幸せの在り方【簑原慎】
留学を終えてからというもの、芽榴が社交界の場に顔を出す機会は増えていた。
けれどそれは当然のこと。むしろそうなることを分かっていた上で、芽榴は留学をして東條家の後継者となる道を選んだのだ。
「……はぁ」
芽榴は会場の隅で小さなため息を吐く。
先ほどまで東條とともに挨拶回りをしていたのだが、少し一段落ついたため、東條がパーティーを楽しむ時間を与えてくれた。
(楽しむって言ってもなぁ……)
芽榴は気だるい体を摩る。
少しうつむけば東條が用意してくれた白基調のレースドレスが視界に映る。髪もそのドレスに似合うように綺麗に巻かれているため、今日の芽榴は誰が見ても良家のお嬢様。
他から見れば、無垢な天使のようにすら見える姿で1人たたずむ。そんなお嬢様を当然、誰も放ってはおかない。
「気分でも悪いのかな? 芽榴ちゃん」
頭上から優しく問われて、芽榴はゆっくりと顔を上げる。
数度、芽榴の記憶に刻まれている顔。
「いえ、そういうわけではないので。お気遣いありがとうございます。宮守様」
芽榴は社交的な笑顔を返す。
宮守は東條グループが提携している会社の重役の一人。芽榴より7つほど年上だが、重役として活躍するにはかなり若い。つまりはエリートだ。
彼とは以前東條に連れられて挨拶をしたことがあったのだが。
ここ最近、パーティーの場で芽榴を見かけると話しかけてくれるのだ。
「ははっ、そんな他人行儀はやめてくれよ。もう結構話してるのに」
「そういうわけにはいきませんよ」
芽榴が困り顔で答えると、少し離れたところにいる女性の声が芽榴の耳に届いた。
別に大きな声だったわけでもなく、普通は気にも留めないはずの声。
けれどその声で発せられた、その言葉を気に留めずにはいられなかった。
「あらあら、今度は佐倉様が簑原様に自分の娘を紹介してるわよ?」
「さっきまで春園様が紹介していなかったかしら?」
マダムたちがある一点を見つめて話している。
芽榴はその一点には目を向けない。あえてそちらには目を向けないようにしている。
(また、お見合い話かな)
そのくせに、思考回路は完全に支配される。
彼女たちが話している簑原様は、慎のこと。このパーティーには慎も出席しているのだ。
それは昨日の夜にも聞いていたから、知っていた。
けれどこういう席で、芽榴と慎はできるだけ会話もアイコンタクトすらとらないようにしている。
ラ・ファウストの元生徒には芽榴と慎のことを知っている人もいるかもしれないが、世間に出ればそれはごく少数になる。
芽榴は東條家の後継者として、慎は簑原家の跡取りとして、お互いにこういう公的な場では関係を表に出さないようにしようと決めているのだ。
だから慎はご令嬢に言い寄られても家とのつながりのために適当にはあしらわないし、親も含めて紹介されたなら快く無難な返答をしている。
慎は芽榴ではないご令嬢を簡単に喜ばせて、優しい笑顔を向けるのだ。
だから芽榴は慎の方を見ない。けれど芽榴の目の前にいる宮守は芽榴がマダムたちの会話に気を取られたことに気づいて、その会話の中心である慎に視線を向けた。
「簑原家の次男坊か……」
そう呟く顔は少しだけ歪んでいる。
「まあ、今は真面目になったともっぱら噂だが……昔はただの放蕩息子。いつまた飽きて自分の役目を放り出すかも分からないというのに」
今の慎を評価する人もいれば、こういうふうに過去を持ち出す人もいる。けれど宮守の意見は間違いではなく、むしろ正しい。
あれだけ好き勝手やっていた慎を信用できない声があるのは当然のこと。
「芽榴ちゃんは、あんな男に騙されちゃいけないよ? 東條様をがっかりさせないためにも。過去も将来も全てが安心できる男を選ばないと。例えば……僕みたいな」
宮守が芽榴のことを見下ろして、芽榴を愛おしむように見つめてくる。
