3
婚姻の話は瞬く間に屋敷中に広がった。老若男女、貴賤の垣根を越えて、誰もがその祝福すべき日を待ち望んでいた。
けれど、その華やかな雰囲気は長く続かなかった。日下の地を、絶望が取り囲んだ。
「大王の軍が、屋敷を取り囲んでおります――っ!」
日香蚊の報告に、部屋は喧騒に包まれた。侍女たちの間から、堪えきれない悲鳴が上がり、不安が伝染していく。
その中心で、父が表情を硬くさせた。衰えを見せ始めた声帯が、大きく震えた。
「……何故だ。なにゆえ、大王はわたしに軍を差し向けるのだ」
いつもは優しさを滲ませる双眸は、酷く暗い色をしていた。
頼りない灯台の火を反射させた瞳に、ふるふると静かな激情が映し出される。握りしめた拳が、床を叩いた。
「これでは……これではまるで、謀叛人のようではないかっ」
「っ、畏れながら……」
凶器的な音が、全ての音を切り裂く。父の言葉に、日香蚊が項垂れた。
その意味を知り、父は愕然とした。馬鹿な、と低い呟きが部屋に落ちる。肺の奥底から搾り出すような、そんな声だった。
「……謀叛、だと? この、わたしが?」
「王」
「わたしが、謀叛人だと……大王は、そう仰るのか?」
「王、どうか、お身体に障ります……!」
母が、慌てて細い腕を伸ばす。
けれど、何年もの間、父を癒してきたその手さえも、この現状の前では無力だった。
「わたしに、叛意などありはしない。何かの、間違いだ。わたしは、わたしはっ、若日下部をも、大泊瀬皇子へと差し上げたではないか――っ!」
悲痛な叫びに混ざり、ごぼり、と固まった液体が落ちるような音が聞こえた。
父の口許に、袖に、褥に、紅の大輪が花開く。錆びた鉄の香りが幼子の鼻腔を詰まらせた。息苦しさに、涙が滲んだ。
「王っ、王……っ!」
父の口から吐き出される赤が、母の白く細い掌を染め上げていく。
それでも、母は構わず父の名を呼び続けた。その身体を、支え続けた。その間も、彼女の手は赤を吸っていく。
眉輪の手を、乳母が引いた。幼子の視界から全ての悲劇を隠すように、四、五人の侍女たちが、啜り泣きながら周りを取り囲む。何も知らなくて良いのです、と彼女たちの目が語っていた。眉輪はただ、それに抗う術を持たぬまま部屋をあとにした。
それでも、その耳には父の絶望と、母の悲鳴が耳鳴りのように絶えず鳴り響いた。最後に見た赤い光景は幼子の脳裏に焼きついていた。
――翌朝。いつもより赤い朝陽が日下を染める頃、眉輪は父の死を知った。