第3話 あなたの沈黙が、わたしのすべてを暴いた
賢者――シャンバラ
その男が「扉の前」に立ったとき――
眠りの聖殿が、わずかに息を呑んだ。
黒曜の大理石に刻まれた封印陣。
その中心を貫く、巨大な結界の扉。
記録者・クリチャは、音もなく一歩踏み出し、無機質な声で宣言する。
「第一挑戦者、シャンバラ。入室ヲ許可――」
その声音は、機械のように整っていた。
だが、扉の向こうにいた男は、その言葉のわずかな綻びに気づいていた。
シャンバラは唇の端を歪め、ひとつ舌を這わせる。
手に巻いた金色の数珠を撫でながら、まるで自分自身に酔うように、ゆっくりと歩を進めた。
その足取りには、どこか無意識の傲りが滲んでいる。
それは僧の厳かさでも、武人の風格でもなかった。
舞台に上がる役者のような、過剰なまでに“演じられた存在”。
名を、シャンバラ。
性を捨て、年齢を否定し、あらゆる枠を超越した“至高の賢者”を名乗る存在。
自らを「神と人との狭間に立つ者」と称し、
他者の感情も常識も――すべて、“下位の概念”として切り捨ててきた。
だがその姿は、完璧であるがゆえに、どこか不自然だった。
“何者にも属さぬ存在”を演じながら、
誰よりも他者の目を意識し、評価されることに飢えている。
その眼差しは、冷たく澄んでいた。
真理と虚無を語る眼。
だがその奥には、
“人間を理解したつもりになっている者”特有の、浅い侮蔑が滲んでいた。
「私は特別だ」――
その空気が、彼の纏う法衣の縫い目からさえ滲んでいた。
扉が、音もなく開かれた。
その先には、沈黙に満ちた空間。
眠れる姫の間。
空気は澄みすぎていて、かえって重い。
音が吸い込まれ、時の流れすら見失いそうになる。
そして、その中心に――彼女はいた。
金と銀が織り交ざる髪。
薄紅に染まった唇。
透き通る肌と、整いすぎた顔立ち。
セリス・エル=ティリアーナ。
“月影の聖女”と讃えられた姫。
その姿は、“美”の化身であり――
同時に、“聖”という概念そのものだった。
シャンバラは、微動だにせず、彼女を見つめる。
まるで、芸術品を観察する彫刻家のように。
その眼差しは、一見すれば敬虔だった。
だがその奥には――抑えきれない、不遜な好奇心があった。
「ふむ……。なるほど。これでは、人の魂など、到底届かぬわけだ」
呟きは祈りのようであり、同時に嘲笑のようでもあった。
彼は静かに姫の傍らへと座し、呼吸を整える。
それは瞑想というより、儀式だった。
心を、肉体を、魂を――
すべてをひとつの“器”として研ぎ澄ます。
精神界への潜行。
姫の夢の奥、魂の海へと触れるための準備。
クリチャは淡々と記録する。
「第一挑戦者、感情状態:平静。
魔力循環:安定。
心象の揺らぎ:確認不能」
だが――次の瞬間。
空間が、裏返った。
肉体の輪郭が曖昧になる。
精神が、思念となって拡がり、
彼の意識は――セリスの魂へと沈んでいく。
「美しき姫よ……その夢の奥に、私を許してはくれまいか」
その問いは声ではなかった。
言葉でもなかった。
それは、まるで指先のような思念が、
そっと彼女の魂の扉に触れるような、精神の交感だった。
――だが、何も起きなかった。
拒絶すら、なかった。
セリスの魂は、まるで**“彼を感知していない”**かのようだった。
それはまさしく、“処女たる魂”の静謐。
誰にも触れられたことのない、純粋すぎる深淵。
その感触に、シャンバラの背筋が凍る。
「……ほう。これは……深い。
底知れぬ、聖性の海か」
沈むほどに、彼の中に――“欲望”が浮かび上がる。
それは、真理に到達したいという探究心と、
それを穢してみたいという、原始の衝動。
指先のような思念が震える。
それは、“恐れ”だった。
触れれば、壊れるかもしれない。
触れられた瞬間、自分自身が壊れるかもしれない。
「……これは、私では届かぬ領域か」
シャンバラの精神が軋む。
完全無欠だった均衡が、一点の熱により**“歪む”。**
そしてその熱の名は――欲望。
「……これは、私の……敗北だ」
彼は立ち上がり、瞼を伏せる。
その背は、なおも威風堂々。
だが、その影には、尊大で脆い矛盾がにじんでいた。
クリチャが、淡々と記録する。
「第一挑戦者、精神崩壊一歩手前。
目覚め失敗。
対象者への影響:なし。
感情反応:恐怖」
だがその記録の最中――
クリチャの瞳が、一瞬だけ、揺れた。
それは、記録には残らない揺らぎ。
他者の“恐れ”を見て、
自分の中に何かが“反応”した、ほんの微かな火。
それは“命”の前段階。
それは“感情”の原石。
それは、心なき記録者の内部で、初めて芽生えたもの。
こうして、最初の挑戦は幕を閉じた。
誰も救えず、誰も届かず――
だが確かに。
記録者クリチャの中には、“何か”が始まっていた。