浦島(50)
「キョージュー」
「なんですかー、アキハさん」
「風が強くて〜、ちょっと、しゃべるの大変なんですけどー」
「わかりましたー」
頬に当たる風が凪いだ。最近、開葉は気づいたのだが、晴比古は自分にできることであれば、たいてい開葉の要望を聴き入れてくれる。それがわかってからは、少しだけ晴比古とつき合うのが楽になった。もう、問題になるのは、何ができて何ができないかが通常の人間と桁外れに違うことくらいだ。
天沼矛を抜いたときも、いきなり熔岩が噴出してきて、殺す気か、と怒ろうとしたのだが、当人に悪気はないし、火傷どころか熱くすらないので、怒る理由を探すのが難しかったのだ。
「いつまでこうしてればいいんですかー」
天沼矛をはさんで対面に晴比古の顔がある。噴煙とともに空に投げ出されてからどれくらい経ったろう。
「んー、ちょっとですねー、天沼矛の使いかたがですねー。天叢雲剣と違うみたいなんでー、慣れなくてですねー」
あー、こりゃ、だめだな、開葉は思った。こういう返事をしてくるときは、だいたい晴比古が自分ではどうしようもできないときである。怒ろうが喚こうが事態はまったく改善しない。逆に褒めたり宥めたりしてやったほうが、まだマシなくらいである。
風が止まったので、まるで空に浮かんでいるように感じられた。海底火山は頭を海面上に出したが、見える陸地はまだ小さく芥子粒のようである。空があって、海がある。陸地ははるか遠くだ。
「まさか、このまま陸まで飛ぶ、ってことはないですよね」
「あー、それは、ありません」
晴比古は即答する。これは良い傾向である。
「だって、このまま人のいる所まで飛んだら、目立ちすぎて困ります」
「ヒメサマ、ヒメサマ」
ピザの最後のひとかけをローズヒップで喉に流し込んでいると、カミサマが口をきいた。
「ヒメサマ、ヒメサマ」
一瞬、無視しようか、と初美は思ったのだが、残念ながら、それですむほど世の中は初美に甘くできていない。
「お呼びなさるるはいずれの公達なるや、よもや、お人違いではござりませぬか?」
「亀にてそうろう。菊理姫さま、ごきげんうるわしゅう」
やれやれ、ピザにローズヒップだから話がうますぎるとは思ったけど、そういうこと。初美はテーブルのむこうにいるマッツァリーノを見やる。シモンも噛んでるのかなぁ、ちょっと違う気もするけど。
初美は片肘で頬杖をつきカミサマの相手をする。
「その名で呼ばるるとは、御二柱に変事ありや?」
「いかさま、いかさま、ただお呼びくだされ、御二柱をお呼び下され」
「御二柱、共にお呼びするかなわず。お選びなされ、お選びなされ」
「伊耶那美さまを」
「伊耶那美さまを」
「黄泉神、伊耶那美さまを」
「承りました。なれば、お呼びいたしましょう」
初美は立ち上がるとカミサマを手に取り、その顔をマッツァリーノに向けた。
「あなや」
カミサマが驚きの叫びを上げた。
「大いなる化身、ここにおわします」
「彼の君、天竺より出で、クルスの徒と親しむものなり、彼の君の言葉にて彼の君と語りませ」
カミサマとマッツァリーノは異国の言葉で数言を淡々と重ねていく。言葉はわからずとも意味は初美にもとれた。それを初美は心の中にしまった。最後にマッツァリーノは十字ではなく九字を切り、それきりカミサマは一言も発しなくなった。
「ショミさん、オシゴト、タイヘンデスネ」
マッツァリーノが心配そうに言った。
「大丈夫だよ。シモン」
初美は言った。
「アキハを呼ぶだけだから、たぶん道に迷ってるんだと思う。あ、そうだ。シモンも一緒にアキハ呼んでくれる? 二人のほうが絶対いいよ」
「どうしました? アキハさん」
開葉が落ちつきなく目を左右に動かしている。
「なーんか、誰かに呼ばれてる気がする」
「ほんとですか?」
