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鬼、ふたたび

「キリちゃん、カッコよくして。」

 サクラは行きつけの美容室に約束通り、遼一を連れてきた。

「ねぇ、サクラ。この子、好きにしていいの?」

 オーナーの鈴木霧生(きりお)は、遼一の頭をくしゃくしゃにいじりながら、なんか笑ってる。表情がツボに入る寸前らしい。

「普通さ、こういうとこにくると、不安だけど期待もあってさ。一般的に目が輝いてるもんだけど。……なんていうの?そう、死んだ魚の目みたいよねぇ。」

 二秒後、ツボに入った。霧生は笑いを押さえられなくなった。

 サクラと霧生がコソコソと話をし、髪型の方向性が決まったようだ。遼一の要望は聞かれることもなかった。ブロッキングが始まり、なぜかバリカンの唸り声が聞こえる。遼一は観念して鏡を見るのをやめた。

「その爪、ぶつけたの?」

 霧生がサクラの爪に気づいた。

「それ、呪いの爪じゃないですか?」

 アシスタントの男の子に見られた。

「呪いの爪って何よぉ?」

 霧生は手を止めて、サクラの爪を見にいった。

「あらぁ、ヒドいわね。呪われたのぉ?」

「でも呪いで死んだ人の爪ですから、サクラさんはまだ死んでないですよ。」

「まだって何よ。これから死ぬみたいじゃない。」

 こんな悪趣味な会話で盛り上がる中、まるで空気のように気配を消している遼一は、柳原の調査がどこまで進んでいるのかは気になっていた。

 遼一のサコッシュから着信音が鳴った。

「遼ちゃん、どうする?」

「あっ、じゃあ、メールだと思うんでお願いします。」

 遼一のサコッシュからスマホを取り出し、勝手にパスワードを入力して画面を開いた。

「おっ、源ちゃんだ。見ていい?」

「たまにサクラさんの悪口とか書いてあるんで、やめたほうが……。」

 もう読んでるし。

「ふ~ん。遠藤さんって、誰?」

「土御門家の人です。新堂さんの事故のときに来てた人。新しい担当者は藤原さんっていう人です。」

 遠藤さんから、何か情報来たのかなぁ。と、遼一は考えていた。

 サクラは立ち上がり、スマホを持って遼一の前に立った。

「え~、サクラは病み上がりだから、キスまでにしておけよ!……だって。」

 スマホの画面を遼一に見せた。

「あら~、サクラったら、食べる気満々なのね。それにしても、こんなに血流のいい人。見てよ、人間ってこんなに真っ赤になるもんなの?」

 霧生は楽しそうなサクラを見てホッとしていた。

「この子、どこで拾ってきたの?」

「動画の取材先で、優光の会っていう宗教団体あるでしょ。貸してって言ったら、担当者の人が、いいよって。貸してくれたの。」

「なにそれ、拾いもんじゃなくて、借りもんかぁ。」

「優光の会って、噂の元ネタじゃないですか。」

 アシスタントが、話に割って入ってきた。

「どう?」

 霧生が、髪型のニュアンスを確認してきた。

「おーっ。」サクラとアシスタント。

「あっ。」

 遼一は背もたれにのけ反った。何がどう違うのかわからないが、明らかに違う。死んだ魚が生き返った。

 ヘアカラーが染め終わり、待ち時間にサクラは、さっきのメールの文面をなぜか楽しそうに読み始めた。

「教団にある本堂の奥の奥に霊の倉庫があるんだって。優光の会じゃなくって、土御門家の秘密の倉庫らしいよ。新堂さんが関わってたんなら、間違いなくそこだろうって。……絶対、サクラには言うな!だって。」

 悪魔のような顔で、笑いながら話すサクラが怖かった。

 遼一は、また死んだ魚の目に戻った。

「源ちゃんには言わないし、無茶もしないから安心して。私だって、あんな怖い思いはしたくないよ。まだ死にたくないしさ。」

 サクラは遼一にスマホを渡した。

「なに物騒な話をしてんのよ。死ぬだのなんだのって。いやぁねぇ。」

 霧生は髪の色をチェックし、また何か塗り始めた。

「今日、これからどうすんの?」

「ご飯食べてから、山登り用のバッグとかいろいろ見ようかなって。」

「あらそう、山?いいわねぇ。記者とか気をつけなさいよ。」

「悲しいくらい大丈夫。ふたりで福井に行ってきたけど、誰にも気づいてもらえなかったもん。」

「誰もあんたの心配なんてしてないわよ。この子、遼ちゃんがネットに晒されたりしたら、どうすんの?」

 サクラの頭には無かった心配事だった。そんな心配をするほど売れてないし。でもそのくらいのことを考えてないと、今後、どんなことで遼一に迷惑がかかるか予想ができない。そういう緊張感は必要なのかもしれないと思った。

「俺は、そういうの……。」

 遼一が何か言いかけた。

「シャンプー、お願いしまーす!」

 霧生の声が、店内に響き渡った。

「まぁ、上手くやんなさいよ。応援するからね。」

 霧生は、サクラにしか聞こえない声でささやいた。

「キリちゃん、これ観て。」

 サクラは、柳原に録画してもらった『遼ちゃん、初めてのラーメン』という動画を霧生に見せた。

「本当に希少な新種の生物を捕まえたわねぇ。久しぶりに見たわ、こんな美味しそうにラーメン食べる子。」

 シャンプーが終わり、アシスタントが遼一の髪の毛を乾かし始めた。

「あっちのお仕事なんでしょ?」

 霧生は、サクラの素性を知っていた。サクラがアイドルの仕事を始めたときからお世話になっていて、仕事から私生活までの愚痴を聞いてくれる相手だった。そしてサクラの母親が殺されたときに、サクラは霧生に賀茂家の末裔である因縁としての役割をすべてぶちまけた。霊の浄化を知る唯一の一般人が霧生であり、心を許して相談できる相手でもあった。

「うん。」

「だと、なおさら気をつけないとね。あの子、心が弱そうだし。逆に爆発したら怖いかもよ。まぁ応援はするけど、……愛は愛なのよ。間違えないでね。他の感情とごちゃごちゃにしちゃダメよ。それは、遼ちゃんに失礼だからね。」

「わかってる。自分でもわかってないから、まだ先に進めない。」

 サクラ自身もわかっていた。サクラは遼一を必要としている。自分の中では恋愛だと思っているが、霊という特殊な環境がなければ知り合うこともなかったし、お互いに興味を持つこともなかっただろう。

「サクラ、運命っていうのも、愛を構成する重要なファクターよ。」

 決め台詞を残し、霧生は自分の手に整髪料をつけ、遼一の髪をいじり始めた。

「どう?」

 椅子をぐるっと回し、仕上げた遼一をサクラに見せた。

「別人ですよ!色、絶妙ですね。さすが、オーナー。」

 サクラを差し置いて、アシスタントがしゃしゃり出た。

「うん、自分でセットできないと思うけど。髪の色、キリちゃん最高!」

「もう、セットはサクラがやってあげて!遼ちゃん、色どう?」

「あっ、いや、カッコいいです。色は、俺、色弱なんで。ちょっと、すいません。」

 真っ黒だった髪の色が少し明るくなったのは遼一にも分かったが、あとから入れたメッシュらしき部分が、さっぱり区別がついていなかった。

「色弱なんだ。大丈夫よ、最高にカッコいいから。普通の人でも、光の加減とか、よく見ないとわかんない程度よ。はい、じゃあ、とっとと帰ってね。ありがとうございまーす。」

 霧生は、いつもと同じ。ウインクして、手を振って、お見送り。

 サクラは手を振り、遼一は軽くお辞儀をして店を出た。

 

