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あれから、二年半の年月が流れた。眉輪は今年で七つになった。
若日下部王は予定通り大泊瀬皇子の住まう朝倉宮へと居を移し、眉輪とはめっきり逢えなくなった。母に聞いても、詳細は分からなかった。ただ、大泊瀬皇子はとても荒々しく、恐ろしい人だということだけは、女官たちの噂話で知った。
その囁きを聞きながら、眉輪は聡明な叔母と、その優しい眼差しを思った。
(おばさまは、大丈夫かな)
父亡きあと、眉輪は母と共に大王の宮に入ることになった。大王は、とても優しかった。御子のいない彼は、眉輪を本当の我が子のように慈しんでくれた。そして身寄りのない母子を労わり、不自由のないように計らってくれた。眉輪はそんな大王が大好きだった。
けれど、後宮に入って以来、母があの美しい横顔を見せることは一度もなかった。どれだけ大王が優しい言葉をかけても、どれだけ美しい髪飾りや綾絹を与えても、母は静かに、そして哀しげに微笑むだけだった。
(おかあさまは、どうしたら笑ってくれるのだろう)
鞠を弄びながら、眉輪は小さく思案する。すっかり伸びた黒髪を、晩夏の風が撫でていった。
手入れの行き届いた庭には、露を含んだ薄桃色の撫子が咲いている。何もかもが大きく、そして華やかな宮廷という世界の中で、ひっそりと咲くその姿に眉輪は好ましさを覚えた。
人も、自然も、全てが穏やかだった日下が、ひどく懐かしかった。
「ことしも、蓮花はさいたのかな」
あの甘い蜜の香りを思い出し、瞳を閉じる。その掌から、鞠が零れ落ちた。
眉輪の手を離れた球体は、気まぐれな風の悪戯に、何処までも転がっていく。そして、一際、大きな高殿〈たかどの〉の下へと転がった。慌てて、眉輪もそれを追いかける。
高床式の館は、宮廷の子供たちにとって、格好の遊び場となり得た。だから、幼い眉輪も簡単に入り込むことができた。絹糸で化粧された遊び道具は、追いかけっこにも飽きたのか、ころ、ころ……と静かに止まった。
「つかまえた」
溜息をひとつ、眉輪はそれに手を伸ばす。そして、もう逃がさないとばかりに、両腕で強く抱きしめた。その耳元を、くぐもった音が掠めた。
(……だれかの、話し声?)
それは、丁度、眉輪の頭上から聞こえた。上に、人がいるのだ。
地を這うような低い男の声と、鈴を転がすような高い女の声。高い床越しに微かに聞こえるふたつの声に、少年はぱっと表情を輝かせた。それは、大好きな母と大王の声だった。
「そなたは、何か――は、ないか」
「はい。――など、何もございませんわ……」
大王の声はくぐもり、それに応える母の声も遠く、よく聞き取れない。
(おかあさまたちは、何の話をしているのだろう)
中途半端に耳が拾う言葉に幼い好奇心が疼いたけれど、そのままじっとしている訳にもいかず、眉輪はそろそろと踵を返した。そのとき。
「――朕は、眉輪が怖い」
少年の耳に、やけにはっきりと大王の声が聞こえた。
(ぼくが、こわい?)
何のことだろう、と眉輪は首を傾げた。
母の、息を呑む声が聞こえた。
「大王……」
「朕は、怖いのだ。后よ」
酒が回っているのだろうか。覇気のない、ゆっくりとした調子で、彼は胸の内を語り始めた。床下で、眉輪が聞き耳を立てているとも知らずに。
「眉輪も既に、七つを数えた。朕にも、よく懐いてくれる。だが、朕は時折、とてつもない恐怖を覚えるのだよ……もし、もしも眉輪が、朕が、己の父を殺したと知ってしまったら。……あの子は、朕に復讐するのではないか、と」
朝陽に染まる日下江を指差して、ごらん、と笑った父の優しい顔が思い出された。
(おとうさまを、殺した?)
