婚約破棄をして欲しいと言われたのだけども……
致命的なミスをした為、修正しました。
「ノーラ。私との婚約を、破棄してほしい」
「え、嫌ですけど……」
あまりにも予想外の返事だったのだろう。
向かいに座るエリオット・オーランドは、口を半開きにしたまま動きを止めた。
初夏の柔らかな風が庭園を吹き抜ける。大聖堂に隣接する庭園は、王都でも指折りの静かな場所だった。白薔薇が見頃を迎え、小さな噴水から流れ落ちる水音だけが穏やかに響いている。婚約者同士が語り合うには相応しい場所だが、婚約破棄を切り出すにはあまりにも場違いな景色だった。
二人の間には、淹れたばかりの紅茶が置かれている。
立ち上る湯気はまだ消えていないというのに、会話だけが妙な方向へ進んでいた。
「……今、何と?」
エリオットは信じられないものを見るような目で尋ねた。
「嫌です、と申し上げました」
ノーラは何事もなかったかのように紅茶へ口をつける。
爽やかな柑橘の香りが鼻を抜ける。
今日の茶葉は当たりらしい、と場違いな感想を抱いてから、ゆっくりとカップを受け皿へ戻した。
「理由を聞かないのか?」
「まだ伺っておりませんでしたか?」
「いや……理由を聞けば、考えが変わるかもしれないだろう」
「変わるかどうかは、聞いてから判断いたします」
ノーラが落ち着いた口調で答える一方、エリオットは落ち着きを失っていた。
彼は何度も言葉を選ぶように視線を泳がせ、膝の上で指を組み直している。
彼と付き合いの長いノーラには分かった。
相当困っているのだと。
昔から彼は嘘が苦手だった。隠し事をする時ほど、視線が定まらなくなる癖がある。
「……父上の命令なんだ」
ようやく絞り出すように口を開いた。
「父上が、君との婚約を解消しろと言った」
「なるほど。そうでしたか」
「驚かないのか?」
「少しは驚きました」
ノーラは素直に頷いた。
「ただ、ご自身のお考えではないだろうとは思いましたので」
その一言に、エリオットの肩がわずかに震えた。
「……どうしてそう思う」
「貴方と何年いたと思っているのですか?本心くらいお見通しですよ」
「はは……君には敵わないな」
エリオットは困ったように眉尻を下げ、それから小さく笑った。先ほどまで彼の顔に張りついていた緊張が、ほんの少しだけ和らいでいく。ノーラに本心を隠し通せるとは、初めから思っていなかったのかもしれない。
「実を言うと、私は君との婚約を破棄したくないのだよ」
ようやく口にされた本音は、思っていたよりも真っ直ぐだった。
ノーラは驚かなかった。彼がそう思っていることは、初めから分かっていた。それでも本人の口から聞けたことが嬉しく、膝の上で重ねていた指先から、わずかに力が抜けた。
「それは私もです。こんな無愛想な私に笑顔で話しかけてくれる人は、貴方が初めてでした」
「君を無愛想だと思ったことはないよ」
「それは、貴方だけです」
ノーラは少しだけ目を細めた。
幼い頃から、彼女は人付き合いが得意ではなかった。思ったことをすぐに口へ出せる性格でもなく、嬉しい時も悲しい時も、表情へ出るまでに時間がかかった。周囲の令嬢たちが楽しげに言葉を交わす中で、一人だけ相槌を打つことしかできず、気づけば話の輪から外れていることも珍しくなかった。
怒っているのかと尋ねられたこともあれば、自分たちを見下しているのだろうと陰口を叩かれたこともある。
けれど、エリオットだけは違った。
婚約者として初めて顔を合わせた日も、ノーラがほとんど口を開かなかったにもかかわらず、嫌な顔一つしなかった。庭に咲いていた花の話をし、最近読んだ本の話をし、返ってくる言葉が短くても、楽しそうに笑っていた。
その積み重ねがあったから、ノーラはエリオットの前でだけは、少しずつ自分の気持ちを口にできるようになったのだ。
「私が社交の場へ出られるようになったのも、貴方が隣にいてくださったからです。話しかけられて困っていれば助けてくださり、私が黙っていても、勝手に機嫌を損ねたりなさらなかった。貴方にとっては些細なことだったのかもしれませんが、私にとっては違いました」
「ノーラ……」
「私は、貴方と夫婦になるのだと思っておりました。幼い頃に決められた婚約ではありますが、それを嫌だと思ったことは一度もありません」
ノーラはこれまで、エリオットに恋をしているのかと尋ねられても、明確には答えられなかった。胸が高鳴るような出来事があったわけではなく、彼を見るたびに頬を染めることもなかったからだ。
ただ、彼が隣にいることを当然だと思っていた。