 

 月曜日。祝日で仕事は休みなのだが、遼一は珍しく休日出勤をしていた。珍しくとはいっても、遼一のミスが原因なので、その分の加工が終われば帰る予定だった。お昼を目安にしているが、サクラには時間は未定で、会社を出るときに連絡をすることにした。

 今日は柳原の住む家へ集まることになっている。土御門家の遠藤から柳原へ連絡が来ることになっていて、それをみんなで話し合うことにした。

「遼ちゃん、間に合わないかもしれないけどいいよね。」

 サクラは柳原に、遼一が遅れることを伝えていた。

「まぁ、問題ないだろ。もう、俺たちが何かをするってことは無ぇだろから。」

 柳原は味噌汁を飲み干し、食器を片付け始めた。

「雲行きが怪しくなってきたな。」

 昼間なのに、薄暗い雲がどんどん集まってきた。

 

 柳原の住む家に、モンキー125という小型のオートバイで誰かが乗りつけた。インターフォンを鳴らし、玄関の前で静かに待っている。

 遼一が連絡なしで来たと思い、サクラは無言で玄関を開けた。

「えっ、……芦屋……さん?」

 芦屋の後ろに可愛らしい小さなオートバイが止まっていた。

「あれで、来たんですか?えっ、モンキー?」

 痩せてはいるが、長身の芦屋には似合わなさすぎると思った。

「はい。あの、風間さんは?」

 無表情の芦屋が声を出した。

「今日は仕事で、これからここに来る予定ですけど。」

「どうした、サクラ。」

 柳原が玄関に出てきた。

「……?あ、芦屋さんか。サクラを助けてもらったことは感謝してるが、サクラを襲ったやつも教団の人間だろ。」

「はい。そのことで風間さんにお話が。」

「ちょっと待って。その前に、……どうしてこの家のことを知ってるの?」

 遼一を訪ねるにしても、なぜこの家なのか?サクラは気味が悪かった。

「ここは、瑠璃子さんの家ですよね。」

「今は俺が住ん……。あんたか、瑠璃子さんと会ってたのは!」

 柳原は不思議だった。教団にいるときはがっちりしてるように見えたのに、今、目の前にいる男はヒョロッとしてるように見える。確かに昔見た男の雰囲気は、こんな感じだったかもしれない。

「じゃあ、あんたがママを殺した犯人を殺したの!」

 サクラは感情のままに、靴も履かずに、押し倒す勢いで芦屋の服をつかんだ。

「やめろ、サクラ!」

 柳原はサクラの腕をつかんで離そうとしたが、サクラは離さなかった。

「サクラさんと源蔵さんの話は、瑠璃子さんから聞いてました。」

 無感情で無表情なのに、芦屋の言葉が優しく聞こえた。

「芦屋さん。悪いけど、今日は帰ってもらっていいか。」

 柳原の言葉に、芦屋は素直に帰ろうとしたが、サクラは手を離そうとしなかった。

「……待って。待って、芦屋さん。」

 サクラは顔を上げて、芦屋の顔を見た。

「ごめんなさい。……私は、犯人を知りません。」

 芦屋のトーンは変わらない。

「あのバスに、瑠璃子さんと一緒に乗ってたのはあんたか?」

 柳原は、強引にサクラを引き剝がした。

「はい。」

「そうか。……芦屋さん、あのとき瑠璃子さんを助けてくれて、ありがとう。」

 柳原は、深々と頭を下げた。

「……あの、パソコンを持ってきました。あなたが忘れていったものです。」

 背負っていたリュックから、サクラのパソコンを取り出した。

 柳原がそのまま受け取り、また頭を下げた。

「では、失礼します。」

「芦屋さん、遼一に用事があるんだろう。雨も降りそうだし、家の中で待ってればいい。バイクも、そこの小屋に入れておけばいいから。」

「何言ってんの、源ちゃん!」

「いいから、お前は黙ってろ!」

 大人に本気で怒られると、さすがにサクラも反論できなかった。

「ありがとうございます。」

 芦屋は、乗ってきたオートバイを小屋まで運ぶと、隣に止まっているオートバイを懐かしそうに見ていた。


 ふてくされたサクラの後ろを背筋の伸びた芦屋がついて歩く。そして台所と兼用の茶の間に通された。

「そこに座って。」

 サクラと柳原を正面に向かえ、芦屋は柳原寄りの正面に座った。

「もしよかったら、残りもんだけど食べてくれ。」

 ご飯茶碗とみそ汁のお椀は片付けたが、遼一が来るかもしれないと思い、おかず類はそのままにしていた。

 サクラが上目遣いに柳原を睨んだ。そんなサクラを横目に、柳原は芦屋の前にお茶を出した。

「ありがとうございます。」

 芦屋は背筋を伸ばしたまま座っている。黙っていると瞑想しているようにしか見えない。

「どうして、ママのことを知ってるの?」

 唐突にサクラが質問した。

「最初は公園で知り合ったんですが、それから私の勤めるヨガ・スタジオの初心者コースに入会されました。」

「えっ、ママがヨガ?全然知らなかった。」

 サクラは柳原の顔を見たが、柳原も首を横に振っていた。

「瑠璃子さんに聞かれたことがあるんだけど、芦屋さんは霊を浄化するときに何か考えたりするのか。」

「瑠璃子さんにキレイなことをイメージするように言われましたが、できませんでした。心を無にすることで霊も消えていきます。」

「そうか、人によって違うのかぁ。俺は、霊が身体に入ってくると勝手に浄化するから、みんな同じなんだと思ってた。何も考えてねぇから、無、みてぇなもんか。」

 サクラは、芦屋と普通に会話してる柳原に腹を立てている。自分の知らない母親を芦屋が知ってることに違和感があった。

「瑠璃子さんは、青い空やキラキラ輝く海をイメージして、心の中が光で満ちあふれるそうです。」

「そういえば、そんなこと言ってたなぁ。やってみたけど、浄化どころか具合が悪くなってきたからな。」

「私もです。晴れた日に海まで連れて行ってくれたのに、無駄になりました。」

 芦屋は無表情なのに、優しそうな表情で思い出を頭に描いていた。

「連れて行ったって、ママが?」

 驚いているのに、なぜか怒り口調でサクラが言った。

「はい。あそこに止まってるSR400で。まだあったんですね。驚きました。」

 家の中からは見えないが、壁越しに小屋の方へ手を向けた。

「瑠璃子さんの形見だからな。サクラが乗れるように車検も取ってる。」

 柳原は、サクラを見ていった。

「源ちゃんが乗ってるんでしょ。」

「いつでも乗れるように瑠璃子さんのバイクも、じいさんが置いてったバイクも、たまに乗って点検もしてる。正直、邪魔だけどな。」

「でも、この人はママのお葬式にも来なかったんだよ!」

「……。」

 芦屋は何も答えられなかった。それは葬式に行かなかった負い目とかではなく、葬式に行くという行動パターンが無いからだ。人と行動を共にすることも苦手だったし、ヨガ・スタジオのスタッフにも誘われたが、芦屋は断っていた。言い方を変えれば、芦屋は死んだ人間に会う理由が理解できない。むしろ瑠璃子は芦屋の心の中で、今も存在している。だからお墓や仏壇に手を合わせることもない。

「……瑠璃子さんが言ってたんだ。」

 柳原が話し始めた。

「あのバス事故のとき、瑠璃子さんは右側の窓際の席に座ってたんだ。バスは右側に倒れて、左側にいた人や物がすごい勢いで右側の席に落ちてきた。あのとき芦屋さんが壁のように覆いかぶさって、瑠璃子さんを守ってくれたから助かったんだって言ってたんだよ。芦屋さんの背中から、すごい血が流れてたって。」

