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椿の夢

掲載日:2026/05/11

 椿がある。花盛りである。椿の花びらは弱い光を発し、おぼろな輪郭を宮口老人に見せた。闇のなかに浮かぶ椿である。

 宮口老人は椿の下に裸の女がいることに気が付いた。女はこちらを見ず、椿の幹にすがりつくようにしている。肌の具合から若い女というのが見て取れた。不気味であったが、女のもとへ近づいた。誘われたと言えなくもない。

「ねえ、どうしたの。」

宮口老人は言い、女の肩に手をやった。女は泣いているようで、こちらを振り返らない。

「ねえ、なに泣いているの。」

宮口老人は女を引き寄せた。女の顔には見覚えがあった。女は千冬で、包丁を持って手首を切っている。色白の肌から血が流れ、椿の木の根に滴った。

 宮口老人は千冬の包丁を手から引き離そうとした。千冬は包丁を奪おうとする宮口に気づかないという風で、手首に包丁を当て、横に引いた。あまりに深く切ったせいで、手が反ってしまった。もはや筒のようになってしまった腕からは血が止めどなく溢れている。宮口老人は思わず後ずさった。宮口の足は血だまりを踏んでぴちゃぴちゃと音を立てた。

 椿はより光を発した。宮口老人は千冬に掴みかかって椿から離そうとすると、意外にも千冬は椿からすぐに離れた。千冬はすっかり血の気を失って青ざめていた。胡蝶蘭の香りが千冬からした。そう思うとシャボンがはじけるように、千冬は白い花びらとなって消えてしまった。椿は千冬の血を吸ってなお紅く、輝いた。


 宮口老人は目を覚ました。老人は胸に手を当て、苦しそうに唸った。ついに死ぬのかと宮口老人は思ったが、しばらくすると、動悸は収まって胸の痛みはなくなった。宮口老人の隣には愛子が静かに寝息を立てていた。

 宮口老人はただ添い寝をするために少女を買った。寂寥感を埋めるためのみじめな老醜である。宮口老人は少女を愛子と呼んだ。宮口の昔の愛人の名前である。

 宮口は愛子を撫でた。撫でた手からは薄っすらと女の匂いがした。宮口老人は愛子を抱き寄せると夢で見た千冬のことを思い出した。

 千冬は宮口が家庭教師していた時に担当していた生徒だった。普通、家庭教師は間違いが起こらぬよう生徒と同性なのが好まれるが、千冬の家庭は変わっていた。

 千冬の面倒を見て欲しいというのが千冬の母の希望だった。千冬は彼女の兄の自死から精神を悪くして学校に通っていなかった。家庭教師が千冬の母のすこしでも外と関係を持って欲しいという親心だろうと宮口は思った。

 家庭教師の仕事は千冬の話を聞くのがほとんどだった。宮口は最初こそ勉強の面倒をみようと事あるごとに勉強に水向けていたが、千冬の母の親心を汲んで千冬の振る舞いに合わせるようにした。

千冬は宮口によく思い出ばなしをした。

「熊本の街の方までお兄さんと桜を見に行ったんです。」

千冬は言った。

「熊本城の桜は有名ですから。水道町まで行くとね、遠くの方に熊本城が見えますから、迷うことなんてないんですけど。私達はまだ子供でしたから、二人だけでそこまで行くのが頼りなくって、桜も見ずに帰っちゃったんです。」

千冬は泣いていた。

「ごめんなさい。また、泣いたりしちゃって。」

宮口は置いてあったちり紙で涙を拭った。

「いいよ、お兄さんのことが好きだったんだろう。」

ええ、と千冬は言った。涙を堪える千冬の姿に宮口はどきりとした。


 宮口老人は愛子の匂いにそんなものを見た。

 千冬は魔性だったと宮口老人は思った。

 きっと千冬の兄が自死したのはその魔性のせいだろう。宮口老人は思った。その死さえ、千冬の魔性は肥しにした。宮口が千冬に惹かれたのは彼女の薄幸の運命だった。

 宮口老人は胸がしいんと悲しくなった。千冬が薄幸の運命に翻弄されるほど、彼女の魔性は艶やかに輝きだす。千冬もまた魔性に魅入られた一人だった。

宮口老人は悲しみに愛子を抱きしめた。宮口老人の胸の中で夢の椿に自分の血を捧げる千冬の姿が千冬の運命と重なって見えた。椿は千冬の不幸を知らずに大きく、花開く。

 夢で匂った胡蝶蘭の香り。宮口老人にとって胡蝶蘭は葬式の花だった。それが千冬から香ったのは不思議だった。しかし、あれから四十年は過ぎている。千冬に死の影を感じ取ってもおかしくない。ある種の虫のしらせであった。

 抱かれた愛子が苦しそうに顔をしかめていた。老人はごめんよ。とひとり言って愛子を離した。愛子は寝返りをうって仰向けになった。それに布団ははだけ、胸が露わになった。子供のいない女の小さな胸だった。宮口老人は布団を愛子にかけ直してあげると、愛子の寝顔を見た。綺麗な顔だった。

 宮口老人は愛子もまた夢の椿に自分の血を捧げるだろうかと考えた。愛子も知らぬ因果で自らの魔性を育てるのだろうか。千冬は兄を捧げたが、愛子は何を捧げるのだろう。宮口老人は思った。


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