内村の因果
内村は鼻歌を歌いながら歩いている自分に気づき、ヤバいヤバいと両手で軽く頬を叩いた。父親に紹介してもらった総合病院で働き、いずれ心療内科医として開業することを目指している。仕事を終えた内村は、今日からヨガ教室へ通う。どうしてわざわざこんなところまで、と言いたくなるほど場所が離れている。
やっとあの男に会える。そう思うと、心の弾みが顔に出てしまうのだ。
内村は何が原因かも思い出せないが、中学生のとき、クラスメイト全員に無視をされていた。殴られるわけでもないし、慣れてしまえば、ただの日常生活だった。その頃はイジメという認識もない。高校に入ったら友達ができた。中学のクラスメイトも数人いたが、話し相手もできたので学校が楽しくなった。
夏休み、友達と肝試しに行った。自転車で行ける距離の河川敷なのだが、そこには江戸時代、処刑場だった場所があるらしい。草が伸び放題で、古い立て看板に立入禁止と書いてあった。草をかき分けて入っていくと、高さ七十センチほどの石がお墓のように立っていた。
「ほら、内村!いけよ!」
あっちゃんと呼ばれるクラスメイトに、内村が背中を押される。言う事をきかないと蹴られるので、内村は恐る恐る前に出た。
「なにこれ!」
内村が驚いたのは、正面にある大きな石ではない。石の手前の左側に、草が不自然に踏みつぶされているところがあり、まわりの草に囲まれた形で、歪んだ空間が佇んで見えた。すぐに思いついたのは、異空間の出入り口。オカルト系の本で読んだ気がする。
「あっちゃん、これ!」
内村は歪んだ空間を指でさし、あっちゃんに事の重大さを伝えようとした。
「なんだよ、うっせぇな。」
あっちゃんは内村の背中を蹴飛ばし、退かすようにして進み、石にタッチした。他にいた二人もそのあとに続き、真似するように石に触る。
「うわぁ!」
あっちゃんに蹴飛ばされた内村の身体は、異空間の出入り口で前かがみに倒れた。
「写真撮ろうぜ。内村、早く来いよ。」
内村の悲鳴を無視し、使い捨てカメラで記念撮影を始めた。
それは異空間の出入り口ではなかった。その歪んだ空気が内村の身体へ流れるように浸透してきた。さっきの悲鳴は、これが原因だ。
「あっちゃん。僕、……おかしくない。」
身体の中にそれが入ってることを感覚としてわかる。でもなぜか、不快ではない。違和感があり、何が起きてるのか理解できない。ただ内村の心を支配しているのは恐怖だ。
「気持ちわりぃなぁ。」
あっちゃんが内村の写真を撮った。
内村の目が光り、内村ではなく、内村の中の何かが反応した。
「お前、呪われてんじゃねぇの。逃げろぉ!」
あっちゃんたちが、笑いながらゆっくり走り出した。
「あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん。」
内村の顔は暗くて見えないが、声が明らかに変だった。
あっちゃんは振り向き、内村の不可思議な表情に呆然と立ち尽くしてしまった。
「こいつ、本当に呪われてんのか!」
内村はあっちゃんの後ろから抱きつき、そのまま地面に倒れこんだ。他の二人は怖くなり、あっちゃんを置いて逃げて行った。
「あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん、あっちゃん。」
あっちゃんの顔は恐怖で引きつり、内村の顔は笑顔に変わっていた。
翌日、内村と他の二人は、警察の事情聴取を受けた。自宅の近くであっちゃんが死んでいたからだ。致命的な外傷もなく、解剖の結果で毒物の疑いがない限り、事件にはならない。しかしあの二人は内村が殺したと言っている。内村が幽霊に憑りつかれて、あっちゃんを殺したと警察にも言ったらしい。
もちろん誰も信じていないが、夏休み終了から内村の孤独な高校生活が始まった。
あっちゃんはどうして死んだのだろう?内村は不思議だった。あのとき内村は、自分の中に入ってきた何かを、どうやったらあっちゃんにも移せるかと考えていた。自分だけが嫌な思いをしたくなかったから。抱きついてるうちに、それがあっちゃんの身体に流れて行ったのはわかったけど、死んだ理由がわからない。確かに呪われてたかもしれない。あまりの恐怖に自分じゃない何かが動いていたから。身体の中にいる何かが原因で死んだなら、なぜ内村は生きているのか?
この事件をきっかけに、担任のすすめでカウンセリングを受けることになった。
数日たっても、アレは身体の中にいる。どうしたら身体から出せるのか、人に移せるのか。あっちゃんみたいに移すと死ぬのか。そもそもあの歪んだ空気はなんだったんだ。しかし今ではもう、まったくアレに対しての怖さは無くなった。
学校が休みの日、内村は歪んだ空間を探しに出かけていた。河川敷の処刑場跡にも行ったが、もう他には無かった。繁華街、墓地、公園、学校の敷地内などを探してみたが、簡単に見つかる気がしなかった。
しかしそれは、ある日突然に現れた。学校の近くにある交差点で、夕方、信号無視した車に同じ学校の三年生の女子がひき逃げされた。人通りも多かったのに車は逃走し、交差点は騒然となった。近くにいたサラリーマンが、その女子高生を歩道まで運んだ。近くの公衆電話で叫んでる人は、きっと警察や救急車に連絡しているのだろう。目撃者も大勢いるし、防犯カメラもあるから、犯人はすぐに捕まると思う。内村は、それを道路の反対側で見ていた。
救急車に女子高生を乗せた。内村の視線は女子高生ではなく、女子高生のいた場所を見ている。そこはサラリーマンが立っていて、警察に何か質問されていた。そしてその足元に歪んだ空気がゆらゆら漂っている。河川敷で見た歪みは微動だにしていなかったのに、道路の反対側にある歪みは何かに押されているようだった。風もないのに何かに影響されている。
「あれは、魂とか霊ってやつか?」
内村はボソッとつぶやいた。あきらかにあの女から抜けたものだ。ずっと見ていたから間違いない。しかしあの警官やサラリーマンが、内村のように近づいても身体に入らない。内村は観察を続けた。歪みの空間を次々と人が通り過ぎる。何かに反応してるときがある。ぶつかってるというのか、通り抜けないものがある。
歪みが動き出した。自分の意思ではなく、何かにぶつかったときの反動のようだ。まだ身体に取り込む人はいない。条件なのか?体質なのか?もしかしたら自分は特別な人間なのか?そんなことを思ったら、内村はニヤけてしまい、正面から歩いてきた子連れの主婦が気持ち悪そうに避けて通った。
内村は慌てて交差点を渡り、歪みを追いかけた。ゆっくりではあるが、無重力のように一定の方向へ進んでいった。何かに反応し、宙に浮いたりもするが、動いてるときのスピードは変わらない。レンタルショップを左折した?何かにぶつかった感じがしなかった。今の動きは変な気がした。稲荷神社の前を通り過ぎ、緩い坂道を登ってる?押されてるのではなく、何かに吸い寄せられているようだ。「うわっ、あの橋か。」と内村は顔を引きつらせて納得した。橋のたもとの窪みに、まるで腰を下ろすかのように歪みが落ち着いた。揺らぎもおさまった。内村が納得した理由は、よく幽霊が出ると噂されている橋だったから。
その日から内村は、学校帰りにこの歪みの観察を始めた。休みの日は、当然朝から観察している。何日たっても変わらない。近くを通っても歪みは無反応。自分が行ったら、また身体に入ってくれるだろうか?そんな不安と好奇心が心で揺れた。
世の中で一番苦手なタイプの男が来た。内村の真逆の世界にいる不良系の男。私服だと年齢不詳。橋のたもとに近づいた。そしてぶら下げていた右手から歪みが男の中に入っていった。全部ではなかった。それでも目の錯覚とは言えないぐらい、はっきり流れていくのが見えた。その男はまったく気付いてないのか、優雅にタバコを吸い始めた。
「身体の調子は、どっ、どうですか?」
内村は何も考えずにその男のところへ走っていき、我慢できずに質問した。
「あ~っ、なんだおめぇ、ふざけてんのか。」
なんの躊躇もなく、内村は腹部を蹴られ、そのまま倒れた。
「寄んな、ボケっ!」
覆いかぶさるように顔面を殴られ、急いでその場を逃げた。
内村は殴られ損とは思っていない。話しかける前の表情からは、身体に何かが入ってきたとは、微塵も思っていないことを確認できたから。自分とは違う。それに入った量も少なかった。この男が今後どうなるか?内村は気になって仕方がなかった。その男は待ち合わせをしていたらしく、派手な女が男の前に現れた。しかし男はすぐに体調を崩し、女が呼んだタクシーでどこかへ行ってしまった。
