心も身体もあんたのもの。【簑原慎】
「なぁ、いつまで怒ってるわけ」
「別に怒ってません」
慎の呆れたような声に、芽榴は不機嫌な声で答える。
慎の部屋の中、ムスッとした芽榴の隣に慎が座った。
「もうちょっと離れてください」
「ほらやっぱ怒ってんじゃん。いつもはもっとひっついてって言うくせに」
「そんなこと言ったことありません。……ていうか、先に怒ったのそっちじゃないですか」
慎と付き合い始めて3年が経つ。
芽榴が留学から帰ってきて、約2年。
慎は現在私立の大学に通っていて、芽榴は一年遅れて日本の国立大学に通い始めた。
そして芽榴が大学に通い始めると同時、一人暮らしをしていた慎が楠原家に出向いてある宣言をした。
『自分の家からの方が芽榴さんの大学近いんで、夜に家に帰すのも危ないし、疲れると思いますから……自分の家に泊まらせることが多くなると思います』
慎が大学入学のため一人暮らしを始めて、そのときもお互いの部屋を行き来はしていたのだが。
芽榴が大学生になると同時に、慎の宣言により、実質的な同棲生活がスタートしたのだ。
もちろん、付き合う前から喧嘩ばかりだった2人。
一緒にいて、むしろ喧嘩をしない日はないのである。
芽榴が荷物をまとめて家に帰ると言いだしたのも、つい一昨日のことだ。
「だって仕方ねぇだろ。芽榴が男からの手紙なんて読んでるんだから」
「留学してたときの大事な友達です」
芽榴が手紙の送り主をかばうように反論すると、慎が笑顔を携えた。
こういうふうに慎が笑うときは、だいたい怒っている。
慎と付き合い始めて、今まで読めなかった慎の笑顔の意味が分かるようになってきた。
「大事な友達、ねぇ。この『I love you』の文字に他意はないと?」
「彼はそういうことすぐに口に出しちゃうんです」
「あんたより俺の方が恋愛経験値高いんだから、この手紙見ただけでもこの男の考えてることは分かるっての」
慎がそう言って、芽榴は口を閉ざした。
言い返せなくなったのではなく、慎の言葉に自分が怒っている原因を思い出したからだ。
芽榴の顔がまたも寂しそうに曇っていくため、慎は「しまった」と顔を歪める。
「どうせ……慎さんは経験豊富ですよー」
「今のは俺が悪かった。さっきのことも」
芽榴と慎が喧嘩した理由。
それはまず芽榴に届いた留学していたころの男友達からの手紙。けれど慎とて、それくらいのことで機嫌を損ねるほど器は小さくない。問題は、そこに『I love you』と書かれていたことだった。
そしてさらに問題になったのは、芽榴がその男友達のことを大切だと言ってかばうこと。
そうして、慎は機嫌を悪くした。
芽榴に「その男は芽榴のことが好きだ」と教えてあげても芽榴が認めない。その結果。
『誰にでも愛してるなんて言うやつは、俺と一緒だから分かんの。あんたのこと絶対好きになる』
と、慎としては説得のために告げたセリフが芽榴の地雷を踏んだ。
今は違うといえども、慎は芽榴以外の女子にたくさんの愛の言葉を紡いで、感情がないにしろそういうことをしてきたわけだ。
このあいだ慎とともに出席したパーティーの席でも簑原家の繋がりのためといって、女性と楽しそうに会話を弾ませていたくらいだ。
「仮に慎さんの言う通り、この好きがそういう意味だったとしても……私より慎さんのほうがたっくさんいろんな人に言われてるじゃないですか」
「言われてねぇよ」
「嘘つき」
「だから言われてねぇって」
「このあいだ、パーティーで少なくとも2人に言われてたの私は知ってます」
それでも芽榴は慎が簑原家の付き合いのために接しているから、と何も言わずにいた。
けれど、自分が一回他人から「好き」と言われて、ここまで責められるのは理不尽で、言いたくなかったことが口から出てしまう。
そんな自分が嫌で、芽榴はソファーの上で縮こまるように体操座りになった。
「……最悪ですよ。こんなこと言いたくなかったのに」
芽榴は膝に顔を埋めて、呟いた。
「怒って、すねて……どうしようもないこと言ってごめんなさい。でも、慎さんがモテるの、すごく嫌です。……私置いてすぐどっか行っちゃいそうだから」
始まりが始まりだから、いつだって不安だ。
突然、慎から捨てられるかもしれない。慎が芽榴のことをとても大事にしてくれているのは分かるのに、それでも不安なのだ。
慎が真面目な姿になって、頑張って、そんな彼に日々惹かれていくように、他の人もどんどん彼に惹かれていくから。
苦しくてため息を吐くと、慎が芽榴の腕を引いた。そうして膝に埋めていた無様な顔が慎の前にさらされる。
「こんなかわいいこと言う彼女から、離れられるわけねぇだろ」
慎は困ったように笑って、芽榴にキスをした。ちゅっと吸い付くような軽いキスをして、少しだけ慎は芽榴から顔を離した。
「俺の方こそごめん。ただの嫉妬だから許して」
「……もう、怒ってないです」
「キスで機嫌治った?」
「バカ」
芽榴が照れくさそうに顔をしかめると、慎は楽しそうに笑った。
「ほんとにさ、俺は芽榴のことがすっげぇ好き。……パーティーで誰かに『好き』って言われた記憶はマジでねぇの。あのパーティーのときはさ、あんたのこと可愛くめかしこみすぎて……いろんなお偉方もご子息も、みんな芽榴のこと見てて、それにイライラして、片手間で喋ってたから会話覚えてねぇんだわ」
あのとき、芽榴と慎はまったく同じことで悩んでいたのだ。
それが分かって、さっきまで感じていたモヤモヤがどんどん甘い気持ちに変わっていく。
「俺はあんたのこと求めて傷つけちゃうけど、あんたのこと絶対離せない。……だから、芽榴も俺から離れないで」
慎は「俺のことだけ見て、俺のことだけを好きでいて」と告白して、芽榴にキスをする。
今度はさっきみたいなかわいいキスじゃない。恥ずかしくて心ごと熱くなるようなキス。
「不安なら、何度でも芽榴のこと好きって伝えるから。言葉だけじゃなくて、俺の全部で」
慎は芽榴をソファーに押し倒して、切羽詰まった顔で笑った。
「だから、仲直りしようぜ」
喧嘩ばかりだけど、いつも最後は幸せで満たしてくれる。
だからむしろ喧嘩しちゃうのかな、なんて芽榴は考えて、目を閉じた。