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物集院秋津シリーズ

石臼淵の河童・裏

作者: 秋月恒一
掲載日:2026/09/03

『石臼淵の河童・裏』





第一章 黒い影



 夢を見た。

 暗い川だった。

 月もなく、星もなく、ただ水音だけが聞こえている。

 直吉はひとりで石臼淵の縁に立っていた。

 淵は底が見えないほど黒く、覗き込んでいると、そのまま吸い込まれそうだった。

 やめろ。

 誰かが言った気がした。

 しかし周囲には誰もいない。

 ふと水面が揺れた。


 ぽちゃん。


 小さな音だった。

 だが波紋は不自然なほど大きく広がり、淵の中央まで届く。

 その時だった。

 水の中から何かが見上げていた。

 直吉は息を呑んだ。

 黒い。

 毛むくじゃらの顔。

 猿のようで。

 人のようでもある。

 それは水面から半ばだけ顔を出し、じっと直吉を見ていた。

 目だけが異様に白かった。

 逃げろ。

 そう思う。

 だが足が動かない。

 影はゆっくりと淵から這い上がった。

 濡れた毛。

 長い腕。

 曲がった背中。

 その姿を見た瞬間、直吉は思い出した。


 あの日。

 石田村長が死んだ日。

 自分が川へ落ちた日。

 確かに見たのだ。

 あの黒い影を。

 影は音もなく近づいてくる。


 一歩。


 また一歩。


 そして直吉のすぐ目の前で立ち止まった。

 獣臭い息がかかる。

 影が口を開く。

 だが聞こえたのは言葉ではなく、水の流れる音だった。

 ごう、と。

 川そのものが喋っているような音。

 そして。

 影はゆっくりと腕を伸ばした。

 直吉の肩へ触れようとした。

 その瞬間。

 水の底から重い音が響いた。


 ごとり。


 ごとり。


 まるで巨大な石が転がるような音。

 影が動きを止める。

 淵の底から何かが浮かび上がってくる。

 丸い石。

 石臼だった。

 泥にまみれた石臼が黒い水の中から現れ、ゆっくりと回転する。


 ごり。


 ごり。


 ごり。


 石臼が回るたび、水が赤く染まっていく。

 影がそれを見ている。

 いや。

 怯えている。

 次の瞬間。

 石臼が一気に浮上した。



 直吉は悲鳴を上げた。

 目が覚めた。

 布団の上だった。

 朝日が障子の隙間から差し込んでいる。

 全身が汗で濡れていた。

「またじゃ……」

 震える声で呟く。

 ここ数か月、何度も同じ夢を見る。

 黒い影。

 石臼淵。

 そして水の底の石臼。

 事件が終わって半年。

 村は静かになった。

 村長殺しも終わった。

 猿猴騒ぎも終わった。

 誰も猿猴の話などしない。

 だが直吉だけは忘れられなかった。

 あの日、自分が見たものを。

 大人たちは言う。

 見間違いだ。

 恐怖でそう見えただけだ。

 猿猴なんているわけがない。

 先生もそう言った。

 母もそう言った。

 友達も笑った。

 それでも。

「おったんじゃ」

 直吉は小さく呟く。

「わしは見たんじゃ」

 誰も信じてくれない。

 自分だけが覚えている。

 あの黒い毛むくじゃらの影を。

 その日の夕方だった。

 学校からの帰り道。

 遠回りと分かっていながら、直吉は石臼川の方へ足を向けていた。

 田の稲はすでに刈られ、村のあちこちには稲架が並んでいる。

 川の流れは穏やかだった。

 事件があったとは思えないほどに。

 石臼淵の近くまで来た時だった。

 直吉は足を止めた。

 向こう岸。

 木立の影。

 何かがいた。

 黒いもの。

 小さくしゃがみ込んでいる。

 猿のような。

 人のような。

 直吉は息を呑んだ。

 影はこちらを見ていた。

 間違いない。

 夢で見たものと同じだ。

「おい……」

 声を出した瞬間。

 影が動いた。

 地面を蹴る。

 驚くほど素早い。

 そして木々の奥へ消えた。

 直吉は立ち尽くした。

 胸が激しく脈打っている。

 逃げた方がいい。

 そう思う。

 だが同時に確信していた。

 やはりいたのだ。

 猿猴は。

 その頃。

 一人の女性が石臼村へ続く山道を歩いていた。

 黒髪をまとめた和装の女性である。

 手には革の鞄。

 その中には一通の手紙が入っていた。

 差出人は石臼神社宮司。

 宮原兼信。

 そして宛名は。

 物集院秋津(もずめいんあきつ)。

 彼女は遠くに見え始めた村を眺め、小さく目を細めた。

「兄様が面白そうですねと言う時は、大抵ろくなことではないのだけれど」