内村はそんな観察を毎日続けていた。学校に行ってる間とか、内村が観察していない時間に歪みは減っている。しかし何処からとも無く、別の歪みがやってきて一体化してしまう。歪みを吸収した人を九人確認し、うち三人は具合が悪くなるのを確認できた。他は一時間尾行しても変化なし。二人は見失った。死んだ人もいないし、内村のように吸収して驚いてる人もいない。
内村は高校時代に様々な観察と実験を繰り返し、歪みが溜まりやすい場所と人に歪みを移すコツがわかってきた。親身になって近づいてくる担任の先生の手を握り、何度も練習したのだ。自分の手に意識を集中すると、歪みが手に集まってくるのがわかる。あとは相手の身体に移すイメージだ。担任の苦しむ顔が頭の中で見えたとき、歪みが担任に移った。しばらくして担任は倒れ、病院に運ばれると死亡が確認された。
内村は、自分が特別な人間だと悟った。人を殺すための武器と使用するのに必要なパスワードを手に入れたのだ。
内村が高校生活で殺したのは、三人だけ。あっちゃんと担任の先生、そして内村を蹴って殴ったあの男。見つけるのに一年以上かかったが、きっちり霊を移した。手を握ったとき、また殴られたが。
それから数年後、医学部を卒業し、医師免許を取得。臨床研修医として二年経験を積んだのち、父親のコネで総合病院に勤めている。今も歪み探しと観察を続けていて、知らない地域をプラプラしていた。
そんなとき歪みを自分の腕に巻きつけている女と、その腕の歪みを凝視する細身の男を見つけてしまった。内村はいつも通り観察し、女を追跡したが途中の駅からオートバイに乗り換えたので見失った。いつものように数日間観察していると、毎週同じ曜日と同じ時間にあの公園のベンチで待ち合わせをしていることを発見した。男の方は職場もマンションもすぐにわかった。話の内容を知るために、内村はベンチに盗聴器を仕掛けた。あの歪みを霊と呼んでいること。女が男に霊の扱い方を教えていること。身体の中にいる霊を消せること。いろんなことがわかった。
ある日、その二人がバスに乗って霊を取り込みに行くことを知り、リスクが高いと思い迷ったが、当日に行くと決めた。内村は駅からバスに乗り、運転手の後ろに身体を小さくして座った。
交差点を左折し、コンビニの前を通り過ぎるとまもなく登り坂に入る。そこに目的地の一つ手前のバス停があり、なぜか内村は、そのバス停で降りた。
内村はニュースを見て、大興奮していた。予想外の大事故になったが、あの二人が生きていたからだ。運転中にスマホをいじっているのが許せなくなり、運転手だけ死ぬ予定だったが、なぜか大事故になってしまった。
観察と盗聴をしているうちに、この男と自分は通じるものがあると内村は思い込んでいた。知り合いになる手段として、この男の職場であるヨガ・スタジオへ通うことにした。事故から一週間後、男はすでに職場に復帰しており、女はまだ入院していることも調べてわかっていた。
体験レッスンにきた内村の身体は、運動とは程遠いポッチャリ体型だった。それなりの質の良いヨガウェアに身を包み、体型をごまかしているが、やはり異質の雰囲気を醸し出している。
レッスンが終わり、内村が男に声をかけた。
「内村と言います。ありがとうございました。」
「芦屋です。バスのドライバーに霊を移した方ですね。」
「わかってたんですか、驚いたなぁ。」
内村は照れくさそうに、しかも得意そうな仕草をした。
「そんなものを持ち歩いている方は、滅多にいませんから。」
芦屋は視線を内村の歪んでいる右手に向けた。
「芦屋先生。良かったら、少しお話しませんか。」
内村は確信した。間違いなく芦屋と自分は同じ周波数をもっている。あの事故のことで内村を怖がるわけでもなく、責め立てるわけでもない。
「いいですよ。明日でよければ、今頃の時間で。場所はお任せします。」
芦屋は、内村に名刺を渡した。
翌日、芦屋が呼ばれたのは優光の会の本堂だった。何もないただ広いだけの部屋。儀式を行うとき以外は、こんな状態になっている。
「ここは、僕の叔父が代表をしている宗教法人の施設です。名義は個人ですが、土御門家という組織が後ろ盾になってます。ここなら、どんな話をしても大丈夫です。早速ですけど、身体の中に入れた霊をどうするんですか?」
「……消します。瑠璃子さんはそのことを浄化すると言ってますが、要は身体の中にある霊というエネルギーを消してしまう作業です。」
勢いよく質問が飛んできたので、芦屋は少し戸惑ったが、丁寧に答えた。
「そんなことができるんですか。えっ、えっ、どうやるんですか?」
「私の場合、ヨガと同じで心を無にします。無に霊を落とし込むイメージをすれば、消えてなくなります。瑠璃子さんは、キレイな空や海を思い浮かべれば浄化すると言っていました。」
「瑠璃子さんっていうのは、一緒のバスに乗ってた人ですか?」
「……。」芦屋は、本筋から外れた話には反応しない。
なるほど、そういうタイプか。いいなぁ。おもしろいなぁ。
内村は、無というものを思い浮かべようとしたが、芦屋に対する興味が噴き出て無理だった。キレイな空や海など、考えるだけで嫌な気分になる。
「内村さんは暗闇や暗黒、……そうですね。ブラックホールをイメージして、そこに霊を吸収させましょう。」
芦屋は、内村の本質を見抜いている。
「はい、それなら。……あっ。」
思った瞬間に、身体の中の霊が消えた。
「一瞬でした。へぇ、こんなもんなんですね。」
「ゆっくり時間のかかる人もいるそうです。能力差があるようです。私はスーッと消えました。」
「何日も身体の中に入れておくと、体調が悪くなるので困ってました。」
内村にもルールがあった。この能力は正義のために使う。世の中にとって悪い人、自分にとって都合の悪い人、自分基準の善悪で判断し、霊を使う。だから、どうしても殺したい人がいる場合、取り込んだ霊を使いきれなくて、あと数人殺す人を探さなければいけなかった。たとえ正義のためとはいえ、内村自身も悪い人をわざわざ探すのはストレスだった。身体の中に霊が残っていると、霊を消費したいという衝動にかられてしまう。あのバスの運転手のときも、運転中のスマホいじりが許せなくなり、思わず霊を移してしまったのだ。
その後の会話で、内村は芦屋の特異な性格、人間性を理解し、とても興奮した。芦屋がいれば、自分が描いている理想の社会が作れるかもしれない。自分のように心が病んでいて、道に迷っている人たちを救える世界を。内村の歪んだ正義の理想郷に、芦屋のカリスマ性とその能力が欲しいと心から願った。
「あなたが霊を移すと、みなさん死んでしまいますね。」
芦屋が、内村の内面を指摘した。
「はい。……それは芦屋先生も同じでしょ。」
「そうですね、まだ殺したことはありませんが。」
内村は楽しくて仕方なかった。しかし今後のことも考えて、じっくりと芦屋の懐に入り込む。少しずつ自分の世界に誘導していく。
「僕は心療内科医をしてます。先生の役に立てることなら何でもします。」
内村の言葉の内面には、『最後は僕のためになるから。』という意味を含んでいる。闇を心に住まわせる内村に対し、芦屋は抵抗を感じることもなく、むしろ自分に近い親しみを持っていた。普通に生きていくことに苦しみを感じているのは、きっと内村も同じだと認識したから。
「初めてですよね。よろしくお願いします。内村と言います。」
内村から、瑠璃子に声をかけた。
「よろしくお願いします。森川です。」
内村が握手をしようとしたら、深くお辞儀をされてうまくかわされた。
レッスンが終わり、内村はいつものように芦屋と軽く会話をし、ヨガ・スタジオから出て行った。芦屋は約束をしたわけではないが、瑠璃子が待っていると思う公園のベンチに向かった。
瑠璃子は事故の話はしないと決めていた。芦屋に悪意がない限り、結果に対しての質問は無意味だと思ったからだ。間違いなく霊を移したが、全員を救うことはできなかったというだけ。芦屋はけっして悪くない。ただ一つだけ確認したいことがあった。
「正太郎君。バスの外に出て、霊を取り込みに行ったでしょ。そのとき、霊の近くにカラスがいなかった?」
「……いました。」
「そうか、やっぱりいたんだ。でも私が無事っていう事は、やっぱり迷信だったってことか。」
「……。」
「興味ないと思うけど、いろんな迷信があるのよ。」
「興味はあります。」
芦屋が、珍しく瑠璃子のほうに顔を向けた。
「あれ、興味あるんだ。カラス憑きって言うんだけど、カラスの念が入った霊を身体に入れると死ぬんだって。私も正太郎君も死んで無いけどね。」
「瑠璃子さんに移したのは、ドライバーの霊です。それが無くなったので外へ探しに行きました。カラス憑きの霊を全部使い果たしたら、そのまま気を失ったんです。」
「……そうなんだ。でも取り込んだ正太郎君が何でもないんだから、やっぱり迷信なんだよ。」
実際に見ず知らずの乗客なので、助かった人の名前がわかっても、カラス憑きの霊を移された人なのか調べようがない。やはり、いまさらの話でしかない。