何かを選ぶ時には彼の意見を聞きたいと思い、美しいものを見れば彼にも見せたいと思った。将来の話を考える時には、いつもその中に彼がいた。
「勿論、家の都合もあるのは存じ上げています」
ノーラは一度言葉を切り、エリオットを真っ直ぐ見つめた。
「私たちは貴族です。婚姻が本人同士の気持ちだけで決められるものではないことも理解しております。家を守るために別の道を選ばなければならないことも、時にはあるのでしょう」
エリオットは何も言わなかった。
今まで父親の命令に従ってきた彼にとって、家の都合という言葉は、あまりにも重いものだった。幼い頃から何度も聞かされ、そのたびに自分の希望を諦めてきたのだろう。
「貴方が私の元を離れるのであれば……それも運命なのでしょう」
「ノーラ」
エリオットが苦しげに名を呼ぶ。
しかし、ノーラは言葉を止めなかった。
「本当に公爵家を守るために必要で、貴方ご自身も納得して選ばれるのであれば、私は受け入れます。悲しくは思うでしょう。それでも、家を背負って生きる以上、避けられないこともあるのだと自分に言い聞かせます」
そこでノーラの声が、わずかに強くなった。
「ただ、理不尽な選択には抗いたいと思っています」
家のためという言葉を掲げれば、どのような横暴も許されるわけではない。
彼の父、公爵が求めているのは、公爵家を存続させるために避けられない選択ではなかった。より大きな利益を得るために、これまで利用してきた婚約を捨て、新たな縁へ乗り換えようとしているだけである。
そこにエリオットの意思はなく、ノーラへの配慮もない。
ただ父親の欲だけがあった。
「貴方が望んでいないにもかかわらず、公爵の一存で私たちの婚約が壊される。それを家の都合や運命という言葉で片づけるつもりはございません」
ノーラの目には、普段の静けさとは違う、揺るぎのない意思が宿っていた。
エリオットはしばらく彼女を見つめていたが、やがて何かに気づいたように身を乗り出した。
「ノーラ……何か案があるのか?」
「ええ。もっとも古典的な方法ですが……ただ、貴方の一族には少しばかり迷惑をかけるかもしれません」
「少しばかり、か」
「結果によっては、公爵家そのものが大きく揺らぐ可能性もございます」
ノーラは包み隠さず告げた。
中途半端な覚悟では始められない。父親の権力だけを削ぎ、他の者には一切影響を与えないなどという都合の良い方法はないからだ。
使用人や領民にまで被害が及ばないよう配慮するつもりではいるが、一族の者たちが今までと同じ生活を続けることは難しくなるだろう。公爵の行い次第では、爵位や領地さえ無事では済まない。
エリオットは目を伏せ、しばらく考え込んだ。
父親を失脚させることになれば、自分も全てを失うかもしれない。公爵家の嫡男という立場も、将来受け継ぐはずだった爵位も、当然のように与えられてきた豊かな暮らしも、何一つ残らない可能性がある。
それでも、彼の答えは決まっていた。
「良いんだ。元々、家の考え方はとうに終わっているし。もう一度立て直した方が賢明だ」
エリオットは顔を上げた。
「父上は、公爵家のためだと言いながら、目先の利益ばかりを追っている。逆らう者は遠ざけ、自分にとって都合の良い話しか聞こうとしない。母上も妹も、父上の言いなりだ。このままでは、いずれ家そのものが立ちゆかなくなる」
それは、彼が長く胸に抱いてきた考えなのだろう。父親へ逆らうことはできなくても、そのやり方が正しいとは思っていなかった。家のために必要なのだと何度言い聞かされても、家族の意思を奪い、領民へ負担を押しつけ、利益だけを積み上げる方法で一族が長く続くはずはない。
「壊れかけたものへ蓋をして延命するより、一度きちんと正した方がいい。たとえ、私が後継者ではいられなくなったとしても」
「本当によろしいのですか?」
「ああ」
エリオットの声には、まだ僅かな震えが残っていた。恐ろしくないわけではないのだ。
「それに……君も手伝ってくれるんだろ?」
不安と期待の入り混じった眼差しを向けられ、ノーラは一瞬だけ目を丸くした。それから、普段の彼女からは想像もつかないほど自然に笑った。
「そんなの当然よ」
◇
こうして、二人は望みを叶えるために行動を起こした。
それは、民を巻き込んだクーデターだった。
もちろん、ノーラとエリオットが何も知らない領民を焚きつけ、自分たちの都合のために利用したわけではない。公爵の統治に苦しめられてきた者たちは、以前から不満を抱えていた。重い税を課され、収穫が少ない年にも取り立てを緩めてもらえず、鉱山で働く者たちは危険な環境へ押し込められながら、満足な賃金さえ受け取れていなかった。