 そう呟いて苦笑する。

 秋の風が吹く。

 石臼川の水音が遠く聞こえていた。

 そして村のどこかで。

 誰にも気づかれぬまま。

 黒い影が静かにその流れを見つめていた。



第二章 報告書



三日前


兄から届く手紙というものは、大抵ろくな内容ではない。

 物集院綾乃はそう考えている。

 特に、

面白いものを見つけました。

 と書かれている時は危険だった。

 本人にとっての面白いは、世間一般の面白いとは少々意味が違うからである。

 十月のある日。

 綾乃は一葉館の応接間で、一冊の報告書を開いていた。

 表紙には整った文字で、

『石臼淵の河童 調査報告』

 と書かれている。

 書いたのはもちろん兄、物集院秋津だった。

「やはり長いですね」

 綾乃はため息をついた。

 紙の束は分厚い。

 村の地理。

 石臼川の水利。

 石臼淵の伝承。

 聞き取り記録。

 古文書調査。

 どれも細かく書かれている。

 いや。

 細かいなどというものではない。

 異常だった。

 特に古文書の部分が。

 綾乃は頁をめくる。

『石臼川流記第三部と別筆部分の筆跡差異について』

 さらに頁をめくる。

『石臼村周辺における水利権争いの歴史』

 さらにめくる。

『石臼の民俗学的象徴性について』

「兄様……」

 思わず額を押さえる。

「事件の報告書でしょう、これは」

 どう見ても半分以上が古文書の調査記録だった。

 その時だった。

 食堂の方から足音が聞こえた。

「あれ、綾乃さん」

 顔を上げる。

 折口恒一だった。

 湯気の立つ茶碗を持っている。

「おはようございます」

「おはようございます」

 恒一は報告書を見るなり苦笑した。

「ああ、それを読まされているんですか」

「読まされております」

「同情します」

「ありがとうございます」

 二人は真顔で頷き合った。

「やっぱり古文書ばかりでしょう」

「はい」

「事件のことは三十枚くらいです」

「やはり」

「石臼川流記の話が百枚近くあります」

 恒一は天井を見上げた。

「秋津らしいなあ」

「兄様は事件を調べに行ったのでしょうか」

「古文書を探しに行ったんですよ」

 即答だった。

 綾乃は小さく笑う。

 確かにその通りかもしれない。

 その時、応接間の扉が開いた。

 物集院秋津だった。

 相変わらずの黒い背広姿である。

 手には新しい書物を抱えていた。

「おや、綾乃」

「兄様」

「報告書を読んでいたのですか」

「読ませていただいております」

「そうですか」

 秋津は満足そうに頷いた。

 綾乃は少しだけ眉をひそめる。

「兄様」

「何でしょう」

「事件の報告書なのですよね」

「ええ」

「なぜ古文書の記述が全体の三分の二を占めているのでしょう」

 秋津は少し考えた。

「重要だからでは」

 綾乃は黙った。

 恒一も黙った。

 やがて恒一がぼそりと言う。

「ほら」

「はい」

「いつものです」

「そうですね」

 秋津は不思議そうな顔をした。


 その時だった。

 玄関の方からトメの声が聞こえた。

「秋津さん、手紙ですよ」

 秋津が受け取りに行く。

 ほどなくして戻ってきた。

 封筒を見た瞬間、綾乃の目が止まる。

「石臼神社」

 差出人。

 宮原兼信。

 石臼村の宮司だった。

 秋津は封を切る。

 手紙を読む。

 そして少しだけ目を見開いた。

 その反応を、綾乃も恒一も見逃さなかった。

「何かありましたか」

 綾乃が尋ねる。

 秋津は手紙を差し出した。

 綾乃は内容を読む。

 短い文だった。

『神社の古記録整理中、一通の祭文を発見しました』

『題は猿猴鎮めの祭文』

『石臼川流記には見られぬ内容がございます』

『もしご興味がおありでしたら御覧に入れたく存じます』

 綾乃は読み終えた。

 恒一も横から覗き込む。

「祭文ですか」

「猿猴鎮めの祭文」

 秋津の目が輝いていた。

 非常に嫌な予感がする。

「兄様」

「はい」

「行くおつもりですか」

「当然です」

 即答だった。

 だが次の瞬間。

 秋津は机の上へ積み上がった資料の山を見た。

 中国地方旧家文書目録。

 備中国神社縁起集成。

 陰陽道関係古記録。

 その他多数。

 明らかに処理途中である。

 綾乃は静かに言った。

「無理ですね」

「無理ですね」

 恒一も言った。

 秋津は沈黙した。

 珍しく反論できないらしい。

 数秒後。

 秋津は小さくため息をついた。

「綾乃」

「何でしょう」

「行っていただけますか」

