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第1話 開かずの間と掃除好きな新米メイド

王宮の朝は早い。


だが、一介の下働きである私、リリア・ヴァレリウスの朝は誰よりも早い。


「よいしょ、っと……! ふう、今日の水汲み任務、これで十往復目ですね。完了です!」


まだ薄暗い石造りの回廊。


ひんやりとした朝の空気を切り裂くように、私は両手に並の成人男性でも音を上げるサイズの巨大な木桶を提げて駆け抜けた。


中身はなみなみと注がれた井戸水だが、一滴たりともこぼすことはない。


額に滲んだ汗を手の甲で拭い、大きく息を吐き出す。


私の実家であるヴァレリウス家は、王家に忠誠を誓ってきた由緒正しき騎士爵家だ。


しかし、ある事件を境に没落の憂き目に遭い、今やその日のパンにも困る有様。


お父様、お母様……今日もリリアは元気に働いていますよ!


幼い頃から父に剣術と体術をスパルタで叩き込まれたおかげで、私にはこの無駄な体力と筋力だけが残されていた。


ただ、今の私には一つだけ切実な悩みがある。


うう……さらしがきついです。


また少し、育ってしまったんでしょうか……?


誰にも見られていないことを確認し、私はメイド服の胸元を少しだけ引っ張って熱を逃がした。


王宮の侍女たるもの、目立たず、地味に、ひたすら影に徹するべきだ。


私はわざと度の合わない野暮ったい伊達眼鏡をかけ、化粧も一切せず、体型を誤魔化すために二回りほど大きなブカブカの制服を着込んでいる。


すべては、この王宮で平穏無事に働き続け、飢えに苦しむ家族へ仕送りを続けるため。


女としての魅力など、過酷な労働環境においては邪魔な重りでしかないのだ。


「リリア! どこにいるの、リリア!」


回廊の奥から、ヒステリックで鋭い声が響き渡った。


私たちの恐るべき上司、侍女長のマーガレット様だ。


「はいっ! ここにおります、侍女長!」


私は弾かれたように姿勢を正し、スカートの裾を摘んで完璧な角度で一礼した。


「……相変わらず、無駄に声が大きくて元気なこと。まあいいわ、貴女にうってつけの特別任務よ」


マーガレット様は冷ややかな眼差しで私を上から下まで値踏みすると、一枚の羊皮紙を突きつけてきた。


そこに記された文字を見た瞬間、私の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。


「北の塔、最上階……『開かずの間』、ですか?」


王宮で働く者ならば、口にすることすら憚られる呪われた部屋。


そこは、王位継承権を持ちながらも一切の公務を放棄し、日がな一日怪しげな黒魔術の研究に没頭しているという王家の恥部――第三王子、ギルバート・フォン・エーテルガルド殿下の私室だ。


「専属の侍女がまた一人、泣きながら辞めたのよ。夜な夜な恐ろしい呪いの言葉を聞いたとか、部屋から死臭のような異臭がするとか喚いてね。……リリア、貴女は体力だけは取り柄だし、何より騎士の家系の出身でしょう? 少しは魔除けくらいになると思ってね」


「ま、魔除け、ですか……あの、私はただの物理特化型でして、魔法耐性は……」


「嫌なら辞めてもいいのよ? 代わりの働き口があればの話だけれど」


ニッコリと微笑む侍女長の背後に、実家の借金取りの幻影が見えた。


うっ……! ここでクビになったら、生活費が……!


私に拒否権など最初から存在しないのだ。


「……謹んで、お受けいたします」


私は血の涙を呑む思いで、深く、深く頭を下げた。


                    ◇


北の塔は、煌びやかな王宮の中心部とは完全に切り離された、まるで墓所のような冷たい静寂に支配されていた。


螺旋階段を一段登るごとに、空気が重く、冷たくなっていく気がする。


最上階に辿り着き、重厚な黒檀の扉の前に立った時、隙間から漏れ出す強烈な匂いに私は思わず鼻をつまんだ。


腐葉土と硫黄が混ざったような、それでいてひどく甘ったるい、脳髄を直接揺さぶるような危険な薬品の匂い。


こ、怖いです……。


でも、お給料のため。


ササッと埃を払って逃げるだけです、リリア! 


騎士の娘としての意地を見せなさい!


私は自分を鼓舞するように両頬をペチッと叩き、震える手で控えめにノックをした。


だが、返事はない。


意を決して、重い扉を押し開ける。


「し、失礼いたします。本日より担当になりました、リリアでございます……っ!」


部屋の中は、昼間だというのに分厚いビロードのカーテンで完全に光が遮断され、不気味な青白い魔石のランプだけがぼんやりと周囲を照らしていた。


そして、その異様な光景に私は言葉を失った。


床一面を覆い尽くすように描かれた、血のように赤黒い巨大な幾何学模様。


足の踏み場もないほど無造作に積み上げられた、不気味な装丁の古書の山。


部屋の隅でグツグツと煮えたぎる大釜からは、時折「ヒャハッ」と笑い声のような音を立てて紫色の煙が立ち上っている。


本物の、魔女の棲家だ……! 