 柳原は、また深々と芦屋に頭を下げた。感謝してもしきれない思いがあった。

「でもママの霊は優光の会に盗まれて、私は殺されそうになったのに、信用できるわけがないじゃない。この人だって、今までに何人も人を殺してきたんでしょ!」

「……。」

「ジャーナリストの澤田京子も、芦屋さんが殺したのかい?」

 恐る恐る柳が尋ねた。

「……。」

 芦屋は無表情のままだった。

「……ほらっ、やっぱり!もしかして、遼ちゃんを殺しに来たの。そんなこと、絶対にさせないからね!」

 サクラが柳原にしがみついた。

「帰ります。」

 そういって、芦屋は立ち上がった。

「芦屋さん。本当に遼一を殺しに来たのか?」

「不快な思いをさせて、申し訳ありません。風間さんは私にとって、瑠璃子さんの次に大事な人です。気持ちを共有できる唯一の人です。私に親はいません。愛情というものを子供ながらに拒絶して育ちました。皆さんのいう常識も知らないかもしれません。経験がないので感情という表現も不確かです。……それでも私は、人を殺したことはありません。その澤田という人のことも知りません。」

 わずかだが、無感情の芦屋の顔に、怒りの感情が表現されていた。

「ママが一番大事な人って、どういうこと?」

 サクラは立ち上がって、芦屋の前にまわり、腕をつかんだ。

「サクラさんは、話し方も声も瑠璃子さんに似てますね。」

「あぁ、そっくりだ。」

 柳原が腕を組んで、即座に同意した。

「瑠璃子さんは私にいろんなことを教えてくれました。霊の扱い方は瑠璃子さんに教わった通りです。ただ良いイメージといわれてもわからないんです。霊が反応しませんでした。」

「遼ちゃんも、似たようなことを言ってた。」

「私にとって、美しいと良いイメージはイコールになりませんでした。バス事故のとき、私にとっての良いイメージを考えました。悪いイメージは病気になり、良いイメージは治癒力になるので。私にとって良いイメージは世界に一つだけでした。……瑠璃子さんです。今でも霊を移すときは、瑠璃子さんを思い浮かべています。ですから、私が移した霊で人は殺せません。」

 サクラが芦屋の腕をつかんだまま、泣き出してしまった。芦屋は決して良い人ではないが、間違いなく悪い人ではない。遼一のいう芦屋のイメージが、今ならわかるような気がする。

「風間さんが私に言いました。サクラさんのために霊を操れるようになりたいと。私も瑠璃子さんのために霊のことを知りたいと思ったので、風間さんの気持ちはよくわかります。私が風間さんに教えていることは、私が瑠璃子さんから教わったことです。だから風間さんは私にとって、瑠璃子さんの次に大事な人なんです。」

「芦屋さん。……ママが死んだとき、悲しくなかったの?」

 サクラは、下を向いたままだった。

「私は人が死んでも、何の感情も生まれません。瑠璃子さんが死んだと聞いたときも悲しいとは思いませんでした。ただ何をしていても、瑠璃子さんのことばかり考えてしまい、何も手につかず、集中できない日が何日も続きました。こんなことは初めてだったので、内村さんに相談しました。」

 サクラは立ってることもできず、泣き崩れてしまった。

「そういえば、芦屋さん。遼一に用事って、急ぎなのかい?」

 思い出したように柳原が言った。

「はい。今後の練習についてお話ししようと思ったのですが。個人的に連絡先を知らなかったので、ここに来ればサクラさんか源蔵さんに会えると思いまして。」

「教団の事務とか、それこそ内村先生に聞けば、すぐわかるだろう。」

 口が寂しくなったのか、柳原はおかずをつまみ始めた。

「ごめんなさい、遼ちゃんからメールが来てた。内村先生から連絡が来たので、教団に寄ってから行きますって。」

「遼一君が心配なので、教団へ戻ります。」

 メールの内容を聞いた芦屋は、腰を落としてサクラの手の両手で挟み、手の甲をポンポンと優しく叩いた。それから手を離し、玄関に歩き出した。

 サクラは、芦屋の不思議なしぐさに、ポカンとしていた。

「どうかしたのかい?」

 柳原は、何がそんなに心配なのか気になった。

「……サクラさんを襲ったのは、内村さんなので。」

 家の中が静寂に包まれ、降り出した雨音だけが聞こえてきた。

 

「遼一君、髪切ったんだね。とっても素敵よ。」

 日下祥子は、遼一を応接室に案内し、気になった遼一の髪に手を軽く触れた。

「あっ、ありがとうございます。」

 祥子の仕草に心臓が高鳴ってしまった。年齢は遼一と変わらないくらいだが、独特の色気がある。あまり面識はないが、内村先生の秘書のような仕事をしている。以前は、芦屋のヨガの生徒で、アシスタントもしていたらしい。

「先生、すぐ来るからね。」

「はい。」

 祥子の後ろ姿に、つい見とれてしまった。噂だが、初めて教団に来た頃は体型が今の二倍あったらしく、ヨガを始めてから急に痩せたらしい。遼一はその噂も含めて、祥子の身体に目がいってしまうのだ。

「遼一君、お待たせ。」

「こんにちは。よろしくお願いします。」

 遼一は、すぐに立ち上がり挨拶をした。

「まぁ、座って。今日は医者と患者ではなく、人間対人間の本音の会話をしましょう。最近の君は、ますます芦屋さんに似てきたから、本音というより本質が知りたいなぁ、と思ってさ。」

 遼一は内村の言ってる意味がさっぱり理解できないが、右手の歪んだ空気が見えた瞬間、自分の置かれた危険な状況だけは理解できた。

「先生も霊を操れるんですね。」

「遼一君は、この能力をどう思う?」

「サクラさんは、……。」

「賀茂家の末裔の話なんて、どうでもいい!僕は、君の本心が聞きたいんだ!」

 内村の目が血走ってる。正気には見えない。

「俺は、……こんな能力があっても、自分のためには何の役にも立たない。今はまだコントロールできるようになったけど、初めの頃は怖かった。」

 工場でのことを思い出し、寒気がした。

「僕はね。高校生の時、偶然身体に取り込んでしまって、偶然友達に移したんだ。死んだから、びっくりしたよ。君は教えてくれる人がいたからいいけど、僕は全部自分一人で調べた。だから最初に移した人が死んだから、この能力は人を殺す能力だって思うよね。」

「そうですね。俺が最初に移した相手も食中毒で入院したから、危険な能力だって思いました。」

 遼一の目が少しうつろになってきた。嫌なことを振り返ってしまった。

「一人目は食中毒か。もしそいつが死んでたら、君はこっち側の人間になってたかもね。そいつが憎いとか嫌いだったんだろ。」

 内村の言葉遣いが、段々荒くなってきた。

「そうですね。嫌いでした。そのあと、今まで俺をいじめてたやつを思い出そうとしてました。」

「遼一君。この能力は殺しても捕まらない。証拠が無いんだから。君をいじめてたやつを探し出して、復讐すればいいんだよ。悪いやつを懲らしめる。正義の味方。そんな能力を神様から授かったと思えばいいんだよ。」

 確かにそうだ。芦屋もそんなことを言っていた。悪いことをしたら、罰を受けるのは当然のことだ。そうじゃなきゃ、いじめられてたやつだけが損をする。

「僕に殺された相手だって、僕に殺されたなんて気づきもしないよ。そいつのために苦しんでた人はきっと喜んでる。殺す前に勝手に死んじゃった人もいたけどね。悪意のある罪びとは、殺したほうがいいんだ。死ぬまで人に迷惑をかけるから。」

