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空が泣いた夜――きみの中の星を探して

掲載日:2025/11/08

隕石落下で世界が壊れていく夜、幼なじみの二人が最後の星を見に行く物語です。


終末SFですが、派手なパニックよりも、消えそうな命と残される記憶を中心に書きました。

最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

第一章 空が泣きはじめる夜

 最初の一筋を、ミナが見つけた。

 空の真ん中を、白い傷のような光が走った。ほんの一瞬だった。けれど、そのあとに残った薄い残像は、瞼を閉じても消えなかった。

 ソウタは団地の屋上の柵にもたれたまま、少し遅れて顔を上げた。

「今の、見た?」

 ミナが言った。

 声は弾んでいた。だが、その弾み方があまりにも懐かしくて、ソウタは一瞬、返事をするのを忘れた。

 ミナがこんな声を出すのを聞くのは、ずいぶん久しぶりだった。

「見た」

「嘘。絶対、見逃した顔してた」

「見たって。白いやつだろ」

「流星はだいたい白いよ」

 ミナは小さく笑った。

 その横顔は、屋上へ続く階段を上ってきた時よりも、少しだけ元気に見えた。頬は相変わらず白かったし、唇の色も薄かった。けれど、空を見上げる目だけは、昔と変わらなかった。

 団地は町の外れにあった。

 築四十年を超えた古い市営住宅で、外壁の塗装はところどころ剥がれ、廊下の蛍光灯は二本に一本が切れかけていた。昼間は年寄りの話し声と子どもの自転車の音が響く場所だったが、夜になると急に町から取り残されたように静かになる。

 その静けさが、今夜は妙に重かった。

 遠くでサイレンが鳴っている。

 消防車か、救急車か、あるいは警察車両か。音は重なり、離れ、また別の方角から聞こえてきた。普段なら、ソウタはどこかで事故があったのだろうと思うだけだった。けれど今夜は違った。サイレンのたびに、町のどこかが少しずつ壊れていくような気がした。

 ミナは屋上の床に敷いた古いレジャーシートの上に座っていた。

 本当は立って空を見たがったが、階段を上り切った時点で息が上がっていた。ソウタが何も言わずにシートを広げると、ミナは不満そうに眉を寄せながらも、結局そこに腰を下ろした。

「座った方が見やすいだろ」

 ソウタはそう言った。

「嘘ばっかり。心配しただけでしょ」

「だったら悪いか」

「悪くないけど、ちょっと腹立つ」

「なんで」

「正しいから」

 そう言って、ミナは膝を抱えた。

 その細さに、ソウタは目を逸らしたくなった。

 ミナが学校に来なくなって、もう三か月になる。

 最初は風邪だと聞いていた。次に聞いた時は検査入院だった。そのあと、担任は詳しいことを言わなくなった。クラスメイトたちも、最初のうちは心配していたが、時間が経つにつれて話題にしなくなった。悪気があったわけではない。ただ、いない人間の席は、日に日に見えにくくなる。

 ソウタだけは、時々ミナにメッセージを送った。

 返信はすぐに来る時もあれば、数日空く時もあった。体調が悪い日は既読すらつかなかった。

 それでも、星の話をすると返事が来た。

 今夜、屋上で流星群を見ようと言い出したのもミナだった。

 正確には、流星群ではない。

 ニュースでは、数日前から「小惑星群の一部が地球近傍を通過する」と報じられていた。専門家は「大気圏でほとんど燃え尽きるため、地上への大規模な影響は考えにくい」と説明していた。キャスターは落ち着いた顔で笑い、宇宙の神秘を楽しむ夜になるでしょう、と言った。

 その言葉を信じていた人間が、どれだけいたのかはわからない。

 町のスーパーでは、昼過ぎから水と缶詰が売り切れていた。ガソリンスタンドには長い列ができていた。駅前の大型ビジョンでは、何度も同じ政府発表が流されていた。

 落ち着いて行動してください。

 不要不急の外出は控えてください。

 根拠のない情報に惑わされないでください。

 大規模な被害の可能性は低いと見られます。

 どの言葉も、言われれば言われるほど不安を増やした。

「ねえ、ソウタ」

 ミナが空を見たまま言った。

「何」

「もし本当に、世界が終わるとしたらさ」

「終わらないだろ」

「そういうの、つまんない」

「じゃあ、何て言えばいいんだよ」

「ちゃんと考えて」

 ソウタは黙った。

 そういう質問が昔から苦手だった。ミナは時々、答えにくいことをさらっと聞く。明日の天気を尋ねるような調子で、死んだら星になると思うかとか、人の記憶はどこにしまわれるのかとか、そういうことを聞く。

 小学生の頃、ソウタはいつも適当に答えていた。

 死んだら土になるんじゃないか。

 記憶は脳に入っているんだろ。

 星は燃えているガスの塊だろ。

 ミナはそのたびに「ソウタにはロマンがない」と言って笑った。

 今なら、もう少しましな答えができるだろうか。

 ソウタは空を見上げた。

 また一筋、光が走った。

 今度ははっきり見えた。白ではなく、青に近い色だった。光は途中で二つに割れ、片方はすぐに消えた。もう片方は細い尾を引きながら、山の向こうへ落ちていった。

 数秒遅れて、腹の奥に響くような音がした。

 ソウタは柵を握った。

「今の、音したよな」

「したね」

 ミナの声から笑みが消えていた。

 屋上の下で、誰かが叫んだ。

 それに応じるように、団地の別の棟からも声が上がった。窓が開く音。走る足音。階段を下りる音。どこかの部屋でテレビの音量が急に上がった。

 ソウタはスマートフォンを取り出した。

 画面には、ニュース速報の通知がいくつも並んでいた。

 ――関東北部で強い発光現象を確認。

 ――小規模隕石の落下情報。詳細確認中。

 ――一部地域で通信障害。

 ――政府、臨時会見へ。

 指先が震えていることに気づき、ソウタはスマートフォンを握り直した。

「ミナ、下りよう」

「もう少しだけ」

「駄目だ。音がした」

「でも」

「でもじゃない」

 強い声が出た。

 ミナが驚いたようにソウタを見た。その顔を見て、ソウタはすぐに後悔した。怒りたかったわけではない。怖かっただけだ。

「悪い」

 ソウタは言った。

「怖いんだ」

 ミナは少しだけ目を細めた。

「ソウタがそういうこと言うの、珍しいね」

「今は茶化すな」

「茶化してないよ」

 ミナは立ち上がろうとした。

 その動作は、本人が思っているよりもずっと遅かった。膝に手をつき、息を吸い、ようやく腰を上げる。その途中で、体が少し傾いだ。

 ソウタは反射的に腕を伸ばした。

 ミナの肩を支えた瞬間、あまりの軽さに息が詰まった。

「大丈夫」

「大丈夫じゃないだろ」

「大丈夫って言ったら、大丈夫なの」

「そういう問題じゃない」

「そういう問題だよ」

 ミナはわずかに笑った。

「私には、それくらいしか言えることがないから」

 ソウタは何も言えなかった。

 その時、空が光った。

 今度の光は流星などという言葉では足りなかった。屋上全体が、昼間のように白く照らされた。団地の影が床にくっきり落ち、給水塔の錆びた梯子まで見えた。

 世界が一瞬、写真のように止まった。

 次に来たのは音だった。

 音というより、壁だった。空気の塊が叩きつけられ、耳の奥が潰れるような圧迫感が走った。ソウタはミナを抱えるようにして床に伏せた。柵が震え、屋上の隅に置かれていた空の植木鉢が転がった。

 遠くで、ガラスが一斉に割れる音がした。

 ミナが咳き込んだ。

 ソウタは顔を上げた。

 町の南側に、巨大な赤い光が立っていた。

 ビルの輪郭が黒く浮かび、その奥の空が燃えている。雲なのか煙なのかわからないものが、ゆっくりと上がっていた。数秒後、そこから遅れて爆発音が届いた。

 ソウタは、何かを理解した。

 理解したのに、言葉にはできなかった。

 世界が終わる、という表現は大げさだと思っていた。映画や小説の中でだけ使われる言葉だと思っていた。けれど今、目の前の町は明らかに壊れ始めていた。昨日と同じ明日が来るという約束が、音を立てて剥がれ落ちていた。

「ミナ」

 ソウタは言った。

「行くぞ」

 今度はミナも逆らわなかった。

 二人は階段を下りた。

 非常灯が赤く点滅していた。途中の踊り場で、上の階に住む老夫婦とすれ違った。夫が妻の手を引き、妻は小さなバッグを胸に抱えていた。どこへ行くのかと聞かれたが、ソウタは答えられなかった。自分たちだって、どこへ行けばいいのかわからなかった。

 部屋に戻ると、テレビはついたままだった。

 画面には官房長官らしき男が映っていたが、映像は乱れ、音声も途切れていた。

「……現時点で、複数の落下物が確認されて……各自治体の指示に従い……屋内退避、または指定避難所へ……」

 その直後、画面が暗くなった。

 電気が消えた。

 冷蔵庫の低い唸りも、換気扇の音も、すべて同時に止まった。部屋の中に、外のサイレンだけが入り込んできた。

 ソウタは懐中電灯を探した。

 引き出しの中、古い乾電池、母親が残していった裁縫箱、期限の切れた保証書。手当たり次第にかき回し、ようやく小さなライトを見つけた。スイッチを入れると、頼りない黄色い光が灯った。

「ソウタ」

 ミナが言った。

 窓の外を見ていた。

 団地の駐車場では、何人もの住民が車を出そうとしていた。ヘッドライトが交差し、怒鳴り声が響く。出口のところで二台の車が接触していた。片方の運転手が外に出て、もう片方の窓を叩いている。

 空からは、まだ光が降っていた。

 さっきよりも数が増えている。

 流星群というより、火の粉だった。

「指定避難所、どこだっけ」

 ミナが言った。

「東中」

「無理だよ。あっち、燃えてる」

 ソウタもわかっていた。

 東中は町の中心部に近い。さっき巨大な光が立った方向だ。道路も混んでいるはずだった。人の流れに巻き込まれれば、ミナはもたない。

 別の場所。

 人が少なくて、町から離れていて、屋根があって、水がある場所。

 ソウタは思い出した。

「北山の分校跡」

 ミナがこちらを見た。

 北山の旧分校。

 二人が小学生の頃、星を見に行った場所だった。もう使われていない木造校舎で、数年前に市が災害時の一時避難所として整備したと聞いたことがある。普段は無人だが、毛布と水、古いストーブくらいはあるはずだった。