「最初からそのつもりでした」

 綾乃は微笑む。

 秋津も薄く笑った。

「助かります」

「祭文を見てまいります」

「よろしくお願いします」

 恒一が腕を組む。

「綾乃さんが行く方が向いている気もします」

「そうでしょうか」

「だって秋津は祭文を見た瞬間、村を忘れますから」

「失礼ですね」

 秋津が言う。

「私は村も見ます」

「古文書九割、村一割で」

「十分でしょう」

 綾乃は思わず吹き出した。

 この二人は相変わらずだった。

 やがて窓の外へ目を向ける。

 十月の空は高い。

 石臼村では今頃、木々が色づき始めている頃だろう。

 そして。

 あの村には一人の少年がいる。

 兄の報告書にも名前があった。

 吉村直吉。

 石臼淵で黒い影を見たという少年。

 綾乃はふとその記述を思い出していた。

『少年は現在も自らの目撃を主張している』

 その一文だけが妙に印象に残っていた。

 綾乃は静かに報告書を閉じた。

「さて」

 石臼村へ行きましょうか。

 誰にも聞こえないように呟く。

 そしてその頃。

 遠く離れた石臼村では。

 夕暮れの石臼淵を見つめながら、直吉が再び黒い影のことを考えていた。




第三章 誰も信じない




 物集院綾乃が石臼村へやって来たのは、その翌日の昼過ぎだった。

 十月の空は高く、山々は少しずつ色づき始めている。

 直吉は学校の帰り道、村外れで立ち止まった。

 石臼神社へ続く坂道を、一人の女性が歩いていたからだ。

 長い黒髪。

 淡い色の着物。

 小さな革鞄。

 村では見かけない人だった。

「誰じゃろう」

 思わず呟く。

 女性はまっすぐ石臼神社の方へ向かっていった。

 その姿を見送りながら、直吉は何となく気になった。

 まるで村に馴染まないのに、不思議と周囲の景色に溶け込んで見えたのだ。


 その日の夕方。

 石臼神社の境内には宮原兼信の姿があった。

「遠路ありがとうございました」

「いえ。こちらこそお手紙をありがとうございました」

 綾乃は丁寧に頭を下げた。

 宮原はどこか安心したように頷く。

「本当は秋津先生にお越しいただきたかったのですが」

「兄は資料整理に捕まっております」

「ああ……」

 宮原は苦笑した。

 どうやら納得したらしい。

「先生らしいですな」

「ええ」

 綾乃も苦笑する。

「非常に兄らしいです」

 その時だった。

 境内へ別の人物がやって来た。

 森田修平である。

「あれ、宮原さん」

 修平は綾乃を見て軽く目を丸くした。

「先生のお身内ですか」

「妹です」

「これは失礼しました」

 修平は頭を下げた。

 本編の事件から半年。

 修平の表情には以前のような張り詰めた空気はない。

 しかし、どこか疲れた影も残っていた。

「事件の後始末も一段落しました」

 修平は言った。

「村も少しずつ落ち着いています」

「良かった」

 綾乃が答える。

 すると修平は少し表情を曇らせた。

「ただ一人だけ、まだ引きずっている子がおりまして」

「直吉君ですね」

「ご存じでしたか」

 綾乃は頷いた。

 秋津の報告書に何度か名前が出ていた。

「まだ猿猴を見たと言っています」

 修平は困ったように笑った。

「私としては、恐怖から来る思い込みだと思うんですがね」

「そうかもしれません」

 綾乃は答えた。

「そうでないかもしれません」

「え?」

 修平が少し驚く。

 しかし綾乃はそれ以上何も言わなかった。

 その時、境内の石段を上ってくる人影が見えた。

 高原千鶴だった。

「宮司さん」

「ああ、千鶴さん」

 千鶴は綾乃に気付き、軽く頭を下げる。

「はじめまして」

「物集院綾乃です」

「高原千鶴です」

 二人は挨拶を交わした。

 少し会話をした後、千鶴が言った。

「直吉君のことでしたら、私も気になっています」

「やはりですか」

「最近、あの子だけ石臼淵に近づこうとするんです」

 綾乃は静かに耳を傾けた。

「何を見たのかは分かりません」

 千鶴は続ける。

「でも、あの子は嘘をつく子じゃありません」

 その言葉だけは強かった。

 綾乃は少しだけ微笑んだ。

「なるほど」

 その頃。

 その話題の当人である直吉は、神社の裏手から境内を覗いていた。

 大人たちが話している。

 そして、その中に見知らぬ女性がいる。

 あの人だ。

 昼間見た人。

 何となく気になった。

 だから帰らずに残っていた。

 すると。

「そこにいるのでしょう」

 声がした。

 直吉は飛び上がった。

 いつの間にか綾乃がこちらを見ている。


 