「あっ。」

 優光の会に関係した呪い噂は、芦屋ではなく内村だったのか。

「失礼します。」

 日下祥子がコーヒーを淹れて、部屋に入ってきた。

「日下さんはね。芦屋さんのことが好きだったんだけど、どうにもならないよね、芦屋さんじゃ。そんなとき知り合った会社員の男に騙されてさ。本当は暴力団関係者みたいで。良くない仕事を、わかるでしょ、そういう人たちが女の人にさせる仕事を日下さんにさせようとしてたんですよ。ねぇ、日下さん。」

 遼一の知識では限界があるが、それでも仕事の中身は想像できる。

「警察に行ったら、家族がどうなっても知らないって脅されて、どうしていいのかわからないときに内村先生から連絡をいただいて。」

「遼一君なら、どうする。相手は暴力団。日下さんだけなら助けられても、そのかわりに家族が酷い目に合う。」

「えっ、……。」

 この能力があったら、殺す以外に方法はない。でも、それを口に出すのが怖い。遼一は、どんどん気分が悪くなってきた。

「じゃあ、森川サクラだったらどうする!」

「……!」

「森川サクラに、そんなことをさせてもいいのか!」

 内村は、遼一を追い込むように詰め寄った。

「殺す。……絶対に殺す!」

「当然だよね。言葉にするとスッキリするだろう。遼一君も僕も、大切な人を悪いやつから守れるんだよ。神様に与えられた能力があるんだから。そうだろう、遼一君。」

 遼一のようなタイプは、暗示にかかりやすいことを内村は知っている。

「はい。使わなければ、なんの意味がない。」

 内村の言っている意味が良くわかる。いじめられてた人間にしかわからない理屈かもしれないが、いじめられてる人間がいじめてる人間をどうこうできるわけがない。子供のときも思ってた。耐えて我慢するか、相手を殺すか。殺せないなら我慢するしかないんだ。

 でも、今なら殺せる。神様がくれたこの武器で。呪いに必要なパスワードを入力すれば、簡単に殺せる。パスワードは苦しみや死を想像すること。簡単だ。

「内村先生があいつを殺してくれたから!私は先生に救ってもらえたの。だから、先生のためなら何でもする。」

 祥子の恋愛対象は、そのときから内村になっていた。

「遼一君は、土御門家のことを知ってるのかい?」

「はい。」

 遼一の視線は、どこにも合っていなかった。

「この教団も本当の設立者は土御門家なんだよ。こんなのが全国にある。何のためにあると思う。」

「……。」

 祥子が内村の顔を見てから、遼一の身体にピッタリと寄せて隣に座った。

「コーヒー嫌いなの?」

 遼一は目の前に置かれたコーヒーを慌てて飲んだ。それは苦いだけの旨味を感じないものだった。

「……大丈夫です。」

「正直に言いなよ、遼一君。」

「……苦いだけで、不味い。砂糖とミルクが欲しい。」

 遼一は用意されていた砂糖とミルクをコーヒーに入れた。そして、もう一口飲んでみる。

「これなら、飲める。美味しいわけじゃないけど。」

「遼一君。遠慮して不味いコーヒーを飲む人生より、我慢しないで生きるほうがいいよね。」

「はい、先生。」

 今度は顔を内村に向けて答えた。

「この建物もそうなんだけど、奥にある本堂の裏に倉庫があるんだ。それは土御門家が管理していて、特殊な箱の中に霊をいくつも保存してる。研究施設のことは?」

「知ってる。何をしてるかは知らない。」

 遼一の言葉から、感情が無くなってきた。そして、またコーヒーを飲んだ。

「殺人兵器を研究してるんだよ。」

 内村は、とっておきの秘密を打ち明ける子供のような仕草をした。

「殺人兵器?」

 祥子が身を乗り出して復唱した。遼一は、そんな彼女を横目で見て、また顔を内村に戻した。

「土御門家は、僕たちみたいに霊を人に移す方法を研究してるんだよ。能力が無くても、道具を使う方法を。新堂さんが言ってた。もう少しで完成するって。」

「殺人兵器かもしれないけど、病気を治す研究かもしれない。」

 遼一は思ったことを、何も考えずに話している。

「土御門家の霊に関する資料をある程度読んだけど、呪いと祟りしかなかったよ。土御門家のパスワード知ってるから読んでみる?土御門家は、霊で人は殺せるけど、病気を治せるって知らないみたいだよ。殺すほうが自然なことだよね。」

 遼一も福井に行って、あの神社の霊に出会わなければ、良いエネルギーに変えられなかったはずだ。芦屋が素晴らしいと言ってくれた治癒力の高い霊。それが遼一の能力だ。

「芦屋さんは、末期がんも治したんだよ。すごいよね。今まで、たくさんの病気を治してる。……でも芦屋さんでは、日下さんを救えなかったよ。いじめられたり、騙されたり、脅かされてる人を芦屋さんは助けられないからね。遼一君、考えてみなよ。病気は誰のせいでもないけど、被害にあってる人は、必ず加害者がいるんだ。僕たちの力を使って、殺すべき相手がいるんだよ。」

 内村は、自分の言葉に酔っていた。ヒーローにはなれないけれど、自分は正義の味方なのだと自負している。

「先生は、芦屋さんが嫌いなのか?」

 遼一は頭がクラクラしてるのを自覚しているが、具合の悪さは消えている。ただ自分で質問してるのに、それを別の自分が聞いているような変な状態になっていた。

 祥子が遼一のカップにコーヒーを注ぎ、砂糖とミルクを入れた。

「遼一君、お代わりどうぞ。」

「……はい。」

 また一口、遼一はコーヒーを飲んだ。

「芦屋さんは、僕の大切な友達だよ。一生友達って約束してるんだ。芦屋さんのために森川瑠璃子の霊をここまで運んだんだから。」

 内村は遼一の様子を見ながら、会話を進めていた。

「……先生が盗んだのか。」

 遼一は、また好きでもないコーヒーを飲んでる。

「新堂さんと一緒にね。土御門家の研究施設に便利な道具があってさ。あの布の素材はすごいよ。だから新堂さんの言うように、間もなく完成するんじゃないかな。霊を人に移せる道具も。」

「あれっ、新堂さんって、あれも先生が殺したの?」

「そうだよ。土御門家の情報が入らなくなるのは困るけど、それ以上に困ることを言い出したからさ。仕方なかったんだ。……遼一君、起きてるかぁ。」

 コーヒーに仕込んだ薬の効力が気になってきた。祥子がインターネットで仕入れた非合法の睡眠薬なので、いまいち効果がわからないようだ。遼一の目は開いているが視線が定まっていない。

