還っ来た少年
独りの少年が、還ってきました
上下左右から巨木が生い茂り、藍玉色の濃霧の中で深く閉ざされた森に、一人の少年が還ってきた。見た目はちょうど十歳の金髪碧眼で、シンプルな白いシャツとマント、そしてポーチを腰に身に着けていた。顔に影の差し込む少年は躊躇い無く森に入り、慣れた足取りで先を進む。ブーツ先の視界すら完全に閉ざす濃霧は時に無音で退いてゆき、少年の行く手を全く阻まなかった。むしろ少年に道を示し奇妙な森の深奥へと誘うようにである。当の少年もその方向に行くべき目的地があるという様に迷わず歩を進め、森の奥深くへと進んでゆく。速度も落ちず脇目も振らない。ただひたすらまっすぐに、霧が晴れる先だけを目指して。
「けほっ、けほっ!」
突然歩みが止まった。彼の身体がふらつき樹木にもたれかかり、口元を『翼のある太陽のアザ』がある右手で押さえ咳き込むと。震える手つきでポーチを探り、少量の液体が入った小瓶を取り出し栓を開ける。中身は紫を中心に様々な色が見える気味の悪い液体で、どんな名医から太鼓判つきで飲むのを奨められても首を縦に振りたくない代物だ。
でも少年はそんなのはお構い無しに小瓶に口をつけ、ひと息で飲み干す。中身が空になった小瓶はポーチにしまった。また歩みを再開する。樹木から離れて進む足取りに体幹のぶれはもう、見られなかった。しっかりまっすぐに歩いてゆく。
少年は更に霧が晴れる先を目指して進んでゆく。足元の草を踏みしめるは音はしない。無音だ。まるでこの場所だけ、どの世界からも断絶されているみたいな静けさだ。何故だろう? そんな奇妙な静けさと異様な森なのに……不思議と落ち着く。まるで全ての生命達の故郷みたいだ。
左から真っ直ぐ伸びている大樹を右に曲がり、次に霧が晴れたのは少年の真上。見上げるとそこからも木が生えている。少年は躊躇いなく跳躍。重力などこの世界には存在しないような軽やかな進み方だ。そして次に霧が晴れた右下方向に跳躍。更に自分より太い枝に着地してから次に晴れた左斜め上へと進む。木から木の枝を慣れた様に跳び移る身軽な姿は野生の猿か鳥の様に見える。だが彼の身体を包む力は。どこまでも吹き抜けてゆける自由の風や翼ではなく、彼をこの世界に縛りつける鎖であった。
次は右下へと霧が導く。彼は目視でそれを確認するとすぐに自由落下。無音で枝に片足ついて着地をする。次は正面の霧が退く。迷い無く跳躍、先に進む。
かなり奥まで進んだ様に彼は感じてきた。でも目的地はどこに在るのか不明だ。もうすぐ到着するのか、まだまだなのか……彼には判らない。ただ霧が晴れる先へ進むしか無いのだ。
彼の額に珠のような汗が少し滲み。荒い息を洩らしよろけて片手を地面についたちょうどその時、不意に霧が大きく退いて拓けた場所が出現する。
そこは天を支える様にそびえ立つ大木が中心に生え紫色の草に覆われた静かな場所で、先刻から体感していたのと同じ。全ての時間が凍りついたみたいに静かでとても落ち着ける場所だった。
「……ここは懐かしいな。ただいま、だ」
ふっ……と優しく双眸を細め。少年は懐かしそうにゆっくりと周囲を見回し、一歩踏み込んだ。踏みしめられた草はやっぱり無音で折れる。時間の流れない静止した世界に、時を宿す異物の彼が進んでゆく。
その時ふわりと。蛍の様な燐光が彼に一粒近づいた。舞い降りる淡雪みたいなそれは意思が有るかの如く彼の周りをくるくると周回する。
悪戯っ子妖精みたいなそれは『魔力』だ。この場所で生まれたばかりの魔力で、初めて見た来訪者に興味津々で近寄って来たのだ。
ここは世界中の『魔力』が生まれてやがて還る場所――『聖域』と呼ばれている所だ。