ただこの会話を盗聴している内村は、カラス憑きの霊に興味津々だった。
「迷信の続きで言うと、呪物っていうのがあって、特定の物に霊を移したものがあるんだ。圧縮して移すんだけど、鏡とか人形とか刀とか。」
「圧縮というのは、どういう方法ですか?」
「私にもわからない。ただ霊はイメージで操るから、圧縮っていうイメージが霊とシンクロすればいいんだと思う。人それぞれだしね。正太郎君が霊を浄化するとき、無をイメージするでしょ。あれが霊を操るときのパスワードになってるんだよ。」
「霊を移すとき、悪いイメージと良いイメージで結果が変わると言っていたので、海や空も良いイメージにならないから、瑠璃子さんを想って霊を移しました。」
「へぇ、そうなんだ。」
そうか、良いイメージも主観だからなぁ。と考えていたら、『瑠璃子さんを想って』という言葉を聞き流せなかった。身体中が熱くなってきた。顔も熱い。おそらく顔は真っ赤になっていると思う。芦屋のことだから、特別な意味もないとわかってはいるが、身体が反応してしまったらしい。
「瑠璃子さん。」
「はい。」
「その霊が移された鏡とかは、どうなるんですか?」
普通に話を戻されてしまった。
「昔話や迷信だよ。呪いに使うんだけど、呪う相手の死ぬときの顔を想像して、その鏡に霊を移す。その鏡を何らかの手段で相手の寝室に置くと、その顔が近づいたときに霊が相手に移るんだって。」
瑠璃子は自分で話してるだけでも、ゾッとした。
「本当にそんなことができるんでしょうか。」
「迷信っては言われてるけど、私たちがしてることの延長線で考えたら、能力や想像力の高さがあれば可能かもね。圧縮した霊は自然発火するらしく、大火事の原因にもなったし、人の身体が自然に燃えたっていう記録も残ってるんだよ。」
盗聴してる内村は、この会話に参加したい気持ちを抑えるのが大変だった。
「たとえできるとしても、試すことはできないからね。」
「僕なら、できますけどねぇ。」
蚊の鳴く声よりも小さな声で、内村は浮かれ気分で瑠璃子に返事をした。
「生きてる人の霊は取り出せないんですか?」
「えっ?……生きてる人は魂で、亡くなって人から離れると霊になるって教えられた。魂を取り出す方法は知らないし、聞いたこともないよ。」
「誰から教わるんですか?」
初めて会った頃のように質問攻めにあってる。
「子供の頃はお父さんに教わったこともあったけど、ほとんどは土御門家の人かな。お父さんとは、いろいろあったから。」
瑠璃子は自分の口から、お父さんという言葉が出てきたことを懐かしんだ。何とも言えない複雑な感情が込み上げ、うつむいて涙ぐんでしまった。
芦屋が瑠璃子の手の上に自分の手を添えて、ポンポンと優しく叩いた。
「施設にいるとき、女性の方がこうしてくれたんです。」
「……ありがと、正太郎君。……やさしいね。」
土御門家?内村は、瑠璃子からこの言葉が出たことに驚いた。この女は何者なんだろう?土御門家は優光の会とつながりがあるから、瑠璃子の正体やこの能力の秘密もわかるかもしれない。しかし、それよりも気になることがある。あれだけ人に心を開かない芦屋が、瑠璃子に対し特別な感情を抱いていることだ。
内村は、瑠璃子が邪魔な存在だと気づいた。
一ヶ月たっても、内村は土御門家の人間に会うことはできなかった。叔父さんに、そういう力は無いらしい。叔父さん夫婦に跡継ぎがいないため、小さい頃から可愛がってもらっていた。内村の両親は、この夫婦のせいで息子の性格がねじ曲がったと思っている。もともと持っていた性格の異常性を叔父さん夫婦が開花させたのだろう。
本当は内村に優光の会を継いでもらいたかったのだが、医師免許を取得したときにその夢は諦めるしかなかった。それでも息子同然に育てていたので、教団内では存在意義を示していた。古くからの信者は、内村が次の代表になると信じている。
内村の叔父さんは、とても良い人だ。イライラするほど良い人で、間違って殺してしまいそうになるほど良い人だ。しかし殺さない。内村は、悪い人と自分にとって都合の悪い人しか殺さないとルールを決めたから。
叔父さんの代わりに、国会議員の政治資金パーティーへ出席することになった。汚職疑惑の有名な先生なので、握手する機会があったら、いつでも殺せるように霊を仕込んでおこう。
駅に向かう並木道。よく見ると犬の散歩をしてる人が意外と多いことに気がつく。犬の散歩をしてる人と犬と散歩をしてる人。
「わん!わんわんわんわん!」
遠くを見てたら、近くの小さい犬に吠えられた。歯をむき出しに今にも飛びかかってきそうな勢いだ。いや、飼い主がリードを強く握ってなかったら、とっくに噛まれてるだろう。犬にも霊を移せるのだろうか?でもこの犬の苦しい顔がイメージできない。この場合、飼い主を殺すのはルール的にどうなんだろう?考えるだけ時間の無駄だ。早くこの場から立ち去ろう。
駅前に賑やかな集団がいる。動画を撮ってるようだ。通行人が迷惑している。殺すか?いやいや、不自然に近づいている様子が動画に映っていたら、いろんな意味でリスクが高くなる。
霊を身体に取り込んだ内村は、こんな調子で選択肢と戦っている。今は霊の浄化を覚えたから、余っても寝る前に浄化してしまう。それでも正義のために悪を倒すという信念を貫くため、自分勝手に悪い人探している。
電車は、いつも通りに混んでいた。優先席に腕を組んでサングラスをしている健康そうな男性が座っている。芦屋は相手の顔を知らなくても霊を移せると言っていたが、内村は相手の苦しんでいる顔を浮かべないと、確実に殺せない。サングラスが邪魔だ。
「イメージかぁ。空だの海だのと、あいつらは殺す気がないんだなぁ。……」
内村は手で口を塞いだ。思っていることを何気に口から出してしまった。まわりの反応はなく、聞こえていないのか、無関心なのか、まぁいい。どうでもいい。
鮮明にイメージできる面白いもの。たとえば、昨日動画で見たベニテングダケ。あんな赤くてボツボツがついてる毒キノコを思い浮かべて霊が移ったら、中毒症状になるんだろうか?そう思ったら楽しくなり、内村の顔がニヤけてきた。
揺れたふりをして、倒れるように優先席の男の太ももに手を置いた。
「入った!あっ、いえ、ごめんなさい。」
わざとらしさ全開だったが、まさか本当に霊が移るとは思わなかった。逃げるように扉側に移動し、男の観察を始めた。すごい顔で睨まれたが、追いかけられることはなかった。それなのにニヤけが止まらず、顔を手で覆い隠しながら、観察を続けた。
五分後。電車内で男は唾を吐いた。口の中が気持ち悪いのか?ベニテングダケの症状なら、とんでもない旨味成分を感じている可能性がある。首を傾げて、生唾を味わってる。しばらくしたら、嘔吐が始まった。まわりが悲鳴を上げる。お腹を押さえ苦しそうに横たわる。サングラスが落ちた。そして、うっとりした表情で何かを見ている。幻覚症状か?こんな大事な時に、電車が駅で停車した。
誰かが大声で駅員を呼び、観察用のベニテングダケ男はどこかに連れていかれた。
他の駅員がその男のいた周辺をきれいに掃除し、電車はまた走り出した。見知らぬ者同士が、あの男を話題に盛り上がっている。実験は成功だが、あの駅員を呼んだ女だけは許せない。
「あのぉ、これ。」
内村は自分のポケットから出したハンカチを持って、駅員を呼んだ女の肩を軽く叩いた。もちろん、その女の苦しむ顔をイメージしながら。
「いえ、ちっ、違います。私のじゃないです。」
振り返り、内村の顔を見た途端、「うわ、さっきの気持ち悪い男。」と意味不明にニヤけてた男だと気づいた。その反応は露骨に顔に現れ、ますます内村を不快にさせた。
「あっ、そうですか。」
ハンカチをポケットに戻し、内村はまたさっきの扉側へ戻った。
しばらくしても女に変化はなく、内村は観察することに飽きてきた。別に苦しむ様子をみたいわけではない。発症に個人差があるので、死んだかどうか確認できないことが多い。担任の先生はすぐに倒れたけど、あっちゃんは何時間も経ってから家の近くで死んでたし。
「こいつもベニテングダケにすればよかったなぁ。」
普段から独り言の癖があるので、つい心の声が口からはみ出てしまう。
駅を出て、パーティー会場のホテルに向かった。受付を済ませて会場内に入り、来場している人を見渡した。そういえば、叔父さんとの付き合いや関係などを聞いていなかった。美味しい料理を食べて、帰ってくればいいと言っていただけ。しかし実際は来場数に見合った料理などなく、そこに群がる元気も食欲もないため、椅子に座って苦痛な時間を過ごす羽目になった。
内村は、ベニテングダケをイメージするときに本数も影響するのかが、気になり始めた。一本なら軽い中毒。二、三本なら重症になり、たくさんイメージしたら死んでしまうとか。考えていたら、また楽しくなったきた。