晴比古が色めきたった。
「どっちです?」
「うーん、よくわかんない。でも、呼ばれてるのは確かみたい」
「やったー、帰れますよ。アキハさん」
「ほんと?」
「ほんとほんと、いいですか、その呼び掛けに意識を集中して、それを天沼矛を通してこちらに流してください。そしたら、そこに行きます」
「わかった。やってみる」
初美の眼前に金色の光の渦が回転している。
恐怖はなかった。見るのは初めてでも、そういうものだと教わっていたから。だが、それとは別に初美の心の奥底から、何かが刺のように初美の心を突き刺した。
金光の開く瞬間。
初美はもろともに身体を投げ出して、マッツァリーノと自分を朱雀大路の前から逸した。
金環の中央から飛び出した光がリビングの壁に猛然と体当たりした。轟音と、ダンプカーが突っ込んだような衝撃に家中が震え、光球はリビングの壁を粉砕し、隣室のタンスをつぶして、止まった。
「ごめんなさーい」
紛々とモルタルの破片が舞う中、せきこみながら立ち上がった晴比古が言う。
「ブレーキかけるの、げほっ、忘れてた、げっ、ごめん、なさい」
壁の大穴から飛び込んだ、初美が開葉を抱きしめる。
「アキハ、アキハおかえり、おかえりっ」
「あ、ああ、ショミちゃん」
なかば朦朧としたアキハは、それでも初美に抱き抱えられて言葉を返す。
「呼んでくれてたの、ショミちゃんだったんだね。ありがとう」
瓦礫をかき分けてマッツァリーノが現れた。
「ダイジョブ? ダイジョブ、アキハさん」
「シモン、ごめん、おみやげ買ってこれなかった」
「オミヤゲ、イラナイ、アキハさん、カエッテ、ウレシイ」
晴比古がポケットをごそごそ探っている、小袋を取り出してマッツァリーノに渡す。
「はい、おみやげ」
え?
一同、ぽけっ、と晴比古を見つめていると、もう一個の小袋を初美に渡す。
「なに、これ?」
問われた晴比古は嬉々として話しだす。
「屋久杉の組木細工なんです。開けてみるとわかりますけど、形の違う組木が入っていて全部で三百二十通りの組み合わせが……」
「いつのまに、こんなもの買ってたの?」
「屋久島に着いた日ですよ。どうせ帰りはばたばたしてて、おみやげとか買ってる暇ないだろうと思って、その日のうちに。あ、別便で焼酎はもう送ってあるので、もうそろそろ着くんじゃないかと……」
「ふーん、こうなるってわかってて、黙ってたんだ」
晴比古の滑らかだった舌の動きが止まった。開葉の目が座っている。
「自分だけ、おみやげ買って、へぇぇ、ちゃーんと、シモンとショミちゃんの分も、まるで私だけケチったみたいですよねぇ」
「……あ、あのぉ、アキハさんの分もありますよ」
「そこへ直れっ」
開葉が指さした床に、晴比古はしぶしぶ正座する。
「何が悪かったかわかってる?」
「ぇと、おみやげ買いに行きましょう、って誘わなかったこと?」
「違うだろぉぉぉ」
開葉はおもいっきり晴比古の首を絞め上げた。
「ぐぇぇぇ、やめて、クビ、ナシ、やめ」
「いっつも、いっつも、いっつもぉぉぉぉ、危ないことになりそうなときは、あらかじめ言え、っつってんだろうがぁ。毎回、毎回、ごまかしやがってぇぇぇ」
「ごめん、ごめ、でも、そんな、なると、おもわなかった、ほんと……」
「嘘つけええ、どの口が言ってる、この口か、この口かぁぁぁ」
「ひゅへぇぇ、ほへんなひゃい、ほへん、もう、しない、ゆるひ……」
「ゆるさん、ゆるさん、ゆるさーん、今度という今度は、絶対にゆるさーん」
両手で晴比古の頬をつねる開葉を見て、ほっ、と安心したマッツァリーノが言う。
「ヨカッタデス。アキハさん、ゲンキデス。シモン、ウレシイ」
そうだね、よかったね、シモン、初美もマッツァリーノの言葉にうなづき、立ち上がって服に着いたほこりを払った。