オタクたちの遊び
「実はそれ、毒が入っていたんだ」
僕がジュースを飲み干すと、マサヤは言った。
「え? 何だよ、それ?」
僕は笑って、氷だけになったグラスをテーブルに置いた。
サウナのように暑い部屋の中で、グラスには見る間に水滴が浮き、中で解けた氷がカランと鳴った。
「さっき君がこの部屋に入ったとき、僕はここのエアコンが壊れているといったけれど、本当は動くんだ。君がジュースを飲みたくなるように、わざと嘘を吐いたのさ」
額の汗を拭って、マサヤが言った。
僕はまた笑った。咄嗟に考えたにしてはよく出来ていると思ったからだ。
「面白いよ、マサヤ。確かに、これはお前が出してくれたジュースだし、ここはお前の家だからね。しかし、その話の設定でまだ解らないのは、お前の動機だ。どうしてお前は友達の僕を殺す?」
「それは──」マサヤが言った。「相手は誰でもよかったからさ。僕は常に獲物を探していた。近所で、外出先で、そして学校でもね。だから、君と親しくなったフリをして家に誘い込んだんだ」
「ふーん。まあ、ちょっとした小説のラストならそれで合格だろうね」僕は言った。
「けれど、物語ってものは、だいたいに都合の良い所で終るもんだ。白雪姫が王子様と結婚した後、果たして本当に幸せになれたかどうかは描かれない。その観点から、お前のストーリーのほころびを言えば、僕がここで死んだとするとお前はちょっと困ったことになる。何故なら、死体が残るからさ。死体を処理する作業は簡単じゃない。真っ先に君の両親に見つかってしまうぞ?」
「大丈夫だよ」
マサヤが、ニヤリと笑った。「実は両親も共犯者なんだ。その上、僕の一家には人肉を食べる習慣がある。処理する手間は必要無いん──」
僕は爆笑した。
笑わずにはいられなかった。
何とも初歩的な、論理矛盾だろう! むっとした顔のマサヤに、僕は説明する。
「お前、最初に、毒を盛ったと言ったじゃないか! それなのに、僕を食べるって? 毒の回った肉を? 家族で?」
堪えきれず、また笑ってしまった。
結構イイ線を行っていただけに、余計に可笑しかった。
「笑うな!」
マサヤがテーブルを叩いた。
青筋を立てて怒っている。僕は必死で真面目な顔を作った。
「毒、といったのは、便宜上そういっただけだ。実際はある種の麻酔で一昼夜には分解される。しかし意識を取り戻した時には、君はロープで縛り上げられているって訳だ」
「いいだろう。あえて言い換えをしたことには目をつぶるよ。ところで、素朴な疑問なんだが、どうしてお前の一家は人肉を食べるようになったんだい?」
「少し、長くなるぞ?」マサヤがまた、額の汗を拭う。「僕の先祖、そう、二十代くらい前の先祖が鬼と交わったんだ。その鬼は地──」
「それって、赤いの? 青いの?」
「黙って聞け。その鬼は、地獄の鬼だった。地獄で人間に苦役を与える鬼だったんだ。あるとき、鬼は自分の仕事が嫌になり現世へと逃げ出した。逃げ出した先で、鬼は一人の女と恋に落ちた。そこで生まれたのが僕のご先祖様だ。しかし、僕らの一族は鬼と交わった呪いによって、定期的に人肉を食べなければならなくなったのだ!」
「なあ、マサヤ──」僕は、溜息を吐いた。
「正直言って、ガッカリだよ。てっきり人間心理の闇、みたいなものに結論を持って行くと思っていたんだ。けれど、そこまで安易にファンタジーに逃げられちゃ興ざめだ」
「興ざめ? 君はまだ解っていないようだが、僕の言っていることが本当であるという決定的な証拠があるんだぞ?」
「ほう! 大きく出たね。それは、いったい何だい?」
マサヤが手に浮いた汗をシャツで拭った。そして、同じ手を、テーブルの上のリモコンに伸ばす。
ピピッ
ぶうううううん
鈍い駆動音と共に、エアコンがぬるい風を送り始めた。
「お、お前!」僕は叫んだ。
そして、マサヤの頭を思いっきり引っ叩いた!
