第34章 — 最後の通路(そして思考すら残っていないカイ)
カイは水族館の中へ戻っていった。
まるで自分の影から逃げようとしているかのように——
皮肉にも、その影よりリュウナの方がはるかに恐ろしかったが。
足はふらつき、
左右に倒れそうになり、
呼吸は二百歳の老人がマラソンを走っているかのよう。
「おれ……も……むり……」とゼェゼェしながら走る。
リュウナは後ろからついてくる。
走らない。
飛びもしない。
ただ歩く。
ゆっくりと。
静かに。
確実に。
穏やかな微笑み。
光る瞳。
彼女は分かっていた。
そしてカイも分かっていた。
逃げ場は、もう終わりに近づいていた。
カイは水族館の最後の通路に入り込む。
そこは長く、
空っぽで、
青い水中ライトだけで照らされている。
壁は全面ガラス。
左右、上下、前後、
至るところに自分の姿が映る。
左のカイ。
右のカイ。
幽霊みたいなカイ。
惨めなカイ。
濡れたカイ。
死にかけのカイ。
「見んな!! オレを見るなバージョン違い共!!」
カイは鏡に向かって叫んだ。
ゆっくりと、リュウナが通路に入る。
そこで起きたのは——
今まで一度もなかったこと。
彼女は笑わない。
飛ばない。
求めない。
ふざけない。
ただ歩く。
静かに。
軽く。
海の底のような深い瞳で。
通路そのものが沈んでいくように感じられるほど。
カイは震えた。
「な……なんで……なんでそんな……真剣なんだよ……?」
リュウナは首を傾げる。
「カイ……私はね、ずっと待ってたの。」
「お、おれは待ってない!! 一生待ちたくない!!」
「あなた、いっぱい走ったね。すごく綺麗に……すごく遠くまで。」
「褒めるなぁぁぁ!!」
「でも、もう終わり。」
カイはつまずいて尻もちをつく。
立ち上がろうとする。
足が言うことを聞かない。
完全に。
「……や、やだ……まだ……まだ終わってない……!!」
「終わったよ。」
リュウナが近づく。
ひとつの足音。
またひとつ。
そのたびに床が震えるほどの存在感。
水族館全体が彼女の領域であるかのよう。
カイは這うように逃げる。
床の上をずりずりと、
まるでトラウマを抱えたナメクジのように。
「く、来るな……来るなよ……そうやって近づくな……!!」
「怖がらなくていいよ。」
「怖いに決まってるだろおおお!!」
リュウナはそっと膝をつき、
カイの目の前に座る。
顔と顔。
カイは震えすぎて、もはや蒸発しそう。
リュウナは彼の頬に触れる。
温かい手。
優しい手。
それなのに恐怖を倍増させるほど完璧な触れ方。
「カイ……」
「や……やだ……」
「もう十分頑張ったよ。たくさん逃げて、たくさん笑わせてくれて、たくさん私をドキドキさせてくれた。」
カイは早く浅い呼吸を繰り返す。
「ご、ご、五分……五分だけ休ませ……」
「だめだよ。」
リュウナは顔を近づける。
巨大で澄んだ瞳の海が、カイを丸ごと呑み込みそう。
「カイ……」
彼女は囁いた。
「いよいよ……この時が来たの。」
その指先が上がる。
青い爪が淡く光る。
カイは目を見開いた。
リュウナは小さく、少しだけ切なげに微笑む。
「もう……刻んでいいよね?」
カイは叫ぼうと口を開いたが——
声が出なかった。
心臓が暴れすぎて、
むしろ今生きてるのかどうか怪しい。
爪が首元へ伸びる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
あと数センチで——
カイは目をぎゅっと閉じた。
「いや……」
「しぃ……」
その瞬間。
通路の照明が消えた。
水族館全体が揺れた。
アラームが鳴り響いた。
そして外側の巨大水槽の向こうで、
何か巨大なものが動き出す気配。
カイは驚いて目を開く。
リュウナも振り返る。
そして二人は見た。
水槽の水が——
上昇し、
渦を巻き、
呼応し、
何かを“待っている”ように動いていた。
カイは震える声で呟く。
「な……なに……なにが……どうなって……?」
リュウナは、
今夜はじめて——
本気で表情を曇らせた。
そして小さく呟いた。
「……誰かが……海を呼んでる。」
カイは目を見開く。
「誰ぇぇだよ!? なんで呼ぶんだよ!! 誰が呼んでんだよおお!!」
答えは——
次の章へ。
残りわずか。
クライマックス。