「遠いよ」

「ここにいるよりましだ」

「私、歩けるかな」

 ミナの声は不安げだった。

 ソウタはリュックに水とタオル、懐中電灯、予備の乾電池、薬の入った袋を詰めた。ミナの家に戻る時間はなかった。彼女は今日、親に内緒で出てきたわけではない。母親は夜勤で病院にいる。父親は何年も前に家を出ていた。

 ミナは自分のスマートフォンを握っていた。

 画面には圏外の表示が出ていた。

「お母さんに、連絡つかない」

「あとでつく」

「うん」

 返事はしたが、ミナは画面から目を離さなかった。

 ソウタはその手をそっと下ろさせた。

「行こう」

 二人は団地を出た。

 外の空気は焦げ臭かった。金属が焼けたようなにおいに、雨上がりの土のような湿った匂いが混じっている。けれど雨は降っていなかった。降っているのは、細かい灰だった。

 駐車場を抜ける時、誰かがソウタの腕を掴んだ。

「君たち、どこへ行くんだ」

 中年の男だった。同じ棟の住人だろうが、名前は知らない。額に汗を浮かべ、片手に車のキーを握っていた。

「北山の方へ」

「山は危ない。町の避難所へ行け」

「あっちは火が出てます」

「だからって山なんか」

 男の言葉は、途中で別の爆発音にかき消された。

 駐車場にいた全員が、音の方を見た。

 南の空で、また赤い光が膨らんだ。今度はさっきより近い。遅れて風が来た。灰が舞い、誰かの悲鳴が上がった。

 男の手から力が抜けた。

 ソウタはミナの手を引いて走り出した。

 走るといっても、ミナに合わせれば早歩きに近かった。それでもミナの息はすぐに乱れた。団地の角を曲がったところで、彼女は咳き込んだ。

「大丈夫か」

「大丈夫」

「嘘つくな」

「嘘じゃない」

 ミナは胸を押さえた。

「まだ歩けるよ。置いていかれたくないから」

 その言葉に、ソウタは喉の奥を掴まれたような気がした。

「置いていくわけないだろ」

「わかってる。でも、言いたかった」

「なんで」

「怖いから」

 ミナは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

 ソウタは彼女の手を強く握った。

 町はすでに、見慣れた町ではなくなっていた。

 コンビニの自動ドアは開いたまま止まっていた。中では商品棚が倒れ、床にペットボトルや菓子袋が散らばっている。店員の姿はなかった。レジ横の揚げ物ケースだけが、妙に日常的に光っていた。

 信号機は赤のまま点滅していた。

 横断歩道の真ん中に、自転車が倒れていた。前輪が曲がり、かごから飛び出した学生鞄が道路に転がっている。近くに持ち主はいなかった。

 バス停には老人が一人立っていた。

 時刻表を見上げている。バスなど来るはずがないのに、老人は背筋を伸ばして、いつもの朝を待つように立っていた。ソウタは声をかけようとして、やめた。何を言えばいいのかわからなかった。

 ミナはその老人を見ていた。

「ねえ、ソウタ」

「何」

「人ってさ、すごく怖い時、いつもと同じことをしようとするのかな」

「知らない」

「私も、星を見たいって思ってる」

「それは違うだろ」

「違うかな」

「違う」

 ソウタは即答した。

「ミナは、昔からそうだっただろ」

 ミナが少しだけ目を丸くした。

「覚えてるの」

「覚えてるよ」

「ソウタ、星座の名前はぜんぜん覚えなかったのに」

「それは覚える気がなかったからだ」

「ひどい」

「でも、ミナが話してたことは覚えてる」

 ミナは黙った。

 その沈黙が、ソウタには少し怖かった。余計なことを言っただろうかと思った。

 しばらく歩いてから、ミナが言った。

「小学生の時、ソウタに言ったこと覚えてる?」

「何を」

「ソウタの中には星がないって」

「それは覚えてる」

「怒った?」

「いや。意味わからなかったから」

「そういうところだよ」

 ミナは咳をひとつして、続けた。

「あの時はね、ソウタって何でも地面に置いて考える人だなって思ってた。星を見ても、燃えてるガスの塊だって言うし。願いごとしようって言っても、そんなの意味ないって言うし」

「実際、意味ないだろ」

「今でもそう思う?」

 ソウタは答えなかった。

 意味があるかどうかで言えば、ないのかもしれない。願ったからといって隕石が消えるわけではない。ミナの病気が治るわけでもない。電波が戻るわけでも、燃えている町が元に戻るわけでもない。

 けれど、意味がないからやらない、というほど単純でもない気がした。

 ミナは空を見上げた。

「でもね、本当はあると思う」

「何が」

「人の中にも、星みたいなものが」

「何だよ、それ」

「うまく言えないけど。消えそうなのに、消えないもの」

 ソウタはミナの横顔を見た。

 街灯の消えた道で、空の光だけが彼女の頬を照らしていた。灰が髪に降りかかり、白い粒になって残っている。それを払おうと手を伸ばしかけて、ソウタはやめた。払えば、彼女が壊れてしまいそうな気がした。

 大通りに出ると、車の列が動かなくなっていた。

 クラクションが鳴り続けている。誰かが怒鳴り、誰かが泣いている。歩道にはスーツケースを引く人、子どもを抱いた母親、ペット用のケージを抱えた女がいた。みんな同じ方角へ向かっているはずなのに、どこにも進んでいないように見えた。

 ソウタは大通りを避け、裏道へ入った。

 北山へ行くには、古い商店街を抜ける必要がある。

 商店街は暗かった。シャッターの降りた店が並び、看板だけが空の光を受けてかすかに見えた。肉屋、文房具店、クリーニング屋、昔ながらの喫茶店。その一つ一つが、つい数時間前まで当たり前のように存在していた。

 その当たり前が、今はひどく遠い。

 ミナの足取りが遅くなった。

「少し休むか」

「休んだら、歩けなくなりそう」

「無理するな」

「無理しないと、たどり着けないよ」

 ミナの声は静かだった。

 ソウタは何も言えなかった。

 商店街を抜けると、町の端に出た。そこから先は住宅がまばらになり、やがて山道へ続く坂が始まる。昔は自転車で何度も上った道だ。息を切らしながら上って、ミナに笑われた。あの頃は、坂の先にあるのは星空だけだった。

 今は違う。

 山の向こうで、空が何度も白く光っている。

 低い音が地面を伝ってくる。

 灰は少しずつ濃くなっていた。雨のように濡れるわけではないが、服に積もり、髪に絡み、喉の奥にざらつきを残す。ミナは何度も咳き込んだ。

「背負う」

「嫌」

「こんな時に意地張るな」

「意地じゃない」

「じゃあ何だよ」

「歩きたいの」

 ミナは足を止めた。

 ソウタも止まった。

 坂道の途中だった。振り返ると、町が見えた。赤く光る場所がいくつもある。停電したはずなのに、町は明るかった。燃えているからだと気づくまでに、少し時間がかかった。

「私、たぶんね」

 ミナが言った。

「病院にいても、家にいても、あんまり変わらなかったと思う」

「何の話だよ」

「だから、最後に歩きたい」

「最後とか言うな」

「ごめん」

 ミナは素直に謝った。

 その素直さが、ソウタを余計に苛立たせた。

「謝るなよ」

「うん」

「そういう話、するな」

「うん」

「ミナ」

「うん」

 返事はするのに、ミナはソウタを見なかった。

 空を見ていた。

 流星はまだ降っていた。けれど最初に屋上で見た時のような美しさは、もうなかった。光は鋭く、冷たく、時々大きな音を伴って山の向こうへ落ちた。

「空が泣いてるみたい」

 ミナが言った。

 ソウタはその言葉を、屋上で聞いた時とは違う重さで受け止めた。

 泣いているのは空なのか。

 それとも、泣けないまま空を見上げている自分たちなのか。

 坂を上り続けるうちに、町の音は少しずつ遠ざかった。クラクションも、怒鳴り声も、サイレンも、やがて山の木々に吸い込まれるように薄れていった。代わりに聞こえてきたのは、ミナの呼吸だった。

 浅い。

 短い。

 一歩ごとに、息が削られていくようだった。

 ソウタは立ち止まった。

「休むぞ」

「でも」

「今度は俺が決める」

 道端にある石の上にミナを座らせた。

 リュックから水を出し、キャップを開ける。ミナは両手でペットボトルを受け取ったが、口に運ぶまでに少し時間がかかった。

「手、震えてる」

「寒いだけ」

「寒いか?」

「うん。ちょっと」

 ソウタは自分の上着を脱ぎ、ミナの肩にかけた。

「ソウタが寒いでしょ」

「俺は平気」

「そういう嘘、下手だよね」

「いいから着てろ」

 ミナはそれ以上何も言わなかった。

 しばらくして、彼女は小さくつぶやいた。

「ねえ、ソウタ」

「何」

「最後に、星、見たいな」

 ソウタは息を止めた。

 その言葉は、さっきまでのどの言葉よりも静かだった。だからこそ、嘘がなかった。

 ソウタは北山の上を見た。

 分校跡は、まだ先にある。

 そこまで行けば、町の明かりに邪魔されない広い空が見える。小学生の頃、二人で見たような空が。いや、今夜の空はもう、あの頃とは違う。けれど、それでもミナは星を見たいと言った。

 ソウタはペットボトルのキャップを閉め、リュックに戻した。

「行こう」

「うん」

「たどり着くぞ」

「うん」

「絶対に」

 ミナは少し笑った。

「ソウタって、そういう時だけロマンあるよね」

「うるさい」

 二人は再び歩き始めた。

 山道に入ると、舗装は急に悪くなった。街灯はない。懐中電灯の細い光だけが、足元の白い線を照らしている。左右の木々は黒く沈み、風が吹くたびに灰を落とした。

 時間の感覚が薄れていった。

 何分歩いたのか、何度立ち止まったのか、ソウタにはわからなくなった。ただ、ミナの手を離してはいけないことだけはわかっていた。

 その手は、少しずつ冷たくなっていた。

「ソウタ」

 ミナが言った。

「何」

「怒ってる?」

「怒ってない」

「怒ってる声」

「怒ってない」

「何に?」

 ソウタは答えようとして、言葉に詰まった。

 何に怒っているのか。

 空にか。隕石にか。政府発表にか。渋滞にか。ミナの病気にか。自分の無力さにか。

 たぶん、その全部だった。

 何もできない。

 救急車を呼ぶこともできない。病院へ連れて行くこともできない。空から降る光を止めることもできない。ミナの息を楽にしてやることもできない。

 できることは、手を握って歩くことだけだった。

 それがあまりにも小さくて、腹が立った。

「自分に」

 ソウタはようやく言った。

 ミナは、何も返さなかった。

 ただ、握った手に少しだけ力を込めた。

 その力は弱かった。

 弱かったが、確かにあった。

 やがて、木々の隙間に黒い屋根が見えた。

 北山旧分校。

 かつては山間部の子どもたちが通っていた小さな学校だった。児童数の減少で閉校になり、今は災害時の一時避難所として最低限の整備だけがされている。校門の脇には、錆びた看板が立っていた。

