第32章 — サメ水槽(そして水中で崩壊していくカイの精神)
カイは、まるで自分の魂から逃げているかのように走っていた。
水族館の標識が視界を高速で流れていく。
「→ サメパビリオン」
「生き物にエサを与えないでください」
「水槽に入らないでください」
カイは全部無視した。
今夜の彼の唯一の才能は、“理性を無視すること”だった。
リュウナはその後ろを跳ねるように追いかけてくる。
濡れて、輝いて、恋に落ちすぎて、危険なほど幸せそうに。
「カァァァイ! 私、大きい水槽だいすき! サメもだいすき! そしてあなたが走る姿もだいすき!」
「トラウマになるもの全部を好きにならないでくれぇぇぇ!!」
カイは最後のドアに到達した。
非常ボタンを叩く。
ドアが開く。
彼は飛び込んだ。
そこは巨大な部屋。
中央には巨大なサメ水槽。
いろいろな種類のサメがゆったり泳いでいる。
青いライトが揺れ、空気は海の匂い。
カイは深呼吸した。
「よし……よし……作戦がある……」
「カイ!」
「計画中に話すなああああ!!!」とカイが叫ぶ。
リュウナは輝いたまま入って来た。
「カイ……ここ、ロマンチックすぎるよ?」
「ロマンチックじゃない!! こ、こ、これは生存への試みだ!!」
カイは水槽を見た。
リュウナを見た。
中央に吊るされたガラス製の観覧ステージの“下降ボタン”を見た。
そして、あの笑みを浮かべた。
——破滅を招く天才の笑み。
「これだ!!」
「カイ?」
「完璧な作戦だ!」
カイはボタンを押した。
水槽の中央にあるガラスの島のような観覧台が降りてくる。
カイはその上に飛び乗った。
リュウナは首をかしげる。
「カイ……サメに囲まれたガラスの島に乗るなんて……ロマンチック……」
「ロマンじゃねぇ!!!」
「……しかもサメはドラゴンマリンに従うんだよ?」
「……」
「……」
「…………従うってどういう意味だよおお!?」
リュウナは唇に指を当て、
ひゅぅぅぅ……
と優しく口笛を吹いた。
甘くて、
穏やかで、
恐ろしい音。
水槽のサメたちが——
全員、リュウナの方を向いた。
大きいのも、中くらいのも、
“サーファーを食ったことがあります”顔のも、
寝てたやつまで起きた。
カイの顔色が消える。
「やめろやめろやめろやめろ!!」
「はーい、みんなー! これが私のカイだよ〜!」とリュウナ。
サメ全員が、
ガラスの島の“真下”に集まってきた。
カイは震えた。
「下にいるぅぅぅ!!!」
「挨拶してるんだよ?」
「挨拶がこれ!?!?」
「サメの挨拶はこうなの!」
カイは慌ててボタンを押し、ガラス島を少し上昇させた。
彼は笑った。
「ハハハハ! よし! これで手が届か——」
リュウナも笑った。
「カイ……」
「その笑顔やめろ!!」
「……私、飛べるよ?」
カイは肺が破裂しそうな声を出した。
「毎回忘れるのおおおおおお!!!!!」
リュウナはフワリと浮き、
ガラス島の上に優しく着地する。
ロマンチックな破壊神のような優雅さで。
カイは島の端に逃げる。
リュウナがついてくる。
カイは反対へ。
リュウナもついてくる。
カイは円のように走る。
リュウナも同じ円を追いかける。
「カァァイ! これ、ダンスみたい!」
「ダンスじゃない!! パニックだ!!」
「ダンスだよぉ♡」
「違ううう!!」
リュウナはふわっと腕を伸ばし、
魔法の鉄のように強く、
しかし優しくカイの腕を掴んだ。
カイの目が見開く。
「離せぇぇ!!!」
「カイ……ここは最高の場所だよ。」
「ね、ね、ねぇからっ……」
「サメたちが見守って……水面には月が映って……ふたりきり……」
カイは震えた。
「……やめ……ほんとやめ……」
リュウナは手を持ち上げた。
青い爪が光る。
空気が震え、
水面が波立ち、
サメたちが動きを止める。
本当に止まる。
リュウナはゆっくりとその爪をカイの首元へ近づけた。
「カイ……さぁ……印、つけてもいい?」
——その瞬間。
カイの原始的本能が炸裂した。
彼はガラス島から飛び降りた。
はい。
そのまま。
真下へ。
水へ。
サメ水槽へ。
リュウナは絶叫した。
「カァァァイ!! 飛び込むところじゃないの!!」
カイは浮上して叫ぶ。
「サメに食われた方がマシだあああ!! 印なんかより!!」
サメたちは彼を囲んだ。
だが——
犬みたいにすり寄ってきただけだった。
カイは絶句。
「……なに……これ……どういう状況……?」
リュウナは水槽の縁に降り立った。
「みんな、あなたのこと好きなんだよ。」
「好きじゃなくていい!! 避けてくれ!! サメらしく!!」
リュウナは手を伸ばした。
「カイ……もう海の中にいるし……私の仲間に囲まれてるし……逃げ場もうないよ?」
カイは泣いた。
本当に。
涙がでた。
そして必死でバタ足しながら端へ向かう。
リュウナは優しくため息をついて言う。
「カイ……迎えに行くね。」
「来るなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
彼女は水へ飛び込んだ。
こうして、サメ水槽の中での追いかけっこが始まった。
サメたちは、困惑しながらも二人について回り、
まるで最悪の水泳教室のようだった。




