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 その美しい日下に、都からの使者だという男が訪ねて来たのは、早咲きの桜が蕾をつけ始める季節だった。侍女たちに案内されて、父の元へ通されたのは、背のひょろっとした、やけにぎらついた目をした男だった。

 眉輪はどうしても彼が怖くて、母の部屋に逃げ込んだ。

「どうしましたか、眉輪」

 頭上から降る柔らかな声に、なんでもないのと答え、縋りつく。

 まろやかな母の膝に顔を埋め、優しい掌に髪を撫でられると、それまでの不安も全て忘れられた。侍女たちの微笑ましげな笑い声も、幼子の不安定な心を宥めてくれた。

 けれど、眉輪の気持ちとは裏腹に、男が帰ると、意外にも父は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)が、若日下部を所望しているそうだ」

 その一声に、その場にいた母と侍女たちが、わっと歓声を上げた。

 若日下部、というのは父の実妹で、眉輪にとっては叔母にあたる。同じ日下の里に屋敷を与えられており、時折、母と共に訪れると、嬉しそうに目許を色づかせた。眉輪がせがむと、難しい大陸の文献を読み聞かせてくれる聡明な女性だった。

「まぁ、大泊瀬皇子が?」

「あぁ。厳密に言えば、大王(おおきみ)のお考えであろうが……なにしろ、大泊瀬皇子も、まだお若い。大王も、年上のしっかりとした、後見となる妃を(あて)がいたいのだろう」

 大泊瀬皇子は、現大王の弟であり、父にとって甥にあたる。若日下部とは、一回りも年の離れた、まだ十八の青年だった。

「若日下部王でしたら、適任でしょうね。あの方は、兄君も舌を巻く、勤勉家ですから」

「意地の悪いことを言わないでおくれ、中蒂。わたしの面目が立たないではないか」

 母の言葉に、父がからからと笑う。その睦まじいやりとりに、侍女たちの間から甘い溜息が漏れた。眉輪も、大好きな母の美しい横顔を誇らしげに眺めた。と同時に、もやもやと、小さな心に暗雲が立ち込める。

(こわいひとじゃ、なかったんだ……)

 どうやら、怖がっていたのは眉輪ひとりだけだったらしい。

 周りの大人たちの様子に、眉輪は自分だけが勘違いしていたことに気づいた。幼心に、とんでもなく悪いことをしてしまった気がして、眉輪は再び母の膝に顔を埋めた。罪悪感に、苦いものが込み上げた。

「どうした、具合でも悪いのか」

「さぁ……けれど、先程から、ずっとこうなのですよ」

 心配げに、母が顔を覗き込む。眉輪が何も言えずにいると、父が小さく笑った。

「何だ、今日は、随分と甘えたがりのようだな」

 大好きな叔母上を取られて寂しいのかな、と、父の声が眉輪の耳朶を撫でた。つられて、母や侍女たちも微笑ましげに声を転がすけれど、どれも眉輪の心を癒してはくれなかった。  

 胸に巣食ったわだかまりを言語化できないまま、幼子は更に強く母の裳を掴んだ。

 涼やかな香が、鼻をつんと突くだけだった。



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