 市指定一時避難所。

 文字の一部は剥がれ、灰をかぶって白くなっていた。

「着いた」

 ソウタが言った。

 ミナは顔を上げた。

 校舎は暗かった。

 けれど、そこに屋根があるというだけで、ソウタには奇跡のように思えた。

 入口の引き戸は固かった。何度か力を込めると、古い木が軋む音を立てて開いた。中の空気は冷たく、埃っぽかった。懐中電灯の光が、靴箱、廊下、壁に貼られた古い避難経路図を照らした。

 ミナが小さく笑った。

「懐かしいね」

「来たの、一回だけだろ」

「うん。でも、覚えてる」

「俺も」

 ソウタはミナを支えながら廊下を進んだ。

 教室の一つに、折りたたまれた毛布と段ボール箱が積まれていた。水のペットボトル、乾パン、簡易トイレ、古いラジオ。窓は一枚ひびが入っていたが、割れてはいなかった。

 ソウタは毛布を広げ、ミナを座らせた。

「横になれ」

「命令が多い」

「今は従え」

「はいはい」

 ミナは毛布の上に横になった。

 ソウタはもう一枚の毛布をかけた。水を渡す。ミナは少しだけ飲んだ。

 教室の隅には石油ストーブがあった。

 だが、灯油缶は空だった。ソウタは舌打ちした。何か燃やせるものはないかと周囲を探したが、すぐには見つからない。古い机や椅子を壊せば燃料にはなるかもしれないが、煙をどう逃がすか考えなければならない。

 手が震えていた。

 寒さのせいだけではなかった。

「ソウタって」

 ミナが言った。

「こういう時だけ、不器用だよね」

「うるさい」

「褒めてるのに」

「どこがだ」

「ちゃんと慌ててくれるところ」

 ソウタは振り返った。

 ミナは窓の方を見ていた。

 外では、まだ光が降っていた。けれど山の上から見る空は、町で見たものとは少し違っていた。赤い炎の光は遠く、灰の向こうに、流れる白い線がいくつも見えた。

 美しいと言うには、あまりにも怖い。

 怖いと言うには、あまりにも静かだった。

「ねえ」

 ミナが言った。

「星、見えるね」

 ソウタは窓辺に近づいた。

 ガラスに手を当てると、冷たかった。

 空は傷だらけだった。

 それでも、確かに星は見えた。

 流星の隙間に、小さく震えるような光がいくつも残っていた。灰に隠れ、煙に霞み、それでも消えずに光っていた。

 ソウタはミナの横に座った。

「見える」

「よかった」

「何が」

「ここまで来た意味、あった」

 ミナは目を細めた。

「ソウタ」

「何」

「私ね、やっぱり、人の中にも星はあると思う」

「またその話か」

「うん。大事な話」

 ソウタは黙った。

 ミナの声は弱くなっていた。けれど、言葉だけははっきりしていた。

「星ってさ、もうそこにないかもしれないんだよね」

「何億年も前の光が届いてるとか、そういうやつだろ」

「覚えてるじゃん」

「それくらいは」

「うん。そういうの」

 ミナはゆっくり息を吸った。

「もう消えてるかもしれないのに、光だけは届く。だったら、消えたって、全部なくなるわけじゃないのかもしれない」

「消えない」

 ソウタは言った。

 自分でも驚くほど強い声だった。

 ミナがこちらを見る。

「ミナは消えない」

「ソウタ」

「そんな話するな」

「うん」

「いなくならない」

「うん」

「絶対に」

 ミナは返事をしなかった。

 代わりに、少しだけ笑った。

 その笑顔は、ソウタが覚えているどの笑顔よりも静かだった。

 教室の中には、二人の呼吸だけがあった。

 外では空が泣いていた。

 灰色の粒が窓を叩き、遠くの山の向こうで、また一つ光が落ちた。世界はまだ壊れ続けている。けれど、その教室だけは、時間から切り離されたように静かだった。

 ソウタはミナの手を握った。

 冷たい手だった。

 それでも、握り返す力があった。

 ソウタはその力を、逃さないように握った。


第二章 灰の朝に残る星

 夜明けは、来なかった。

 少なくとも、ソウタにはそう思えた。

 東の空が白むという言葉がある。けれど窓の向こうに広がっていたのは、白ではなかった。灰色だった。薄い灰色ではない。濡れた新聞紙を何枚も重ねたような、重く、沈んだ色だった。

 朝になれば、少しは安心できると思っていた。

 夜はいつも、人間の判断を鈍らせる。暗いだけで、不安は増幅する。見えないものが増え、聞こえる音ばかりが大きくなる。だから朝になれば、壊れた町も、燃える空も、もう少し現実的な形に落ち着くのではないかと、ソウタはどこかで期待していた。

 だが、窓の外にある朝は、夜よりも不気味だった。

 光が足りない。

 太陽が昇っているはずなのに、地上に届いていなかった。灰と煙と、上空に広がった塵が、空を覆っているのだろう。分校跡の校庭には薄く灰が積もり、ブランコも、鉄棒も、古い朝礼台も、同じ色に沈んでいた。

 世界から色が抜けていた。

 ソウタは、窓際に座ったまま動かなかった。

 隣にはミナがいた。

 夜のうちに何度か眠ったのかもしれない。だが、眠ったという感覚はなかった。目を閉じると町が燃える光景が瞼の裏に浮かび、目を開けると灰色の空がそこにあった。どちらが夢なのかわからなくなる。

 ミナの手は、まだソウタの手の中にあった。

 冷たい。

 けれど、完全に力が抜けているわけではなかった。時折、指先がかすかに動く。そのたびにソウタは息を吸い、彼女の顔を覗き込んだ。

 ミナは眠っている。

 そう思いたかった。

 実際、呼吸はあった。浅く、頼りなく、長く間が空くこともあったが、胸はわずかに上下していた。ソウタはその動きを数えるように見つめ続けた。

 一回。

 二回。

 三回。

 そこで少し止まる。

 ソウタの心臓も止まりそうになる。

 四回目の息が入る。

 その繰り返しだった。

 教室の隅に置いたラジオからは、夜のうちからずっと雑音が流れていた。乾電池を入れ直し、アンテナを伸ばし、窓際に置き、何度もつまみを回した。けれど、まともに拾える放送はなかった。

 たまに、人の声らしきものが混じる。

 しかし言葉になる前に、砂を噛むような音に潰された。

「……各地で……確認……」

「……屋内に……」

「……通信……復旧……」

 断片ばかりだった。

 その断片にすがるほど、ソウタは疲れていた。

 ミナが小さく咳をした。

 ソウタはすぐに水を手に取った。

「飲めるか」

 ミナは目を開けなかった。

 ただ、唇が少し動いた。

「……いらない」

「少しだけ」

「苦い」

「水だぞ」

「灰の味がする」

 声はかすれていた。

 けれど、意識はある。

 ソウタは胸の奥で詰まっていたものを、ゆっくり吐き出した。

「じゃあ、口だけ湿らせる」

 タオルに水を含ませ、ミナの唇に触れた。ミナは嫌がらなかった。

「朝?」

「ああ」

「暗いね」

「灰が降ってるから」

「雪みたい?」

「汚い雪だ」

「ソウタらしい感想」

「悪かったな」

 ミナはわずかに笑った。

 その笑い方が、昨日よりも弱くなっていることを、ソウタは気づかないふりをした。

 教室の壁には、昔の時間割が貼られていた。

 一年生と二年生が同じ教室で授業を受けていた頃のものだろう。国語、算数、生活、音楽。端の方には子どもの字で「ほしをみるかい」と書かれた紙が残っていた。秋の行事だったのかもしれない。

 ソウタはその文字を見て、奇妙な気分になった。

 この場所には、かつて子どもたちがいた。朝になると靴箱に小さな靴が並び、廊下を走る音がして、先生が怒鳴り、給食の匂いがしたのだろう。

 そのすべてが消えて、今は自分たちだけがいる。

 いや、本当に自分たちだけなのか。

 ソウタは立ち上がった。

 ミナの手をそっと毛布の下に戻す。

「どこ行くの」

 ミナが目を閉じたまま言った。

「校舎の中を見る。誰か来てるかもしれない」

「一人で?」

「すぐ戻る」

「置いていかない?」

 その言葉に、ソウタは足を止めた。

 昨日、坂道でミナが言った言葉が蘇る。

 置いていかれたくないから。

 ソウタはミナのそばにしゃがんだ。

「置いていかない」

「本当?」

「本当だ」

「じゃあ、行っていい」

「許可制かよ」

「うん」

 ミナは薄く笑った。

「帰ってきたら、何か面白いものを見つけてきて」

「こんな時に?」

「こんな時だから」

「難しいな」

「ソウタなら、変なもの見つけるの得意でしょ」

「得意じゃない」

「じゃあ、練習」

 ソウタは何か言い返そうとして、やめた。

 彼女がこうして冗談を言うなら、それに付き合う方がいい。深刻な顔で見守るだけでは、ミナを余計に病人にしてしまう。

「期待しないで待ってろ」

「期待して待ってる」

 ソウタは懐中電灯を手に取り、教室を出た。

 廊下は冷え切っていた。

 木造校舎の床板は歩くたびに軋んだ。昨夜は気づかなかったが、壁にはいくつものひびが入っている。隕石の衝撃波のせいか、もともと古かったせいかはわからない。窓の外は灰で霞み、校庭の向こうにある山の輪郭もぼやけていた。