議員本人と接する機会はなさそうだ。自分の金ではないが、内村には何のメリットもないこの無駄な時間の代償を誰に払わせればいいのか。帰り際、秘書らしき人に近づくことができたので、握手をして帰った。イメージしたのは、山盛りのベニテングダケ。
翌日、あの秘書は食中毒で入院した。ニュースにもならない程度で、叔父さんに「お腹、大丈夫か?」と聞かれ、秘書が食中毒で入院したから心配して連絡をくれた。イメージした本数と症状は無関係のようだ。
内村にとって、興味深い経歴を持つ患者が診察に来た。そういうときに優光の会を利用する。病院では診察時間が限られ、親身になってじっくり話すこともできないから、プライベートの時間を使っているのだ。前科のある人と知り合うチャンスは滅多にないので、個人的に力になりたいと説き伏せた。
高梨大輔は過去にナイフで人を刺し、逮捕歴があった。詳しいことは、あえて聞かないようにしている。本人が悩んでいるのは、吐き気や幻聴、不眠症。職場でのストレス。そして別れた妻や娘のこと。
「社長にも感謝してるし、働かせてもらってるだけでありがたいと思ってます。」
高梨は、自分の症状の意味が分からず、それに対しても悩んでいた。
「焦らないでくださいね、高梨さん。ゆっくりでいいですから、全部吐き出してください。」
病院での診察は継続しており、教団内でのカウンセリングは内村の判断である。
「自分でも気づかないところに、本当の原因が隠れていたりするんです。」
高梨のカウンセリングも最初は月に二回程度だったが、それがいつしか毎週になり、高梨の様子もおかしくなっていった。教団に来ると、まず内村と握手をする。十分ほど時間が経過すると、吐き気をもよおしトイレに駆け込む。適当な薬を飲ませてからカウンセリングが始まり、しばらくすると幻覚症状に陥る。内村が別れた妻の話をすると、ずっと泣いて謝っているし、子供の話も同様だった。
困っている。嫌がらせを受けている。殺されるかもしれない。泣いている。怯えている。苦しんでいる。……助けられるのは、あなただけだ。そんな言葉を潜在意識に落とし込む。幻覚から現実に戻ると、何事もなかったようにスッキリした顔になっていた。最初の頃は幻覚症状のときの会話を覚えていたが、もう今は現実の記憶には出てこなくなった。
「そろそろトリガーを設定しようかな。」
内村は、数ヶ月かけて高梨を洗脳していた。何人かに実験したところ、死亡者ゼロで、吐き気の症状すら出ない人が約半分もいた。しかも治験者のほとんどに陽気な幻覚症状が発症し、まるでただ酒を飲ませた気分だった。あの議員秘書のように入院した人もいない。幻覚後の気分の悪さに個人差はあったが、少し休めば治る程度だった。記憶もしっかりしてる。しかし高梨と他二名だけが、怯えたり、悲しそうな症状に陥り、症状が治まっても現実と幻覚の意識を彷徨っていた。選考基準は、まわりを取り巻く環境を考慮し、高梨が選ばれた。
「せめて智子に、お金でも残せてやれたら。」
前に高梨が、そんなことを言ったことがあった。
「お願いを聞いてくれたら、五千万円用意しますよ。奥さんと娘さんのために。」
いろんなタイミングで尋ねてみて、まともな反応なら冗談と、変な反応なら本当だと答えた。
幻覚症状のとき、ある女性の写真をテーブルに置く。妻や娘の不幸と関連付けるように仕向けた。この女のせいで、この女がいなければ。そんな言葉が高梨の口から出るようになると、内村はその言葉に合わせて大きく頷く。
「そろそろかなぁ。」
内村は、高梨をとにかく観察していた。内村が待っていたのは、高梨から沸き起こる焦燥感。
「先生、俺、智子と美里のためなら、何でもするよ。」
高梨はそう言うと、テーブルに置いてあった女の写真にナイフを突き刺した。理性を失った表情と握っているナイフすら粉々にしそうな力強さに、内村自身も恐怖に怯えるほどだった。
別れた妻と娘、幻覚症状、そして写真の女が結びついた。
もうその頃、高梨は勤めていた会社を辞めて無職になっていた。
ヨガのレッスンが終わると、瑠璃子は公園のベンチで待っている。約束をしているわけでもなく、芦屋が来るのを待っている。もちろん用事があれば、公園に寄り道しないで駅へ向かう。
近頃は、瑠璃子のヨガに関する質問や日常生活の愚痴などが多く、芦屋が聞いてこなければ霊の話題は少なくなっていた。そんな他人が聞いてもつまらない会話を内村は、イライラしながらも欠かさず盗聴している。すべては観察と実験のために。
「娘が今度、歌番組に出るんだけど、……興味ないもんね。正太郎君。」
「テレビが無いので、すいません。」
芦屋は興味を示さないが、盗聴している内村は興味津々だった。
「正太郎君って、断食とかもするの?」
「しません。」
不思議なことに、お互いの連絡先を知らないまま月日を過ごしている。そのために分別をわきまえた絶妙な距離感を保っているのかもしれない。瑠璃子としては、芦屋に霊の浄化を手伝ってもらえたら、と思っている。機会があれば、柳原にも紹介したい。しかし芦屋にその気があるとも思えない。
「あの、瑠璃子さん。以前に私の身体から直接霊を取り出したでしょ。私も実践したいのですが。また教えてください。」
「いいわよ。そっか、この間は教えるって言ったのに、私が実践して終わっちゃったんだね。」
瑠璃子は自分の胸の下あたりに左手を添え、説明を始めた。
「身体に取り込んだ霊はここを中心にしているの。それは大きさに関係なくね。その霊の中心にあなたの手に集めた霊をぶつければ、反動で外に飛び出すわ。磁石のプラス同士を合わせた感じかな。霊の強さに反発も比例するから、本当に気をつけないと死ぬよ。冗談抜きで。」
「……はい。」
瑠璃子は、芦屋のためらうような返事に、クスッと笑ってしまった。
「来週、天気が良かったら、賀茂神社で練習しようか?」
「はい、お願いします。」
内村が待っていたのは、この約束だった。来週、天気が良ければ決行だ。
瑠璃子はレッスンが終わると、電車ではなく、オートバイで帰宅した。自宅近くの国道沿いにあるバス停は、駅から三十分おきに運航している。バス停は国道から瑠璃子の自宅へ分岐するすぐそばにあり、古くて狭い道路が賀茂神社方面と瑠璃子の自宅方面に別れ、周回できるようにつながっている。
瑠璃子がヨガ・スタジオから出るのを確認すると、内村が後部座席に座る高梨へ声をかけた。
「じゃあ、ちょっと行ってきます。」
高梨は返事もせず、うつろな顔で何が映っているのかもわからないバックミラーを見ていた。
「今からだと、十分足止めすれば、バスに乗り遅れる計算だな。」
芦屋を足止めするためのネタは用意してある。毒キノコのベニテングダケをイメージして霊を移すとどうなるか?今日のために我慢して話さなかった。
時間を確認して、ヨガ・スタジオから車に戻り、高梨に霊を移して車を出した。急いで賀茂神社へ向かう。十分経過で、高梨が吐き気を催すが、本当に吐いたのは数回程度だ。メカニズムはわからないが、吐かないようになったら、幻覚症状もきつくなった気がする。
「……先生、どこに行くんですか?」
高梨は意識を制御できないようだが、吐き気のおかげで車に乗っていることを思い出した。
「高梨さんが連れていけって言ったんですよ。もう、すぐですからね。」
「……そうなんですか。」
予定より早く国道からの分岐のバス停に到着した。これから二十分後に来るバスに芦屋は乗っていない。その次のバスになるはず。内村が今まで観察していると、瑠璃子は芦屋が到着する予定のバス時間よりも三十分以上前から神社に入り、境内の外灯をつけたり、事務所のような建物の電気をつけたりしていた。
念のため、十分ほど様子をみてから、神社に登る階段の入り口付近に車を止めた。高梨を連れて時間調整をしながら、ゆっくり階段を登る。高梨は足がもつれそうになりながら、内村に支えられて境内の入り口近くまできた。内村は高梨が着ていた薄手の綿シャツを一度脱がせ、上から羽織るようにかけた。幻覚症状の前に、必ず耳の周辺を手で払ったり、目で何かを追いかけるような仕草をする。
「そろそろかな。」
内村は、刃渡り二十センチほどの先の尖ったナイフを高梨に握らせた。そのナイフはアパートから持ってくるように高梨に指示したものだった。
「ほらっ、待ってますよ。」
高梨の足はもたつき、ふらふらしながら、瑠璃子に近づいていった。
しかし境内の入り口から数歩進んだときには、瑠璃子に気づかれ、警戒された。
「……警察、呼びますよ!」
高梨の耳には、何も聞こえない。そのまま二歩、三歩、ふらふら進んだと思ったら、力尽きたようにスーっと顔から倒れた。
「えっ、死んだ?」
