空が泣いた夜――きみの中の星を探して
世界が、燃えはじめた。
テレビのニュースが「観測史上最大の流星群です」と言っていた日の夜から、誰も笑わなくなった。
空から降るのは夢でも希望でもなく、無数の小さな火の玉だった。最初の一晩で、街が三つ消えた。二晩目で、海が白く光った。三晩目で、風の匂いが変わった。焦げた金属と血のにおい。ソウタはその匂いを嗅ぐたびに、もう戻れないんだと分かった。
避難指示が出たのは遅すぎた。
それでも彼とミナは山に向かった。山の奥に、廃校になった避難小屋があった。古い木の匂いと、湿った畳の感触。外ではまだ、遠くの空が赤く瞬いていた。
「ここなら大丈夫」
ミナは笑って言った。だけど、その笑顔の裏に、少しだけ震えがあった。
ソウタは頷き、壊れた窓を塞ぐ。トタンの隙間から、空が見えた。青じゃない。灰色の空に、白い火の線が走る。
「ねえ、あれ全部星なのかな」
ミナが言った。
「星、だったものだと思う」
ソウタは答えた。言葉が口の中で苦く響く。
夜、二人で缶詰を分け合った。桃の缶詰。スプーンでひと口ずつ。
「甘いね」
ミナは笑った。
「久しぶりだな、こんな味」
ソウタは小さく頷いた。
食後、ミナはノートを開いた。表紙に「星日記」と書かれていた。
「日記なんて、まだ書くの?」
「うん。だって、誰かに伝えないと。私たちがここにいたって」
「でも、誰も読む人いないよ」
「それでもいいの。読む人がいないなら、星に読ませる」
ミナはそう言って、ボールペンを走らせた。
――八月二十三日。星が止まらない。ソウタが少し笑った。外の音が怖い。
文字の筆圧が強く、紙が少しへこんでいた。
数日が過ぎた。
空は、ますます近くなったように見えた。日が暮れるたびに、稲妻のような光が地平線を割った。
町はもう見えなかった。風に乗って、灰が舞ってきた。焼けた建物の欠片だと分かっていても、ミナは外を見続けていた。
「ねえ、ソウタ。星って、願いを叶えるんだよね」
「子どもの頃は、そう教わった」
「じゃあ、いま願えば……誰か助かるかな」
ソウタは首を横に振った。「もう、助けられる人なんていない」
ミナは黙り込んで、それでも空を見た。「じゃあ、私たちが叶えてあげよう。誰かの分も」
その言葉が、静かに夜に溶けていった。
翌朝、ミナの咳が止まらなかった。
外気に含まれる灰が喉を焼いていた。ソウタは近くの沢まで水を取りに行ったが、もう濁っていて飲めなかった。
「これ、煮たらいけるかも」
「うん、やってみよう」
ミナは弱々しく頷いた。
ソウタは鍋を火にかける。避難所のストーブの火が、パチパチと音を立てた。その音が、まるで生きている証のように聞こえた。
「ねえ、ソウタ」
「なに」
「死ぬの、怖い?」
ソウタは答えられなかった。
ミナは小さく笑った。「私はね、怖いけど、空のほうがもっと怖い。あんなにきれいなのに、全部焼いていくなんて、ずるいよね」
その夜、彼女はまた日記を書いた。
――八月二十五日。ソウタが笑った。私も笑ってみた。空はまだ落ちてくる。
眠れない夜が続いた。
音のない時間が、逆に怖かった。
ミナは息を荒くしながら、空を見上げた。「ねえ、外、行こう」
「駄目だよ。焼ける」
「いいの。もうすぐ終わるから。ちゃんと見ておきたいの」
ソウタはためらった。けれど、彼女の瞳の奥に映る光が、あまりに澄んでいて、拒めなかった。
二人は毛布をかぶって、山の上へ登った。
風が焦げた匂いを運ぶ。大気が薄く、冷たい。
頂上に着くと、世界が燃えていた。
何千もの光が、音もなく降り注いでいた。火の雨。空が滝のように流れ落ちていく。
「きれいだね」
ミナが呟いた。
ソウタは唇を噛んだ。「こんなにきれいなのに、全部壊していく」
ミナは空に手を伸ばす。「きっと、星たちは帰る場所を探してるだけなんだよ」
「どこに?」
「たぶん、誰かの心の中に」
その瞬間、ひときわ大きな流星が空を裂いた。眩しさに目を細めると、ミナが笑っていた。
「ねえ、ソウタ。落ちていく星って、痛いのかな」
「痛くないといいな」
ミナは小さく頷いた。「わたしたちも、いつか星になるよ」
朝。
流星は止まっていた。空は、灰色に沈み、ひとつだけ光っていた。
止まった星。動かない。凍ったように、夜空に刺さっていた。
ミナはもう、息をしていなかった。
ソウタは彼女の冷えた手を握り、震えながら日記を開いた。
最後のページには、震える文字が残っていた。
――八月二十六日。星が止まりそう。ソウタが泣いてる。笑わせてあげたかった。
その下に、インクがにじんでいた。
ソウタは、ペンを握った。
彼は新しいページをめくり、ゆっくり書いた。
――八月二十七日。星が止まった。君は眠っている。僕はまだここにいる。
書き終えると、ノートを閉じて、彼女の胸の上に置いた。
「おやすみ、ミナ」
風が吹いた。灰が舞った。世界が静かになった。
夜。
ソウタは外に出た。
ひとつだけ残る星が、夜空で光っていた。
それは、ミナの瞳の色に似ていた。淡い青。冷たくて、やさしい。
彼は空を見上げながら呟いた。「まだ、見てるの?」
答えはない。それでも、星は微かに瞬いた。
ソウタは目を閉じる。瞼の裏に、焼けた街、燃える海、笑うミナが浮かんだ。全部がゆっくり遠ざかっていく。
彼は小屋に戻り、毛布にくるまった。
――八月二十八日。星が落ちない夜。空に、君がいる。
そう書き残して、ペンを置いた。
外では、風が静かに吹いていた。
翌朝。
避難所には、二つの影が並んでいた。
小屋の屋根は崩れかけ、壁には焦げ跡。
机の上に置かれた日記帳の最後のページは、灰に埋もれて読めなくなっていた。
それでも、その上に置かれた小さな白い石だけが、光を反射していた。
遠く、空の高みに、あの“止まった星”があった。
それはもう、誰の瞳にも映らない。
けれど確かに、そこにあった。
世界の終わりを見届けた、最後の星。
そして、その星を見上げていた二人の、終わらない約束。
――もし星がまた落ちる日が来たら、その光の中で、もう一度、君に会いたい。