彼の周囲をひとしきり回った後にふわりと目前でそっと滞空する。まるで踊っている様に輝度が変わる姿は愛おしく。少年も触れてみたいと優しく手を伸ばし、それに呼応して魔力も彼の手のひら真ん中に降下した。そっと覗き込む魔力は透明でまだ何色にも染まっていない。本当に生まれたばかりなのが良く判る。
手のひらの魔力が少し暗くなった。
それに合わせて少年も瞳を閉じる。
言葉は要らない。少年は五感で魔力は存在で、お互いに通じ合いながら。ゆっくりと感応し互いに理解を深めてゆく。
数秒にも満たないがとても永い時間が過ぎた様な頃、やがて魔力は彼の手元から飛び立ちそのまま聖域の外へと向かってゆく。きっとあの魔力はこれから色んな人達と出会い協力し、またここに還るのだろう。
「頑張りな、おれはひと足お先に行っとくよ」
旅立つ魔力を見送りながら彼はまた歩みを再開した。目指すは中央にそびえ立つ大樹――その根元だ。彼は少し右によろけたが……何とか気力を振り絞りたどり着く。
空を貫く大樹の根元には。石造りの台座に差された長剣が鎮座していた。
それを一目見た時には、到底誰も武器だとは思えないだろうと思う。凍てついた月光を閉じ込めた輝きを放つ刀身に『翼のある太陽』の鍔造りの美しい長剣だった。もしもこの世に神がいて、あらゆる魔を倒す為に創り出された神聖なる武器と言われたら誰だって無条件で信じるだろう。この剣はそれ程までに美しい武器だった。
「……ふぅ」
一息つくと。少年は無遠慮にその石の台座に腰掛けた。ここまで旅をしてきて、もう疲れ果てたと言いたい様に額の汗を拭う。
汗を拭い改めて見る自分の手のひらはボロボロだなぁと、少年はひしひしと感じた。今までがむしゃらに頑張って駆け抜けて来た者だけがなる肌だ。
「まぁーもう意味ねぇけどな」
自嘲気味に薄ら笑いを浮かべて脱力する少年。死んだ眼差しで深く項垂れ紫色の草むらをぼんやり見つめ。ため息一つ、吐いた。
刹那。台座に奉られし長剣が輝きを放つ。熱の無い冷たい光は徐々に光度を上げて、やがて目映い位の明るさになるが……少年は振り向かずぼんやりと草むらを眺めたままだ。
そして光が弱まり、長剣の刀身から一つの影が虚空に出現する。影は少女の姿をしていて薄い青色を帯びた金髪という物珍しい美少女だ。
「よぉ『聖剣ティストル』、久しぶりだな」
俯いたまま。ぶっきらぼうに少年は現れた少女に言った。
「……お帰りなさい。やっぱり還って来たのですね……」
非現実的な美貌に悲しみの陰を落として。少年に応える聖剣ティストル。
「おれが還って来ないと駄目だろう?」
深い霧を眺めながら返す少年に、
「そのまま黙って、生きていく事も出来たのですよ……?」
虚空から降り立ち覗き込みながら応えるティストル。双眸には涙を湛えていた。
「……出来ねェよ、ンな道。これを手にした時に捨てちまっただろ?」
手のひらを透かして見る様に右手を掲げる少年。手の甲に刻まれた『翼ある太陽』のアザが薄れていた。
「振り回した武器はちゃんと仕舞わないとな」
ふっ……と薄ら笑いを浮かべ、アザを睨む少年。不思議と晴れやかで未練は無い顔だ。
「……」
そんな彼を見て、ティストルはまた俯いた。
「そー悲しそうな顔すんなって。そうだ、今までの思い出話でも聞いていかないか? だーれも信じやしないんだしなー」
「了解です、『勇者』さま」
彼の提案に、ティストルは耳を傾ける事にした。きっと自分が拒めば、残すべき事柄は何一つ残らないだろうから。
これは、歴史に残らない。たった一つの……物語。誰も知らない少年の、戦いの物語である。
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