たなたな
日本にも灼熱砂漠があるとは思いもしなかった。
真夏の海水浴場。私は声を大にして、懸命に客寄せをしている。雲一つない快晴の空。力強く照りつける太陽。日射しは容赦なく大地に降り注ぎ、一面の砂浜は天然のフライパンになっている。
きっと目玉焼きぐらいなら砂の上で作れるのだろう。割って落とした瞬間に、ジュウジュウと美味しそうな音をたてて、うまい具合いに半熟になる。絶対に、きっとなる。その後、目玉焼きを食べるかどうかなんてことは知ったことじゃないが、それくらい暑いのは確かだった。
人が浜辺にところ狭しとひしめきあっている。右を見ても左を見ても人、人、人。どこにいても人の声が響いてくる。暑さで脳みそが溶けてしまったのだろうか。奇声をあげてはしゃいでいる。人間公害。その名がぴったりだと私は思った。
夏。弾ける季節。水に遊び、肌をさらし、暑く駆け抜ける季節。私はこの季節が大嫌いだった。
暑いのが嫌い。日に焼けるのが嫌い。うるさいのが嫌い。もう夏という存在が嫌い。大嫌い。夏なんてなくなればいいのに。中学生の頃本気で悩んだことがある。
だから今、私の心中は穏やかではなかった。この暑さに、この海の喧騒に、私の機嫌は斜めを通り越して垂直になっていたのだ。もう間っ逆さま。不機嫌なんてそんな甘いもんじゃない。怒りだ。怒りが私を包んでいた。
そもそも、どうして私はここにくることになったのか。なぜ私が、夏になると死にたくなるようなこの私が、海の家の客引をしているのか。
私は、昨夜携帯電話の向こうで、この拷問のごときバイトを私に押し付けてきやがった糞女のことを憎々しく思った。出来ることなら今すぐにでも鼻っ面にパンチを放ってやりたい。
不快だ。あまりにも不快だ。きっとあの女は、今頃“カレシ”と一緒に遊園地ではしゃぎ回っているのだろう。昨夜の声には隠せない(隠すつもりなど未塵もなかったのかもしれない)幸せが満ち溢れていた。
「なんかさ、急にカレシがチケット取ったとか言い出してさ〜。ホント困ったんだけど〜、折角取ってくれたんだし〜、行かなきゃ悪かなって思って。だからさ〜、悪いんだけど〜、代わりにバイト行って」
はぁ? 私の頭はこの時女の言葉を理解できていなかった。こいつは私が夏が死ぬ程嫌いなことを忘れてしまったのだろうか。それとも、もう老化が始まって呆け始めてしまったのかしら。そんな要らぬ心配をしてしまった。
「てかさ〜、あんたさ〜、夏嫌い嫌い言って、ずっと引き込もってたらもったいないよ〜。あんた美人なんだからさ。だ〜か〜ら〜、真夏の海で恋の一つでも見つけなさいよ〜。あんたなら男の方から来るからさ。モテモテよモテモテ。羨ましいわぁ。あたしじゃ絶対有り得ないから。ね、てなわけでさ、お願いね。場所は後でメールするから。じゃ〜ね〜」
私が一言も言うことなく電話は一方的に切られた。まだ状況が理解出来ていなかった。後でと言っていたメールは、その三分後に届いた。混乱していた私には、カップラーメンが出来るまでの間に抗議するという選択肢はまるで考えもつかなかったのだ。突然の展開に弱いのだ。
しかし、今は真摯に思う。
糞喰らえ。お前は前々からカレシと一緒に遊園地に行きたいって大っぴらに言いふらしていたじゃないか。恋の一つでも見つけなさい? 何様だお前は。私の母親か。いや母親でもこんな失礼なことは言うまい。ならなんだ。私の分身のつもりなのか。ふざけるな。アホ。ボケ。間伸びする声を出すな。耳が腐る。なぜかいきなり着ぐるみに殴られてしまえ。
ああ、暑い。暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い。あじぃーーーー。
マジで死にたい。
真っ赤になった肌を見て、私は今日何度目かの自殺願望を抱いた。
「どうぞ〜寄ってって下さい。焼そばに焼きとうもろこし、ソフトクリームにかき氷。お腹が減ったら是非こちらまで。あ、浮き和、パラソルなども貸し出してますよ〜」
目一杯の声量で叫んで、オーバーアクション。もちろん表情はにっこり笑顔。心の中は糞喰らえ。
開始から私はそれなりの仕事をしていた。責任感が強い私は、例えそれが押し付けられたものだとしても、与えられた仕事はしないと気が済まない性格だった。だから開店前にはしっかり店にやってきた。もしかしたら、そこまで読んだ上であの糞女は私に頼んだのかもしれない。全く抜け目のない女だ。
仕事は接客業であった。上半身だけは水着に着替えなければならないらしい。私の中の不機嫌が怒りに代わり始めたのがこの時だった。やることをしっかり把握し、てきぱきと仕事を始める。やるなら全力で。というよりもこの怒りを仕事の情熱に。私はバイトにいそしんだ。
お昼時を過ぎて、余裕がでてくると段々と観察なんかが出来てくるわけで。私は店に来るる人々を眺めるようになっていた。
カップルカップル家族連れ馬鹿ップル。みんなみんな手を繋ぎあったり、笑いあったり。遠くで待つ誰かを探すように振り向く人もいた。
ああ、ああ、暖かな関係だこと。たった一人上京して、知り合いのいない場所でバイトをしている私の寂しいこと。極寒か。私の周りだけ摂氏三十七度の極寒か。
やけになると暴走するのが人間であって。ふいに涙が出そうになった。ふん、どうせ私は一人ものですよ。ええ、一匹狼ですとも。それがなにか。悪いのですか?
一方的に開き直って、私はもうバイトだけに専念することにした。叫んで微笑んでまた叫んで。私の喉はガラガラに、真っ赤な肌はヒリヒリしていた。
夕暮れ。仕事が終わり一人砂浜に座る。あの熱さが嘘のように砂浜は冷えていた。海を眺める。太陽がゆっくり沈んでいく。染まる波際。静かな潮彩。今日の終りにぴったりの景色だ。そう思うことにした。
ピタリと冷たい物が頬に触れた。悲鳴をあげてしまった。
「お疲れ」
隣にいたのは今日一緒にバイトをした男の人。短い髪と小麦色に焼けた肌が夏にはぴったりの人だった。
「今日代わりで来たんだってね。どう、結構辛いっしょ」
そう言って彼は意地悪そうに笑った。プシュッとプルを引いて、ビールを飲んでいく。リズム良く上下する喉仏に、なんて美味しそうに飲むんだろうと感心してしまった。
口を離した彼が不思議そうに私を見てくるまで、私はずぅっと彼のことを見ていた。
「あ、あの、夕陽綺麗ですよね」
あら、不自然。顔から火が吹いた。
「夕陽? ああ、うん。すっごく綺麗だよね。僕さ、ここで何年かバイトしてるけど、こんなに綺麗な夕陽を見たのは初めてかな」
私は出来るだけいつも通りの私を装って、へぇー、そうなんだぁと感心した。ふーん、ここで働いてるんだ。私は再び海を見つめた。太陽はその半分をすでに海に沈めていた。
確かにとっても綺麗だ。
私は穏やかになる心を感じながら、沈み行く太陽をじっと見ていた。彼もまた私の隣に座っていた。
浜辺に伸びる二つの陰はとても優しかった。