 ソウタは一つずつ教室を確認していった。

 低学年用の教室。机が六つだけ残っていた。黒板には、誰が書いたのか、薄くチョークの跡がある。

 図工室。壊れた棚、乾いた絵の具、空の粘土箱。床に落ちた紙片を踏むと、ぱり、と乾いた音がした。

 職員室。事務机が三つ。古い電話機。鍵のかかったロッカー。壁には色あせた地域地図が貼られていた。

 電話は通じなかった。

 受話器を上げても、音はなかった。

 ソウタは受話器を戻し、地図に目を向けた。

 北山旧分校は、町の北側の山腹にある。そこからさらに北へ進めば、県道に出る道が一本ある。だが、山道だ。舗装も弱い。昨夜の衝撃や火災で通れるかどうかはわからない。

 南へ戻れば町。

 東へ行けば川。

 西へ行けばさらに山。

 どこにも安全な場所があるようには見えなかった。

 机の引き出しを開けると、古いノートとボールペンが入っていた。ノートの表紙には「避難所管理記録」と書かれている。最後に使われたのは三年前の台風の時らしい。避難者数十一名。毛布使用六枚。水二箱。異常なし。

 異常なし。

 ソウタはその文字を見つめた。

 異常がない世界は、もう戻ってこないのかもしれない。

 職員室の奥に、小さな物置があった。

 扉は半開きだった。中には段ボール箱が積まれ、古い灯油ポリタンクが二つ置かれていた。昨夜見た教室のストーブ用だろう。

 ソウタは急いでタンクを持ち上げた。

 ひとつは空だった。

 もうひとつは、わずかに重かった。

「よし」

 声が出た。

 久しぶりに、何かが前に進んだ気がした。

 物置の棚には、使い捨てカイロ、軍手、ビニールシート、非常用のアルミブランケットもあった。どれも古いが、使えないことはなさそうだ。ソウタはリュックに詰められるだけ詰めた。

 その時、廊下の奥で物音がした。

 ソウタは動きを止めた。

 床板が鳴る音。

 風ではない。

 誰かが歩いている。

 ソウタは懐中電灯を握り直した。

 心臓が速くなった。助けが来たのかもしれない。避難者かもしれない。だが、昨日の町の混乱を思い出すと、単純に喜ぶことはできなかった。

 誰かがいる。

 それが安全を意味するとは限らない。

「誰かいますか」

 ソウタは声をかけた。

 返事はなかった。

 代わりに、また床板が鳴った。

 理科室の方だった。

 ソウタはゆっくり廊下を進んだ。懐中電灯の光が、壁を揺らしながら伸びる。理科室の扉は少し開いていた。

 中を照らす。

 誰もいない。

 だが、窓が開いていた。

 灰が入り込み、実験台の上に薄く積もっている。昨夜の風で開いたのかもしれない。ソウタは部屋に入り、窓を閉めようとした。

 その時、校庭の隅に何かが動いた。

 人影だった。

 校門の近くに、誰かが立っている。

 ソウタは窓に近づいた。

 灰のせいでよく見えない。だが、人だ。大人か子どもかはわからない。ふらつくように校庭を歩き、こちらに向かっている。

 助けを求めているのか。

 それとも。

 ソウタは急いで教室へ戻った。

 ミナは目を開けていた。

「遅かった」

「まだ五分くらいだ」

「十分くらい」

「細かいな」

「面白いもの、あった?」

「あった」

 ソウタはリュックからアルミブランケットを出した。

「銀色の変な毛布」

「面白くない」

「非常時には面白さより実用性だろ」

「ソウタはそういうところが駄目」

「あと、灯油が少しあった。ストーブ使えるかもしれない」

「それは面白い」

「基準がわからない」

 ミナが笑った。

 その笑い声を聞いて、ソウタは少しだけ安心した。だが、すぐに表情を引き締めた。

「校庭に誰かいる」

 ミナの笑みが消えた。

「人?」

「たぶん」

「助けに来た人?」

「わからない」

 ソウタはストーブの前に灯油タンクを置き、懐中電灯を入口の方へ向けた。

「ここにいて」

「また命令」

「今回は本当に命令」

「わかった」

 ミナは毛布を握った。

 ソウタは廊下に出た。

 玄関まで行くと、引き戸の向こうに影が見えた。

 ガラス越しに、誰かが立っている。

 灰にまみれた男だった。

 年齢は三十代か四十代。スーツの上着は破れ、額から血を流している。片手にビジネスバッグを持ち、もう片方の手で扉の枠を掴んでいた。

「開けてくれ」

 男は言った。

 声はかすれていた。

「頼む。中に入れてくれ」

 ソウタは一瞬迷った。

 だが、迷っている間にも男は倒れそうだった。ソウタは引き戸を開けた。

 男は崩れるように中へ入ってきた。

 咳をし、床に膝をつく。

「水……」

 ソウタはリュックからペットボトルを取り出した。

 男は奪うように受け取り、半分ほど一気に飲んだ。水が口の端からこぼれ、顎を伝ってシャツに落ちた。

「町から来たんですか」

 ソウタが聞いた。

 男は荒い息をしながら頷いた。

「道路が……駄目だ。車は動かない。橋も落ちた。東の方は火が回ってる」

「他に人は?」

「知らない。みんなばらばらだ」

 男は顔を上げた。

 その目が、ソウタの奥を見た。

「君、一人か」

 ソウタは答えなかった。

 その沈黙で十分だったのか、男は廊下の奥へ視線を向けた。

「誰かいるのか」

「幼なじみです。具合が悪い」

「医者じゃない。俺は何もできない」

「聞いてません」

 ソウタの声が硬くなった。

 男は少し驚いたようにソウタを見たが、すぐに視線を落とした。

「そうか」

 その時、外でまた光が走った。

 遅れて、鈍い音が山に響く。

 校舎の窓が震えた。天井から埃が落ちる。

 男は肩をすくめ、床に座り込んだ。

「終わりだ」

 男はつぶやいた。

「こんなの、どうしようもない」

 ソウタはその言葉に腹が立った。

 そうかもしれない。

 実際、どうしようもないのかもしれない。

 けれど、それをここで言ってほしくなかった。この校舎の中にはミナがいる。最後に星を見たいと言って、ここまで歩いてきたミナがいる。

 終わりだ、という言葉は、あまりにも簡単すぎる。

「終わってません」

 ソウタは言った。

 男が顔を上げる。

「何が」

「まだ」

「まだ?」

「まだ、終わってません」

 自分でも何を言っているのかわからなかった。

 だが、その言葉を口にしなければ、自分が立っていられなくなる気がした。

 男はしばらくソウタを見ていた。

 やがて、乾いた笑いを漏らした。

「若いな」

「関係ないです」

「あるさ。俺には、もうそういうことは言えない」

 男はビジネスバッグを抱え直した。

「町には、もっとたくさんいた。泣いてる子どもも、動けない老人も、怪我人も。俺は置いてきた」

 ソウタは何も言えなかった。

「助けられなかったんじゃない。助けようとしなかった。自分が逃げるので精一杯だった」

 男の声は平坦だった。

 懺悔というより、事実確認のようだった。

「だから、君が終わってないと思えるなら、その方がいい」

 ソウタは男から目を逸らした。

 責めることはできなかった。

 自分だって、バス停の老人に声をかけなかった。大通りの人々を助けなかった。ミナの手を引いて逃げることだけを選んだ。

 誰か一人を守ろうとした時点で、他の誰かを置いてきた。

 その事実が、喉に灰のように残った。

 教室から、ミナの咳が聞こえた。

 ソウタはすぐに戻ろうとした。

 男が言った。

「その子、呼吸が悪いのか」

 ソウタは振り返った。

「だったら何ですか」

「バッグの中にマスクがある。会社で配られた防塵用のやつだ。あと、携帯用の酸素缶も一本だけ」

「酸素缶?」

「気休めかもしれないが、ないよりましだ」

 男はバッグを開けた。

 中には書類、ノートパソコン、折り畳み傘、そして未開封の防塵マスクが数枚入っていた。底の方から小さな酸素缶を取り出す。

「使え」

 ソウタは受け取った。

「いいんですか」

「俺が持っていても仕方ない」

「ありがとうございます」

「礼を言われる資格はない」

 男はそう言った。

 ソウタは何も返さず、教室へ戻った。

 ミナは上体を少し起こしていた。

「誰だった?」

「町から逃げてきた人」

「大丈夫そう?」

「怪我してる。でも歩ける」

「そう」

 ソウタは防塵マスクを見せた。

「これ、つけられるか」

「大げさ」

「灰を吸わない方がいい」

「うん」

 ミナは素直に頷いた。

 マスクをつけると、顔の半分が隠れた。もともと小さな顔が、さらに小さく見えた。

 酸素缶の説明書を読み、ソウタはノズルをミナの口元に当てた。

「少し吸ってみろ」

 ミナは言われた通りにした。

 効果があるのかはわからなかった。だが、数回吸ったあと、彼女の表情がわずかに緩んだ。

「ちょっと楽」

「本当か」

「うん」

「嘘じゃないな」

「これは本当」

 ソウタは深く息を吐いた。

 男が教室の入口に立っていた。

 入ってきていいものか迷っているようだった。

 ミナが先に気づいた。

「こんにちは」

 こんな状況なのに、彼女は普通に挨拶をした。

 男は面食らったように瞬きをした。

「ああ……こんにちは」

「助けてくれて、ありがとうございます」

「いや」

 男は視線を落とした。

「助けたというほどじゃない」

「でも、少し楽になりました」

「そうか」

 男は教室の隅に腰を下ろした。

 ソウタはストーブに灯油を入れ、点火を試みた。古い芯が湿っているのか、なかなか火がつかなかった。何度か失敗したあと、小さな火がようやく灯った。

 ストーブの窓に、橙色の光が揺れた。

 教室が少しだけ暖かくなった。

 暖かいというだけで、涙が出そうになった。

 ミナはストーブを見つめていた。

「火って、星に似てるね」

「危ないから近づくなよ」

「そういう意味じゃなくて」

「わかってる」

「ほんと?」

「たぶん」

 ミナは笑った。

 男も、そのやり取りを聞いていた。

「君たちは、兄妹か」

「違います」

 ソウタが答えるより早く、ミナが言った。

「幼なじみです」

「そうか」

「星を見に来ました」

 男は一瞬、言葉を失ったようだった。

「この状況で?」

「この状況だから、かもしれません」

 ミナは窓の外に目を向けた。

「見えなくなる前に、見ておきたかったんです」

 男は何も言わなかった。

 ソウタも黙っていた。

 しばらく、三人はストーブの火の音だけを聞いていた。

 ラジオは相変わらず雑音を吐き続けている。

 不意に、その雑音の向こうから、はっきりした声が聞こえた。

「……聞こえますか。こちらは北部広域防災無線……」

 三人が同時にラジオを見た。

 ソウタは駆け寄り、つまみを微調整した。

 音が割れる。

 だが、今度は言葉が拾えた。

「……大気中の粉塵濃度が上昇しています。屋外での移動は危険です。現在、主要道路の一部が寸断され、救助活動は大幅に遅れています……」

 男が低く息を吐いた。

 ミナは黙って聞いていた。

「……北山地区、旧分校一時避難所に避難している方がいる場合は、屋内待機を継続してください。救助隊の到着時刻は未定です。繰り返します。救助隊の到着時刻は未定です……」

