浦島(51)
「何だ? あの家は。いきなりアヴァターラが出てきたぞ。びっくり小屋か?」
帰ってくるなり噛みつく亀を、三田は適当にいなす。
「な、面白かったろ。人のいうこともたまには聞いてみるもんだよ」
声をひそめて、というのはあまり妥当ではないが、作った表情だけならそういう雰囲気で、亀は三田に問うた。
「なぜ、アヴァターラがラテン語を話す? そして、なぜ、あそこにいる?」
「表向きはカトリックの修道士ってことになってるからな。ヴァチカンも最近は手広くやってんだろ」
「もうひとつの質問にも答えてくれよ。その、差し障りのない範囲でね」
三田は面白そうに小頚をかしげた。
「陶開葉に傾倒してるんだよ。東方のマリア、って呼んでるからなあ」
「陶開葉には誰だって注目している。そもそも管轄外だろう?」
あれえ? と三田はおどけてみせる。亀をからかうのがよほど楽しいようだ。
「管轄、とか、そういうの、もうやめたんじゃなかったっけ?」
亀の像がぼやける。どうしていいかわからないのかもしれない。
「まあ、そう言うな」
道鏡が亀を諌めた。三田にとって、それは少し意外だった。
「陶開葉に対して、こちらが出遅れぎみなのは、どうしようもない。豊玉を贈って気を引いてみたところで、だからどうだというほどの話でもない。陶開葉が豊玉を気に入って豊玉が陶開葉になついたからといって、もうこちらでは手の出しようがないのだ。それに、この御仁の言うとおり、古いしきたりについては、伊耶那美とマリアとシヴァ、あるいは菊理姫とナグダラとラクシュミでもいい、どう呼んだところで、当人にその気がなければ、死者の生者に対する単なる思い入れにすぎん」
不満、を表現するテクスチャーを入れておくべきだった、亀は後悔した。
大兄は、いまだ岩肌に寝そべる瞬光に、手を差し出して、その身を起こす。
「いったい、何がどうなってるんだ? 俺には、ぜんぜん、わからんぞ」
大兄に起こされ、胡座をかいた瞬光が面倒臭そうに問い返す。
「本当に聞きたいのか?」
「え?」
「聞きたいんなら、話してやってもいい」
そして瞬光は、もう一度大兄に問い質す。
「本当に聞きたいんだな?」
大兄は数秒沈黙し、心底の佳海の声を聞いていた。
「いや、よく考えてみると、それほど聞きたいわけじゃない」
大兄の返答に、瞬光は満足したらしくうなづいた。
「ま、そのほうが利口だな」
それから瞬光は、亀と道鏡にむかって、言った。
「帰るぞ。もういいんだろ?」
「ああ、すまない、帰り道はこれから用意するから」
「いや、いい」
亀の申し出を断って瞬光が立ち上がる。
「佳海、力を借りるぞ」
−−え? 私、ですか?
瞬光の言葉に大兄の中の佳海が緊張する。それを感じとった瞬光が少し口調をやわらげた。
「いや、力を借りると言っても、何もしなくていいんだ。あんたの身体と魂のつながりを道として使わせてもらうだけだ」
−−でも。
「安心しろ」
瞬光は重ねて言った。
「晴比古みたいな、ものすごいことをやるわけじゃない。もともとこの場は不安定で、豊玉の力を借りて維持しているようなものなんだ。元に戻せばいい。それだけのことだ。それで帰れる。信用しろよ。いちおうこれでも賀茂萬山の一番弟子なんだ」
「どしたの、婆さん? めずらしく、やる気まんまんじゃん」
瞬光が三田を睨み付けると、三田は、にやにや笑いだけを残して、消えた。
「おい、大兄、そこの刀、拾ってくれ」
瞬光に言われるままに、大兄は天叢雲剣を手に取った。
「それでいい、お前が持っとけ。じゃあな」
瞬光と大兄、二人の身体は霧のようにかすみだし、消えた。
「行ってしまったね」
「ああ、そうだな」
言葉にする必要はなかった。もう二人だけなのだから、意識を通わせればすむことだ。しかし、それでも亀は、言葉で、道鏡に聞いてみたかった。
「彼らは自力でここを訪ね、地脈を宥めて国産みをこなし、そして勝手に帰ってしまった」
「少しは手伝いもしただろう?」
亀は道鏡に相対した。
「ぼくのしたことは無駄だったのかな?」
「無駄で、いいんじゃないのかな」
道鏡は亀に微笑んだ。
「私のしたことも、無駄だったよ。でも、それでいいじゃないか」
道鏡の言う通りだった。それは亀にもわかる。
亀は納得していないな、道鏡は思った。失敗を無駄と思うことはたやすいが、成功を無駄と思うのは、それなりに難しいことだ。
「彼らのことを褒めてやれ、そのほうがいい」
道鏡は言った。
「それに、豊玉を贈ったのは、それほど悪くなかったぞ、そのおかげで、私は帰れたのだから」