声には出さなかったが、想定外の展開に内村も唖然とした。すぐさま冷静さを取り戻し、いつでも逃げられるように息を整えた。
「……。」
突然倒れた男に、瑠璃子は慌てて駆け寄った。
「……うぅ、うっ。」
高梨は死んでなかったが、苦しそうに唸っている。瑠璃子が救急車を呼ぼうと、ポケットから携帯電話を取り出した。ボタンをタッチした音に高梨が反応し、倒れたままの状態で顔だけ正面を向いた。
高梨はうつろな目で泣いていた。その顔を瑠璃子が見たとき、内村の設定したトリガーが引かれた。高梨の目の前に、あの写真の女がいた。うつろだった目が見開かれ、血走り、気がついたときにはナイフが瑠璃子の胸を刺していた。
瑠璃子の手から携帯電話が地面に転がり、一瞬、頭が真っ白になったが、この男は誰だ?いや、知らない。私は死ぬのか?いろんなことが頭を巡った。
「あっ、……サクラ。」
瑠璃子の目から涙があふれてきた。
「お前のせいで、……お前のせいで智子は!」
高梨は狂ったように瑠璃子を刺した。自分の別れた妻子の恨みを晴らすように。
内村は怖くて目を逸らしていた。しかし設定したスマホのタイマーが鳴ったので、高梨の方へ歩き出した。
高梨はナイフを刺したまま、動かなかった。
「高梨さん。行きますよ。」
内村が声をかけると、高梨はボソボソと何かを言っていたが、聞き取れなかった。ナイフから手を放し、立ち上がったとき、肩にかけていた綿シャツがそのまま地面に落ちた。
「……先生、俺は誰を殺したんですか?」
うつろな目で高梨は言った。
「知りませんよ。高梨さんがここに連れて来いと、私に頼んだんですよ。」
「……そうなんですか。」
「はい。では、警察に行きますか。」
二人は、境内から出て行った。
誰もいないのに、瑠璃子の身体が動き出した。しめ縄で仕切った結界の領域に入っていく。そして瑠璃子の身体から霊が抜けていった。
芦屋が霊を移した石、美しい炎が揺らめく石に瑠璃子の霊が接触した。その瞬間、凄まじい光を放ち、無音だったが爆風でまわりの草をなぎ倒した。
内村の車が国道に出て左折すると、バスがウインカーをつけて停車する姿がバックミラーに映った。計画通りなら、芦屋が乗っているはずだ。内村はそれを確認することなく、車を走らせ、憔悴しきった高梨に最後の暗示をかけた。
「高梨さんは人を殺したので、これから警察に自首します。賀茂神社で人を刺した。と言ったら、あとは一切話をしないでください。私のことも内緒です。いいですか、賀茂神社で人を刺したこと以外は、何も話さないでください。その約束が守れたら、あなたの大切な智子さんに五千万円を渡します。」
「はい、話しません。智子のために。」
その会話を何度も繰り返した。
「はい。……智子のためなら、なんでもするよ。」
よし、入った。内村は何かを確信すると、前もって調べた防犯カメラに映らない場所で高梨を降ろし、二人は別れた。
高梨は、何も話さなかった。しかし取り調べ中に森川瑠璃子の写真を見た途端、人が変わったように暴れだした。警察がいくら調べても、高梨と瑠璃子の接点は見つからない。催眠術にかけられてるのでは?と若い刑事が言っても、誰も取り上げることはなかった。聞き込みの成果で、高梨が心療内科に通院していたことがわかり、すぐに刑事が内村の在籍する総合病院を訪ねた。
「高梨さんは、奥さんと娘さんの心配をしてましたねぇ。それと前科があることで、いつもまわりの視線を気にされてました。」
「先生から見て、気になることや変わった様子はありませんでしたか?」
「ここは心療内科ですから、何とも言えませんが。ただ鬱の傾向が強くなっていましたから、精神科の先生に相談しようかと思っていたところです。ご自分からお話しをされる方ではないのですが、私の質問にはちゃんと答えていましたよ。」
「そうですか。」
刑事からのある言葉を待っていたが、なかなか切り出さない。それどころか、このまま帰りそうな雰囲気だ。
「あの、刑事さん。もし私でお力になれるようでしたら、一度面会させていただきたいのですが。どうでしょうか?」
内村から切り出してしまった。本当は刑事からの提案が理想だったのだが。
「よろしいんですか?」
刑事の方が内村の言葉を待っていたかのようだった。内村としては、半ば強引に連れて行かれるぐらいの想定だったのが、現実はこんなにも慎重な対応だったとは。
「お役に立てるのでしたら。」
「では、上の許可を取ってからになりますので、後日改めてご連絡させていただきます。ご協力、ありがとうございます。」
内村は、森川瑠璃子の写真ぐらい見せられると思っていたのに、話も出ないことが逆に不思議だった。
後日、面会に訪れた内村は、取調室に通された。前もって刑事には、質問と答えには治療目的の非常識に聞こえる内容も出てくるので、記録には残さないようにお願いした。内村にとっての保険でもある。
「高梨さん、久しぶりです。身体の具合はどうですか?」
高梨はゆっくり顔を上げ、口を開こうとした。内村は高梨の目を見て、顔を小さく横に振った。
「ダメですよ、智子さんのためにも頑張らないと。お話しするのが無理なら、首を横に振ったり、縦に振るだけでいいんです。」
内村の言葉の反応し、高梨は開きかけた口を閉じ、生唾を飲んだ。そして、顔を小さく縦に振った。
「おっ!」
内村の後ろにいた刑事が、高梨の反応に驚き、声を出してしまった。
「智子さんと里美ちゃんのことは、心配しなくて大丈夫です。約束します。」
高梨は、歯をかみしめて何度も顔を縦に振った。
「森川瑠璃子さんを知ってますか?」
不思議そうな表情で首を傾げ、それから顔をゆっくり横に振った。
「ダメです、ダメです。やめてください。」
後ろの刑事が動き出したので、慌てて内村は刑事を制止した。瑠璃子の写真を出されたら、自分まで危険にさらされる。学習能力は無いのか?と言いそうになった。
「そういうのは、別の機会でお願いします。今は違いますから。」
「すいません、気をつけます。」
刑事の焦りを感じるが、内村にとってはどうでもいいことだ。無難な質問を続け、様子を探った。どうやって高梨の身体に触れるか。机の上に手を上げてくれればいいのだが、力の抜けた手は下に落ちたまま動くことはなさそうだ。
「いつもやってることなんですが、身体に触れてもよろしいですか?」
「大丈夫ですか?いいですけど。危険だと思ったら、すぐに逃げてくださいね。」
当たり前のように言うと、そういうものだと思ってしまうようだ。
内村は立ち上がり、静かに高梨に近づいた。優しく肩に触れ、苦しむ顔を想像しながら霊を移した。
「高梨さん、また来ますね。」
そういって、肩から手を離し、帰ろうと扉のほうへ歩き出した。
「あぁ、……先生。」
うつろだった目が、上目遣いに内村の背中を凝視した。
「あの女は死んだけど、もう一人は何回刺しても殺せなかった。」
時間が止まったように取調室の空気が凍りついた。刑事が内村に何かを求めているが、内村もさすがに冷静ではいられなかった。何の合図というわけでもなく、ブルブルと顔を横に振った。刑事がそれをどう受け取ったのかわからないが、高梨の前に立って、机をぶっ叩いた。
「どういうことだぁ!」
その言葉に、高梨はまた下を向いてしまった。
その先の展開を知らされないまま、内村は追い出されるように取調室を出た。やっと話したと思ったら、不気味な後味を残し、犯人は捕まっているのに全貌が白紙のままだ。その白紙に、もう一人というオマケまでついた。
そしてその三時間後、すべての謎を残したまま、高梨の心臓が止まった。
瑠璃子が殺されて五年が経過し、芦屋は勤めていたヨガ・スタジオを辞めて独立した。実際は資金面から運営まで内村が手配し、芦屋はインストラクターに専念している。しかも宗教法人優光の会の建物内。三十人が楽にヨガを学べる広さがある。
教団の信者はお布施という形で教団にお金を払い、間接的に芦屋に支払われる。通常の生徒はレッスン料として直接芦屋に支払い、教室の使用料を芦屋が教団に支払う。実際は、教団の事務員が窓口になり、芦屋は何もしない。
内村も、芦屋のヨガ教室が落ち着くのを見計らって、ウチムラ・クリニックをオープンした。興味のある患者を見つけると、言葉巧みにヨガ教室へ誘い、みんなで悩みを打ち明けるようになると、教団の信者になるという図式。
広報担当の北川は、テレビ番組の制作会社で、バラエティー番組のディレクターをしていた。内村が目をつけ、信者になったのを境に教団の職員として迎え入れた。優光の会のYouTubeの収益にかなり貢献している。
土御門家が設立した教団は、光の会というグループになっている。優光の会・善光の会・愛光の会など。名前を見れば、土御門家が関係していることがわかる。それは全国に広がっていて、ほとんどが赤字経営になっている。内村にとって、土御門家の教団設立は意味が分からない。必ず理由があるはずだと、秘密裏に探っている。