「遼一君、歩けるかい。霊の入った箱を見せてあげるよ。」

「……。」

 遼一は返事もせずに立ち上がり、フラつきながら内村の後をついて行った。

「日下さん、遼一君に肩を貸してあげて。」

「はい。」

 祥子は遼一の左側にまわり、腕を組んで支えた。

「ありがと。……日下さん、いい匂いがする。」

 薬のせいで、遼一は思ったままを言葉にしてしまった。

「遼一君。僕もねぇ、ナイフやピストルなんて凶器を使うなら、絶対に人を殺そうなんて思わないよ。……こんな能力を手に入れたら、絶対に同じこと……。」

「うるせぇな。俺も殺すって言ってんだろ!……うゎ。」

 何度も同じような話をする内村に、遼一が暴言を吐いた。その暴言に驚いた祥子が組んでいた腕を離し、遼一はよろけて通路に倒れ込んだ。

「ごめんなさい。」

 祥子が慌てて駆け寄ると、遼一は彼女の腕を借りて立ち上がった。

「なんか、力が入らなくて。」

 怪しい薬のせいとはいえ、普段おとなしい遼一の口から出る言葉とは思えない。本当に自分の買った薬を飲ませたのか、祥子は疑問に感じていた。

 本堂に入り、奥の扉の前に立つと、祥子は静かに遼一から離れて鍵を開けに行った。扉を開けたまま、さらにその奥の扉の鍵も開けて、また遼一のところに戻ってきた。

 三人で一番奥の倉庫と呼ばれる部屋へ入り、内村が部屋の隅のある箱の前に立った。

「これが森川瑠璃子の霊が入ってる箱。気をつけてね、高圧電流みたいに引き寄せられる反応をするから。下手に近づくと死んじゃうよ。」

 内村は、また歩き出して他の箱から霊を身体に取り込んだ。

「日下さん、しばらく遼一君とこの部屋に隠れてて。」

 遼一に霊を移した。

「念のため、ベニテングダケのイメージで霊を移したから、二時間ぐらいは体調が悪いかな。コーヒー吐くかもしれないけど、やさしく介抱してあげて。」

 内村はスマホの画面を確認して、部屋の扉を閉めて出ていった。

 二十畳ほどの部屋には窓もなく、小さな電球が一つだけの薄暗い不気味な空間だった。換気扇の音だけが鳴り響く。

 祥子は遼一を誘惑しろと、内村から命令されていた。森川サクラから切り離すために疑似的な既成事実を作ろうということだ。しかし霊に対する能力のない祥子でも、この部屋の異様さは感じている。

「うぇーっ!」

 遼一が吐き始めた。

 介抱するどころか、気味の悪い雰囲気に拍車をかけている遼一に、近づく事すら怖かった。祥子はこの場から逃げ出そうと後ずさりしたが、なぜか扉の鍵がかけられていた。遼一が正気でいればまだ安心なのだが、それでも誘惑する余裕などはない。恐怖で身体が震えてきた。

 吐き終えた遼一が口のまわりを手で拭い、フラつきながら近くの箱の蓋を開けて、中に腕を突っ込んだ。箱の中にあった霊を身体に取り込むと、箱をつかんだまま後ろに倒れ込み、箱が祥子のほうへ転がっていった。

「キャーッ!」

 つい、手で顔を覆いながら、祥子は悲鳴をあげた。

 遼一は深く深呼吸をして、ゆっくり立ち上がった。祥子にむかって、ボソボソと何か言っているが、換気扇の音にかき消されて聞こえなかった。

「遼一君。お願い、やめて、……殺さないで。」

 遼一の手が祥子の腕をつかむと、彼女はショックで気を失ってしまった。

 もう少しで下着が見えそうな祥子のスカートの裾を遼一は手でつまんだ。

 

 ハッとして、サクラは芦屋を追いかけた。

「私も乗せて!」

「私のバイクは、一人乗りなので……。」

「源ちゃん!ママのバイクの鍵ちょうだい!あと、私のヘルメット。」

 ドタドタと、柳原が鍵とヘルメットを持ってきた。

「サクラ、雨降ってるぞ!それにお前スカートだろう。」

「いいの、早く遼ちゃんのトコに行きたいの!芦屋さん、お願い。」

「わかった。俺も遠藤と連絡を取ったら、すぐ教団に向かう。芦屋さん、サクラと遼一のことを頼む。」

 また柳原は、芦屋に対して深々と頭を下げた。

「源蔵さん、サクラさんと風間さんのことは必ず守ります。」

 芦屋も柳原に対し、頭を下げた。

 二人を乗せたSR400が、小雨の中、水しぶきを上げながら走っていった。


 信号待ちの交差点で、サクラが大声で話しかけた。

「芦屋さん!芦屋さん!」

 芦屋は右手をハンドルから離し、後ろを振り返った。

「悪い人だって勝手に思い込んで、本当にごめんなさい!」

 芦屋は身体を正面に戻し、また右手でサクラの手をポンポンと優しく叩いた。

「……ありがと、芦屋さん!……やさしいね!」

 大きな声で、サクラはお礼を言った。

 ヘルメット越しに聞こえたサクラの言葉は、数年前に瑠璃子が言った言葉と同じだった。瑠璃子との思い出は、昨日のことのように鮮明に覚えている。

「芦屋さん、青だよ!」


 芦屋とサクラが優光の会に到着した。

 芦屋が事務所の扉をノックもしないで開けた。

「芦屋先生、どうされたんですか?」

 信者の女性が、内村に頼まれて電話番をさせられていた。

「内村さんなら、本堂で悩み相談をやってますよ。祥子ちゃんがしばらく戻らないから、留守番を頼まれちゃって。先生、このタオル使ってください。」

 どこかの引き出しから、新品のタオルを用意してくれた。

「ありがとうございます。風間さんを見ませんでしたか?」

 芦屋はそのタオルをサクラに渡した。

「祥子ちゃんと一緒にいるんじゃないかしら。それで内村さんが気を利かせたみたいよ。まぁ、二人とも独身だからね。私も一役買ってるわけですよ。」

 信者の女性は、内村の話を鵜吞みにして、誇らしげに語っている。

 芦屋が事務所を出ようとしたら、後ろにいたサクラが前に出てきた。

「祥子ちゃんって、どんな人ですか?」

 愛想よく笑ってるつもりらしいが、サクラの目は笑ってない。

「サクラさん、行きますよ。」

 珍しく、薄っすらと苦笑いの芦屋。

「先生のほうがよく知ってるわよ。可愛い教え子だったもんね。昔は太ってたんだけど、ヨガを始めてからずいぶん痩せたからねぇ。今の祥子ちゃんに迫られたら、遼一君なんて……。」

「サクラさん、早く行きますよ。」

 芦屋は、サクラの腕をつかんで事務所を出た。

「早く風間さんを見つけて帰りましょう。」

 サクラは立ち止まり、芦屋の手を振り払った。

「他の女と一緒にいたら?」

「……。」

 芦屋は答えずに、サクラを無視して本堂に向かった。

 答えない芦屋に対してサクラはモヤモヤしているようだが、そんなことより遼一の生死を確認するほうが芦屋にとって重要なことだった。

「もう!」

 曖昧な気持ちを抑えて、芦屋の後をついて行った。

 本堂の扉は開いたままになっていた。誰かの話し声が聞こえる。本堂を覗くと、悩みを打ち明けるというより、決起大会のように声を張り上げている。

「あんなやつは、死ねばいいんだ!」

「そうだ、そうだぁ!」

「何が霊能力者だ!龍玄は優光の会の敵だぁ!」

 やはり悩み相談ではなかった。男女合わせて八名の信者が内村の同意を得ようと叫んでいる。深夜のテレビ番組で、優光の会の噂についてのコメントをしたタレントの龍玄を糾弾していた。

「芦屋さん。」

 入り口にいる芦屋を見つけた内村が、わざとらしく声をかけた。

「芦屋先生!」

 信者たちが一斉に振り向き、芦屋に注目した。

 以前にもこんなことがあった。ジャーナリストの澤田京子が殺される前日も、内村たちはこんなことをしていた。内村にそそのかされた一部の信者たちは、芦屋が澤田京子を呪い殺したと本気で思っている。

