちゃんと覚えてるから……颯くんとの思い出は消えないよ」


 忘れなければ、その事実は消えずに残る。

 芽榴と颯の思い出は、全部残らず芽榴の記憶に大事にしまわれている。そのピースが欠けることはない。


 芽榴の幸せそうな笑顔を見て、颯は堪えきれないとばかりに芽榴の体を自分の膝の上で反転させた。颯と向かい合うように座らされ、芽榴はまたも無駄な抵抗を試みる。


「この態勢は嫌だよ」

「僕は芽榴の顔が見たいから……我慢して」


 颯は有無を言わさないと目で訴え、芽榴の頬を撫でた。


「無邪気にかわいいことを言うよね、芽榴は」

「……いつ言いましたか」

「あはは。……いつも、かな」


 颯はそう口にして、芽榴の唇を奪った。


「今日のキスも、忘れないで」


 そんなことを合間に囁きながら、颯は芽榴のことを抱きしめた。

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