「……そうですね」
芽榴はその忠告に、柔らかい表情のまま答えた。
芽榴の肯定的な答えに宮守の顔が綻ぶけれど、それは一瞬。
芽榴はすぐに言葉を付け加えた。
「でも、永遠に騙してくれるなら……むしろそっちのほうが幸せかもしれないですよ?」
「……え?」
宮守が目を丸くして芽榴のことを見つめる。芽榴は「冗談です」と笑いながら、一歩下がる。
「でももし私があの人の恋人になるなら……あの人が現状に飽きないように、私が努力しますから。心配ないですよ」
芽榴はそう告げると、踵を返してパーティー会場から出て行った。
人に見つからない場所を探して、芽榴は会場を出た先の廊下を歩く。いくつか角を曲がって、人の気配のしないあたりまで進んで、芽榴は立ち止まった。
(……まずいなぁ、結構限界かも)
そう思って壁に手をつこうとすると、その手は別のものに掴まれた。
「あーあ、簡単に捕まったな。危なっかしい」
その声に、芽榴は目を見開く。
慌てて振り返ると、先ほどまでずっと見たくても見れずにいた、愛おしい顔がそこにあった。
「慎さん……? なんで……?」
「なんでって何。同じ会場にいるのは知ってただろ」
「そうじゃなくて、え? だって、今佐倉様とお話ししてたんじゃ」
「へぇ、ちゃんと俺の行動チェックしてたんだ? 甲斐甲斐しいねぇ」
ニヤニヤと笑いながら慎が芽榴のことを見下ろす。その顔に少しイラっときたため、芽榴は慎の手を振り払おうとするのだが。
「残念。今のふらふらな芽榴じゃ、どう頑張っても俺からは逃げらんねーよ」
そう告げると、慎は小さなため息を吐いて芽榴のことを抱きしめた。
「……慎さん、放して。ここまだホテルです」
「知ってる。別にやましいことしてるつもりねーから、なんとでも言い訳できるし」
慎は芽榴の全体重を支えながら、芽榴の綺麗な髪を梳いた。
「ったく、体調悪いならパーティー欠席しろよな。いくら大好きな『東條様』の誘いだからって、倒れたら意味ねーだろ」
「……倒れてません」
「じゃあこれは? ……って、これは俺が抱きしめたから倒れたとは言わねーか。ははっ」
慎はケラケラと笑って、芽榴をあやすようにトントンと頭を指で撫ぜた。
「……でもさ、これが俺だからいいけど。追いかけてきたのがさっきそばにいたやつとかだったらどうしてたわけ。……本当、これだから心配なんだけど」
「さっきって……見てたんですか?」
「当たり前。芽榴から目放すわけねーじゃん」
慎は芽榴の背中に回した手を下降させて、芽榴のドレスを掴むとひらつかせるように動かした。
「まず俺の彼女だし。それを抜きにしてもいい女だし。てことは他の男も同じこと考える。おまけに朝から体調悪そうだったし……目なんて放してらんねーよ」
そう告げる慎はやれやれと言ったふうに、目を伏せる。
「本当は今すぐ家に連れて帰って休ませたいけど、絶対嫌がるだろうから……。せめてあと十分くらいは俺のそばで休んで」
「……慎さんが優しすぎて、不安になるんですけど」
「じゃあ今すぐひどいことしてやろうか?」
慎のおどけた問いに、芽榴は首をふるふると横に振って彼の胸にもたれかかった。
「……お言葉に甘えます」
「ああ」
慎の声が優しい。おそらく芽榴のことを本気で心配しているのだろう、と言葉以上に慎の声が、温もりが伝えてくれていた。
(うん。……これは私が知ってればいいや)
「慎さん」
「ん、なに? 喋ると休めねーよ?」
「はい。だから黙りますけど……ひとつだけ」
芽榴は慎の胸から顔を上げて、はにかんで笑う。
もしこの心配も優しさも、すべてが慎の演技だったとしても。
彼はそれを完璧に演じきってみせるから。
どんな嘘も、彼は全部芽榴のために突き通してくれるから。
「私はやっぱり、慎さんといるのが幸せです」