「い、痛あ!」
「お前、いい加減にしろよ! 暑いだろう! 動くんだったら、初めから動かせよ!」
「ちょっと、ちょっと待ってよ! ひどいよ! どうして乱暴するんだよ? 証拠を見せたのに!」
僕はエアコンの下へ行き、風を独占した。
「あのなあ、マサヤ。お前こそ解っていないようだが、僕は今まで随分気を使って話に付き合ってやってたんだぜ? というのは、お前の話には決定的に説得力を欠いている点がある。それは──ええと、麻酔薬だったっけ?──を盛られた僕が、一向に眠くならないことだ。僕の体調に変化がない以上、お前の話はどこまで行っても嘘になるんだよ!」
僕は勝ち誇った気分だった。
マサヤの冗談はなかなかに手が込んでいたし、導入こそ完璧だった。しかし、ミステリー・ファンタジーオタクの僕に喧嘩を売ることが、そもそもの間違いなのである。
エアコンの風は勢いを増し、部屋は涼しさで満たされていった。
「──僕も、おかしいと思っていたさ」
マサヤが言った。
「僕が毒を入れたのは君のグラスの氷だった。ところが部屋の温度が高過ぎたのだろう、君はジュースを一気飲みしてしまい、毒の溶け出すタイミングが遅れたんだ。まったく、計画の甘さを痛感するよ──」
「ふーん、そうなの?」
僕は、帰り支度をしながら言った。
面白い展開だな、とは思っていた。けれども僕はいい加減に、話に付き合うのが面倒臭くなり始めていたのだった。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ」
僕は部屋のドアへ向った。
「帰れると思っているのかい?」マサヤが言った。
「え、まだやるの? どうせ結果は同じだろ?」
「本当に、帰れると思っているのかい?」
また、マサヤが言った。
それがあまりにも大きな声だったので、僕はびくっと身体を震わせた。
「何の為に僕が白状したと思っているんだ? 前に言ったよな? 両親が共犯者だって。気がついていなかったろうけど、こんなときの為に、ずっと母さんがドアの向うにスタンバイしていたんだよ?」
ノブが独りでに回り、ドアが開いた。
蒸暑い空気の流れ込む隙間には、はたして、女がいた。
頭に角、口には牙を生やした女である。
「お、鬼!」
僕はその場にへたり込んだ。
全身から、一挙に力が抜けてしまったのだ。
「そういえば──」とマサヤ。
「君は、物語について面白いことを言ったね? その言い方を借りれば、物語の主人公ってヤツはだいたい気が付くのが遅れるもんだ。推理小説なんてその典型だよ。ホームズも、ポアロも、もっと早くに気が付いていれば、人が殺されずに済んだものを。君はまさに、物語の愚かな主人公そのものだよ──」
僕は、叫んでいた。
生暖かい空気が前方から押し寄せ、背後からは射すように冷たい風が迫ってきた。
絶叫に混じって、二人の鬼の高笑いが聞えてくる。
ははははは!
ひひひひひひひ!
うふうふうふ!
げらげらげらげら!
わっはっはっはっ!
「──ん?」
やけに陽気な笑い声だ。
「ちょっと、マサヤ。いい加減にしないと可哀相よ?」
マサヤの母親が、顔からお面を外して言った。
「だって母さん! こいつったら、マジでビビッてんだもの。可笑しくって!」
目の端に、涙を浮かべたマサヤが言った。
僕は怒鳴った。「ちょ、ちょっと! いったいどうことなんですか!」
「ごめんなさいね? マサ君が、どうしても協力してくれってうるさいから、ついね?」
「いやあ、完璧なタイミングだったよ、母さん!」
二人が、また笑った。
「この鬼! 悪魔!」僕は言った。
まったく、何という一家だ。
いつの間にかマサヤの奴も、ミステリーやホラーを読んで研究していたらしい。完全に僕の敗北である。
「知ってるか、マサヤ? 実は僕、地球侵略に来た宇宙人だったんだぜ?」
悔し紛れにそう言いつつも、僕は二人と一緒に笑った。
暑さと冷たさが交じり合い、部屋の温度はやさしく、ちょうど良くなる。
「それじゃあ、そろそろ帰るよ」
僕は言った。
「え、もう帰るのか? ゆっくりして行けよ」マサヤが言った。
「そうよ、遠慮はいらないのよ?」
母親が、ドアの向うへ行った。
「もう少ししたらお父さんが帰って来るから、一緒に晩ご飯でもいかが? 今日は絶品のお肉が手に入ったことだし。さあ、それまで、これでも飲んで──」
僕は絶句した。
母親の持つお盆の上には、程よく氷の溶けたジュースのグラスが載っていたのだ。