5
目を覆うほどの暗い闇の中で、ぽんっと軽い音が鳴る。
その音を、眉輪はいつも不思議に思っていた。幼い頃、父にあれは何かと尋ねてみると、それは蓮の花が開く音だと教えてくれた。
ぽんっ、ぽんっ。
蹲る意識を掠める音律が、恋い焦がれてきた日々を思い起こさせた。
『眉輪、眉輪……こちらへ、おいで』
自らを呼ばう声に、眉輪ははっと目を開ける。視界に、あの懐かしい場所が広がっていた。親しんだ匂いに包まれた部屋で、父が少年を手招く。優しい双眸に、眉輪の眦にじわりと感情が込み上げた。
「おとう、さま」
唇から零れたのは、情けないほど舌足らずな声だった。途端、眉輪の意識は幼い頃へと駆け戻る。縺れそうになる足取りで、幼子は衝動のまま、父の袖に縋りついた。
「おとうさまっ、おとうさまっ」
大きな掌が、頭を撫でる。そのあたたかさに、抑えきない涙が形となって溢れた。嗚咽を上げる眉輪に、父は優しい笑みだけを浮かべる。悲鳴のような泣き声が、ふたりぼっちの部屋に響き渡った。
『……そろそろ、時間かな』
どれだけ泣いただろう。父が、ゆっくりと口を開いた。ぐしゃぐしゃになった顔のまま、眉輪はのろのろとその顔を伺う。父の顔はあたたかな赤に濡れていた。
声を上げそうになる幼子に、大日下王は柔らかに微笑んだ。
『ごらん――夕焼けだ、眉輪』
怯える心を安心させるように、大きなぬくもりが眉輪の小さな手を握りしめる。その熱に促され、眉輪は父の向こう側を覗いた。
「っ」
そして、息を呑んだ。父の声が、響いた。
『……赤は、嫌いではない。美しい、日下の色だ』
生駒山から昇った太陽が、ゆっくりと西の地平へと沈んでいく。
真っ赤に熟れたそれは、何処までも続く日下江とひとつに溶け合った。真白の蓮花も、同じ色に染まってゆらゆら揺れた。
「くさかの、いろ……」
『そうだ。わたしたちの、日下の色だ』
夕陽はやがて、ふたりの影をも包み込む。そのあたたかさに抱かれながら、眉輪は幼い脳裏に焼きついた、懐かしい光景を思い出した。
それは、ひどく優しい、一面の赤、赤、あか……――。
「――――眉輪王」
老人の低い声が、眉輪を現実へと呼び戻す。
ゆるゆると瞼を持ち上げると、そこには白髪を草臥れさせたひとりの老臣の姿があった。何度も大王の宮廷で見かけた彼の名を、ぼんやりと眉輪は思い出す。乾いた唇が、微かに動いた。
「円の、大臣……」
「落ち着かれましたかな、眉輪王」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、眉輪は記憶を引き寄せる。深い溜息が零れた。
(そうか、僕は……)
最後に赤へ沈んでいく直前、騒ぎに駆けつけた円大臣に、眉輪は半狂乱で縋りついたのだ――僕を助けて、と。彼は眉輪を匿い、自らの屋敷に立て籠った。謀叛人として、攻められる覚悟を抱いて。
ちりぃん、と脚結の鈴が鳴る。場違いなほど、その音は涼やかだった。
「大泊瀬皇子が、来たんだね」
その呟きに、老臣ははっと目を見開き、そして何もかも諦めたかのように項垂れた。
屋敷を取り囲む怒号は、変えられない未来を語った。今にも攻め込まんとする殺意が、空気を震わせていた。
「……わたしは、すっかり痛手を負い、矢も尽き果てました」
如何なさいましょう、と大臣は眉輪に問うた。
その疲れ果てた彼の表情に、眉輪は母親によく似た目許を伏せた。
睫毛の影が幼子の表情を翳す。諦観が、小さな肩を抱いた。
「……そう」
もう、何処へも逃れられない。あの色は、この身を捕らえてしまった。
父の赤に染められて、母はその白い手を血に染めた。
母の濡れた赤い手に触れた眉輪もきっと、いつしか同じ色に染められてしまうだろう。そして、眉輪の赤は、また別の誰かを染め上げていくのだろう。だから。
「……それなら僕を、殺してちょうだい」
両の手に落ちた赤に、染められてしまう前に。怨嗟の声に、呑み込まれてしまう前に。
どうか、この血塗れた連鎖を――止めて。
「眉輪王……っ」
自分の孫と言っても違和のない幼子の決断に、老人は声を詰まらせた。しかし、何十年も重鎮として大王家に仕えてきた貫禄だろう、次に顔を上げたときには、その目に迷いはなかった。
腰から、太刀を引き抜く。幼子の首筋に冷たい金属がぴったりと添えられた。
ふわり、と眉輪は笑った。全てを委ねるように、瞳を閉じる。焼け焦げた匂いと共に、瞼の裏を炎がちろりと舐めた。
けれど、眉輪はもう、その色を恐れる必要などなかった。
(あぁ……おなじだ。僕たちの、日下とおなじ…………)
脳裏を駆け巡る優しい記憶に、恐怖さえ息を潜める。
その眦から、透明な滴が音もなく滑り落ちた。
『ごらん、眉輪』
最期に映ったのは、赤い光景。
幼い瞼に焼きつけられた、あの色と同じ……大好きな父と母と見た、眩いほどの、あか。
――その色は、眉輪にとって、とても懐かしい色だった。
<終>
数え七歳にして、父の仇を討った眉輪王。けれど、本当に幼い少年にそれは可能だったのか――。
大初瀬皇子(後の雄略天皇)が黒幕ではないか、という意見を目にしたこともあるが、この物語では敢えて、その真犯人として中蒂皇女を挙げた。妻として夫を奪われ、さらには母として我が子を奪われるかもしれない――その恐怖が、彼女に剣を持たせたのではないだろうか。