「出ていらっしゃい」

 逃げる理由もなく、直吉は恐る恐る姿を現した。

「直吉君ですね」

「......うん」

「綾乃さん」

 小さく名乗ると、綾乃は目線を合わせるようにしゃがんだ。

「よろしくお願いします」

 その口調は不思議なくらい柔らかかった。

 まるで子供扱いしない。

 それが少し嬉しかった。

「先生のお妹さんなん?」

「そうです」

「先生みたいに難しいこと言う?」

 綾乃は少し考えた。

「兄様ほどではありません」

 直吉は思わず吹き出した。

 綾乃も少し笑った。

 それだけで緊張がほぐれた。

 しばらく沈黙が続く。

 やがて直吉がぽつりと呟いた。

「誰も信じてくれん」

 綾乃は答えない。

 続きを待っている。

「わし、また見たんじゃ」

 言ってしまった。

 母にも言えないことだった。

 友達にも笑われた。

 修平先生も困った顔をした。

 けれど。

 なぜかこの人には言えた。

「また見た?」

 綾乃は静かに尋ねた。

「うん」

「何を」

 直吉は唾を飲み込んだ。

「猿猴を」

 言った瞬間。

 やっぱり笑われると思った。

 見間違いだと言われると思った。

 しかし。

「そう」

 綾乃はそれだけだった。

 否定しない。

 驚きもしない。

「どこで見たの?」

「石臼淵」

「いつ?」

「三日前」

 綾乃は真面目に聞いている。

 本当に話を聞いている。

 直吉は少しずつ言葉を続けた。

「黒かった」

「うん」

「毛むくじゃらで」

「うん」

「人みたいで」

「うん」

「猿みたいじゃった」

 綾乃は静かに頷いた。

「怖かった?」

 直吉は首を横に振った。

「分からん」

 自分でも不思議だった。

「怖いような気もするし」

「うん」

「でも、何か悲しそうじゃった」

 綾乃は少しだけ目を細めた。

「そう」

 それだけ言った。

 しばらく風が吹く。

 頭上の銀杏が揺れる。

 落葉が一枚、境内へ舞い落ちた。

「綾乃さん」

「はい」

「信じる?」

 直吉は恐る恐る尋ねた。

 綾乃はすぐには答えなかった。

 少し考えてから言う。

「見たのでしょう?」

「うん」

「なら、直吉君は見たのでしょうね」

 直吉は息を呑んだ。

 初めてだった。

 誰かがそう言ってくれたのは。

 猿猴が本当にいたのか。

 見間違いだったのか。

 そんなことではなく。

 自分の言葉そのものを信じてくれた。

 それだけで十分だった。

 遠くで石臼川の流れる音が聞こえる。

 秋の風が吹く。

 直吉は初めて、自分の胸の中の重石が少しだけ軽くなった気がした。



第四章 猿猴鎮めの祭文



 翌日。

 直吉は再び石臼神社を訪れていた。

 空は曇っている。

 秋の風が木々を揺らし、境内には落葉が散っていた。

 拝殿の奥では宮原兼信と綾乃が古い木箱を前にしている。

「これです」

 宮原が布に包まれた和紙を丁寧に広げた。

「神社の蔵を整理していた時に見つかりました」

 綾乃が身を乗り出す。

 直吉も横から覗き込んだ。

 紙は古い。

 虫食いも多く、端は黒ずんでいる。

 墨もかすれていた。

 だが文字はまだ読めた。

 綾乃がゆっくり読み上げる。


淵ニ石臼ヲ沈メ

人心ノ乱レヲ鎮ム

猿猴ヲ鎮ム


 そこで文章が途切れていた。

 紙の中央が大きく欠けている。

「この先が読めんのか」

 直吉が言う。

「残念ながらね」

 綾乃は頷いた。

 欠落部分はかなり大きい。

 文章の続きがあったことだけは分かる。

 宮原も悔しそうな顔をした。

「もっと状態が良ければ良かったのですが」

「いえ」

 綾乃は首を振った。

「これだけでも十分興味深いです」

「そうですか」

「ええ」

 綾乃は祭文を見つめた。

 しばらく無言だった。

 直吉には何を考えているのか分からない。

 だが兄の秋津と似た顔になっている気がした。

 考え事をしている時の顔だった。

 やがて綾乃の指が祭文の隅で止まる。

「これは……」

 小さく呟く。

「何かあったん?」

 直吉が尋ねる。

 綾乃は紙の下端を指差した。

 そこには本文とは少し違う筆で書かれた文字があった。

 後から書き加えられたらしい。

 墨も比較的新しい。

 かろうじて読める。


