(5)
そうだよ、そこが重要なとこなの!
シャツの一枚や二枚、気にするとこじゃないの! 物事は大局を見ないとダメでしょ!
「ドブに落っこちた少女を引っ張り上げて、ハイ、さよならってわけにいかないでしょ? 家まで送らなきゃ」
「そーだよっ。彼は家まで送ってくれたんだからっ」
「ガン泣きしてたら住所も聞き出せないしね。なだめるためには抱っこくらいするって」
「抱っこじゃない! 抱きしめられたのっ!」
そうなんだ。
抱きしめられたんだ。
生まれて初めて、男の子に。
そして彼は、泣き止んだあたしをおぶって家まで送ってくれた。
細身だけれど、すごく安心できた背中。指先や胸に伝わってくる、彼の体温。
ときめく胸に、とまどうあたしの心。
すごくすごくリアルに覚えている。強烈すぎる思い出。恋心。
彼も覚えていてくれるかしら。
ううん! 絶対覚えてくれているはず!
このあたしの事を・・・!
「そりゃ忘れられないでしょ。犬や猫ならともかく、ドブで子ども拾うなんて体験しないもの。普通」
「悪かったね・・・」
「で、王子様は家まで送ってくれたんだよね」
「うん」
「それでそのまま、サヨナラしたわけだ」
「・・・・・うん」
そうなの。それでサヨナラだったの。
ろくにお礼も言えなかった。名前も、聞けなかった。
『王子様』とか『彼』とかしか呼べないのは、名前を知らないから。
あたしは、自分の初恋の人の名前すら知らないの。
あの日以来
この十年間
忘れたことはないのに。
鮮明に夢を見続けているのに。
彼に恋し続けているのに・・・。
「普通、恩人の名前くらい聞くけどね」
「そーだよねっ!聞くよねっ?普通っ!」
お母さんが悪いんだよっ! そんな大事なこと聞き忘れるっ?!
いい大人がさーっ!
「しかたないよ。おばさん、ものすごく驚いてたんでしょ?」
「それはそうなんだけどさー!」
実際お母さんの驚きようったら、たいしたもんだった。
今でも時々、思い出すたびに話すの。
『ある日、見知らぬ少年が見知らぬ物体を連れて現れた』って・・・。
黒なんだか緑なんだか、わけ分かんない色のドロドロに埋もれた物体。
その物体が我が子だと理解した瞬間、パニックに陥ったらしい。
どれくらいパニクッてたかっていうと・・・
泣いてしがみつこうと近づいてきた我が子を見て、悲鳴を上げて逃げ出したくらい・・・。