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第1話 この庭にいるかぎり、あなたはわたしのもの

風が、そっと吹き抜けていく。


月の塔。その頂上、中庭――

光の届かぬ、魔術結界に護られた静謐の空間に、小さな足音がひとつ。

 

銀髪がさらりと揺れる。

ひざ丈の白衣を揺らしながら、ひとりの少女が花壇にしゃがみ込む。


その指先が、まるで夢を撫でるように、一輪の青い花へと触れた。


「……咲いたね。また、きれいに」


背後には、ひとりの影が立っていた。

気配も、音もない。

まるで彼女自身が落とした影が、具現化したかのような静けさ。


その存在の名は――クリチャ。


王国が誇る古代機構のひとつ。“記録者レコーダ”。


本来は王族の教育と警護、王統の全記録を担うために造られた、人造生命体である。


「この花、去年よりずっと大きい。……あなたの記録には、書いてある?」


少女――セリスが微笑みながら問えば、クリチャは機械的に顔を傾けた。


「昨年データ……比較完了。

開花周期……誤差ナシ。

気候、魔力……変動軽微。

全項目……記録済ミ」


「ふふっ。ほんと、変わらないのね、あなた」


セリスはそっと立ち上がり、裾を持ち上げて振り返る。


その銀の瞳は、夜空そのものだった。

月の光をそのまま映したような――揺るぎない静謐。


この姫に、世界は“祝福”を注いでいた。


だが、その隣に立つ存在――クリチャだけは、世界の理から外れていた。


「ねえ、クリチャ」


「……承認。ヒメサマ」


「あなたが感情を持たないのは、祝福なのね」


その言葉には、優しさと――ほんの少しの、寂しさが滲んでいた。


「でも……私は、あなたが少し寂しいとも思うのよ」


一瞬、沈黙が流れる。


クリチャの応答機構が、“処理”を止めた。


問いかけは命令ではなく、感情だったから。


けれど、彼は正確な定義だけを返した。


「本機ニ、感情ノ搭載……不要ト設定。

“サビシサ”――該当現象、過去ログニ少数記録アリ。

影響……無視可能。継続動作」


「……そうじゃなくて」


セリスは、彼の言葉をそっと遮り、視線を花に落とす。


その横顔は、月よりも淡く、美しく――そして、どこか儚かった。


「あなたがね。……あなた自身が、どう思ってるのかなって」


記録されるべきではない問い。

定義できない言葉。


けれどそれは、誰よりもセリスらしい、優しい疑問だった。


その日、空は晴れていた。


風は穏やかで、月は輝いていた。


すべてが、静かだった。


それは、「呪いの前夜」に至る――最後の、穏やかな日常だった。


* * *


時は流れた。


少女は乙女となり、乙女は“象徴”となった。


かつて王家の庭に咲いた銀の花――

その名は、セリス・エル=ティリアーナ。


闇を宿す者。

けれど誰よりも澄み、静かに、微笑む“月下の姫”。


彼女が歩むだけで、争いは止み、

かつて刃を交えた森の民は、刀を伏せた。


長き国境戦争も、彼女の名のもとに終焉を迎えた。


そして王は、こう命じた。


「癒せ、森を。癒せ、傷を。癒せ、民を。

月の巫女よ、我が血を超えて、人々の望みに応えよ」


セリスは応えた。


水脈を清め、精霊の根を綴り、森に祝詞を贈り、

病を祓い、死者の魂を導き、子どもたちの夢を守った。


彼女は、**“月影の聖女”**と呼ばれるようになった。


その姿を見るため、森の外から旅をして来る者が絶えなかった。


老いた者は涙を流し、

若者は未来を重ね、

詩人は女神と讃え、

貴族たちはその存在に“奇跡”を見た。


やがて、一つの名が――誰の口からも語られなくなった。


レヴァリア。


かつて“太陽の姫”と呼ばれた、旧王家の最後の光。


力においても、美においても、

かつて世界の中心に在ったはずのその名は――

月の光のもとに、静かに、確かに、消えていった。


誰もが、信じていた。

月が照らすこの時代は、永遠に続くのだと。


――だが。


「光は奪われ。闇は、私に背を向けた……」


呪いは、忘れられた瞬間に芽吹くもの。


それは、祈られぬ者の胸に。

語られぬ名の沈黙の中に。


それは、祝祭の夜に始まった。


百年に一度、月の巡礼が王都を越える夜。


それは、“月影の聖女”セリスの名をたたえる、盛大な祭りだった。