石ハ記憶ヲ忘レズ


 直吉は首を傾げた。

「どういう意味じゃろ」

「さあ」

 綾乃はそう言いながらも、その目は真剣だった。

 宮原も腕を組む。

「石臼の話でしょうかな」

「かもしれません」

 綾乃は祭文に視線を落としたまま答えた。

 拝殿の外では風が鳴っている。

 どこか遠くで烏が鳴いた。

 綾乃は再び文面を追う。


淵ニ石臼ヲ沈メ


人心ノ乱レヲ鎮ム


猿猴ヲ鎮ム


 何度も何度も。

 まるで確かめるように。

「何か変なん?」

 直吉が聞く。

 綾乃は少し考えてから答えた。

「そうね」

「どこが?」

「普通のお祭りの祝詞や祭文は、神様へ向けて書かれることが多いの」

 直吉には難しかった。

 しかし綾乃は分かりやすく説明してくれる。

「例えばね」

「うん」

「神様へお願いをしたり、怒りを鎮めたりするの」

「猿猴様みたいに?」

「そう」

 綾乃は頷いた。

「でも、この祭文は少し違うの」

「違う?」

「ええ」

 綾乃の指が文字をなぞった。


人心ノ乱レヲ鎮ム


「ここ」

「人の心?」

「そう」

 綾乃は静かに言った。

「猿猴より先に、人の心が書かれている」

 直吉は黙って聞いていた。

「つまりこれは」

 綾乃はゆっくり続ける。

「神様のための祭文じゃない」

 少し沈黙。

 そして。

「人間のための祭文なのよ」

 拝殿の中が静まり返った。

 宮原も言葉を失う。

 外の風の音だけが聞こえていた。

 直吉には全部は分からない。

 けれど。

 半年前の事件で秋津が言ったことを思い出した。


猿猴を封じたのではありません。

人々が自らの罪を沈めたのです。

 あの言葉が頭に浮かんだ。

 綾乃も同じことを考えているようだった。

「石臼を沈めたのは」

 綾乃がぽつりと言う。

「猿猴を鎮めるためではなく」

 祭文へ目を落とす。

「人々自身を鎮めるためだったのかもしれない」

 誰も答えなかった。

 その時だった。

 直吉の視線が拝殿の外へ向く。

 石段の下。

 木立の向こう。

 何かが動いた気がした。

 黒い影。

 一瞬だけ。

 毛むくじゃらの何か。

「!」

 直吉は立ち上がった。

「どうしたの?」

 綾乃が振り返る。

「今おった!」

「何が?」

「向こう!」

 直吉は駆け出した。

 拝殿を飛び出し、石段を下りる。

 木立の向こうへ目を凝らす。

 だが。

 何もいない。

 ただ赤く色づき始めた木々が風に揺れているだけだった。

 遅れて綾乃もやって来る。

「見えたの?」

 直吉は息を切らしながら頷いた。

「黒かったんじゃ」

「うん」

「またおった」

 綾乃は木々の奥を見つめた。

 しばらく何も言わない。

 やがて静かに呟いた。

「そう」

 それだけだった。

 否定しない。

 見間違いとも言わない。

 それが直吉にはありがたかった。

 風が吹く。

 木の葉が舞う。

 どこか遠くで石臼川の流れる音が聞こえた。

 そして綾乃はもう一度、祭文の言葉を思い返していた。

石ハ記憶ヲ忘レズ

 まるで。

 二百年前の死も。

 半年前の殺人も。

 すべて石が覚えているとでも言うように。



第五章 石臼



 次の日から、綾乃は村のあちこちを歩き回るようになった。

 兄の秋津とは少し違う。

 古文書を読む時は夢中になるくせに、人の話もきちんと聞く。

 宮原の話を聞き。

 修平の話を聞き。

 千鶴の話を聞き。

 時には年寄りたちの昔話にも耳を傾けた。

 直吉はその後ろを付いて歩くことが多かった。

 子供の足では追いつくのも大変だったが、綾乃は嫌な顔をしなかった。

 その日も二人は高原家の蔵の前にいた。

 事件の後、整理が進められているらしい。

 千鶴が戸を開けてくれる。

「父がいた頃より綺麗になったでしょう」

 少し寂しそうに笑った。

 直吉は返事に困った。

 清次郎は村にはいない。

 事件の後、自ら村を去った。

 皆そのことを知っている。

 けれど誰も口にはしなかった。

 蔵の奥には古い農具や家財が積まれていた。

 綾乃はその中の一つに目を留める。

「これは……」

 埃を払う。

 丸い石。

 真ん中に穴が開いた古い石臼だった。

「昔使っていたものです」