五年前の内村は、相手の苦しむ顔をイメージしながら、霊を移して殺していた。そのためには、相手の顔を知らないと殺せなかった。ベニテングダケをイメージして移すときは、相手の顔を知らなくてもいい。知識として少し間違っていたところもあったが、その間違ったままの症状が相手に反映された。ただベニテングダケは、軽い食中毒に幻覚のオマケがつく程度の症状で、けっして死に至ることはなかった。次に目をつけた毒キノコが、ドクツルダケ。『殺しの天使』という別名でも呼ばれることもあり、内村の興味を引いた。真っ白い美しいキノコで、症状は数時間で下痢や嘔吐。しかし一旦治ったとみせかけて、数日後に胃腸からの大量出血、内臓細胞が破壊されて死亡という性格のねじ曲がったキノコ。おもしろくて何人かに試したが、目の前で血を吐かれ、その場で死亡。最悪の場合、その血が内村めがけて飛んできた。イメージが霊に伝わらないので、封印した。
芦屋は、相変わらず無言でヨガのレッスンをしていた。以前と違うのは、呼ばれれば返事をするようになったこと。しかも質問されたり、相談されたりすれば、最低限ではあるが答えるようになった。
「先生。」
「はい。」
芦屋は生徒のそばに歩き出す。
芦屋とは別にレッスンのポーズを誘導する人がいる。教団の職員で、日下祥子という女性だ。芦屋が教団でヨガを始めたときに、教団の信者だった彼女もヨガを始めることにした。始めたときは、かなりふくよかな体型だったのが、けっして痩せてはいないけど、今はウエストの位置がわかるヨガウェアを堂々と着こなしている。
「先生、呼吸が苦しいです。」
「はい。背中を丸めないようにしてください。無理に曲げなくていいですよ。呼吸は、少しずつ長く吸って、少しずつ長く吐きましょう。……納村さん、その痣はどうかされたんですか?」
納村みどりという女性の左のおでこに、髪の毛で隠れていた痣を芦屋が見つけた。
「ぶっ、ぶつけたんです。家で転んじゃって。」
「そうですか。早く良くなるといいですね。」
芦屋は、そういって納村の肩に少しだけ触れた。霊を移すために。
ヨガ教室に通っている人がケガをしていたり、体調が悪かったりしたときは、できる限り霊を移すようにしている。毎日持ち運べるほど、その辺に霊が落ちているわけではないので、身体にストックしているときだけ。意識して探すようになると、霊の溜まりやすい場所がわかってくる。自然に瑠璃子の手伝いをしていることになっていた。
芦屋は、納村に喜んでもらいたいわけではなく、感謝されたいわけでもない。瑠璃子が望んだ霊の操り方が、こういうことだったからだ。
ヨガ教室の前を通り、建物の奥に進むと本堂がある。メインは教団の儀式、普段はイベントなどの行事に使用されることもある。防音の仕様になっていて、信者個人でも、許可を取れば自由に使えることになっている。その日の夜、芦屋はレッスンが終わった後に、日下祥子と翌月のスケジュールと指導内容についての打ち合わせと相談を受けることになっていた。通常は建物の反対側の応接室か事務所の個室、もしくはレッスン後の教室で行うのだが、今日はたまたま応接室も事務所の個室も他の人が使用することになっていた。教室も自主的に練習する生徒に一時間だけ開放している。そのため、奥にある本堂で打ち合わせをすることになった。
祥子は芦屋に対し、恋愛感情を抱いていた。最初からではなく、自分の体形の変化に合わせ、芦屋を男としてみていることに気づいたのだ。恋愛経験が少ないせいもあり、どう行動すればいいのかわからず、誰も来ない本堂で打ち合わせができるように作戦を練った。その日の各部屋の使用状況や自主練も予約制なので、職員の彼女はこの日を狙っていた。
「すいません、先生。こんな場所で。」
祥子が先に中へ入り、電気をつけた。
「ちょっと待っててください。」
祥子が部屋の奥にある鍵のかかった扉を開け、椅子を取りに行った。
芦屋はその扉を見て、左手を顎に持っていき、首を傾げた。何かが気になるようだ。
祥子がパイプ椅子を持ってきたが、それに座らず、芦屋は奥の扉へ歩き出した。
「先生、どうかしたんですか?」
「……。」
返事もせずに扉の中へ入り、そこで漂っていた霊を自分の身体に取り込んだ。その部屋にはまた扉があり、芦屋が開けようとすると鍵がかかっていた。
「日下さん、この部屋の鍵はありますか?」
「はい、事務所にあるはずですけど、開けるのに許可がいるはずです。」
「……そうですか。」
「待っててください。今、持ってきます。」
祥子は、芦屋のために事務所へ戻った。バレたらクビ?という考えもよぎったが、それよりも『好きな男のために法を犯す』的な気分に酔いたかった。事務所は個室に人がいるだけで、何の問題もなく鍵を手に入れた。
「先生、開けますね。」
返事も聞かずに扉を開けた。
窓もないこの部屋は、独特の空気感を発していた。換気扇が回っていて、扉を開けたときに耳障りな音として、この異空間に響いている。部屋の中には箱があった。人一人が座って入れるくらいの大きさで、和紙が貼られている。二十畳ほどの部屋にそれが八個、無造作に置いてあった。
「日下さん、合鍵を作ってもらっていいですか。」
「はい、先生。」
祥子は何の躊躇いもなく、返事をした。返事をするとき、芦屋の顔をしっかり見られることもうれしかった。
芦屋は箱の形状や押して重さを確認し、上蓋もただ載せてあるだけのシンプルなものだと理解した。中身の有無も確認すると、三個は空だった。つまり、他の入れ物で運び、この入れ物に移す可能性が高いというわけだ。
「……先生、これは何ですか?」
祥子は恐る恐るこの箱が何なのか、聞いてみた。
「箱ですね。」
「……。」
本堂に戻り、打ち合わせを始めた。
初心者コースの新しい生徒が増えるため、来月からクラスを増やすこと。それに伴い、曜日の変更を数名の生徒にお願いすること。増設する初心者コースのサポートも祥子が継続していいのか。芦屋に問題なければ、教団に申請するが、他にサポートをさせたい人がいれば、話は別だ。祥子としては、一秒でも芦屋と一緒にいたいから、断る理由はない。
「日下さんが、時間や体力的に問題がなければ。」
「大丈夫です。実は先生、……。」
「なんですか?」
「私、先生の……、先生のようにインストラクターになりたいんです!」
「日下さんなら、良い先生になれますよ。上達も早いですし、私から見ても動きが美しいですから。」
芦屋がお世辞を言わないのを知っているから、祥子は言葉にできないほどうれしかった。この幸せな気分を台無しにしたくなかったので、告白はまた次の機会に延期した。今は、芦屋の役に立てることを努力しよう。
「日下さん、あの箱のことは誰にも言わないでください。お願いします。」
「絶対に誰にも言いません!二人だけの秘密ですから。」
祥子は自分で言った言葉に照れた。こんな漫画みたいなセリフを言うなんて。また幸福で身体が満たされた。
結局、恋愛経験の少ない祥子は、二人っきりになる計画までは立てられても、その先は未知の世界だった。翌日に合鍵を作り、その日のレッスン終了後、こっそり芦屋に鍵を渡した。
内村には理解ができなかった。どうして芦屋は人を助けるのか。人とのかかわりを極力避け、どちらかといえば、人が嫌いなのかと思っていた。自分と同じタイプのはずが、真逆のことをしている。頼まれもしないのに人を助ける神様など聞いたこともない。いや、そもそも罰は与えても、助けてくれる神様などいない。
内村が以前勤務していた総合病院の外科部長が、製薬会社から不正な金品を受け取ってるらしい。しかし外科部長に死なれると、病院も困るし、患者さんも困る。間接的に内村も困ることがある。では裁判官が判決を下すときに、そんなことを考慮するのか?いや、しないはずだ。純粋に罪に対しての罰を言い渡す。そして刑を執行する。正義とはそういうことだと、内村は信じている。
先日、通り魔殺人の現場近くに霊を捜しに行ったら、近くの神社にある口の開いた狛犬の後ろに霊が五個も溜まっていた。しばらく霊には困らないと安心していたのだが、外科部長に移す霊を採取するために来たら、すべて無くなっていた。
「五個全部って、なんでだよ!」
狛犬を蹴飛ばした。吐き気がするほどイライラが治まらない。
「どうかされましたかぁ?」
巡回中の警察官に職務質問された。
「あっ、いや、何でもないです。ちょっと……。」
「ちょっと、どうしたんですか?」
完全に怪しい人間だと思われてる。そりゃそうだ、狛犬を蹴飛ばしたところを見られれば。そんな奴は、なかなかいない。この状況で、狛犬を蹴飛ばしても自然なシチュエーションってなんだ?