声を上げた者もいた。
しかし、そのたびに職を奪われ、土地を取り上げられ、家族ごと領地の端へ追いやられた。公爵に逆らえば生活が成り立たなくなる。領民たちはそれを知っていたからこそ、不満を口に出せずにいたのである。
彼らに足りなかったのは、不満ではない。
自分たちが立ち上がった後、その責任を引き受ける者だった。
公爵を追い落としたとしても、その後の領地を誰が治めるのか分からなければ、領民は動けない。統治者がいなくなれば、近隣の貴族に領地を奪われるかもしれず、盗賊や傭兵が入り込む可能性もある。今より状況が悪化することを恐れ、誰も最初の一歩を踏み出せずにいた。
その役目を引き受けたのが、エリオットだった。
「父親の統治を否定し、自らが取り仕切る」
そう書かれた書状が、領内の町や村へ密かに届けられた。
公爵の監視を逃れるため、書状を運んだのは商人や行商人を装った者たちだった。ノーラのが信頼できる者を選び、エリオットが幼い頃から付き合いのある領地の役人たちへ繋ぎをつけた。
最初は誰もが疑ったという。
公爵の息子が、父親に逆らうはずがない。領民を炙り出すための罠ではないか。
そのように考える者も少なくなかった。
しかし、書状にはエリオット本人しか知り得ない領地の事情が細かく記されていた。徴税の記録、鉱山で起きた事故、領民から提出されながら握り潰された嘆願書。それらを一つずつ挙げたうえで、父親の命令に従い続けてきた自分にも責任があると認めていた。
そして最後には、彼自身の署名があった。
もし失敗すれば、首謀者として処罰されることを承知したうえで、エリオットは自らの名を記したのである。
そんな事情もあってか、公爵が真っ先に頼りにしたはずの領軍は、ほとんど機能しなかったという。
その理由は、エリオット自身にあった。
彼は数年前、社会経験を積むという名目で、一定期間領軍へ所属していたことがある。当時は公爵家の嫡男として特別扱いされることもなく、兵士たちと同じ訓練を受け、同じ食事を囲み、時には負傷兵の見舞いへ足を運ぶこともあった。
兵士たちにとって、エリオットは「公爵の息子」ではなかった。
一人ひとりの名を覚え、身分に関係なく言葉を交わし、自分たちを一人の人間として接してくれた青年だったのである。
だからこそ、兵士たちは迷わなかった。
父親の命令に従って領民へ剣を向けるよりも、エリオットと共に新しい領地を築く方が、よほど未来があると判断したのだ。
軍の指揮官たちも兵を動かさず、一般兵も命令に応じなかった。中には武器を置き、自ら領民の避難誘導へ回る者まで現れたという。
こうして、公爵が最後の拠り所としていた軍は、その役割を果たすことなく終わった。
結局のところ、エリオットの父は誰からも支持されていなかったのである。
彼の周囲には、これまで多くの人間が集まっていた。役人も、商人も、兵士も、公爵の前では頭を下げ、その命令に従っていた。
しかし、それは彼という人間を慕っていたからではない。公爵という権力を恐れ、逆らえなかっただけだけなのだ。
こうして、エリオットの父は公爵位を剥奪され、わずかな財産だけを持たされて領外へと追放された。長年にわたって領民へ課してきた重税や、鉱山で起きた事故の隠蔽、嘆願書の握り潰しについても改めて調査が行われ、その責任を問われることとなった。
公爵は最後まで、自分が悪いとは認めなかったという。
息子に裏切られた。領民に恩を仇で返された。役人も兵士も、自分が与えた立場を忘れたのか。
そのような言葉を繰り返し、自分がなぜ誰からも選ばれなかったのかを理解しようとはしなかった。
こうして一連の騒動は幕を閉じたのだった。
その後、ノーラはエリオットの代わりに王家の審問において、今回のクーデターが王家へ反旗を翻すものではなく、公爵の暴政を止めるためのものであったことを証言した。
さらに、ノーラと彼女の実家が新たな政権を支持したこともあり、エリオットたちは王家から無罪を言い渡される。
その後、二人は正式に結婚した。
幼い頃に家の都合で結ばれた婚約だったが、最後は誰の命令でもなく、自分たちの意思で夫婦となったのである。
後にエリオットは、「あの時、婚約破棄を断られて本当に良かった」と笑って語ったという。
その隣でノーラは、いつものように静かに紅茶を飲みながら、小さく頷くだけだった。