父は、病で死んだと聞かされていた。そこで、大王が残された母と幼い眉輪を引き取ってくれたのだと……。
「――あぁ」
刹那、眉輪は、幼い頭で全てを理解した。
大王が、母を不幸にさせたのだ。あの、美しい横顔を眉輪から奪ったのだ。
母が昔のように笑わなくなったのも、大王が、父を死に追いやった張本人だからなのだと。
「……そのようなことは、決して起こりませんわ」
母が、静かな声でそう断言した。
「妾が、保障いたしますわ。眉輪は、決して大王を害することなどありません」
「后」
生ぬるい風に、衣擦れの音が鈍く落ちていく。
母の香がふうわりと鼻腔を掠めた気がした。
「ですから……どうぞ、安らかにご就寝下さいませ」
優しい声色を最後に、ふたりがそれ以上、言葉を交すことはなかった。
だが、少年の心が壊れるのには、それで十分だった。
(大王が、僕のおとうさまを、殺した)
幼い頃、脳裏に焼きついた赤い光景が眉輪を苛む。
父の絶望、母の悲鳴。優しい日下を取り囲む怒号、踏みつけられた雪下の足跡。眉輪の小さな手から零れていった、美しい母と聡明な叔母――その全てを、大王が奪っていった。
「……復讐だ」
暗い目をして、少年は呟いた。
大王が恐れる未来を、現実のものにしてしまおう。眉輪の大事なものを奪っていった男に、同じ報いを与えよう。その疲れきった顔を、絶望に染め上げてやろう……父の最期と、同じように。
眉輪は駆け出した。床下に、ぽつりとひとつ、手鞠だけが取り残される。
廊を行き交う女官たちの目を擦り抜け、少年は仇の元を目指した。言葉にならない興奮が、眉輪の足取りを確かなものへと変えていた。
人払いをしていたのか、目的の部屋へは思ったよりも簡単に辿り着くことができた。息を殺しながら、戸の隙間に身を滑らせる。
(大王は、いつも立派な太刀を佩いていた……)
母の言葉からして、彼は今、就寝中のはずだ。それならきっと、あの太刀も枕元に置いてあるに違いない。
あれで、殺してしまおう。眉輪は、動物も人もまだ手にかけたことはなかったけれど、それでも妙な自信が全身を駆け巡っていた。
「僕が、おとうさまの、仇をとるんだ」
熱に浮かされた少年は、最後の砦である白い垂絹の前へと立つ。
「僕が、おとうさまの……」
だが、その声が最後まで言葉になることはなかった。
薄絹越しに、ぐっ、と男の低い呻き声が響いた。父を失った日と同じ匂いが、眉輪の鼻を突いた。真っ白な帳に、小さな鮮赤が咲き誇る。母の透き通るような声が聞こえた。
「――眉輪が、大王を害することなどありませんわ」
乱れる呼吸のまま、白妙を一気に暴く。
眉輪の目に強烈な赤が飛び込んだ。
「っ」
部屋に射し込む光を受けて浮かび上がるのは、よく見知ったふたつの影。眉輪に背を向けて立つ、淡い月草色の衣をまとった母の後ろ姿。そして。
その向こう側に見えるのは、胸を抑えて踞る、大王の絶望的な顔。
「き、さき……」
ひゅう……と、隙間風のような声が、男の喉から漏れる。
信じられない、と言いたげに、彼は自身を見下ろす冷たい瞳を仰いだ。
「どう、し……」
「妾は、何もいらなかった。……あの、平穏な日々以外は」
母の手には、異様なまでに赤い太刀が握られていた。
それは大王の胸から流れ続ける色彩に染まって、ぬらぬらと鈍い光を放っていた。怨嗟が、静かな狂気となって母の美しい口の端を黒く濡らした。
「大日下王に、謀叛の意などなかった。それなのに、あなたは王位を奪われることを恐れ、彼を討ち果たしたのです。……無実の罪を、着せて」
