国産み(42)
「あんたがこっちに来るとは思わなかったぜ」
大兄は道鏡に言った。道鏡は笑う。
「こちらに来たわけではない。むこうに行けなかっただけだ」
光のゲートをくぐりながらの会話は奇妙なものだった。大兄が歩く道は、岩盤が透けるでもなく、あるでもなく、その中を通り抜けていく。仕組みは朱雀大路と一緒だよ、と三田は言うのだが、そもそも朱雀大路みたいな大技は、晴比古の大量の霊力があってはじめて可能な術である。術師としてはせいぜい普通プラス程度の大兄には想像がつかない。
「それにしたって、むこうは二人だろ。こっちは実体は二人でも、おまけがずいぶんいるぞ」
「バランスという点では、むこうのほうがはるかに強力だ。人数で比較するのは意味がない、それに」
道鏡は大兄の首にかけた紐の先にぶらさがる小びんに目をやった。
「賀茂晴比古が作業をはじめたら、我々にとって非常に危険だ」
「それだけは認めざるを得んな」
−−あの人、そんなにおっかないの?
問うてきたのは凪沙である。
「まあな、あの人、のせいじゃないけどな」
ふうん、と凪沙は応じたが、納得した風ではなかった。
「こら、ソンコ、なにしやがる」
叫ぶ瞬光。大兄が声のほうを向くと、瞬光がぎこちなく腕を振りながら歩いている。操り人形かなにかのようだ。滑稽な瞬光の動きとは裏腹に、その瞳は怒りで燃え上がっている。
−−なによお、こっちで動かしてるんだから、そっちは楽でしょうに。感謝してもらいたいくらいだよね。
「やかましい。人の身体おもちゃにするんじゃない」
−−いきなりだと失敗するとこまるじゃない? 何事も練習が大事だと思うけどなー。
「もう一度だけ言うぞ。やめろ」
一喝を境に瞬光の歩行は正常に戻った。
佳海は大兄の奥深くに沈んで静かにしている。呼ぶまでは出てこないだろう。大兄は己の幸運を噛みしめながら歩いた。
「ずいぶんかかるんだな。もっと、ぱっ、と行けるのかと思ってたんだが」
さっきの尊子のせいか、若干の苛立ちをかぶせながら、瞬光が道鏡にむかってぼやく。
「ぱっ、と行けないこともないが、それではキミたちが消耗してしまう。肝心の作業のときに余力が無くなっては困る」
「楽する方法はなかなか無いってことだな」
瞬光は舌打ちしたが、あきらめたらしい。無言で光の渦の中を歩いていく。
「まだ、時間がかかるんなら、道鏡さん、道すがら、あんたの話が聞きたいな」
「何が聞きたい?」
あらためて、こう問い返されると、大兄は返答に困った。道鏡に聞きたいことはいろいろあるが、何から聞いたら良いのだろう。
そうは言っても、口火を切ったのはこちらだ。とりあえず一番の疑問についてたずねてみよう。
「あんた、こっちの人なんだろう? どうして俺たちの世界に来たんだ?」
道鏡は笑んだ。良く見ると表情のモデリングに若干のミスがあるらしく、その笑顔はひどく非人間的に見えた。
「その問いは、キミに憑いている間にすべきだったな。この状態で説明するのは非常に難しい」
「ああいう感じではあまり話す気にはなれないんだ。理解が困難、というのはなんとなくわかる。でも聞いてみたい」
「理解したいのではなくて、話が聞きたい、と、そういうことだな」
「たぶん、そうなんだろうな」
よろしい、道鏡は言った。道鏡も大兄も歩みを緩めない。淡々と歩きながら、淡々と話した。
「大兄、思い出すと懐かしい名だ。ワタシがキミたちの世界で最初にあった青年も大兄という名だった」
「へえ、面白いな、そいつは」
「ワタシもそう思う。ワタシのことは海人と呼んでいたな。海から来たからだろう」
「海人−−あま、か、最初から道鏡ではなかったんだな」
「道鏡を名乗ったのは最後のほうだ。もっともそうすべき理由はあったのだが、ワタシはキミたちの世界、古い時代の日本に仏教を根付かせるために出かけたのだ」
「仏教を? 何でまた」
「そう、いまのキミたちの反応はそうだろう。仏教を宗教のひとつと考ているからな。しかし、ワタシがキミたちの世界に行った当時は、仏教というのはもっと別のモノとして人々にとらえられていたのだ。万物の理法を現し、宇宙の神秘を解き、雨風を呼び、病を癒す。物理学と天文学と気象学、そして医学、その他あらゆる学問を包括した総合科学のようなものだったのだよ」
「いや、当時の人間はそう考えたかもしれないが、実際は違うだろう」
「違わない、実際、当時の最上の治療法は徳の高い僧による読経だったし、自ら出家して僧になることだった。天気予報と占いはどちらが正確か? キミたちは自由に雨を降らすことはできないらしいが、当時は雨乞いをきちんとこなす者もいたのだ」
「それは……」
「キミの言いたいことはわかる。だが、いまのキミたちの科学もこちらから言わせてもらえば不完全だ。だから、こちらからすれば仏教を広めることも科学教育を施すこともそう大差はないということになる」
「なぜ、ホンモノを教えなかった?」
「教えたさ」
道鏡はあっさりと、本当におどろくほど、あっさりと言った。
「もちろん、最初はそこからはじめた。だが、どうにもこうにも先に進めないのだ。教えられる側にも器というものがある。小さな器には水は少ししか入れられない。仏教を広めるぐらいのところが、ちょうど良い妥協点だったのだ」
「まあ、なんとなく事情は飲み込めた」
「ありがとう」
道鏡は言ったが、それとはまた別のことを考えていたようだった。
「賀茂晴比古、あのような者がもっとたくさんいれば、そんな面倒なことはしなかったとは思うがな」
あんなものが何人もいたら、それこそ収拾がつかないんじゃないか、と大兄は思ったが、口には出さなかった。
「うん、キミのほうが正しいな」
大兄の考えを読んだらしい。道鏡はまた笑った。今度の笑いはさっきよりずっと自然だった。
「まあ、ともかく、ワタシは仏教を広めるために、キミたちの世界、いや、キミたちの古い世界に行った。そして大兄という青年と出会った」
そこまではわかった、と大兄は言った。
「大兄とワタシ、大兄と海人は常に行動を共にした。回りからは兄弟のようだと言われた。ワタシにとって年齢というのはあまり意味をもたないが、大兄は私を兄と慕った。しばらくするとワタシの呼び名に『大』をつけるのが慣わしになった。大兄は『小』をつけるのを嫌ったので、『中』をつけたよ。ワタシにとっては、その、あまり意味のあることだとは思えなかったのだがね」
おい、ちょっと待ってくれ、言おうとして舌がもつれた大兄は、あぶくのような音を出した。道鏡は大兄にかまわず話しつづける。
「中大兄は大王になった。彼の死後、その地位をワタシが襲った。大海人と呼ばれたワタシの依り主の諡は天武だった」