 千鶴が説明する。

「今はもう残っている家も少ないですけれど」

 綾乃は石臼を見つめた。

 指先でそっと触れる。

 何かを考えているようだった。

「石臼村なのに、石臼は少ないんじゃな」

 直吉が言うと、

「そうね」

 綾乃は小さく頷いた。

「昔はたくさんあったのでしょうけれど」

 そして少し考え込む。

「不思議ね」

「何が?」

「この村では昔から石臼が特別な意味を持っているのに、それを覚えている人が少ない」

 直吉にはよく分からなかった。

 その日の午後。

 石臼神社の社務所で再び宮原と顔を合わせた。

 綾乃は二百年前の記録について尋ねていた。

「庄吉の供養について、何か残っていませんか」

 宮原はしばらく考え、

「祖父から聞いた話ならあります」

 と答えた。

「石臼を沈めたという話ですな」

 綾乃が顔を上げる。

「やはり」

「ええ。庄吉が亡くなった後、村人たちが供養のため石臼を淵へ沈めたと伝わっています」

「猿猴封じではなく?」

「祖父は違うと言っておりました」

 宮原は静かに続ける。

「亡くなった者を慰めるためだったと」

 直吉はどきりとした。

 本編で秋津が言ったことと同じだったからだ。

 猿猴ではない。

 人間だったのだと。

「やはりそうですか」

 綾乃が呟く。

 だがその目はまだ納得していないようにも見えた。


 夕方。

 村を歩きながら綾乃がぽつりと言った。

「二つあるのよ」

「何が?」

「死が」

 直吉は首を傾げた。

 綾乃は石臼川の流れを見つめている。

「二百年前」

「うん」

「庄吉さんが亡くなった」

「うん」

「そして半年前」

 綾乃は少しだけ言葉を選んだ。

「石田正造さんが亡くなった」

 村長だった男。

 石臼淵で殺された。

 その記憶は今も村に残っている。

 直吉の胸も少し痛んだ。

「どっちも石臼じゃ」

「そう」

 綾乃は頷く。

「そこなの」

 二百年前。

 石臼は供養のため淵へ沈められた。

 半年前。

 石臼は人を殺すため使われた。

「同じ石じゃない」

 綾乃が言う。

「でも意味は重なっている」

 風が吹いた。

 枯れ葉が足元を転がる。

「庄吉さんの死」

「うん」

「石田さんの死」

「うん」

「二百年離れているのに、同じ場所へ繋がっている」

 綾乃の顔が少し険しくなる。

 今まで見たことのない表情だった。

 まるで何かを警戒しているような。

「綾乃さん?」

「もしかしたら」

 綾乃は石臼川を見たまま言った。

「この村の石臼は、ずっと覚えていたのかもしれない」

 直吉は黙った。

「覚えていた?」

「人の死を」

 ぞくりとした。

 その時だった。

 綾乃が懐から小さな封紙を取り出した。

 白い和紙だった。

 それを指先でつまみ、じっと見つめる。

 ほんの一瞬だった。

 紙の端がかすかに黒ずんだように見えた。

 綾乃の表情が変わる。

「やっぱり……」

「どうしたん?」

 綾乃は封紙をしまった。

 少し迷ってから言う。

「まだ分からないわ」

「分からんの?」

「ええ」

 だが声は確信に近かった。

 石臼川の流れが聞こえる。

 空は赤く染まり始めていた。

 綾乃は石臼淵の方向を見つめる。

 そして誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

「石臼が依り代になっているのね」

 直吉は聞き取れなかった。

 だが綾乃には分かっていた。

 二百年前の見殺し。

 供養の願い。

 語られなかった罪。

 半年前の殺人。

 人々の恐れ。

 その全てが、一つの場所へ積み重なっている。

 石臼淵の底へ。

 沈められた石に。

 もし怪異が生まれるとすれば。

 それは庄吉一人の怨みではない。

 二百年にわたって積み重なった、人の想いそのものだ。

 遠くで川が鳴る。

 その音を聞きながら、綾乃は静かに決意していた。

 今夜、石臼淵へ行こう、と。



第六章 石臼淵



 その日の夕方。

 直吉は綾乃と二人で石臼淵へ向かっていた。

 空は茜色に染まり始めている。

 山の稜線の向こうへ陽が沈み、谷あいには薄い影が落ちていた。

 風は冷たい。

 十月も半ばを過ぎれば、川辺はもう寒い。