 未定。

 その二文字が、教室の中に落ちた。

 救助は来る。

 しかし、いつ来るかはわからない。

 今日かもしれない。

 明日かもしれない。

 来ないかもしれない。

 ミナの呼吸が、また浅くなっていた。

 ソウタは酸素缶を見た。

 残量は多くない。

 水も食料も、数日はもつかもしれない。だが、ミナの体が数日もつかどうかは、ソウタにはわからなかった。

 男が言った。

「山を越えれば県道に出る。そこまで行ければ、救助車両に拾われる可能性がある」

「ラジオは屋内待機って言ってました」

「全員に向けた指示だ。個別の事情までは見ていない」

「ミナは歩けません」

「背負えばいい」

 ソウタは男を睨んだ。

 男は怯まなかった。

「ここにいても、その子の状態が悪くなるだけかもしれない」

「山道を歩かせても悪くなる」

「なら、君が選ぶしかない」

 男の言葉は冷たかった。

 だが、間違っているとは言い切れなかった。

 ソウタはミナを見た。

 ミナは窓の外を見ていた。

 まるで、自分の話ではないように。

「ミナ」

 ソウタが呼ぶ。

「何」

「どうしたい」

「ソウタは?」

「俺が聞いてる」

「私は」

 ミナは少し考えた。

「今は、ここにいたい」

「本当に?」

「うん」

「救助が来るかわからないんだぞ」

「うん」

「山を越えれば」

「星が見えなくなる」

 ソウタは黙った。

 ミナは窓の外を指した。

「灰が少し薄くなってる。夜になったら、また見えるかもしれない」

「そんな理由で」

「そんな理由じゃないよ」

 ミナは静かに言った。

「ソウタ、私は助かりたくないわけじゃない」

「じゃあ」

「でも、ただ生き延びるためだけに、最後の力を使いたくない」

 その言葉は、ソウタの胸に鋭く刺さった。

「最後って言うなって言っただろ」

「ごめん」

「謝るくらいなら言うな」

「うん」

「ミナ」

「でもね」

 ミナはソウタを見た。

「もし今、山を越えて、途中で空も見えないまま倒れたら、私はきっと後悔する」

「ここにいても後悔するかもしれない」

「うん。だから、選びたい」

 ソウタは拳を握った。

 彼女の言っていることはわかった。

 わかりたくなかった。

 自分が望んでいるのは、ミナが生きることだった。どんな形でもいい。病院に着き、治療を受け、明日も明後日も息をしていること。それ以外に価値があるとは思えなかった。

 だが、ミナは違う。

 彼女は、ただ息を続けることだけを生きるとは呼んでいない。

 ソウタには、それが悔しかった。

 自分の願いが、彼女の願いと同じではないことが。

 男が立ち上がった。

「俺は、昼まで休んだら県道を目指す」

 ソウタが振り返る。

「一人で?」

「ああ」

「外は危険です」

「ここにいても危険だ」

「だったら、救助を待てば」

「待つのが苦手なんだ」

 男はビジネスバッグからノートパソコンを取り出し、机の上に置いた。もう使い道はなさそうだった。代わりに、書類の束を抜き取る。

「このバッグは置いていく。マスクも、水も、君たちが使え」

「でも」

「俺は少し身軽になりたい」

「名前は?」

 ミナが聞いた。

 男は少し戸惑ったように彼女を見た。

「相沢」

「相沢さん」

「何だい」

「山を越えたら、誰かに伝えてください」

「何を」

「ここに、二人いますって」

 相沢はしばらくミナを見つめていた。

 その表情は、先ほどまでの投げやりなものとは違っていた。

「伝える」

「ありがとうございます」

「必ず伝える」

 相沢はそう言った。

 そしてソウタを見た。

「君の名前は」

「ソウタです」

「彼女は」

「ミナ」

「わかった。ソウタ君とミナさんが北山旧分校にいる。そう伝える」

 その言い方は、まるで自分自身に刻み込むようだった。

 相沢は昼前まで教室で休んだ。

 その間、外の灰は少しずつ弱まった。空の色は相変わらず鈍かったが、山の輪郭は見えるようになっていた。時折、遠くで光が走るものの、夜ほど頻繁ではない。

 ソウタは食料と水を確認した。

 水は二リットルのボトルが六本。乾パンが数缶。古い栄養補助食品。毛布は八枚。カイロが十個ほど。灯油は残りわずか。ストーブを一日中つけることはできない。

 ミナは少し眠った。

 眠っている間、ソウタは彼女の呼吸を見続けた。

 相沢は職員室から持ってきた地図に、県道までの道を書き込んでいた。

「本当に行くんですか」

 ソウタが聞いた。

「ああ」

「怖くないんですか」

「怖い」

 相沢は即答した。

「怖いから行くんだ。ここにいると、自分が置いてきたものばかり考える」

「外に出ても同じじゃないですか」

「そうかもしれない。だが、誰かに君たちのことを伝えられるかもしれない」

 相沢は地図を畳んだ。

「さっきまでの俺なら、たぶん何もせずにここで座っていた。でも、あの子に頼まれた」

 ソウタはミナを見た。

 眠っている顔は幼く見えた。

「不思議だな」

 相沢が言った。

「助ける気力なんて残っていないと思っていたのに、頼まれると、少しだけ動ける」

「ミナは、そういうところがあります」

「そうか」

「昔からです」

 相沢はわずかに笑った。

「大事にしろ」

 ソウタは返事をしなかった。

 そんなことは言われなくてもわかっている。

 わかっているのに、大事にするということが何なのか、今はもうわからなかった。生かすことなのか。望みを叶えることなのか。手を離さないことなのか。無理にでも背負って山を越えることなのか。

 どれも正しく、どれも間違っているように思えた。

 昼過ぎ、相沢は出発した。

 ミナは目を覚まし、毛布に包まったまま玄関まで見送りに来た。ソウタが止めても聞かなかった。

「相沢さん」

 ミナが呼ぶ。

 相沢が振り返る。

「星、見えたら教えてください」

「どこで」

「どこかで」

 相沢は一瞬困った顔をして、それから頷いた。

「わかった。どこかで見えたら、覚えておく」

「お願いします」

「君たちも、ここで見ろ」

「はい」

 相沢は灰の積もった校庭を歩いていった。

 その背中は、すぐに霞んだ。

 校門を出る前に一度だけ振り返り、手を上げた。ソウタも手を上げた。ミナは小さく手を振った。

 やがて、相沢の姿は山道の向こうに消えた。

 校舎には、再び二人だけが残った。

 ソウタはミナを教室に戻した。

 ストーブの火は小さくしてある。部屋は十分に暖かくはないが、外よりはましだった。ミナは窓際に座りたがった。ソウタは毛布を何枚も重ね、彼女の背中にクッション代わりの古い座布団を置いた。

「疲れただろ」

「少し」

「寝ろ」

「夜まで起きてたい」

「夜になったら起こす」

「本当?」

「本当」

「嘘ついたら怒る」

「怒れるくらい元気なら安心だ」

 ミナは少し笑った。

 その笑顔のあと、彼女は目を閉じた。

 今度の眠りは深かった。

 ソウタは教室の中を片づけた。意味のある作業とは思えなかったが、何かしていないとおかしくなりそうだった。割れそうな窓にビニールシートを貼り、隙間にタオルを詰めた。水のボトルを机の下に並べ、食料を一か所にまとめた。ラジオの電池を節約するため、音量を絞った。