失われていく生命を映し出す瞳は、何処か遠い場所を見ていた。
ゆらりと、暗い烈火が母の目許を赤く染め上げる。
「彼は若日下部王の婚姻を承諾し、押木玉縵さえ、奉ったというのに。あなたは、その想いを裏切ったのです……あの、優しい人を。妾から、永遠に奪った」
眉輪の知らない、あの悲劇の片鱗を彼女は語った。
その言葉に、大王の目が見開かれた。
「たま、かず……ら、……だ、と?」
焦点さえ覚束ない眼差しが、驚きに揺れ惑う。色を失った唇が、慄く。
大王の口調には、紛れもない疑念が浮かんでいた。彼は力なく、首を真横に振った。
「しら、なぃ……。朕、は……たま、か、ず……、……な、ど……しら……――」
だが、その口からそれ以上の真実が語られることは、なかった。
瞳孔を開いたまま、最期まで何か言いたげな表情で大王は事切れた。
噎せ返るような血の匂いに、呼吸が詰まる。全ては赤に沈み、永遠に葬られた。
――カラン……。
母の手から、太刀が滑り落ちる。
恐ろしいほどの静寂に抱かれ、彼女の折れそうな肩が震えた。それは、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。
「おかあ、さま……」
「……まよ、わ」
眉輪の声に、母は振り返る。そして、立ち竦む我が子の姿を認めると、ふわりと甘く微笑んだ。それは、あの日から見ることのなかった、眉輪の大好きな横顔とよく似ていた。口許を彩る笑みは、優しかった。
「あぁ……良かった。何処にも、怪我はありませんね?」
それなのに、眉輪の喉は恐怖のあまり硬直した。四肢は凍りつき、声も出なかった。
しゅるりと衣擦れの音が鳴り響き、眉輪の頬に、母の濡れた手が触れた。
「お……」
「眉輪、眉輪。妾と大日下王の、愛しい子……これで、あなたを奪われることも、ありませんわ?」
母の瞳は、あの日の父と同じ色をしていた。
そこに、未来はなかった。
「――い、いやだっ!」
べっとりと滴る鉄の匂いに、眉輪は母の手を振り払った。その衝撃で、眼差しが交差する。絶望が、彼女の双眸を塗り潰した。
「っ、待って。――待って、眉輪ぁっ!」
愛し子を求めて、赤い手が虚空を彷徨う。
その声から、腕から、眉輪は逃げる。大好きだったぬくもりを拒み、ただただ逃げた。
擦れ違った女官たちが、怪訝な表情を少年へと向ける。だが、それも時間の問題だ。
「――ああっ、皇后さまっ! 誰か、皇后さまがっ!」
背を向けた先から、女官の悲鳴が上がる。その声は、恐怖に引き攣っていた。
騒ぎを聞きつけた重鎮たちが、大きな足音を立てながら集まってくる。彼らは口々に、大変だ、大変だと騒ぎ立てながら、転ぶように四方八方へと散っていく。
その怒号から逃れるように眉輪は走り続けた。濡れた掌と頬が、火傷を負ったようにそこだけ熱を帯びていた。
ぼろぼろと、何かが壊れたように、幼子の目から苦い涙が溢れ出す。
(こんな、こんなはずじゃ、なかった)
眉輪はただ、母の美しい笑顔を取り戻したかった。
あの頃のように、幸せそうに笑って欲しかった。……ただ、それだけだったのに。
帰れない、帰れない。
父も死んだ、大王も死んだ。きっと、母も死んでしまった。
もう、眉輪の居場所は何処にもない。全て、全て、赤が呑み込んでしまった。
「っ、うわああああああぁあああっ――!」
眉輪の視界を塗り潰すのは、夥しいほどの、赤、赤、赤――。
その色彩に、幼子は意識を手放した。……誰かが、自分の名を呼んだ気がした。