 石臼淵へ近づくにつれ、直吉は自然と口数が少なくなった。

 綾乃は何も言わない。

 ただ隣を歩いている。

 それだけだった。

 淵へ着く頃には、辺りは夕闇に包まれ始めていた。

 石臼川の流れが黒く光っている。

 深い淵は相変わらず底が見えない。

 二人は岸辺に立った。

 水音だけが聞こえている。

「怖い?」

 綾乃が尋ねた。

 直吉は少しだけ考えた。

「分からん」

 以前も同じことを言った気がする。

「怖い気もする」

「うん」

「でも、見たい気もする」

 綾乃は小さく笑った。

「子供らしいわね」

 しばらく沈黙が続いた。

 風が吹く。

 落葉が一枚、水面へ落ちた。

 その時だった。

 直吉の身体が強張った。

「……綾乃さん」

「なに?」

「おる」

 綾乃も顔を上げる。

 淵の向こう岸。

 木立の影。

 そこに何かが立っていた。

 黒い。

 いや、夕闇がそう見せているだけかもしれない。

 猿のようにも見える。

 獣のようにも見える。

 人がうずくまっているようにも見える。

 輪郭が曖昧だった。

 目を凝らすほど分からなくなる。

 ただ、

 そこにいる。

 それだけは確かだった。

 直吉は息を呑んだ。

「ほら……」

 声が震える。

「おるじゃろ……」

 影は静かだった。

 威嚇もしない。

 動きもしない。

 ただ石臼淵を見つめている。

 まるで何かを待っているように。

 綾乃も黙っていた。

 やがて小さく呟く。

「見えるわね」

 直吉は驚いた。

「見えるん?」

「ええ」

 その言葉が妙に嬉しかった。

 初めてだ。

 自分以外に見えている人がいた。

 影はゆっくりと顔を上げたように見えた。

 だが距離が遠く、表情は分からない。

 猿なのか。

 獣なのか。

 人なのか。

 それすら分からない。

 夕闇が全てを曖昧にしていた。

 直吉は一歩前へ出る。

 すると。

 影が動いた。

 音もなく。

 木々の間へ。

 ゆっくりと。

 そして、

 そのまま森の奥へ消えていった。

 追おうとしても、もうどこにもいない。

 ただ風だけが吹いている。

 石臼川の流れだけが続いている。

「行った……」

 直吉が呟く。

 綾乃も森を見つめていた。

 しばらく二人は何も言わなかった。

 やがて直吉が口を開く。

「綾乃さん」

「なあに」

「猿猴だったんかね」

 綾乃は困ったように笑った。

 そして淵へ視線を向ける。

 夕闇はさらに深くなっていた。

「どうかしらね」

 少し考えた後。

 綾乃は言った。

「猿猴だったのかもしれない」

 直吉は頷いた。

「おったじゃろ」

「そうね」

 綾乃は静かに答えた。

「おったのかもしれない」

 それ以上は言わなかった。

 断言も否定もしない。

 ただ、そこに何かがいたことだけを認めた。

 それで十分だった。

 その時。

 綾乃が鞄から一枚の白い紙を取り出した。

 封紙だった。

「直吉君」

「なん?」

「少しじっとしていてくれる?」

 直吉は首を傾げたが頷いた。

 綾乃はそっと額へ封紙を当てる。

 ひやりとしていた。

 風が止む。

 不思議な静けさが訪れた。

 綾乃は目を閉じ、静かに言葉を紡いだ。

「石臼川に留まるものよ」

「庄吉の無念も」

「語られなかった罪も」

「ここで終わりなさい」

 声は穏やかだった。

 戦うような祈りではない。

 誰かを慰めるような祈りだった。

 しばらくして封紙を離す。

 紙の端がわずかに灰色へ変わっていた。

 綾乃はそれを見て、小さく息を吐いた。

「これで大丈夫」

「お祓いか?」

「ええ」

「猿猴がおったん?」

 綾乃は微笑んだ。

「何がいたのかは分からないわ」

 そして直吉の頭を軽く撫でる。

「でもね」

「うん」

「君はもう一人で抱えなくていい」

 直吉は黙った。

 言葉が出なかった。

 この半年。

 誰も信じてくれなかった。

 けれど今は違う。

 見たことを否定されない。

 怖かったことも。

 分からなかったことも。

 そのまま受け止めてもらえた。

 川の向こうでは夜が始まりつつあった。

 石臼淵は静かだった。

 もう黒い影は見えない。

 けれど直吉は思った。

