浦島(57)
海の香はその海岸によって違う。
舞鶴の浜は日本海特有の匂いをわきたたせ、しかし、静かに凪いでいた。
「あそこが冠島、そっちが沓島」
大兄は指さしながら島の名を言った。
「雄島、雌島ともいうがな、まあ、二つ残ってると大体そんな名前になっちまう」
「大宝元年というから西暦で七百一年、その年の三月、大地震が三日続き、峯ふたつを残して没した。それがこの二つの島です」
「凡海郷のことか? 良く知ってるな。でもあれは伝説だよ。地質調査でもその当時に大きな地震などなかったそうだ」
大兄の問いには答えず、晴比古はいきなり話題をかえた。
「凡海の長を辞められたそうですね」
「がらじゃないからな」
晴比古の問いに、大兄は照れ臭そうに答えた。
「史郎の親父を口説き落とした。あれほど長に執心だったから、簡単にいくと思ったんだが、何故かかたくなでな。でも、最後には引き受けてくれたよ。史郎はもう明日には大学に帰るそうだ。長期に休んだので単位とか大変らしいが、まあ特例ということで、なんとかしてもらえるらしい。あれは……」
大兄は晴比古の顔色を伺いながらたずねた。
「そっちで、いろいろやってくれたのか?」
「まあ、少しは」
晴比古は笑んだ。
「こちらでやらなければ、道鏡さんが出てくるでしょうし、あの人、そういうところは妙に律義なので。道鏡さんにいろいろされるぐらいなら、こちらで手を回したほうがはるかに楽です」
「どちらにせよ。恩に着る。道鏡でも、あんたでも」
波は寄せるが、あまり帰っていくようには見えない。裏日本に独特の潮の流れかもしれない。
「会社もやめてしまうのですね」
「ああ、その件でも世話になったな。そこそこ使いでがあるぞ、あの二人は。洋行は、もともとよくわからないやつだったが」
晴比古は波間から視線をそらし、大兄のほうを向いた。
「それで、大兄さん、あなたはどうするのですか?」
大兄は視線をそらした。晴比古の言いたいことはわかっている。
「まあ、なんだ。いろんなことがあったからな」
大兄は晴比古とは逆に沖のほうに目をやった。邪馬壹とは方向が違うが、海はつながっている。
「あんまり凄いのを目の当たりにすると、やけに自分がちっぽけに思えてな。あの三人とは、志郎とも、俺は違う。俺は駄目なんだろうな」
「何が駄目なんですか?」
晴比古の問いが真直に大兄に突き刺さる。大兄は言葉を失した。
空を大きな鳥が飛んでいた。白い鳥だ。翼を広げて空を滑る鳥の名を大兄は知らなかったが、その鳥がひどく羨ましくみえた。
晴比古が微笑んだ。
「さきほど凡海郷が沈んだという証拠はない、と言われてましたが、無理もありません。普通の島ではありませんからね」
大兄には晴比古の言う意味がわからなかった。もっとも、あの旅の間もこの男の言うことなど何ひとつ理解できなかったわけだが。
「凡海郷−−おおしあまは大宝元年に沈みました。丹後風土記、和名抄に記述がありますが、それ以前に古事記にも書かれています」
「古事記に?」
「伊耶那美から声をかけて産まれた島は蛭子です。我々は島でない島、蛭子の島、海底の邪馬壹に行ったのです。でも、伊耶那美が産んで消えてしまった島がもうひとつあります」
「あはしま、か、淡島がおおしあま、だと?」
晴比古はうなづいた。
「蛭子の島があったのですから、当然、淡島だってないはずがありません」
「淡島、淡島が凡海郷」
冠島と沓島、二つならんだ島を見つめながら、うわごとのように繰り返す大兄に、晴比古は言葉を続ける。
「浦島は最後に鶴となって飛び、訪れたのがこの舞鶴だといいます。蛭子の島は龍宮でした。淡島はいったい何でしょうね。調べてみたいんですが、私にはちょっと時間が……」
「時間ならたっぷりあるよ、俺には」
大兄の顔にやっと笑みが戻った。
「そうか、凡海郷か、長い旅をして、結局、俺の青い鳥はこんな近くにいたんだな」
「なんでしたら、玉ちゃん貸しましょうか? 潜って探すなら便利ですよ」
「いや、あれは」
大兄は首をすくめてみせた。
「豊玉にふくむところはないが、まあ、普通の方法でやらせてもらうよ」
キョージュ、大兄さーん。
二人を呼ぶ声に振り向くと、開葉と佳海が手を振りながら駆けてくる。
「ごはんだってー、史郎さんも瞬光さんも、みんな待ってるよー」
そばまでよった佳海は、大兄の顔を見て、明るい声で聞いた。
「うれしそうですね。何かいいことでもあったんですか?」
「ああ、あったよ。とてもいいことが」
大兄は笑顔で答えた。そのあと、小声でつけ足した
「後で佳海にも手伝ってもらおうと思ってるんだ。その、もし、佳海も興味があったらの話なんだが」
「面白そうですね」
佳海は言った。
「手伝いますよ。詳しいことは後で聞かせてください。行きましょう。みんな待ってます」