「女性と約束してたんですが、すっぽかされたみたいで。こんなとこで待ち合わせなんて、最初から変だと思ったんですけど。騙されたと思ったら、腹が立ってしまって。」
「そうですか。お気の毒です。身分証、お持ちですか?」
一生懸命、自分に合う言い訳を考えたが、簡単に納得されると悲しすぎる。マイナンバーカードを見せた。
「このあたりで通り魔殺人が起きてるんですよ。犯人はまだ捕まっていませんから、気をつけて帰ってください。ちなみにお仕事は、何をされてるんですか?」
「一応、医者です。心療内科医です。」
「そうですか。ちなみにあそこの踏切で死亡事故もありましたし、そこのアパートは自殺。酔っぱらいの喧嘩でも一人が亡くなってます。内村先生も振られたからって、巻き込まれないように気をつけてください。ははは、では失礼。」
失礼なのはお前のほうだ!医者なのに、こんな薄暗い裏通りで、女に騙された気の毒で痛々しい哀れな男だと思われたに違いない。霊があったら、絶対に殺す。人を馬鹿にしやがって。あのクソ警官!と、怒りの矛先が変わり、独り言をつぶやきながら歩き出した。
「あれっ、この辺は事故が多いってことか?霊が溜まりやすい場所は、そういう場所?そういえば芦屋さんとあの女が乗ったバスの事故現場も、事故多発って看板があったなぁ。」
芦屋のことを思い出したら、芦屋と霊の話をしたくなった。今からなら、ヨガ教室が終わるまでに間に合いそうだ。内村は教団に向かった。
内村はヨガ教室の扉の前で、レッスンが終わるのを子供のように待っている。相変わらず、静かな教室だった。誰の声も聞こえない。ゆったりとした音楽だけが、扉の隙間から流れてくる。芦屋へ近づくために始めたヨガだから、彼が教団でレッスンをするようになってからは、ヨガをする目的がなくなった。
教室内がざわざわし始めた。どうやらレッスンが終わったようだ。扉が開き、生徒がぞろぞろ出てくる。
「芦屋さん、この後いいですか?」
「これから、日下さんの個人レッスンがあります。」
「日下さん?」
芦屋のそばにいる女性を見て、内村は何かを思い出した。
「あれっ、日下さん。日下さん?……うちの職員の日下さんか!えぇ、瘦せたねぇ、半分くらいになったんじゃないの。あー、ごめん。これって、セクハラ?パワハラ?」
大袈裟ではなく、本気で内村は驚いている。
「いえ、あの、大丈夫です。内村先生の用事が終わってからでも。私、待ってますから。」
「本当に。助かるなぁ。じゃあ、早めに終わらせるから。いや、日下さん、本当にキレイになったねぇ。あっ、これもダメか。」
内村の言葉に祥子は怒るわけでもなく、軽くお辞儀をした。
「じゃあ、少しだけ。」
内村は芦屋を廊下へ連れ出した。
「芦屋さん、霊、貸して。あとで返すからさぁ。」
「はい。今ですか?」
「えっ、今って、ここにあるの?」
「はい。」
芦屋は奥にある本堂へ歩き出した。本堂に入り、奥の扉の鍵を開け、さらにもう一つの扉の鍵を開けた。内村は教団の運営には興味を持っているが、宗教の中身には興味がなく、本堂でさえ滅多に来たことがなかった。
最後の扉を開けたとき、内村にもこの部屋の異様さが伝わった。
「……これ、芦屋さんがやったの?」
「いえ。」
「じゃあ、誰が?叔父さん?いや、違うな。見えないもんなぁ。」
「内村さん、早くしましょう。日下さんが待ってますから。」
芦屋に聞いても無駄だと思い、内村は手前にあった箱のふたを開け、霊を取り込み始めた。芦屋は霊に興味があっても、誰が、どうやって、何のためにとかは興味がないはずだ。
「あの箱って、何か入ってるんですか?」
芦屋の後ろにいつの間にか祥子がいた。
「見てみるかい。」
内村が祥子を誘った。どうせ何も見えないし、見せたほうが変な不信感を待たれなくて済むと思ったから。
言われるがままに箱を覗き込んだが、どちらかといえば箱を覆いつくしている和紙の色や柄のほうが気になった。祥子は内村の横を通り過ぎ、芦屋のところへ戻ろうとしたら、内村が祥子の肩に手を触れようとした。
「和紙の色が……。」
そう言いかけた祥子の腕をサッとつかみ、芦屋は自分の身体に引き寄せた。
「はいはい。じゃあ、僕は帰りますね。」
内村は両手をポケットに隠し、霊を出さないとアピールするように本堂を出て行った。
「ふぅ。」
芦屋が珍しくため息をついた。
「……先生。……あの、……手が。」
芦屋の左手は祥子の左腕を強く握り、右手は左胸を抑えるように触れていた。内村が本堂を出ていくのを確認すると、芦屋は祥子から手を離した。
「それでは、レッスンを始めますか。」
芦屋は扉の鍵を閉めると、相変わらず無感情のまま、何事もなかったように教室へ歩き出した。
内村は帰らなかった。祥子の個人レッスンが終わるのを待ち、どうしても芦屋と話がしたかった。思いついたことがあると、我慢できなくて翌日に持ち越すことができないタイプなのだ。あの霊のストックは、どう考えても土御門家がかかわってるに違いない。芦屋は聞かないと答えないから、もしかしたら何か知ってる可能性もある。そこだけ、今日中に確認しておきたい。
「まだかなぁ。」
内村は足の爪を切っていた。定期的に切る習慣がないので、靴下に穴があかないと気づかない。
コンコンと、事務所の扉がノックされ、開いた。
「内村先生、まだいたんですか?お疲れ様です。」
祥子はご機嫌な様子で、内村に声をかけた。
「芦屋さんは?」
「なんですか?」
祥子の後ろから、芦屋が事務所に入ってきた。
「芦屋さん。もう少しだけ質問してもいいですか?ちょっとだけ、ねぇ。大福、買ってきたから。一緒に食べましょう。」
「えっ、先生って大福、食べるんですか?」
「知らなかったのかい。芦屋さんは、餡子が大好物なんだよ。」
芦屋は返事もしないで、内村の隣の椅子に座った。
「内村先生って、芦屋先生のこといろいろ知ってるんですね。」
祥子は、心の底からうらやましそうに言った。
「僕はね。芦屋さんにとって、この世でたった一人の友達なんだよ。」
「そうですね。……日下さん、早く帰ってくださいね。あなたがいると話が始まりませんから。」
はっきり帰れと言われたのは相当ショックだったが、迷惑なのは祥子にも伝わっている。嫌われるわけにはいかない。
「お疲れ様でした。お手伝いできることがあったら、なんでも言ってくださいね。」
露骨に肩の力を落とし、悲しそうに事務所の扉を開けた。
「日下さん。」
「はい。」
「背筋が曲がってますよ。」
一瞬、何かを期待したが、一瞬で祥子の背筋が伸びた。彼女が事務所を出ると、内村は用意しておいた大福とお茶を芦屋の前に持ってきた。
「やっぱり、土御門家だよね。それだと土御門家にも僕たちみたいな人間がいるってことだよね。でも考えたんだけど、僕は身体に取り込んだ霊を人に移すことはできても、外に出すことはできないよ。芦屋さんはどう?どう思う?」
芦屋は大福を手に持ったが、一旦戻し、お茶を一口飲んだ。
「できますが、ゆっくり滲み出る状態なので時間がかかります。現実的ではありません。内村さんの身体の中にある霊は、外に出せます。」
「どうやって?」
「お茶と大福を置いてください。」
言われるままに、手から離した。椅子に座ってる内村の胸の下あたりに手のひらをぶつけると、内村は驚きと痛みをうまく合わせた表情で椅子ごと後ろに倒れた。
「痛ってぇ。なんですか、これ?やる前に説明してくださいよ。……おっ!」
腰を押さえて立ち上がるときに、内村は身体から飛び出した霊に気づいた。