布は空に舞い、

神殿は花に満たされ、

使節団と貴族が玉座に集う。


祭壇の奥から現れたセリスに、

誰もが息を呑み、言葉を失った。


銀の髪、月光の衣装、花を挿したその姿は――まさに、女神。


――その時だった。


空気が張りつめ、

目に見えない“何か”が会場を横切る。


そして――小さな鈴の音が、空間を裂いた。


澄んだはずの空気が一瞬にして濁る。


人々の視線が、音の発生源を探して揺れる中――


遅れて現れた“使者”が、ゆらりと現れた。


黄金の鳥面、漆黒のマント。

まるで光を喰うように、姿が舞台の中央に浮かび上がる。


その歩みは、まるで舞台劇の登場人物。

だが、誰も“招いた覚え”などない。


「王女殿下へ――“光”より届いた、最高の贈り物を」


その声は、氷と炎を同時に飲んだようだった。


老女のように枯れていて、

少女のように艶めいていて、

どこまでも“本人以外には真似できない”響き。


使者が捧げたのは、銀細工の小箱。


セリスがそれに手を伸ばした瞬間――


重力が、崩れた。


周囲の空気が“嘆く”ように軋んだ。

神殿の天井がかすかに揺れ、

一瞬だけ、空の月光が――黒く、染まった。


開かれた小箱の中。

そこには一輪の花があった。


ただの花ではない。

光を吸い、命を食い、魔を宿す太陽の呪詛花グラウ・ソレイユ


見た瞬間、祭壇の生花が枯れ、

杯の水が黒く濁り、聖獣が震え、

月の巫女――セリスの手が、痙攣した。


「セリス様っ――!」


側近の叫びとともに、姫の身体が音もなく崩れ落ちた。


そのとき、仮面の奥から漏れた――陶酔にも似た、狂気の嗤い。


「ああ……止まった……あの子の息が止まった……!」


「見て……見てよ……!

“月影の聖女”が、死ぬのよ……!」


声が波打ち、笑いが崩れ、魔術結界が震えた。


そして、仮面が――砕けた。


溢れた金髪が宙を舞う。

仮面の奥から姿を現したのは、

かつて“太陽の姫”と謳われた、忘れられし王女。


その目は、空虚で、

その笑みは、絶望で、

その声は、世界の深層に突き刺さる呪いだった。


「やっと……やっと……!

やっと私、“わたし”に戻れるの……!」


「奪われたのよ……全部……!

王座も、光も、名前さえも……!」


「だから返してもらうの。

命で――歴史で――あなたという“象徴”ごと、すべてを!」

  

「アハッ、アハハハハ……!」


――空間が、ひび割れる。


「目を逸らさないで、セリス!

これは、私が“私”に戻るための、“始まり”よ!」


レヴァリアが叫んだ、その瞬間。


空気が鳴った。


いや――切り裂かれた。


ひとすじ、銀の光が走る。


それは、どこにも属さない刃。

神に造られ、命を持たず、感情を排除する“観察者”の手から振るわれた、無機の一閃。


「なっ――?」


レヴァリアの瞳が、初めて見せる“理解不能”の色。


胸元から赤が溢れ、仮面が砕け、銀の髪が揺れる。


彼女は後ろに崩れ、倒れながら――ようやく目の前の存在を見る。


「……あなた……誰……? なぜ……わたしを……」


クリチャは、答えなかった。

ただ剣を構え、再起動の光を収束させる。


「対象:王統簒奪、記録破壊、呪詛拡散。

権限違反、歴史干渉、敵性反応、確認完了。

該当分類――“記録抹消対象”」


「私が……次の……王女なのに……っ」


それが、レヴァリアの最後の言葉だった。


その表情にあったのは――怒りでも、悔しさでもない。


ただ、わからなかったのだ。


なぜ、こんなにも求め、奪い、手に入れた自分が。

“次の光”であるはずの自分が。


なぜ、ただの記録者に――斬られたのか。


彼女の体は、床に崩れ、仮面の破片が静かに散らばる。


彼女が求めた“光の復権”は、ただその瞬間に、音もなく――歴史の闇へと葬られた。


クリチャは動かない。


目を閉じるセリスの傍らで、記録者は剣を収め、

ただひとことも語らずに、再びその身を“影”へと戻していく。


記録完了。

呪詛拡散――停止確認。

セリス王女、状態:停止中。

感情反応:異常活性。

感情名:…………解析不能。


この時、彼の中で、初めて――記録できない“揺らぎ”が、確かに芽吹いた。

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