豊玉(8)
「釣れますか?」
言いながら、岸辺で釣糸をたれる老人の顔をのぞきこむ。
「釣れるようなら、術師なんぞやめて漁師やっとる」
賀茂萬山は弟子の多聞聖徳に毒づいた。
「隠居の身ならこうして太公望も一興だが、術師会の会頭がこんなところで何の真似だ」
「千数百年ぶりに豊玉が出ましたのでね。鯛は無理でも、鮒ぐらいは釣ってみようかと」
「鯛だと? 亀と聞いていたが」
「同じモノでしょう、そもそもはね。初美が言ってますから間違いはないでしょう」
「西宮か?」
萬山の問いに多聞は黙ってうなづく。
「伊耶那岐、伊耶那美ときて、蛭子か。忌籠が済んだ後でよかった」
「それがそうでもないようで」
萬山は、やっと多聞に顔をむける。無言のまま、二人は見合った。
「引いてるようですが」
ちっ、と舌打ちした萬山は、テグスを引いて餌をつけかえる。
「豊玉が出たことは、皆、知っている。不穏な輩の一人や二人は出てもおかしくはない」
「そうですか」
「誰だ?」
「まだ、わかりませんが、問題はそこではない」
多聞は小さく呼気を吐く。萬山の眉根があがった。
「そこでないなら、どこだというのだ?」
「そもそも豊玉は試練の果てに得られるものですが、果が先に与えられるのはどうしたわけです?」
萬山の眉間に苦悶の筋がわいた。
「ピノキオとかいう木偶人形は、最初に菓子をねだったが、結局は苦薬を飲まされた。そういうことであろうよ」
「時節が満ちた、と考えて良いのですか?」
「まだだろう。まだ満ちぬからこそ、龍神などにちょっかいを出されるのだ」
多聞は深くため息をついた。
「実はね、尊子がかなり焦っています。前回の失敗を自分のせいだと思っているので、今度こそはと思っているのでしょう」
「自分の女房ぐらい、ちゃんと抑えておけ」
「独り身のあなたに言われても説得力はないです」
萬山は釣り糸をたぐる。糸先の針はぴかぴかに光っており、餌だけがきれいに喰われていた。
「あれは、この萬山のしくじりよ。尊子のせいではない」
「それは、その通りです」
萬山は振り向いて多聞の顔を見たが、多聞は水面をみつめるだけで、ぴくりとも表情を変えなかった。
「まだ満ちぬ以上、こちらでは手の出しようがない。あれらでやってもらうしかないが、あの二人。二人一緒ならばまだしも、離れ離れになったら心許ない。アキさんには三田が憑けば良いが、晴比古のほうが」
「瞬光を呼びました」
「瞬光を?」
「いけませんか?」
「いや、悪くはない。悪くはないが、アレしかおらんのか?」
「アレしかおりません」
今度は萬山がため息をついた。
「何とも弟子に恵まれぬことだ」
「師匠の不徳ここに極まれり、ですな」
多聞が竿をあげた。糸の先に小鮒が踊る。
手元に引き寄せた多聞は、器用に鮒の口から針をはずし、川へと戻した。
「放生会か?」
「善行を積めば龍宮に行けるかもしれません」
「龍宮と言えば邪馬壹か」
「やはり、邪馬壹になりますか」
「いまのところは、何とも言えんが」
多聞の放した鮒の行方を追うかのように、萬山は川下へ、そしてその先の大海へと視線を投じた。
「何とも厄介なことになったものだ」