「二人とも身体に受ける負担が大きいですし、私たちは霊に近づくと取り込んでしまうので、あの箱に移すことは不可能でしょう。」
話を聞きながら、内村は飛び出した霊をまた身体に取り込んだ。
「そういえば、土御門家の研究施設に、霊が歪んで見えるサングラスとライトがあるそうです。」
椅子を戻して腰掛ようとしたまま、内村は中腰で固まった。
「そういえばって、なにそれ?どういうこと?研究施設?」
内村の頭が混乱してきた。教団設立に土御門家という大きな組織が関わってることは説明したが、どうして芦屋のほうが土御門家の情報を持っている?……あっ、森川瑠璃子か!でも彼女の名前は出せない。芦屋は何をどこまで知ってるんだろう?聞きたいけど、聞きづらい。
「森川瑠璃子さんの話は覚えていますか?」
「えー、あのー、お亡くなりになられた……、人だよね。」
思い出した。ニュースになって当時のヨガ・スタジオも騒然となったから、内村が知っていてもおかしくはないはずだ。
「瑠璃子さんは土御門家の管理している賀茂神社で殺されました。結界の中に瑠璃子さんの霊があったのですが、さすがに強すぎて取り込めませんでした。でも後日お伺いしたときには、そこに霊は無かったんです。境内を見て回ったら、本殿の中から瑠璃子さんの霊を感じたんです。鍵がかかっていたので確認はできませんが、間違いなく誰かが移動しています。」
もう、間違いなく土御門家の仕業だろう。霊の見えるサングラスどころか、霊を運ぶための道具も持っているということだ。つまり教団は、研究施設が実験に必要な霊を保管する倉庫というわけだ。
「瑠璃子さんの霊を……。」
「えっ?」
驚きの声とともに、大福も口から噴き出した。
瑠璃子が殺されてから、芦屋は月命日の前後に賀茂神社へお参りに行っていた。レッスンが終わってからなので、いつも夜ばかりだ。瑠璃子の霊に近づくと、公園で会っているときと同じ気持ちになれる。言葉では言い表せないが、芦屋にとっては、かけがえのない時間に思えた。霊が欲しいという意味に他意はなく、純粋な気持ちで瑠璃子のそばにいたいだけだった。
内村が事務所内をグルグルと歩き出した。これはピンチか?チャンスか?でもそんなに強力な霊を盗み出せれば、いろいろ実験できるかも。もちろん芦屋には内緒だけど。問題は、どうやって土御門家から道具を借りるかだ。
「……やる。なんとしてでもやる。」
自分に言い聞かせるように内村は決意した。
「芦屋さん。森川瑠璃子さんがこの教団の神様になってもらうのはどうかな?」
芦屋は、やはり無表情まま「はい。」と、返事だけして帰った。
教団の代表である内村の叔父さんが、土御門家に電話をかけた。本堂の奥の部屋に誰かが侵入した形跡を見つけた。という話をしたら、その日の午後に土御門家の新堂が一人で教団に訪れた。内村が管理者として挨拶し、住所の記載が無い名刺を渡された。
「お構いなく。」
そういって、新堂は一人で本堂に向かった。
「何の問題も無いようなので。」
そういって、新堂は帰っていった。
それから四日後、祥子から内村に電話が掛かってきた。
「新堂さんの自宅です。位置情報、メールで送りますね。」
「大変でしたね。」
「本当に芦屋先生、喜んでくれるんですよね。」
祥子が念を押すように、電話の向こうの内村へ問いかけた。
「もちろんです。日下さんのおかげで芦屋さんの望みが叶うんですから。」
祥子は、新堂が教団を訪れてから四日間、慣れない尾行を続け、新堂の自宅を突き止めた。祥子が何でもすると言ったことを、内村はしっかり覚えていた。
あとは内村が新堂の家族構成を調べ上げ、タイミングを見計らい、新堂の自宅前で待機した。
「新堂さん、お久しぶりです。」
「……ど、どなたでしょうか?」
新堂は、内村の顔など覚えていなかった。
内村は改めて自己紹介をし、自分が霊を操れることも説明した。そして新堂の妻、娘夫婦と孫のことも詳しく知っていると自慢した。
「君の言いたいことがわからない。警察に連絡しますよ。」
「すいません。いつでも殺せるし、今すぐ殺せるということです。僕は、基本的には悪い人間しか殺さないので。」
内村は、数日前に殺した総合病院の外科部長のニュースを新堂に見せた。
「僕が霊を移すと、血管が詰まるか、破裂して死ぬんですよ。みんな突然死かな。」
ニコッと笑顔を見せると、首を横に傾げておどけて見せた。
「協力してもらえますか?」
「何をすればいいんですか?」
「僕と一緒に、霊を運んでください。それだけです。」
なんだかわからないが、内村はこのやり取りが楽しくてたまらない。
「わかりました。運びます。家族の命を保証してくれるなら。」
「では、今から行きましょう。」
急な話に戸惑いはあったが、躊躇ってる場合ではない。家族の命が掛かっているから、怒らせるわけにはいかない。自分の命と引き換えにしても、すべて受け入れなければ。
土御門家の研究施設に霊を運ぶ道具と車を取りに行った。内村は、まるで遠足に行く子供のように浮かれていた。新堂は行先さえ聞かなかった。たとえそこが地獄のような場所だとしても、新堂に断る選択肢はないのだから。
内村も行先は告げず、方向だけを指示した。意味もなくサプライズ的な演出をしたいだけだ。驚くかもしれないが、間違っても喜ばれることはない。
「もう、わかったかなぁ。」
聞かれる前に、新堂はうすうす気づいていた。
「森川瑠璃子さんですか。」
「正解!優光の会の代表、もう少ししたら変わるから。新しい代表が、どうしても森川瑠璃子さんを神様として祀りたいっていうからさ。僕としては、何とかしたいと思ってね。」
「……。」
新堂は柳原が住んでいる家の電気が消えているのを確認し、国道から右回りで賀茂神社の階段入り口に車を止めた。必要な道具を持って階段を登り、境内から拝殿裏にまわり、本殿の鍵を開けた。霊が見えるライトで本殿の中を照らし、和紙でできた箱の蓋を外した。
内村が興味本位で箱の中を覗き込もうと、箱のふちに手をかけた。その瞬間、内村の手に霊が侵入してきた。とっさに箱から飛ぶように離れた。身体に入った霊は少ないが、霊が指先に触れたときの感覚は衝撃的だった。大袈裟にいうと、溶けた鉄を身体に流し込まれたような、そんな感覚を指先から感じた。
「うぉっ、指が溶けるかと思った。」
新堂は、内村を心配するわけでもなく、箱に特殊な布の袋をかぶせ、箱をひっくり返した。箱も和紙を蝋で固めただけなのでとても軽く、袋も和紙の箱並みに軽い。作業自体は、一人でも十分に行えることだった。
箱の蓋を戻し、布の袋を担いで、本殿の鍵をかけた。
想像以上に簡単な作業だったので、内村はつまらなかった。
優光の会に向かう途中、あれだけうるさかった内村が静かになっていた。作業がつまらなかったこともあるが、霊が身体に入って大騒ぎしたのに新堂は心配もしなかった。箱にしまう手順は、今の逆だから簡単だろう。新堂がいなくても問題はない。殺してしまうか?でもこの車とこの道具はどうする?研究所でなんか貸し出しの記録があったらどうなる。警察は大丈夫でも、土御門家を敵に回すことになる。
殺すにしても、今日はやめておこう。
優光の会に到着し、空の箱に霊を移した。間違えないように箱に印をつけておいた。
「今後、森川瑠璃子の霊がここから無くなったら、新堂さんの家族の保証はできませんからね。土御門家で霊の出し入れをするときは、細心の注意を払ってください。」
こうして森川瑠璃子の霊が、優光の会のご神体になった。