「風間さんは、どこにいるんですか?」

 すべてを無視して、芦屋は内村に近づいた。すぐ後ろには、サクラもいる。

「遼一君なら、その奥の箱の部屋にいますよ。今は行かないほうがいいかなぁ。日下さんと二人っきりなんです。いい雰囲気だったから、僕は気を使ったんですよ。」

 返事もしないで、芦屋は奥にある部屋へ歩き出した。

「森川さん。」

 内村がサクラに近づいてきたが、すぐに芦屋が間に立ちはだかった。

「鍵、どうぞ。……二人とも裸かも。」

 サクラにだけ聞こえるように、うれしそうな声でつぶやき、戻っていった。

 内村の顔を見たときに恐怖で身体が震えたが、今は怒りが身体中に込み上げ、受け取った鍵を強く握りしめていた。芦屋よりも先に進み、奥の部屋を通り、さらに奥の部屋の扉をためらいなく開けた。

 そしてサクラの目に映ったのは、祥子のスカートの裾を手でつまんでいた遼一の姿だった。扉を開けた瞬間、二人は目が合った。

「あっ。」

「この、……バカ!」

 サクラは何も考えず、左手で思いっきり遼一の頬をひっぱたいた。

 身体に力が入らなかった遼一は、踏ん張れずにそのままの勢いで床に倒れた。ものすごく痛かったが、サクラに殴られる理由がわからなかった。

 芦屋が祥子のそばに駆け寄り、脈を取り、耳を鼻に近づけて呼吸を確認した。

「気持ちよく熟睡してますね。」

「あっ!違うんです。」

 遼一はいろいろと思い出し、薬の入ったコーヒーを飲まされ、霊を移されたことを説明した。

「気持ち悪くてコーヒーを吐いたら意識がだんだん戻ってきて、近くにあった霊を取り込んで自分の身体を浄化しました。日下さんも具合が悪そうだったから、霊を移したんです。そしたら気を失ったように倒れちゃって。」

「スカートをめくろうとしてたでしょ!」

 サクラがまた左手を高々と上げて、殴るポーズをした。

「違います!絶対に誤解です!」

 必死に言い訳をしようと思ったが、殴られてそこの記憶が飛んでる。

「……う、う~ん。」

「大丈夫ですか、日下さん。」

 目を覚ました祥子に、芦屋が声をかけた。

 遼一に治癒力の高い霊を移された祥子は、とても目覚めが良かった。気持ちよすぎて、自分がどこにいるのか思い出せない。どうして芦屋がそばにいるんだろう?遼一を殴ろうとしてる女は誰?……あっ!とりあえず、自分の役割を思い出した。

「遼一君が、無理やりキスをしたんです。そして殺すって脅かされて、スカートに手を……。」

 既成事実は無理でも、なんとか誤解を招くような言葉を並べた。おかげでサクラの左手が、もう一度遼一の頬にさく裂した。

「風間さんに霊を移されたから、気持ちよく目覚めたでしょう。彼の霊は治癒力が高いですから。」

 芦屋に嘘は通じない。どうしよう。内村は計画が崩れると、すぐにキレる。

 内村の本気で怒ってる顔が、祥子の顔に押し寄せてくる。

 祥子も、内村に暗示をかけられていた。

 命令に背くと、恐ろしいことが起こるという祥子の深層心理がザワついている。

「殺される?……私は、殺される!」

 祥子は、わなわなと震えだした。妄想の中の内村が襲ってくる。芦屋が祥子を部屋の外へ連れ出そうと手を伸ばしたが、内村に捕まると思い込み、すり抜けるように後ろへ逃げた。霊の入った和紙の箱を芦屋へ投げつける。蝋で固めただけの和紙の箱は、とにかく軽く、手で叩いただけで横倒しになった。

 祥子には見えないが、遼一たちには恐ろしい光景に映る。二個、三個と箱を倒していく祥子が次に倒した箱は、瑠璃子の霊が入っていた。

「えっ、……ママ?」

 奥から他の霊を押しのけるように、ゆっくり転がっている。他の霊に比べるとひと回り小さい。それでも芦屋と遼一には歪みの強い霊に見え、サクラにはいろんな色が循環して光る他に比較できない強さを感じる霊に見えた。そして賀茂神社の本殿で感じ取れた母親の存在がそこにある。

 とっさに芦屋は近くにある霊を身体に取り込み、身構えた。

「サクラさん、風間さん。急いで部屋の外に……。」

 瑠璃子の霊が、二メートル離れたところからサクラの口に吸い込まれていった。いや、吸い込まれたのではなく、瑠璃子の霊が自らの意思でサクラの口に飛び込んでいるように見えた。サクラは、遼一の上に倒れ、電池が切れたように動かなくなった。

 霊に意識は無いと、芦屋は瑠璃子に教わった。呪いや祟りは、すべて霊を操る人の仕業だと言っていたのに。

「風間さん、サクラさんが鬼に変わる前に部屋を出ましょう。」

「サクラさんは?サクラさんが鬼に!」

 サクラの身体中の血管が虫のようにうごめき、違う肉体に変化していった。

「うわぁーっ!」

 サクラの目が血で赤く染まり、遼一を睨みつけた。

 遼一はサクラを突き飛ばし、転がるように部屋の外へ飛び出した。芦屋は部屋の隅々まで視線を向けたが、祥子の姿を見つけられず、自分も外へ出た。おそらく箱の中に隠れたのかもしれない。

 

 遼一が本堂に出ると、柳原と内村が何やら言い争っていた。

「遼一、無事かぁ!……サクラは?」

「サクラさんに瑠璃子さんの霊が入ったので、霊を捕獲する布を持ってくるように、土御門家に連絡してください。」

 芦屋は、あえて鬼になったとは言わなかった。

「ダメです!鬼になったら、サクラさんの首を切るって遠藤さんが言ってた!」

 遼一は、その話を忘れていなかった。

「大丈夫です。そんなことはさせません。ただ身体から出した瑠璃子さんの霊が、またサクラさんの身体へ戻らないようにするためです。源蔵さん、急いでください。」

「……鬼?また、あの女か!」

 内村の頭に先日の悪夢がよみがえった。

 バキッ!バシャーン!奥の部屋から、何かが壊れるような鈍い音がした。

「来ますよ、風間さん。私は、できる限り身体の外に霊を出してみます。みなさん、危険ですから、ここから逃げてください。」

 芦屋は信者たちに呼びかけた。

 バンッ!バンッ!バンッ!バシャーン!

 鬼と化したサクラが扉を破壊して本堂に現れた。しっかり立っていて、動きも軽やかだった。これが完全な鬼なのか。

 信者たちが悲鳴を上げて本堂から逃げ出そうとすると、内村がそのうちの一人を捕まえて霊を送った。その場で血を吐き、倒れた。もう一人を捕まえようとしたとき、柳原が内村をぶん殴った。

「早く逃げろ!」

 柳原が信者たちに叫んだ。

 サクラは大きく動いたものに反応し、柳原に襲い掛かろうとした。しかし同時に芦屋も動いていた。サクラは柳原を頭から床に叩きつけた。一歩遅れたが、芦屋は両手でサクラの胸の下あたりを背中から狙った。サクラは少しよろめき、芦屋は反動が大きく宙に浮いた状態で押し戻された。サクラの身体から出た霊は、五十センチほどの小さな塊で、サクラの動きはまったく変わらない。

 その霊を内村が取りに向かった。大きく動いた内村をサクラは追いかけ、後ろから襟をつかみ、そのまま後ろに放り投げた。そして内村が取り損なった霊をつかみ、口から飲み込んだ。