 それから、古いノートを開いた。

 避難所管理記録。

 ソウタは空いているページにボールペンを当てた。

 何を書けばいいのかわからなかった。

 日付。

 五月二十四日。

 いや、もう二十五日なのかもしれない。スマートフォンの時計は電池を節約するために切ってある。教室の壁時計は止まっていた。

 ソウタは迷った末に、こう書いた。

 ――北山旧分校に避難。

 ――避難者、二名。

 その下に、少し考えてから書き足した。

 ――相沢という男性が県道方面へ出発。救助要請を頼む。

 さらに、その下にペンを止めた。

 ミナの状態。

 書こうとして、書けなかった。

 文字にすれば、現実が固定される気がした。

 ソウタはノートを閉じた。

 窓の外を見る。

 空はまだ灰色だった。だが、朝よりは少し明るい。雲と灰の層の向こうに、太陽があるのだろう。見えなくても、完全に消えたわけではない。

 星も同じだろうか。

 見えないだけで、そこにあるのか。

 ソウタは、ミナが言っていたことを思い出した。

 人の中にも、星みたいなものがある。

 消えそうなのに、消えないもの。

 ソウタにはまだ、それが何なのかわからなかった。

 自分の中に何かがあるとは思えない。あるのは恐怖と苛立ちと、ミナを失いたくないという幼稚な願いだけだ。

 それでも、ミナはあると言った。

 それを信じることが、今のソウタにできる唯一のことなのかもしれなかった。

 夕方になっても、相沢は戻らなかった。

 戻るとは言っていなかった。だが、ソウタは何度も校門の方を見た。

 ラジオは新しい情報を伝えなかった。

 救助隊の到着時刻は未定。

 屋内待機を継続。

 粉塵を吸い込まないよう注意。

 断水、停電、通信障害。

 行方不明者多数。

 死者数は確認中。

 確認中。

 未定。

 不明。

 世界は、そういう言葉で埋め尽くされていった。

 やがて、教室の中が少しずつ暗くなった。

 夜が来る。

 朝が来なかったのに、夜だけは来るのかと、ソウタは思った。

 ミナが目を覚ました。

「夜?」

「もう少しで」

「星は?」

「まだわからない」

「窓、開けて」

「灰が入る」

「少しだけ」

「駄目だ」

「お願い」

 ソウタは迷った。

 ミナはまっすぐこちらを見ていた。

 その目に、昨日の屋上で見た光が残っていた。

 ソウタはマスクをしっかりつけさせ、毛布を肩まで巻いた。それから窓をほんの少しだけ開けた。

 冷たい空気が入ってきた。

 灰の匂いがした。

 ミナは顔を窓の方へ向けた。

 空は、黒ではなかった。

 灰色のまま、少しずつ濃くなっている。その奥に、かすかな光がひとつ、見えた。

 星なのか。

 飛行機ではない。流星でもない。動かず、ただそこにあった。

 ミナが息を呑んだ。

「見える」

 ソウタも見た。

 確かに、ひとつだけ光っていた。

 他の星は見えない。流星も、もうほとんど流れていない。空一面を覆う灰の幕の向こうで、その光だけが針で穴を開けたように残っていた。

「あれ、何の星?」

 ソウタが聞いた。

 ミナは少し笑った。

「わからない」

「ミナでも?」

「こんな空じゃ、方角も季節もぐちゃぐちゃだもん」

「じゃあ、星じゃないかもしれない」

「星だよ」

「根拠は?」

「私がそう決めたから」

 ソウタは何も言えず、空を見た。

 ミナが小さく咳をした。

 ソウタは窓を閉めようとしたが、ミナが首を振った。

「もう少しだけ」

「寒いだろ」

「うん」

「閉めるぞ」

「もう少しだけ」

 その声があまりにも穏やかで、ソウタは窓に伸ばした手を止めた。

 教室の中に、夜の冷気が流れ込む。

 ストーブの火が小さく揺れた。

 ミナは空を見ていた。

 ソウタはミナを見ていた。

「ソウタ」

「何」

「相沢さん、たどり着けるかな」

「たどり着く」

「うん」

「救助を呼んでくる」

「うん」

「だから、ミナも待て」

「待ってるよ」

「本当に」

「本当に」

 ミナは目を細めた。

「でも、待つだけじゃなくて、見る」

「星を?」

「うん」

 空の一点が、かすかに瞬いた。

 灰色の幕の向こうで、消えそうになりながら、まだ消えていない。

 ソウタはその光を見て、初めて少しだけ、ミナの言っていたことがわかった気がした。

 消えそうなのに、消えないもの。

 意味があるかどうかではなく、そこにあるだけで誰かを立たせるもの。

 それを人は、星と呼ぶのかもしれない。

 ミナの手が、毛布の中から出てきた。

 ソウタはその手を握った。

 冷たい。

 昨日よりも、さらに冷たい。

 それでも、ミナは握り返した。

 弱く。

 けれど、確かに。

「ソウタ」

「何」

「明日も、見えるかな」

「見える」

「すぐ答えるね」

「見える」

「根拠は?」

「俺がそう決めた」

 ミナは笑った。

 その笑い声は、今にも消えそうだった。

 けれど、確かに教室の中に残った。

 ソウタは窓の外を見た。

 灰色の空に、ひとつだけ星が刺さっている。

 世界はまだ壊れ続けていた。

 救助が来るかどうかもわからない。

 相沢が山を越えられたかどうかもわからない。

 ミナが明日の朝を迎えられるかどうかもわからない。

 わからないことばかりだった。

 それでも、ソウタはミナの手を握っていた。

 そして、空に残ったひとつの光を見つめ続けた。

 夜は深くなっていく。

 だが、その星だけは、まだ消えなかった。


第三章 きみの中の星

 相沢は戻らなかった。

 その事実を、ソウタは何度も言葉にしないようにしていた。

 戻るとは言っていない。山を越えて県道へ出ると言っただけだ。そこで救助隊に会えれば、北山旧分校に自分たちがいると伝える。そう約束しただけだった。

 だから、戻らないこと自体は不自然ではない。

 不自然ではないが、校門の方を見てしまう。

 灰に覆われた校庭の向こう。錆びた門柱。そこから続く山道。視界は朝よりも悪くなっていた。灰は弱まったり強まったりを繰り返している。風向きが変わるたびに、校舎の窓がかすかに鳴った。

 相沢の足跡は、もう見えなくなっていた。

 灰がすべてを均していた。

 人が歩いた跡も、落ちた枝も、小動物の足跡も、同じ色で覆い隠していく。世界は少しずつ、誰もいなかった場所のようになっていた。

 ソウタは窓際から離れ、教室の中央へ戻った。

 ミナは毛布にくるまって座っていた。眠っているようにも見えたが、目は開いていた。窓の外ではなく、黒板の上を見ている。

「何か見えるのか」

 ソウタが聞くと、ミナは少しだけ瞬きをした。

「ううん」

「じゃあ、何見てた」

「黒板」

「黒板?」

「昔、ここに来た時、あそこに星座の絵が貼ってあった気がする」

 ソウタは黒板の上を見た。

 そこには何も貼られていなかった。画鋲の穴だけが、古い傷のように残っている。

「覚えてない」

「ソウタはそうだよね」

「悪かったな」

「悪くないよ」

 ミナは笑おうとした。

 だが、その笑みは途中で咳に変わった。

 ソウタはすぐに水を取った。ミナは首を横に振ったが、ソウタはタオルを湿らせて口元に当てた。ミナは逆らわなかった。

 その素直さが怖かった。

 昨日までのミナなら、少しくらい文句を言ったはずだ。大げさだとか、病人扱いしないでとか、そういうことを言ったはずだ。だが今は、反論する力を節約しているように見える。

 酸素缶は、もう残り少なかった。

 使えば少し楽になる。けれど使い切れば終わりだ。ソウタは缶を手に取っては置き、置いてはまた手に取った。どのタイミングで使うのが正しいのか、わからなかった。

 正しさが、どこにもない。

 ラジオは昼過ぎから沈黙していた。

 電池を節約するために切ったわけではない。つけていても、雑音すら拾わなくなった。乾電池を替えても同じだった。アンテナを窓際に伸ばしても、職員室へ持っていっても、音は戻らなかった。

 外の世界と繋がるものが、また一つ消えた。

 スマートフォンの電源を入れると、圏外の表示だけが浮かび上がった。バッテリーは二十七パーセント。着信もメッセージもない。母親からも、学校からも、誰からも連絡はなかった。

 ソウタは画面を消した。

 助けを待つということは、時間に身を削られることなのだと知った。

 待っている間、何も起きないわけではない。むしろ、何も起きないからこそ、想像だけが増えていく。相沢は山道で倒れたのではないか。県道は寸断されているのではないか。救助隊など来ないのではないか。町はもう誰も残っていないのではないか。

 そして、ミナは朝まで持たないのではないか。

 その考えが浮かぶたび、ソウタは奥歯を噛んだ。

 考えるな。

 考えたところで何も変わらない。

 それでも、考えは消えなかった。

「ソウタ」

 ミナが呼んだ。

「何」

「怖い顔してる」

「してない」

「してる」

「元からだ」

「元から怖い顔だったっけ」

「知らない」

「昔はもっと、ぼんやりしてた」

「悪口か」

「褒めてる」

「どこが」

「ぼんやりしてる人って、隣にいると安心する」

 ソウタは返事に困った。

 ミナは毛布の端を指でいじっていた。

「今のソウタは、ずっと走ってるみたい」

「走ってない」

「頭の中で」

 図星だった。

 ソウタはこの校舎に着いてから、ずっと何かを探していた。水。灯油。食料。通信手段。救助の可能性。ミナを助ける方法。県道へ抜ける道。窓の隙間を塞ぐ布。使える乾電池。

 探していないと、止まってしまう。

 止まると、ミナの呼吸の音だけが聞こえる。

 それが怖かった。

「少し、座って」

 ミナが言った。

「俺は平気だ」

「私が平気じゃない」

「何が」

「ソウタがうろうろしてると、落ち着かない」

 ソウタは反論しかけて、やめた。

 ミナの隣に座る。

 窓の外は少しずつ暗くなっていた。夕方なのか、灰が濃くなっただけなのか、判断できない。壁時計は相変わらず止まっている。スマートフォンの時刻を見る気にもなれなかった。

 時間に名前をつける意味が薄れていた。

 ミナは窓の外を見た。

「今日も星、見えるかな」

「見える」

「また即答」

「見えるって決めた」

「昨日の真似?」

「違う」

「似てた」

「うるさい」

 ミナは笑った。

 笑ったあと、少し苦しそうに息をした。

 ソウタは酸素缶を手に取った。

「使うぞ」

「まだいい」

「よくない」

「本当に、まだいい」

 ミナはソウタの手に、自分の手を重ねた。

 冷たい手だった。

「あとで使いたい」

「あとっていつだ」

「星が見える時」

「そんなの」

 ソウタは言葉を飲み込んだ。

 そんなの、意味がない。

 そう言いかけた。

 だが、それを言ってしまえば、昨日からのミナの願いをすべて否定することになる。

 生きるために使うべきものを、星を見るために残す。

 それは合理的ではない。

 けれど、合理的なことだけでここまで来たわけではなかった。

 ソウタは酸素缶を置いた。

「わかった」

「ありがとう」

「ただし、苦しくなったらすぐ使う」

「うん」

「本当に」

「うん」

「約束しろ」

「約束する」

 ミナは素直に頷いた。

 約束という言葉が、こんなに頼りないものだとは思わなかった。

 夜が近づくにつれて、教室の温度は下がった。

 灯油はほとんど残っていなかった。ソウタはストーブの火を最小にして、毛布をミナの周りに重ねた。自分も寒かったが、上着はミナにかけたままだった。

 窓の外で、灰が舞っている。

 その向こうに、かすかな光が一つ見えた。

 昨日と同じ場所かどうかはわからない。そもそも、本当に星なのかもわからない。上空を漂う破片かもしれない。遠くの火災の光かもしれない。大気中で燃え残った何かが、まだ光を放っているのかもしれない。