いや、侍女としてここは見過ごせません。不衛生極まりないです!


そして、その悍ましい魔法陣の中心。


そこに、一人の少年が胡座をかいて座り込んでいた。


闇の中でぼんやりと発光しているかのような、透き通るような銀色の髪。


何年も陽の光を浴びていないであろう、病的なまでに蒼白な肌。


神が精魂込めて造り上げた彫刻のように美しい顔立ちをしているが、目の下にはどす黒いクマが深く刻まれ、そのアイスブルーの瞳は、焦点の合わない狂気じみた光を帯びて空中の何かを睨みつけていた。


第三王子、ギルバート・フォン・エーテルガルド殿下、その人だ。


「……違う、マンドラゴラの根の抽出液と硫黄の配分がコンマ三ミリずれている。いや、それ以前に触媒としての『苦痛』の純度が足りないのか……? 血の因果律を書き換えるには……」


殿下はひたすらにブツブツと難解な呪文のような独り言を呟き続けており、私が部屋に入ってきたことにすら気づいていない様子だった。


綺麗な顔立ちをされているのに、本当にもったいないです。


少しお部屋を片付けて換気をして、日光を浴びてご飯をたくさん食べれば、絶対に素敵な王子様になるのに……。


生来の貧乏性とお世話焼きの血が騒ぐ。


私は殿下の邪魔をしないよう、息を殺して部屋の隅からそっと掃除を開始した。


散乱した魔導書を崩れないように積み直し、床にこびりついた謎の粘液を雑巾で必死に拭き取る。


そして、魔法陣の境界線ギリギリの場所に落ちていた、不吉なオーラを放つ分厚い黒革の魔道書を拾い上げようと手を伸ばした。


その瞬間だった。


「――そこで何をしている」


背筋に氷柱を突き立てられたかのような、底冷えのする低い声。


ビクッとして顔を上げると、いつの間にかギルバート殿下が、絶対零度の瞳でこちらを射抜いていた。


「ひっ!? も、申し訳ございません! あまりにもお部屋が散らかっていたものですから、ついお片付けを!」


「馬鹿な真似を! 触るな! それは古代精霊語の禁書だ……!」


殿下が血相を変えて叫び、私に向かって手を伸ばしながら立ち上がろうとした。


その鬼気迫る形相に、私は心臓が止まるかと思うほど驚き、無意識に後ずさりをしてしまった。


あ……っ!


ズルリ、と。


体型を隠すためのブカブカのスカートの裾を、足で思い切り踏み抜いていた。


世界が、恐ろしいほどゆっくりとスローモーションになっていく。


バランスを崩し、私の体が魔法陣の方へ向かって盛大に倒れ込んでいく。


や、やばい! 


止まって、私の体!


しかし、無情にも手からすっぽ抜けたのは、謎の粘液を拭き取ってタプタプに汚れた、水拭き用の分厚い雑巾。


放物線を描いて宙を舞った雑巾が、床に描かれた精密で複雑な魔法陣のど真ん中、一番重要な要石のような紋章を直撃した。


バシャァッ!!


汚れた水が弾け飛び、血のように赤い塗料を無惨に滲ませ、完璧だった幾何学模様の線をグニャリと歪ませた。


「貴様ぁあああああっ!! 何ということを!!」


ギルバート殿下の、この世の終わりを見たかのような絶叫が塔に響き渡る。


次の瞬間。


カッ……!!


歪んだ魔法陣から、目を焼き尽くすほどの強烈な真紅の閃光が噴き上がった。


鼓膜を破るほどの爆音。


衝撃波が私の体を紙切れのように吹き飛ばす。


お父様、お母様、ごめんなさい! 


リリアは、立派な騎士にも侍女にもなれず、ここで……!


しかし、吹き飛ばされたという感覚とは何かが違った。


内側から、 私の一番深いところにある『魂』そのものを、巨大な見えない手で鷲掴みにされ、肉体の器から強引に、メリメリと引き剥がされるような、言語を絶する感覚。


「あ、ああっ……!?」


熱い。


全身の血液が沸騰したかのように熱い。


痛い。


骨の髄まで砕かれるように痛い。


なのに、それらの苦痛を塗り潰すほどの、脳髄をトロトロに溶かすような甘く強烈な痺れが、私の全身を駆け巡った。


「きゃあああああああああああっ!?」


「くそっ、術式の構成が逆流して……ぐあぁぁぁぁぁぁっ!!」


私の悲鳴と、殿下の苦悶の叫び声が一つに溶け合い――私の意識は、そこで完全に白く染まり、途絶えた。

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