「ガルルルルゥ。」と威嚇のような声を上げ、芦屋に飛びかかてきた。

「芦屋さん!」

 遼一が大きな声で叫ぶ。芦屋をアシストしなければいけないのに、怖さで足が前に動かない。

 芦屋は襲い掛かるサクラを受け止めたが、勢いを止められず、そのまま遼一の近くまで転がった。右足でサクラを払い除けようとしたが、左手で抑えられ、サクラの右手の爪が芦屋の目を貫こうとしていた。女性の力とは思えない。芦屋は両手で何とか耐えていた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 サクラが叫んだ。そして、サクラの目に涙があふれてきた。

「……ル、瑠璃子……さん?」

 鬼と化したサクラの形相に、瑠璃子の顔が浮かんできた。その涙が芦屋の顔に落ちると、不思議なことに弾けることなく芦屋の顔に吸収された。

「これは、……。」

 芦屋はそれが身体に吸収された瞬間、正体に気づいた。

 本堂に三人の男が駆け込んできた。一人は日本刀を持っている。そしてためらうことなく、サクラに切りかかっていった。

 日本刀に気づいた遼一が、無意識に動いた。何も考えることなく、サクラの後ろから身体ごと覆いかぶさったが、日本刀は止まることなく、遼一の背中に触れた。

 ボムッ!という破裂音とともに、遼一はサクラを抱きしめたまま部屋の端まで吹き飛んでいった。

「なぜ、邪魔をする!霊がいなければ、死んでたぞ。」

 日本刀の男はタレントの龍玄、土御門家の人間だった。遼一の身体は切られてはいない。刀は霊を払うための呪物だった。身体から霊を取り出す方法と同じで、お互いの霊が反作用する。しかし遼一から霊は出なかった。

「うぅっ。」

 遼一は相当な痛みとダメージを受けたが、治癒力の高い霊が身体の中にいるため、回復も早かった。しかしその霊もかなり消化している。

「それが呪物というものですか。でもその刀の霊力だけでは弱すぎますね。……風間さん、大丈夫ですか?もしサクラさんのために死ぬ覚悟があるのでしたら、お願いがあります。私がサクラさんから霊を取り出しますから、すべて取り込んでください。」

 芦屋はサクラにつかまれた右足の痺れを手で叩いた。

 意識がハッキリしていない遼一の片足をつかみ、サクラは遼一を芦屋に向かって投げ飛ばし、サクラ自身は日本刀を持つ龍玄を狙いに行った。飛びかかったところに龍玄が刀を上段に構え、一気に振り下ろした。刀はサクラの額の手前でつかまれ、刀の霊力をサクラに吸い取られていった。サクラの手から、血が滴り落ちている。霊力が無くなり、普通の刀に戻ってしまったからだ。サクラに睨まれた龍玄は、思わず刀から手を放してしまい、生唾を飲んだ。

 サクラは、霊力のない刀に興味が無かった。龍玄を睨みつけ、後ずさりした瞬間に襲い掛かった。

 そのとき、奥の扉のほうから銃声が響き、その弾丸はサクラの右腕を貫いた。

 全員が見たその先に、ニヤニヤと得意げに笑みを浮かべる内村がいた。右手に拳銃を握っている。

 サクラはものすごい勢いで内村に向かっていった。

 五発の銃声が聴こえた。腹部に二発と太ももに一発、あとの二発は外れた。サクラは動きを止めず、内村の右腕をつかみ上げ、右手を額に近づけた。こめかみに爪が刺さると内村は生気を失い、身体中の力が抜けた。魂を吸い取られてしまった。

 内村の後ろにいた祥子が悲鳴を上げ、倒れた内村のそばで腰から床に落ちた。

 芦屋は霊力の無くなった刀を手に取り、自分の身体から霊を移し、また刀を霊力のある呪物に戻した。そして祥子の魂を狙っているサクラの背中に切りかかった。

「霊が飛び出したら、確保して下さい!」

 芦屋の言葉に土御門家の三人が動き、特殊な布とその素材で作った手袋を用意した。

 バッバーン!凄まじい爆発音がした。サクラは横になぎ倒され、芦屋も反動で後ろに倒れた。そして刀が折れたのではなく、割れた。サクラに触れたとき、雷のように光り、縦にヒビが入ったのだ。

 サクラの身体から一メートルほどの霊が抜け出た。遠藤たちが、それを特殊な布に閉じ込めたが、サクラの顔は恐ろしい形相のままだった。まだ霊が残っている。サクラは抜け出た霊を探すも、特殊な布に隠されているため、感知できないでいる。サクラは腹部と太もも、一発目に当たった右腕から血を流している。立ち上がったが、フラフラの状態で遼一のほうへ歩き出した。遼一の魂を喰らうためだ。

「……サクラさん、……サクラさん!」

 遼一にも、それはわかった。それがサクラの望みなら……。

 ドンっ!という鈍い音とともに、サクラが遼一の前に倒れた。サクラの身体から、三十センチの霊と十センチほどの霊が抜け出た。芦屋は最後の力を使い切り、身体を引きずりながら遼一のそばまで来た。

「風間さん。その小さい霊は私が石に閉じ込めて、瑠璃子さんに渡したものなんです。うれしいな、瑠璃子さん、ずっと持っててくれたんだ。」

 芦屋の目から涙がこぼれた。初めて自分が瑠璃子に特別な感情を抱いていたことに気づいた。自然に優しい表情が生まれたが、芦屋にはもう話をする気力もなかった。

「サクラ!」

 柳原がサクラに駆け寄った。

 サクラの顔は、いつもの美しい顔に戻っていた。

 遼一は芦屋の腕を引っ張って、小さな霊に触れさせた。するとその霊は、紙が水を吸い上げるように、静かにゆっくりと芦屋の身体に入っていった。

「遼一!サクラは、死んだのか!」

 柳原が叫んだ。

「……死なせない、絶対に死なせるもんか!」

 遼一はサクラから抜け出た霊を取り込み始めた。

「うっ!」

 ずっしりと重さを感じる。経験済みだが、自分の能力を高めないと身体への負担が大きい。めまいがするほど、血圧が上がってるのもわかる。

「遼一、大丈夫か?鼻血が出てるぞ。」

 柳原が遼一の異変に気づき、心配になってきた。

 遼一はイメージを始めた。光り輝く苔、それを取り囲み神々しく輝く透明なもの。どんどん光が強くなってくると、またサクラの美しい顔が映し出された。遼一も芦屋と同じだった。彼女たちは良いイメージの象徴であり、特別な存在なのだ。

 サクラの呼吸は、感じ取れないほど弱くなっている。身体に銃弾を浴び、出血も早く止めないと危険だ。

 遼一は、サクラの口から霊を移した。

 移し終えると、サクラは咳とともに血を吐いた。そのあと震えていた身体が落ち着いてきたが、まだまだ呼吸も弱く、このままでは出血多量で手遅れになる。

「遠藤さん、それもお願いします。」

 特殊な布で確保した一メートルの霊も取り込むつもりだ。

「遼一、お前の身体が持つのかよ!」

「……わからない。でも俺にしかできないことだから。」

 そっと手を霊に近づけて、取り込み始めた。

「ぐぅ、……うっ!」

 まるで溶けた鉛を身体に入れているようだった。身体中が熱い。すべての細胞が焼けるように熱い。身体の中から、内臓をフォークでめった刺しにされてるような感触。さっきとは比べ物にならないほどの苦痛に耐えている。