 けれど、ミナが星だと言えば、それは星だった。

 ミナがそれを必要としているなら、ソウタもそう信じるしかなかった。

「見えるぞ」

 ソウタが言った。

 ミナがゆっくり顔を上げる。

「ほんと?」

「ああ」

「窓、少しだけ」

「駄目だ」

「まだ何も言ってない」

「言う前からわかる」

「少しだけでいいの」

「灰が入る」

「マスクする」

「寒い」

「毛布ある」

「苦しくなる」

「酸素缶もある」

 ミナはどこか得意げに言った。

 ソウタは小さくため息をついた。

「言い返す力はあるんだな」

「星のためなら」

 結局、ソウタは窓を少しだけ開けた。

 冷気が流れ込んだ。

 灰の匂いがした。焦げた土と、濡れた木と、どこか遠くで燃えたものの匂いが混じっている。昨日よりも薄くはなっていたが、それでも喉に引っかかった。

 ミナには防塵マスクをつけさせた。

 酸素缶を手元に置く。

 ミナは窓の外を見た。

「あった」

 その声は、子どものようだった。

 ソウタは彼女の視線を追った。

 灰色の空の奥に、ひとつだけ光があった。

 昨日よりも、少し強く見える。

 あるいは、周りが暗くなっただけなのかもしれない。

 空全体は濁っていた。星空と呼べるものではない。星座など探しようもない。流星の数も減っていた。時折、細い光が走るが、すぐに消える。

 その中で、ひとつだけ動かない光があった。

「何の星だろうね」

 ミナが言った。

「わからない」

「考えて」

「俺に星の名前を聞くな」

「名前じゃなくて、何に見えるか」

 ソウタは空を見た。

 何に見えるか。

 ただの光だ。

 そう答えそうになって、やめた。

 ミナは名前を聞いているのではない。正解を求めているのでもない。

 ソウタは少し考えた。

「穴」

「穴?」

「灰だらけの空に、小さい穴が開いてるみたいに見える」

「ロマンがあるのかないのか、微妙」

「努力はした」

「うん。わかる」

 ミナは笑った。

「でも、いいね。穴」

「いいのか」

「うん。そこから、向こう側が見えてるみたい」

「向こう側?」

「空の向こう」

「宇宙か」

「そういう言い方すると、急に理科になる」

「悪いか」

「悪くないよ。ソウタらしい」

 ミナはしばらく黙っていた。

 その横顔を、ソウタは見つめた。

 彼女の目は、空の光を映していた。

 昨日よりも頬は白い。唇の色も薄い。髪には灰がついている。マスクに隠れて表情の半分は見えない。それでも、目だけは生きていた。

 星を見るために、ミナはまだここにいる。

 その事実が、ソウタを支えていた。

「ソウタ」

「何」

「小学生の時のこと、覚えてる?」

「さっきもその話しただろ」

「違うやつ」

「どれ」

「ここに来た時」

「星を見に?」

「うん」

 ソウタは記憶を探った。

 北山旧分校で星を見る会があったのは、小学五年の秋だった。市の広報に小さく載っていたイベントで、参加者は少なかった。ミナが行きたいと言い、ソウタは半ば無理やり付き合わされた。

 夜の校庭に望遠鏡が数台並び、地域の天文クラブの老人たちが星座の説明をしていた。ソウタは途中で飽きて、体育館の脇に座っていた。ミナは最後まで空を見ていた。

「俺が飽きたやつだろ」

「そう」

「覚えてる」

「ソウタ、あの時も言ったんだよ」

「何を」

「星なんか見ても、腹はふくれないって」

「最低だな」

「うん。最低だった」

「言った俺が言うのもなんだけど、そこまで言うか」

「でも、そのあと、私にココア買ってくれた」

「覚えてない」

「自販機で」

「そうだっけ」

「うん。寒いなら飲めばって言って」

「それがどうしたんだよ」

「ソウタは、ロマンがないって言われるけど、優しくないわけじゃないんだよね」

 ソウタは黙った。

 そういう言葉は苦手だった。

 褒められているのに、責められているような気分になる。自分はそんな人間ではない、と言いたくなる。実際、優しいわけではない。目の前の一人しか見えていない。ほかの人間を置いてきた。相沢が言ったように、誰かを助けなかった。

「俺は優しくない」

「そうかな」

「そうだよ」

「じゃあ、何でここにいるの」

「ミナがいるから」

「それが優しさじゃないの」

「違う」

「どう違うの」

「俺が、ミナを失いたくないだけだ」

 言った瞬間、胸の奥にあったものが剥き出しになった。

 ソウタは空を見た。

 ミナの方を見られなかった。

「それは、優しさじゃない。自分勝手だ」

 しばらく沈黙があった。

 窓の隙間から入る風が、毛布の端を揺らした。

「自分勝手でも」

 ミナが言った。

「私は嬉しいよ」

 ソウタは何も言えなかった。

 ミナは続けた。

「誰かに失いたくないって思われるの、嬉しい」

「そんなの」

「うん。たぶん、生きてるってそういうことなんだと思う」

「大げさだ」

「そうかな」

「そうだよ」

「じゃあ、大げさでいい」

 ミナは小さく息を吸った。

「私はね、ずっと怖かった」

 ソウタはミナを見た。

 ミナは空を見上げたままだった。

「病院にいる時も、家にいる時も。みんな優しいんだけど、少しずつ私を見る目が変わっていくのがわかった。大丈夫って言うたびに、誰も信じてない顔をする。頑張ろうって言われるたびに、もう頑張ってるのになって思う」