 もしあれが本当に猿猴だったとしても。

 もう昔のようには怖くない気がした。

 石臼川の水は、変わらず流れ続けていた。



終章 一葉館



 東京へ戻ったのは、十月の終わりだった。

 石臼村を出る朝、直吉は村外れまで見送りに来てくれた。

 最後まで猿猴の話はしなかった。

 けれど別れ際、

「また来る?」

 と尋ねた。

 綾乃は笑って、

「機会があれば」

 と答えた。

 すると直吉も少しだけ笑った。

 それで十分だった。

 一葉館へ着いた頃には、すでに日が傾いていた。

 玄関を開ける。

 懐かしい木の匂いがした。

「お帰りなさい」

 食堂から桐野トメが顔を出す。

「ただいま戻りました」

「秋津さんなら二階ですよ」

 綾乃は思わず苦笑した。

「やはりですか」

「朝からずっとです」

 それだけで状況は理解できた。

 兄はきっと今日も古文書に埋もれている。

 二階へ上がる。

 応接間の扉は開いていた。

 予想通りだった。


 机の上には本の山。

 新聞。

 古文書。

 ノート。


 そしてその中心に、物集院秋津がいた。

 向かいの机には折口恒一。

 原稿を書いている。

「兄様」

 綾乃が声を掛ける。

 秋津が顔を上げた。

「おや」

 それだけだった。

 相変わらずである。

「お帰りなさい」

 恒一が苦笑する。

「ただいま戻りました」

「石臼村はどうでした」

「色々ありましたよ」

 綾乃は鞄を開いた。

「それより」

 取り出した和紙の束を机へ置く。

「宮原宮司から預かって参りました」

 秋津の目が動いた。

「猿猴鎮めの祭文です」

 途端に兄の視線が変わる。

 綾乃は思わず小さく息を吐いた。

 やはり分かりやすい。

 秋津は祭文を手に取る。

 そして読み始めた。

 数分後。

 恒一が原稿から顔を上げる。

「またその顔ですよ」

 秋津は視線を上げない。

「どんな顔です」

「珍しいおもちゃを見つけた子供みたいな顔です」

「失礼ですね」

「事実でしょう」

 綾乃は思わず笑った。

 秋津は不満そうだったが、祭文を離そうとはしない。

 恒一が肩を竦める。

「石臼村の事件の時もそうでした」

「学術的興味です」

「楽しそうですよ」

「誤解です」

「綾乃さん」

「はい」

「楽しそうですよね」

「とても」

 秋津はため息をついた。

 しかし祭文を読む手は止まらない。

 窓の外では夕暮れが深まっていた。

 応接間には静かな時間が流れる。

 やがて秋津の指が、祭文の欠損部分で止まった。

 虫食いの跡。

 破れた箇所。

 ほとんどは読めない。

 だが。

「……」

 秋津の視線が細くなる。

 そこに何か文字が残っていた。

 綾乃も身を乗り出した。

 かすれている。

 ほとんど消えている。

 それでも読めた。


黒キ毛ノモノ


 それだけだった。

 前後は失われている。

 意味も分からない。

 秋津は何も言わない。

 ただ黙って続きを読む。

 恒一も口を閉ざした。

 綾乃は窓の外へ目を向けた。

 自然と石臼村を思い出していた。

 夕暮れの石臼淵。

 秋の水音。

 直吉の声。


おったじゃろ


 そして。

 淵の向こうに立っていた黒い影。

 あれは何だったのだろう。

 本当に猿猴だったのか。

 石臼に宿った怪異だったのか。

 あるいは。

 二百年間語られなかった人々の恐れだったのか。

 綾乃にも分からない。

 たぶん誰にも分からない。

 それでいいのかもしれない。

 応接間には紙をめくる音だけが響く。

 秋津は祭文を読み続けている。

 恒一は原稿へ戻った。

 一葉館の穏やかな夜が始まろうとしていた。

 綾乃はそっと目を閉じる。

 石臼川の流れを思い出す。

 二百年前も。

 半年前も。

 そして今も。

 あの川は変わらず流れ続けている。

 人の罪も。

 人の記憶も。

 怪異も伝承も飲み込みながら。

 静かに。

 ただ静かに。

 流れ続けているのだった。


綾乃視点の秋津と折口はどう感じましたか?兄秋津とは少し違う事件へのアプローチの仕方など感想を簡単でももらえるとうれしいです。


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