「うっ、ぐっ、ぐぅ、……うぇっ!」

 遼一は、大量の血を吐き、特殊な布に倒れてしまった。

「遼一!大丈夫か!……熱っ!」

 柳原が遼一の身体の熱に驚いた。服の上からでもわかるくらい熱かった。

「ぐわぁーっ!」

 全身の力を振り絞り、遼一は雄叫びを上げた。痛みや苦しみを心から消し去り、眩い光の中にサクラを想い浮かべる。気がつくと、遼一の指先からも血が滴り落ちていた。

 四つん這いで後ずさりし、サクラのところに戻った。

「サクラさん、サクラ。死なないで……。」

 遼一は残った力のすべてを使って、サクラに霊を移した。

 しかし遼一の意識は、力が抜けるようにどんどん遠くなっていった。

 

 遼一は病室のベッドで意識を取り戻した。

「遼一!」

 目を開けた遼一に気づいた母親が、ナースコールで看護師を呼んだ。

 状況を把握しないまま、簡単な検査や確認作業などをひと通り済ませ、今後の検査の説明を受けた。

「まだ、安静ですからね。」

 医師と看護師が部屋から退出した。

「遼一!……良かった、生きててくれて。」

 母親の目は真っ赤だった。遼一を抱きしめたいが、指の一本一本まで包帯で巻かれている状態なので、身体に触れることを遠慮してしまう。

「あっ、サクラさんは?」

 

 一ヶ月で退院し、あとは自宅療養ということになった。仕事は退職し、身体と相談して職探しをすることにした。あばら骨が折れてたし、重度の打撲、胃に潰瘍もできていた。しばらくは定期的に検査をして、様子を見ることになっている。

 サクラと出会って二ヶ月ほどの出来事があまりに濃すぎた。遼一の人生を変えるには十分すぎる内容だった。

 退院後、遼一が最初にしたかったことは、サクラの墓参りだった。

 土御門家で管理する霊園があり、サクラはそこに眠っている。近くまでバスで行くと、土御門家の遠藤が遼一を迎えに来てくれた。簡単な挨拶だけで、あとは会話もないまま森川家の墓に案内されると、先に柳原が待っていた。

「柳原さん。」

「遼一、身体はどうなんだ?まだ、痛そうだな。」

 遼一の指の包帯を見て、柳原は切なそうに言った。

「全部の爪が割れたみたいで。もう、大丈夫です。」

 そういって、遼一は森川家の墓石に線香をあげた。手を合わせ、心の中でサクラと会話をしているようだった。

「……うっ、……ごめんなさい。」

 改めてお墓を目の前にすると、実感の無かったサクラの死を受け入れるしかなかった。悲しみが押し寄せてきて、あふれる涙をどうすることもできなくなっている。

「俺のせいで、サクラさんが。……ごめんなさい、ごめんなさい。」

 お墓の前で、土下座をするように泣き崩れた。

「遼一。」

 柳原は遼一の肩をつかんで引っ張るように身体を起こし、顔を合わせるようにまわり込んだ。そして目を開けるように身体を揺さぶった。

「お願いだ、遼一。頼むから、これ以上謝らないでくれ。お前は命がけでサクラを守ろうとしてくれた。あんなことは、誰にもできねぇ。……俺はな、サクラのために何もできなかったんだ。自分が情けなくてな。だからお前が自分を責めるほど、俺は自分が惨めになるんだよ。わかってくれ!」

「……はい。」

 コクリと頷いた。

「森川のじいさんも、お前に感謝してたよ。お前のおかげでサクラに会えたってな。いつでも遊びに来て、サクラの話を聞かせてほしいんだとさ。」

「はい。」

「それと、これを見てくれ。」

 柳原は墓誌を指さし、瑠璃子の隣に芦屋正太郎の名前が彫ってあることを伝えた。

「あっ、芦屋さん。」

「俺が頼んだ。身寄りもないって言ってたしな。」

 二人がお互いを大切に思っていたことは、芦屋の話を聞いてわかった。柳原もちょうどその頃、瑠璃子が家庭的な料理を教えろ!と言っていたので、きっと芦屋に食べさせるためだったのだろう。

「お前が気を失ったとき、芦屋さんが手を伸ばして、お前に霊を移してた。たぶん、それのおかげでお前は助かったんだよ。」

「やっぱり、これ芦屋さんだったんだ。でもどうして、大切なものだって……。」

「芦屋さんはあの場で絶命してた。内臓が破裂してたらしい。お前に託したんだろう。」

 我慢したがダメだった。今度は声を殺して泣き始めた。どんなに経験を積んでも、心はそんな簡単に成長するものではなかった。

「遼一。みんなの分も強く生きてくれ。」

 柳原の言葉に、遼一は黙ったまま頷いた。

「それと、……言いにくいんだが、内村は生きてたんだ。」

「えっ?……どうしてですか!」

「魂を喰らうってのは、ただの伝説かもな。実際のトコはわからねぇけど。……殺人罪で、裁判はこれからだ。まぁ、サクラが人殺しにならなくてよかった。お前も下手なこと考えるんじゃねぇぞ。」

 なんだか柳原の言葉が、遠い昔の話を聞かせれてるように聞こえる。遼一が病院で寝て過ごしていたひと月の間に、いろんなことがあったのだろう。

「正直、自分の手でぶっ殺したいけど、直接会う手段もないし。俺が今、内村を殺したら、内村と一緒なんだよね。内村が言ってた。ヒーローにはなれないけど、自分は正義の味方なんだって。自分勝手な言い分だけど。……遠藤さん、日本中にいるんでしょ、俺たちみたいな能力を持った人は。」

「はい。決して内村が特別なのではありません。能力に目覚めて、初めて霊を人に移したとき、必ず相手は病気になるか、病死するかです。ほとんどの感情は、恨みや憎しみですから。人は弱い生き物です。封印することもできず、感情に流されてまた誰かを殺します。すると自分に言い訳をするんです。悪い人間を殺しただけだと。そんなことが、千年以上も続いているんです。」

 土御門家という組織と賀茂家の末裔の存在理由は霊の研究と浄化なのだ。

「だから俺たちが、残された霊を浄化するんだよ。能力を持って生まれた人間が不用意に目覚めないためにな。」

 柳原が、自分たちの存在意義を主張した。

「風間さん、サクラさんの意志を継いでもらえませんか。」

「あっ、えっ?どういう意味ですか?」

 遠藤の提案が理解できなかった。

「後継ぎが途切れた場合、別の地域の賀茂家の末裔に移り住んでもらうので、その人のサポートをお願いしたいんです。」

 遼一に悩む理由や断る理由はなかった。サクラとのつながり以上に大切なことなどないから。身体の中にいる芦屋の霊も、それを望んでいるような気がする。それにこの人たちと一緒にいれば、偽りの正義の味方にならないと思ったからだ。遼一は自分の弱さを知っている。だからこそ、まわりにいる人間の影響力の怖さがわかる。

「遼一。これ、受け取ってくれ。森川のじいさんから、瑠璃子を頼むって渡されたんだけど、お前にやる。」

 柳原が手渡したのは、日本製の古い腕時計だった。

「壊れて動かねぇんだけどな。」

 遼一は腕時計を受け取り、左腕に着けてみた。何か儀式というかバトンを受け取った感じがする。すると遼一の意思とは無関係に、身体の中にあった芦屋の霊がその腕時計に入っていった。

 壊れているはずの時計が動き出した。

「ははっ、俺たちも壊れてる場合じゃねぇな、遼一。」

「でも時計のまわりの空気が歪んでて、時間が読めないですけど。」

 芦屋がそばにいる。そう思えるだけで、こんなに心強いことはなかった。

 

 誰にも感謝されることはない。

 霊が見えても、霊を操れても、日常生活には何の役にも立たない。

 この千年以上続く霊の浄化は、日本の各地でひっそりと行われている。

 歪んだ空気が見えたら、決して近づかないほうがいい。

 心に怨霊を宿すから。

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