第4話 それでもわたしは、話さずにいられなかった
賢者――ナジア
彼女は、目を閉じていた。
扉の前、霧に包まれた朝。
その肌は白く、まるで霧そのものに溶け込んでいるかのようだった。
だが、ただ眠っているわけではない。
そのまぶたの奥に宿るのは、欲望の色。
他者には見せてはならない、内奥の感情が沈んでいる。
その瞼は――世界を拒むのではない。
ただ、自らの“眼差し”が誰かを傷つけてしまうことを、恐れていた。
名を、ナジア。
盲目の詩人。
静かなる語り部。
そして、情を奏でる声を持つ、沈黙の旅人。
「……記録者さん、で合ってる?」
囁くような声。
空気に温度を残すその吐息は、まるで耳元でささやくように柔らかく。
「第二挑戦者、ナジア。記録開始。入室を許可――」
記録者・クリチャの応答に、微かに彼女は笑った。
その笑みは、拒絶され慣れた者が、それでも一歩踏み出すための柔らかい“仮面”のようだった。
彼女の足取りは、まるで初めてではないように自然だった。
まるでこの部屋を、過去に夢で何度も訪れたかのような――懐かしささえ含んだ歩み。
セリスの眠る寝台には近寄らず、ナジアは部屋の隅に腰を下ろす。
布が足元から滑り落ち、ふくらはぎを包む。
空気の粒子すら、彼女の肌に触れることを躊躇しているように感じられた。
「……ほんとうに、綺麗な人なんだね」
それは称賛であり、告白であり、そして――羨望だった。
「わたしね、ずっと、自分の顔を知らないの。
鏡を見たことも、誰かに“綺麗”って言われたことも、ないのよ」
彼女の声は、深く静かに部屋へと染みていく。
それは歌のように滑らかで、
涙のようにあたたかく、
それでいて、芯には冷えきった孤独を宿していた。
「でも、不思議よね。
人が何かを隠してるときの……息づかいって、すごくよくわかるの。
恥じてるときの指先とか……嘘を吐くときの胸の震えとか」
彼女の指が、胸元を撫でた。
まるでそこに、自分の弱さをなぞるように。
あるいは――“誰かに見てほしい傷”をそっと触れるように。
「ねえ、セリス姫」
名を呼ぶ声には、甘さと哀しさが溶けていた。
「あなたは……“恥ずかしかった”の?」
姫は眠っている。
だがナジアは、答えを“聞こう”とはしていなかった。
ただ、“共にあること”を願っていた。
「美しいということが。
選ばれてしまうということが。
誰かの理想になってしまうということが――
……逃げ場を、奪われることだって、知らない人にはわからないよね」
ナジアは、ゆっくりと立ち上がる。
その手が、慎重に空間を探る。
そして、セリスの手を探し当てた瞬間――
指が、そっと、重なる。
冷たい。
けれど、やわらかい。
その感触だけで、涙がにじんだ。
「……私の目はね、光を見たことがない。
でも、あなたの肌は、あたたかい。
きっと、こんな色の光なんだろうなって……そう思うの」
言葉は震えていた。
欲しかったもの。
奪われてきたもの。
恥じて、しまい込んで、生きてきたもの。
それらが、ただ“触れる”という行為だけで溶け出していく。
「もし、あなたの中にも、わたしと同じ“羞恥”があるのなら……
ねえ、セリス姫。わたし、あなたと“触れ合える”と思ってたの」
その瞬間――
何も起きなかった。
姫の目は開かない。
手の温もりも変わらない。
ただ、静寂だけが返ってきた。
ナジアは微笑んだ。
その表情は、すべてを悟った者のようで――
それでもなお、少しだけ“幸せ”を感じた者の笑みだった。
「……やっぱり、無理だよね。
でもね、恥をさらしただけでも、今日は少し、眠れそう」
彼女は手を離し、ゆっくりと背を向ける。
その足取りには、迷いも後悔もなかった。
まるで、“届かないこと”すら、受け入れた者だけが持つ静けさだった。
記録者・クリチャは、そのすべてを記録していた。
だがその最中――彼の視界が、一瞬だけ“揺れた”。
記録には残らぬ、主観的な違和感。
それは、誰かに“見られている”という感覚。
いや――“自分が誰かにどう見られているか”を、意識する感覚。
“恥”とは、自意識の芽生え。
そしてそれは――“心”の、ごく最初の段階。
その定義すら知らぬまま、クリチャは己の存在が輪郭を持ち始めていることを、わずかに感じていた。
「第二挑戦者、目覚め失敗。
対象への影響:なし。
感情反応:羞恥。
記録完了――」
だが、クリチャの中で、何かが“終わらなかった”。
感情というには未成熟。
でも、確かにそれは“震えていた”。
こうして、第二の挑戦は終わった。
姫は目覚めず、救いはなかった。
だが、記録者の奥底には――
またひとつ、名前のない感情が刻み込まれた。