 ソウタは拳を握った。

「でも、ソウタは」

「俺は?」

「いつも、ちょっと怒ってた」

「怒ってたか?」

「うん。何で返事しないんだとか、薬飲んだのかとか、無理するなとか。優しい言葉じゃないんだけど、私がまだ普通に怒られる側にいる気がした」

「怒って悪かったな」

「だから、嬉しかったんだって」

 ミナの声が少し震えた。

「私が消えていくものじゃなくて、まだここにいる人間みたいで」

 ソウタは目を伏せた。

 自分が送った短いメッセージの数々を思い出した。

 既読無視するな。

 薬飲め。

 寝ろ。

 明日、返事しろ。

 どれも乱暴で、不器用で、気の利いた言葉ではなかった。けれどミナは、それを覚えていた。

「ソウタの中には星がないって、昔言ったでしょ」

「ああ」

「あれ、間違いだった」

「急に訂正するな」

「ずっと訂正したかったの」

 ミナはソウタを見た。

 マスク越しでも、彼女が笑っているのがわかった。

「ソウタの中には、たぶん、すごく地味な星がある」

「褒めてるのか」

「褒めてる」

「地味な星って何だよ」

「明るくないけど、消えない星」

 ソウタは返事をしなかった。

 返事をすれば、何かが壊れそうだった。

 ミナの呼吸が荒くなった。

 ソウタは酸素缶を手に取った。

「使うぞ」

 今度はミナも拒まなかった。

 ノズルを口元に当てる。

 ミナはゆっくり吸った。

 一度。

 二度。

 三度。

 そのたびに、胸がかすかに上下した。

「少し楽?」

「うん」

「もっと」

「大丈夫」

「大丈夫じゃない」

「少し残して」

「何のために」

「あとで」

「あとなんかない」

 言ってから、ソウタは自分の言葉に凍りついた。

 ミナも黙った。

 教室の中が、急に静かになった。

 ソウタは酸素缶を握ったまま、唇を噛んだ。

「違う」

 声がかすれた。

「今のは」

「わかってる」

 ミナが言った。

「怒ってないよ」

「俺が怒ってる」

「自分に?」

「そうだよ」

「忙しいね」

「茶化すな」

「茶化してない」

 ミナは少しだけ目を細めた。

「ソウタ、泣きそう」

「泣いてない」

「知ってる」

「見てないだろ」

「見なくてもわかる」

 ソウタは窓の外を見た。

 星が滲んでいた。

 涙ではない。

 そう思おうとした。

 けれど、視界は確かに歪んでいた。

「私がいなくなっても」

 ミナが言った。

「言うな」

「聞いて」

「嫌だ」

「聞いて」

 その声は弱かったが、逃げ場を与えない強さがあった。

 ソウタは口を閉じた。

 ミナは続けた。

「私がいなくなっても、ソウタが覚えていてくれたら、少しだけ、私は残れるのかな」

「いなくならない」

「うん」

「そんな話、するな」

「でも、もしもの話」

「もしもでも嫌だ」

「ソウタは、ほんと頑固」

「ミナもだろ」

「うん。似てきたね」

 ミナは嬉しそうに言った。

 その声音があまりにも穏やかで、ソウタは胸が詰まった。

「星ってね」

 ミナは空を見た。

「もうそこにないかもしれないのに、光だけ届くんだよ」

「昨日も聞いた」

「大事なことは何回も言うの」

「先生みたいだな」

「じゃあ、生徒はちゃんと聞いて」

「聞いてる」

「本当に?」

「聞いてる」

 ミナは頷いた。

「だったら、覚えてて」

「何を」

「私のこと」

「忘れるわけないだろ」

「怒った顔じゃなくて」

「注文が多いな」

「星を見てる時のこと」

 ソウタはミナを見た。

 ミナは窓の外を見ていた。

「私が、空を見てたこと。怖くても、寒くても、息が苦しくても、それでも星を見たいって思ったこと。ソウタが一緒にいてくれたこと」

「そんなの」

 ソウタは声を絞り出した。

「そんなの、忘れられるわけない」

「うん」

 ミナは満足そうに息を吐いた。

「じゃあ、残れるね」

「ミナ」

「ソウタの中に、私の星を置いていくね」

 その言葉は、静かに教室に落ちた。

 外では灰が降っている。

 ストーブの火は、もうほとんど消えかけていた。

 空の星は、まだ見えていた。

 ソウタはミナの手を握った。

「勝手に置いていくな」

「駄目?」

「持っていけ」

「どこに?」

「知らない」

「困るなあ」

「困れよ」

 ミナは笑った。

 そして、少し咳き込んだ。

 今度の咳は長かった。

 ソウタは酸素缶を当てた。ミナは吸おうとしたが、うまく吸えなかった。胸が浅く動き、喉がひゅうと鳴った。

「ミナ」

 ソウタは彼女の背中を支えた。

「ゆっくり。ゆっくり吸え」

 ミナは頷こうとした。

 だが、首はほとんど動かなかった。

 ソウタは酸素缶を押し続けた。

 残量がなくなっていく感触が手に伝わる。

 それでも押した。

 最後まで押した。

 缶が軽くなった。

 音が変わった。

 もう、ほとんど出ていなかった。

「くそ」

 ソウタは缶を握りしめた。

 何かないか。

 薬。

 水。

 毛布。

 ラジオ。

 電話。

 救助。

 相沢。

 何か。

 何か。

 何もない。

 教室にあるものは、すべてそこにある。だが、そのどれもが、ミナの呼吸を取り戻すには足りなかった。

 ミナがソウタの袖を引いた。

 ほんの弱い力だった。

「何」

 ソウタは顔を近づけた。

 ミナは窓を見ていた。

「星」

「見えてる」

「うん」

「見えてるから」

「もっと」

「もっと?」

「近くで」

 ソウタは一瞬迷い、ミナの体を支えた。

 彼女は驚くほど軽かった。

 毛布ごと抱えるようにして、窓際へ寄せる。開けていた窓の隙間を少し広げる。冷気が流れ込む。灰も入った。そんなことはもう、どうでもよかった。

 ミナは空を見上げた。

 星は、灰色の空に刺さっていた。

 動かない。

 凍ったように、ただそこにあった。

 他の光はほとんど消えていた。流星もない。町の火災の赤も、山の向こうで薄れている。世界は闇に沈もうとしているのに、その星だけが残っていた。

「見つけた」

 ミナが言った。

 声は、耳を近づけなければ聞こえないほど小さかった。

「何を」

「ソウタの中の星」

「何だよ、それ」

 ミナは笑った。

「泣いてるのに、まだ消えてないところ」

 ソウタは何も言えなかった。

 泣いている。

 今度は否定できなかった。

 頬に冷たいものが落ちていた。

 ミナの指が、ソウタの手を探した。

 ソウタはその手を握った。

 弱く握り返された。

 一度。

 もう一度。

 それから、力が抜けた。

 ソウタはしばらく、そのことに気づかなかった。

 気づきたくなかった。

 ミナは空を見ているように見えた。

 目は薄く開いていた。口元は少しだけ緩んでいた。苦しそうではなかった。眠っているようだった。

 だから、ソウタは呼びかけた。

「ミナ」

 返事はなかった。

「ミナ」

 もう一度呼んだ。

 やはり、返事はなかった。

 ソウタは彼女の手を握ったまま、動けなかった。

 呼吸を確認しようと思った。脈を探そうと思った。何かしなければと思った。だが、体が動かなかった。

 窓の外で、星が瞬いた。

 その光が、ミナの頬に落ちた。

 ソウタはようやく、震える手で彼女の口元に触れた。

 息はなかった。

 胸も動いていなかった。

 それでも、ソウタは首を振った。

「違う」

 声が出た。

「違うだろ」

 教室の中に、返事はなかった。

 ストーブの火が消えた。

 小さな音だった。

 世界の終わりにしては、あまりにも小さな音だった。

 ソウタはミナを抱き寄せた。

 軽かった。

 軽すぎた。

 まるで、彼女の中にあったものが、すべて空へ戻ってしまったようだった。

 ソウタは泣かなかった。

 泣いているのかもしれなかったが、自分ではわからなかった。涙が出ているかどうかも、寒さで顔が濡れているのかどうかも、区別がつかなかった。

 ただ、ミナの名前を呼び続けた。

 何度も。

 何度も。

 そのたびに、声は小さくなっていった。

 やがて、名前すら出なくなった。

 夜は長かった。

 ソウタはミナの隣に座り続けた。

 窓は開いたままだった。灰が入り込み、床に薄く積もった。ミナの髪にも、毛布にも、ソウタの肩にも、白い灰が降った。

 閉めようとは思わなかった。

 ミナが星を見ていたかったから。

 空には、あの光がまだ残っていた。

 星なのか、燃え残った破片なのか、遠くの何かなのか、ソウタにはわからない。もう、どうでもよかった。ミナが星だと決めた。ならば、それは星だった。

 ソウタはミナの手を握っていた。

 冷たい手。

 もう握り返されることはない手。

 それでも、手を離すことはできなかった。

 朝が近づくにつれ、空は少しずつ明るくなった。

 夜明けというより、灰色が薄まっていくような変化だった。昨日と同じ、太陽の見えない朝。けれど、流星は止まっていた。空の傷は増えていない。遠くの爆発音も聞こえない。

 世界が終わったのか。

 それとも、壊れるのに疲れただけなのか。

 ソウタにはわからなかった。

 灰色の空に、ひとつだけ光が残っていた。

 凍ったように、灰色の空に刺さっていた。

 ソウタは、その星を見た。

 ミナが最後に見た星。

 ミナが、ソウタの中に置いていった星。

 泣いているのに、まだ消えていないところ。

 その言葉が、胸の奥で何度も響いた。

 ソウタは自分の中に、何かがあるとは思っていなかった。

 優しさでもない。

 強さでもない。

 希望でもない。

 ただ、失いたくないという身勝手な願いと、失ってしまったという事実だけがある。

 けれどミナは、それを星だと言った。

 明るくなくても、きれいでなくても、消えずに残るもの。

 そう呼んでくれた。

 ならば、ソウタはそれを捨ててはいけないのだと思った。

 彼女を救えなかった。

 その事実は変わらない。

 相沢が来ても、救助隊が来ても、世界が元に戻っても、変わらない。

 だが、彼女が見ていたものを覚えていることはできる。

 彼女が星を見たこと。

 怖い夜に、空を見上げたこと。

 息が苦しくても、最後まで光を探していたこと。

 ソウタに、星があると言ったこと。

 それだけは、誰にも奪えない。

 ソウタはノートを開いた。

 避難所管理記録。

 前に書いたページの続きに、ペンを置く。

 手が震えていた。

 それでも書いた。

 ――ミナは、星を見た。

 その一文を書いた瞬間、涙が落ちた。

 紙に丸い染みができた。

 ソウタは袖で拭こうとして、やめた。

 染みはそのまま残した。

 記録だから。

 ここに、ミナがいた記録だから。

 そのあと、何時間が過ぎたのかはわからない。

 ソウタはミナの隣に座り、時々ノートに言葉を書いた。

 星のこと。

 屋上で最初の流星を見つけたのがミナだったこと。

 北山まで歩いたこと。

 相沢という男が来たこと。

 酸素缶をくれたこと。

 星を見つけたこと。

 ミナが笑ったこと。

 泣いているのに、まだ消えていないところ。

 何度もペンが止まった。

 そのたびに、ソウタは空を見た。

 星はまだあった。

 昼が近づくにつれ、さすがに光は薄れていった。灰色の空に溶けるように、輪郭が曖昧になっていく。それでもソウタには、そこにあることがわかった。

 見えなくなっても、消えたわけではない。

 ミナが教えてくれたことだった。

 午後になって、遠くで音がした。

 最初は風かと思った。

 だが、違った。

 機械の音だった。

 ヘリコプター。

 ソウタは顔を上げた。

 音は一度遠ざかり、また近づいた。灰の雲の向こうで、低く旋回している。ソウタは立ち上がろうとして、足に力が入らず、その場に膝をついた。

 助けが来た。

 そう思った瞬間、胸の奥が空洞になった。

 遅い。

 なぜ今なんだ。

 なぜ昨日じゃなかった。

 なぜ、ミナが息をしているうちじゃなかった。

 怒りが湧いた。

 同時に、その怒りを向ける相手がどこにもいないこともわかっていた。

 ヘリの音はしばらく続いた。

 やがて、校庭の方から人の声が聞こえた。

「誰かいますか!」

「北山旧分校! 避難者はいますか!」

 ソウタは返事をしようとした。

 声が出なかった。

 喉が乾いていた。

 もう一度、声を出そうとする。

「……ここです」

 自分でも聞こえないほど小さな声だった。

 廊下を走る足音が近づく。

 防護服を着た救助隊員が教室に入ってきた。顔は透明なシールドで覆われていた。現実の人間というより、別の世界から来たもののように見えた。

「大丈夫ですか!」

 隊員の声が響く。

 ソウタはミナの手を握ったまま、隊員を見た。

「相沢さんは」

 最初に出た言葉がそれだった。

 隊員は一瞬戸惑った。

「相沢さん?」

「男の人が、県道へ。ここに二人いるって」

 隊員はすぐに別の隊員を見た。

「県道側で保護された男性がいた。意識不明だが、旧分校に二名と伝えていた」

 別の隊員が答えた。

 ソウタは目を閉じた。

 相沢は、たどり着いた。

 少なくとも、伝えた。

 ミナの願いを、届けた。

「彼女は」

 隊員がミナの方を見る。

 ソウタは首を横に振った。

 言葉にはできなかった。

 隊員たちは動きを止めた。

 その沈黙だけで、彼らが理解したことがわかった。

 誰かがソウタの肩に手を置いた。

「あなたも搬送します」

 ソウタはミナの手を離さなかった。

「少しだけ」

「ですが」

「少しだけ、待ってください」

 隊員は何か言いかけたが、別の隊員が小さく頷いた。

 ソウタはミナの手を両手で包んだ。

 もう温度はなかった。

「ミナ」

 声はかすれていた。

「相沢さん、伝えてくれた」

 返事はない。

「救助、来た」

 返事はない。

「星も、まだある」

 窓の外は昼の灰に覆われていて、もう星は見えなかった。

 それでも、ソウタはそう言った。

「見えないけど、ある」

 ミナの手を、そっと毛布の上に置いた。

 離す時、指が震えた。

 手を離せば、本当に終わってしまう気がした。

 けれど、ミナは言った。

 覚えていてくれたら、少しだけ残れるのかな、と。

 置いていった星を、ソウタが持っていかなければならない。

 ソウタは立ち上がった。

 足元がふらつき、隊員に支えられる。

 教室を出る前に振り返った。

 窓際に、ミナがいた。

 毛布に包まれ、灰をかぶり、空を見るように横たわっている。

 その光景を、ソウタは胸の奥に刻んだ。

 忘れない。

 忘れられないのではない。

 忘れないと決めた。

 校庭に出ると、灰の匂いが強くなった。

 ヘリコプターの風で、積もった灰が舞い上がる。隊員たちの声。無線の音。担架を運ぶ足音。遠くで崩れた木の音。世界にはまだ音があった。

 生きている人間の音があった。

 ソウタは空を見上げた。

 灰色だった。

 星は見えなかった。

 それでも、ソウタは探した。

 灰の向こう。

 煙の向こう。

 見えないだけで、そこにある光。

 ミナが見つけ、ミナが残したもの。

 ソウタは胸の奥に手を当てた。

 そこには、痛みがあった。

 鋭く、重く、消えそうにない痛み。

 たぶん、これが星なのだ。

 明るくなくても。

 誰にも見えなくても。

 泣いているのに、まだ消えていないもの。

 数日後。

 北山旧分校の窓際には、二人が並んで座っていた跡だけが残っていた。

 灰をかぶった床に、寄り添うような二つの影が落ちていた。

 片方は薄く、片方は少しだけ濃い。

 開いたままのノートには、震えた字で一文が残されていた。

 ――ミナは、星を見た。

 灰色の空は、まだ重く垂れ込めていた。

 けれどその向こうで、世界の終わりにひとつだけ残された星が、静かに瞬いていた。

 了



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


「消えてしまったものは、本当に全部消えてしまうのか」というテーマで書いた終末青春SFです。

ミナが見た星と、ソウタの中に残った光が、少しでも読後に残れば嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
 群と称するほどふりそそぐ星の数だけ起きる火災と絶望……多くの人の表情筋が硬直するのも納得ですね。  切ない作り笑いを浮かべながら逞しく行きようとし、咳に悩みながらも他者の笑顔とその裏の幸福を願う文…
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